19、隣人・瀬田貴恵の心狂
「はあっ!? 英三郎が寿司の出前取ろうとしてるっ!?」
貴恵は片手に携帯電話を握りしめ、叫んだ。
暗い体育館の舞台裏に、声が響き渡る。
電波に乗せて伝えられる米沢家の末っ子の声は、おどおどとして、頼りない。
『う、うん……だって、きー姉が出前とれって言ったんでしょ?』
「言ったけど、寿司は駄目。高いから。桂一郎にもそう言っといて」
『え、でも桂兄も英くんと一緒に楽しそうに選んでるよ』
「はああああっ!?」
もう一度、貴恵は携帯電話の通話口に向かって叫んでいた。
まだ学校の体育館の舞台裏にいる貴恵は、まだしばらく帰れそうになかった。
時間は七時になる頃で、そろそろ父親母親たちも帰ってくるであろうという頃合いである。
もう少し遅くなるという連絡をしておこうと思って家に電話をしてみたが、久しぶりに出前をとるということで舞い上がっている幼子のような兄弟たちに、嘆息せざるを得なかった。
「冗談じゃないっての……あいつら寿司なんか取ったらどれだけ食べると思ってんの。一人で軽く五人前はぺろりじゃない。いくらかかると思ってんのよ」
『うーん、そうなんだけど……』
いつもに増して細い声を発する清四郎にこれ以上続けても仕方がない。
おそらく彼も、本当は寿司が食べたいのだろう。どうせ言ったところで聞きやしないのだ。諦めるしかない。
「……わかったよもう……出世払いで返せって言っといて」
電話の向こう側の声が明るくなる。
『うんっ!』
じゃあね、とこちらの声すら聞こうとせずに、電話は一方的に切られた。ツーツーと無機質な機械音が耳に刺さる。貴恵はうんざりとしながら通話を切った。
今頃、男三人で久しぶりのご馳走に盛り上がっているのだろう。まもなく帰ってくるであろう貴恵の母や米沢の父も混ざってさらに盛り上がるに違いない。そこに、都も混ざっていればいいなと思う。まあ、桂一郎がいるからには心配はないだろう。彼もそこまで考えて、寿司など豪勢な出前を取ろうとしているのかもしれないし――否、単に食べたいだけかもしれないが。
貴恵はつらつらと考えながら携帯を折り畳んで、鞄の中にしまう。
冷えきったコンクリートの壁に寄りかかって学生鞄の口を閉めると、地下に続く階段から、人の登ってくる足音が聞こえた。
「きー姉……お待たせ」
階段の手すりを握り、にっこりと笑ったその姿は、先ほど更衣室でみたあの無表情とはまるで違う。いつも通りの伶二郎だ。
着替えを終えて、気持ちも少し切り替えられたのかもしれない。
いつも通りの彼に安堵しながらも、再び彼が笑顔の仮面を被ったことを少し寂しく思った。
「……襟、変になってる。ネクタイも曲がってる」
階段の二段下にいる彼を上から見下ろして、その中途半端な服の着方に目が行った。
貴恵は「ほら」と言って、二段上から伶二郎に手を伸ばすと、襟とネクタイ、その首もとを直してやる。
その間、くすくすと彼のもらす笑いが一体どういう意味なのか、貴恵には釈然としない。
例え、そんな所帯染みた仕草を馬鹿にされているのだとしても、放っておけないのだから、仕方ない。
そしてそれが母性本能によるものなのか何なのか、貴恵自身にも判断しがたいことであった。
こつん、こつん、と二人分の革靴の音が舞台上から体育館全体へと響き渡る。
つい数時間前はミスター候補として上がり、客席から歓声を浴びていたその舞台上へと向かって伶二郎はまっすぐ進んだ。
すっかり後片付けも終わり、いつも通りの体育館に戻ってしまったその場所には人っ子一人おらず、閑散としている。電気も消されて真っ暗なその空間は、侘しい。
「なんか広いなー……」
伶二郎はそう言って、舞台の上から館内全体を見回した。
彼がキャストとしてここに立っていた時にひしめきあっていた人々は、もう一人もいない。――そしてその時には、貴恵も大勢のうちの一人でしかなかった。
「まー……人もいないしね」
舞台上に立ち尽くす伶二郎の隣に並び、貴恵も広い体育館の中を見回す。
あんなにも大勢の人に見つめられるというのはどんな気分なのだろうか。
その中の一人である自分なんて、彼の目には映りもしないのだろうなと思う。
貴恵は舞台に立ったこともなければ立ちたいと望んだこともなかったが、心の奥がもやもやと、奇妙な心持ちであった。
静かな体育館の外から、ドラムの音や人の声、ベースの音が微かに響き渡ってくる。その音の根源は、グラウンドの方だ。
「そっか、今は後夜祭中か」
