2、長女・米沢都の帰還
東京の初秋は暑い。九月と言えば、例え暦上は秋だと言っても、真夏の陽気である。太陽の照る時間が短くなったのは事実だろうが、夕方になっても肌にまとわりつく湿気により蒸し暑くて仕方ない。
大きなトランクを引きずりながら、ボストンバッグを腕に抱え、米沢都はすでに汗を拭うことも諦めていた。
彼女にとって八ヶ月ぶりの祖国は、思っていた以上に窮屈であった。荷物持ちに空港まで来ようかという弟桂一郎の申し出を跳ね除けてしまったことを今更のように後悔している。一人で大丈夫、と無意味な意地を張った自分を投げ飛ばしてやりたい。
米沢家の長女・都は交差点を渡り、気合を入れる。目の前に現れたマンシ ョンへと向かう最後の坂道へと足を踏み出した。
海外留学をしている都が日本に帰国するのは、八ヶ月ぶりのことであった。
前に帰国したのは——母の葬儀の時だ。
以前、日本へ帰国した時は、暑いやら寒いやら、重い、疲れたなどの不平を思い浮かべる余裕もなかったのをよく覚えていた。
駅につくなり、家には向かわず、まっすぐ近所の総合病院を目指して走った。
それは雪の降る一月のことである。
突然、母親の危篤の知らせを受けて海外から戻った都は、取る物も取り敢えずタクシーという文明の利器を使うことすら念頭には浮かばず、自分の足で走って病院へと向かった。
病弱だった次男伶二郎が絶えず世話になっていたその病院に、まさか自分が担ぎ込まれるとは、母自身も夢にも思わなかったに違いない。
米沢文子、享年四十五歳、早すぎる死であった。
常に笑顔を絶やさず、どんな苦境にもめげず、飄々と何事もそつなくこなす女性であり、そのため、都も知らせを受けた瞬間俄かに信じられなかった。
都が到着した時には、既に息がなかった。
積もらない雪の下、心身ともに凍えるような葬儀が行われた。
都が葬儀に参列したのはこれが始めてではなかったが、五つの時に、今は家族同然である瀬田貴恵の父親が亡くなった時以来であり、そんな幼い時の記憶はないにも等しい。生まれて初めての肉親の死は、あまりにも都にとって残酷であった。
海外に暮らして久しい都は、自分の研究一筋で、それ以外のことなど顧みない。一本気な性格故に、日本に住まう家族達とは別次元に生きているようなものであった。そのため、家族のことよりも自分の生きる次元のことばかりを優先してきた。日本の風習に従って、正月には帰ってきなさいと言った母の言葉を無視したのは、自分の次元で大変な事件が起きたからだ。そして、国際電話越しに聞いたその台詞が、都にとって母の最期の言葉となった。
都は、母の葬儀の中で、これは自分に課せられた罰なのではないかとすら思っていた。そして、決心したのだ。この罪を償うためにこれからは、家族のことを優先すると。そのために今日、帰国したのだ。これからは日本で家族と共に生きていくのだ——。
そう再度決意して、都は急峻な坂道を登りきった。息を切らしながら、十階建てのマンションを見上げる。此処まで来ればあとはエレベーターに乗るだけだと少なからずほっとしながらトランクを握りなおすと、背後から問いかけるような声がした。
「——みー姉?」
その愛称を聞くのは久しぶりであった。「みー姉」というそのあまりにも幼い愛称は、兄弟しか使わない。家族の元を離れて六年、懐かしい響きにつられて後ろを振り返る。そこに立っていた少年は、夕焼けを背負って黒ずみ、こちらを窺っていた。
「英三郎」
都には四人の弟がいたが、そこにいたのは上から三つ目の弟だった。
グローブの中に土で汚れた球をくるみ、都の顔を見るなりほっとしたような顔をする。今年中学生になったという三男坊英三郎は、相変わらずの野球少年で、黒ずんで見えたのは逆光の所為だと思っていたが、日に焼けたのだろう、マンションの中に入ってもやはり黒かった。
自分から話しかけておきながら、英三郎は何も言わない。と言うより何を話していいかわからないという風に、グローブをいじっていた。行動的なくせにシャイな一面を持つ彼らしいその動作に、変わってないなと都は目を細める。もちろん顔かたちも変貌してなどいなかったのだが、八ヶ月前、母の葬儀の際に会った時よりも、はるかに目線が高くなっていた。
「大きくなったね」
「……みー姉が小さくなったんじゃん?」
「まさかぁ」
変声期を終えてすっかり低くなった声にこそばゆいものを感じながら、都はくすくすと笑う。
「運動してるからかな? 百七十はあるでしょ」
「四月の時は、百七十一だった」
なら今はもっとあるだろう。無愛想にそれだけを吐き捨ててさっさと行ってしまったその後姿を追いながら、都は思う。
どうやら米沢の血筋はもともと長身らしく、他の兄弟達も揃って背が高かった。都とて女にしては高い方であったが、今が成長期の弟達にどんどん置いてかれていく。このことも、海の向こ う側の別次元では考えもしなかったことなのだけれども。
都の前を行く英三郎がエレベーターのボタンを押そうとすると、丁度箱が降りてきたところであった。ちん、と安い音をたてて古い金属製の扉が開く。英三郎は上向きの矢印を押しながら、降りてきた人物に目を留めた。
「あ、伶兄」