楽しそうだな、いいな、と陽気に言って、伶二郎はすとんと舞台のふちに腰を下ろした。一メートルと少しある舞台の上に腰掛けて、ぶらぶらと両足を遊ばせる。
その姿は三歳かそこらの子供のようにも見えて、少しだけ可愛らしく思えた。
「……伶二郎は、わりと学校の行事好きだよね」
「うん、好きだよ」
体育館の外から響く後夜祭の喧騒をBGMにしながら即答し、伶二郎は自然な調子で付け加える。
「でも、きー姉とこうやって話してるのも好きだよ」
拍子抜けして、貴恵は口を縦にぽかんと開いた。
「……そう?」
「うん、そう」
伶二郎があまりにも頓着なく頷くので、脱力してしまった。
彼と話をしていると、時折末っ子の清四郎よりももっと小さな弟を相手にしているような気持ちになることがある。かと思えば、自分よりずっと年上に見えたり、同い年の友達に思えることもある。
変幻自在な狸か狐に、化かされているかのような、そんな感覚だ。
「――あんたって、本当によくわかんないわ」
ぽろりとこぼれた本音に、伶二郎は嫌な顔はせず、笑って応ずる。
「んー、俺もよくわかんないからなー」
「そうなの?」
「うん、さっぱり」
伶二郎はわざとらしく肩を竦めてみせた。その拍子に、ずるりと肩から鞄が滑り、舞台の上に落ちる。対して物も入っていないだろうに、思いの外大きな音がして、体育館の中に反響した。
「やりたいとか、なりたいとか。欲望はたくさんあるけどさ、その理由がないんだよなぁ」
「理由? って?」
「欲望の動機。……ないわけじゃないかな。あっても理解不能っていうだけで。好きも嫌いも良いも悪いも、全部ごっちゃになって、一体俺は何が欲しいのか、何をしたいのか。よくわからなくなっちゃうんだ」
「ふうん……?」
理解できずに、語尾があがる。
貴恵の中に沸き上がる欲望はいつでも単純であった。お腹がすいたから何か食べたいとか、面倒くさいから早く帰りたいとか。
故に、彼が言うような複雑怪奇な欲望になど、出会ったことはない。
彼を理解してあげられないのは、それ故なのだろうか。
「でも……一環して、ずっと欲しかったのは、人とのつながりかな」
「人脈、ってこと?」
「人脈っていうか……人とのつながり」
貴恵はぱちぱちと目を瞬かせた。
灯りのないくらい体育館内では、その声の調子こそわかるものの、表情までは見えない。
舞台の上に座っている彼がどんな顔をしているのか全く見えないのに、何故だろう、その姿からは、哀愁のようなものが感じられた。
「なんでもいいから、傍にいてくれる人が欲しかった。だから、人に注目されようとして、いろいろやってみたけど、あんまり欲しい結果は得られなかった。友達もたくさん作って、彼女も作ろうと思ったけど、女の子と親しくなるたびに、あの人の顔がちらつくから」
「……みー姉のこと?」
問うと、伶二郎は嘲笑混じりに頷いた。
途端、彼の声が低くなる。
まるで呪いの雑言でも吐き出すかのように、嫌悪感に溢れた声となる。
「……最近では、考えてるだけで気分が悪くなるんだ。あの人を見てると、苦しくて憎らしくて、わけがわからなくなる。自分勝手なことばっかりしやがって、あんな人間大嫌いだって思うのに、その行動とか、その考え方とか、顔までも、俺とそっくりなんだ。だから、ますます嫌になる」
昔はこんなことなかったのに、と吐き出す溜め息は重い。
「これが自己嫌悪なのかなんなのか、もうそれすらわからないんだ。俺とそっくりだからあの人を見ていたくないのか、あの人とそっくりだから自分が嫌になるのか――でも何より意味がわからないのは、自分とそっくりだって思うたびに、あんな奴、姉じゃなければよかったのにと思うこと。あいつが姉じゃなければ、姉でさえなければ、って思うたびに、誰かに縋りたいような、すごい空虚感に襲われるんだ」
「……だから、誰かに傍にいてほしいの?」
伶二郎の首が回り、後ろに立つ貴恵の方を向いた。
彼は貴恵を見つめると小首を傾げ、やがて、誤摩化すように笑う。
「うん……そう。……わがままだから、誰でもいい。誰でもいいから傍にいてくれればいいのにって思う。このすごい空虚感を、埋めてくれればいいのになって」
「でも、結局あんた、今まで誰ともお付き合いらしいお付き合いもしていないし、いっつも自分から相手のこと振っちゃうじゃない」
「わがままだってわかってるから、そういう関係になりそうになると、拒否しちゃうんだ、必ず。だからいろんな人に、思わせぶりなことしてきた」
ふと、貴恵の頭の中に、クラスメートの青島早苗という女子生徒の姿が浮かんだ。
彼女は、伶二郎と付き合っているのだとまで勘違いをしていたという。もとよりあまり他人に好かれるタイプではなかったが、その所為でさらに女子生徒たちから冷たい目で見られるようになり、挙げ句の果てには伶二郎からも接触を拒絶されてしまった。
友人のまま、一線を越えようとしなければ、あのような屈辱的な状況にはならずにもすんだかもしれない。
なんにせよ、青島にしてみれば、理不尽な話である。
全ては、伶二郎の身勝手の所為だ。
しかし、全てを知った上で、貴恵は伶二郎を叱りつけることができなかった。貴恵自身の中にも、負い目があったためだ。
貴恵は、伶二郎の姉のような存在でありながら、彼との間に溝のようなものを時折感じていた。それを訝ることはあっても、溝を埋めてまで彼に近付こうとは思わなかった。
ずっと孤独で、人とのつながりに飢えていた彼に救いの手を差し伸べるどころか、そのことにすら気付かなかったのだ。
ただ、伶二郎は自分に懐いているのだなんて、表面上の笑顔だけに騙されて、自己満足に浸っていただけだ。
貴恵は自分の学生鞄を足下に置くと、一歩、伶二郎に近付いた。
寂しげな彼の背中の後ろに膝立ちになって、彼の肩を抱きしめる。
一緒に暮らしていれば、手と手が触れ合うくらいのことはあるけれども、こんなにしっかりと接触したことはなかった。
桂一郎やら英三郎やら、いかつい体をした兄弟たちに混じっていると、どことなく華奢に見える伶二郎であるが、その背中は思ったよりもずっと広い。そして、思った以上に冷えきっている。
それを肩から暖めてやろうと、貴恵はぎゅっと腕に力を込めた。
「きー姉……?」
「……ごめんね」
「何が……?」
何が、と聞かれて、答えることができなかった。
謝罪に理由がなかったというわけではない。ありすぎて、うまく説明できなかったのだ。
謝罪をしながら背後より伶二郎を抱きしめているこの格好は、どうにもこうにも妙であった。一体どうしてこんなことをしているのか、貴恵にも定かにはわからない。
罪悪感や逃げ出したい気持ちの他に、どうしても彼を暖めてやりたいという気持ちがあった。貴恵にはその気持ちの名前がわからない。
「私じゃ、不足かもしれないけど……傍にいるから」
従って、どうしてこんなことを言ったのかも不明であり、貴恵自身、驚いていた。
同じく驚いたような表情で、伶二郎がこちらを振り向く。
貴恵は彼を抱きしめていた腕をほどいて彼を自由にしてやった。
だからと言って、もちろん彼は逃げ出したりや、しない。
「伶二郎……あんたの傍にいるから」
いるから、何だというのだろう。
まさか、だから安心しろなんて、そんな大それたことは言えない。
伶二郎は、実の姉である都に対して押さえきれない想いを抱いている。そしてそれを抑圧するあまりにぽっかりと自分の心の中に空いた穴を埋めるため、誰かに傍にいて欲しいと願っているのだ。
貴恵にはまさか、自分があの都の代わりになれるなんて、そんなことは思えなかった。
そんな貴恵の心のうちを知ってか知らずか、伶二郎はきょとんと幼い顔をしている。
「それは……お姉さんとして?」
「……伶が、そうしたいなら」
「じゃあ……俺が、恋人がいいって言ったら、恋人になってくれるの?」
どんなつもりで彼がそんなことを言ったのか、貴恵には皆目見当もつかない。
考えるより崎に手が伸びて、彼の頭を撫でていた。そして幼子を安心させるかのように、柔らかく微笑む。
「いいよ。伶がそうしたいんだったら」
伶二郎は目を丸くして、それから、すとんと目線を落とした。
悲しそうに微笑んで、後ろにいる貴恵にともたれかかってくる。
「ありがとう」と、耳を澄ませなくては聞き取れないほどの小さな声で呟いて、彼は目を瞑った。
貴恵はどうしていいかわからずに、手持ち無沙汰になって両腕で彼の頭を抱きしめる。
やがて、二人の間の会話は、すっかり途絶えた。
今はただ、無言で二人、寄り添うのみである。
しんと静まり帰った体育館は暗く湿っていて、温度も低い。
互いの体温だけで暖をとり、館外から聞こえる後夜祭の音だけを聞いていた。
時間感覚が狂う。
心の中まで狂う。
二人分の体温がやけに重たく感じる。
何かを間違えたような気がしたけれど、修正する術も方法も持たない。
貴恵は静かに瞑目した。
人間という生物は、実に不便な生き物である。
そんなことを頭の片隅で、思った。