都ははっとしてその場に足を止め、現われた二番目の弟を見上げた。
例に漏れず長身で、肉付きの良すぎることはなく、かと言って痩せ過ぎでもなく、何処となく線の細い雰囲気は、「カッコいい」より「キレイ」と評価されがちの顔の所為だろう。顔のパーツや髪の色素の薄さは、母親譲りだ。都もよく母親似だと言われ続けてきたが、自分よりもずっと、この次男坊の顔の方が母の面影を残している——と都は勝手に思っている。
「伶二郎——」
都は自然と身構えてしまっていた。彼女は、この弟が少し苦手だ。
都は他の兄弟達ほど彼のことを知らなかった。と言うのも、もともと病弱であった伶二郎は、彼が十四になるまで母親と二人で田舎の方に暮らしていたため、家族から離れた生活をしていたのである。また、都は彼が十の頃にはすでに外国にいた。桂一郎や貴恵など他の兄弟達は、伶二郎が実家に戻ってきてから今まで二年ほど、彼と共同生活をしてきたわけだが、都にはその二年間がない。そのためだろうか、伶二郎は時折都に他人行儀に接してくる。
「あれ、みー姉。帰ったんだ。おかえり」
伶二郎は頓着なく微笑んだ。都は軽く拍子抜けし、それから安堵する。普通の家族のように「おかえり」と言ってくれたことで、ふっと緊張が解けた。彼が自分に対して他人行儀だなんて考えすぎだろう、と心の中で自分を諌め、「ただいま」と微笑み返す。伶二郎はにっこり笑ってから首をすくめた。
「きー姉が上でレンジと格闘してるよ」
それに即座に反応したのは、三男英三郎である。
「やっぱり? さすがキングオブ機械音痴。だから俺、言ったんだよ。絶対新しいの買ってもきー姉が壊すだけだって」
間近で聞く兄弟達の会話に自然と顔が綻んだ。久しぶりに、彼らの談笑する様を見たような気がする。
当然のことだが、前に会った葬儀の時には穏やかに談笑するどころではなかった。重苦しい空気が流れ、お調子者の桂一郎ですら石になったように口を利かなかった。伶二郎に至っては、廃人と化して事務的なやりとりすら出来ない。考えても見れば、体の弱かった伶二郎のために山村生活を始めようと言い出したのは母の文子であり、付きっきりで伶二郎の世話をしていたのも文子だ。数年前に、文子が「伶二郎は甘えっこでなかなか自立しなくて困る」と苦笑混じりに話していたことが思い出される。その彼が、今ではこんなにも明るく話せるようになったのだ。彼の自分に対する態度を気にするより、まずは彼の元気になったことを喜ぶべきではないかと都は己を少し恥じた。
「……それはそうと、伶君、どうしたの? これから買出し?」
都は気を取り直して、エレベーターへと乗り込んだ。それに英三郎が続く。いつまでも此処に留めておいたのでは他の住民へ迷惑がかかるだろう。しかし、降りてきた伶二郎が上に戻るわけもなく、今晩はお食事会だと電話口の向こうで貴恵が張り切っていたのを思い出して、都は小首を傾げた。
「いや、そうじゃないけど」
伶二郎は暗くなり始めた空を見上げ、薄く笑った。それは先程までの微笑みとはまるで違う。中途半端なその表情に見覚えがあり、都は反射的にぎくりと身を強張らせた。
「俺、ちょっと用事があるから。今日は家で食べないんだ」
だからごめん、と言って、彼は悠々と去っていく。色を抜かずとも流行の茶色に近い髪が、夕闇の中へ溶け込んでいった。なんてことない台詞なので、隣にいる英三郎は気にもとめていない。考えすぎだとは思うものの、何処となく冷たいその態度に、ずきと胸の奥が痛んだ。
(ああ、どうしよう。また、怒らせたんじゃないかしら)
弟の一挙一動に怯えるのもおかしな話だが、都には彼の考えていることも性格も何一つわからないのだ。
怒っているのか呆れているのかはたまたどうでもいいのか、そして都の何がそうさせるのか。
考えなければいいのだと思いつつ、どうしてもあの中途半端な表情が怖くてしょうがない。
都が、「私、日本に帰る」と葬儀の後に決意を述べた時も、伶二郎は今の去り際と似た表情を浮かべていた。
廃人と化していた彼が、顔を上げて、最初に都に見せた顔がそれである。そして開口一番に吐き出した言葉を、今でも鮮明に覚えている。
——いいよ、帰ってこなくて。あんた忙しいんだろ?
たまたまその時周囲に人はなく、都以外にこの台詞を聞いた者はいなかった。そのため、未だに都はその真意を掴めずにいる。だが、好意的な感情を抱いて吐き出された言葉ではなかったと、それだけは確信していた。伶次郎は、都が米沢家に帰ってくることを、好意的に思っていない—―。
ちん、と音をたててエレベーターが最上階に着いた。ゆっくりと開く古い扉を押しのけるようにして、英三郎が降りていく。都もその後を追った。
何処からか、食欲をそそるバターの焼ける匂いが流れてくる。貴恵はレンジを使って調理をしているということであったから、ひょっとしたらパイでも焼いているのかもしれない。
英三郎が「ただいま」と言って家の玄関を開くと、家の中からは懐かしい声が聞こえた。
ようやく帰ってきたのだと実感して、荷物を握る手にも力が篭る。ただ、心の端に残る一抹の不安は、そう簡単に消えてくれそうにない。
(……伶くん、いつ帰ってくるんだろ)
米沢家の長女、都は、どこかへ姿を消した弟のことを思った。