18、次男・米沢伶二郎の初恋
これは、時を遡り、過去の話である――。
生まれつき、気管支から肺にかけてを患っていた少年伶二郎が、母親の文子と二人で田舎の方へと移り住んだのは、小学校へあがるほんの数ヶ月前のことだった。
それまでの七年間も、病院に入退院する生活をずっと続けており、伶二郎には家族と過ごした思い出がほとんどない。また、友人を作ることもできず、孤独な日々を送っていた。
そんな彼の症状は一向に回復の兆しを見せず、悪化する一方であった。
その時彼のかかっていた担当医は、都会の空気の悪さだけでなく、彼が知らず知らずのうちに溜め込んだストレスが、悪化の原因ではないかと述べた。
空気の澄んだ田舎の方へと引っ越して、家族や友達と思う存分遊べたならば、自然と回復する可能性があるという医師の言葉を信じ、母文子は伶二郎を連れて、慣れない田舎の土地へと挑んだという。
まだ幼かった伶二郎には、当然わかるわけもない事情であった。
田舎に移り住んだことは、伶二郎に確かな結果をもたらした。
小学校でできた友人たちと、自然の中を駆け巡り、泥だらけになって遊び回る。そんな彼の姿は東京にいては決して見られなかったに違いない。
小さな借屋に帰れば、いつでも母が待っていてくれた。
自分には、居場所がある。
ただそれだけのことが、他のどんな薬よりも効果的だった。
そして、伶二郎が東京の生家へと戻ったのは、中学一年生の終わりの春のことであった。
患っていた呼吸器の炎症もほぼ見られなくなり、子供の体には強すぎて飲めなかった薬を飲めるようにもなった。
そこで医者からの許可も下り、その翌年中学二年生になる彼は、東京の中学へと編入することとなったのである。
伶二郎はそれに、反対はしなかった。
七年間過ごした場所に未練がないと言ったら嘘になるが、自分がわがままを言うべき立場にいないこともなんとなく理解していた。
それに何より、生まれて十四年間、ほとんど一緒に過ごすことのできなかった兄弟たちへの憧れが強かった。
十四年間という空白の時間に対する不安よりも、自分と彼らを繋ぐ「家族」という絆への期待の方が、圧倒的に強かったのだ。
田舎にいた頃も、何度か東京の生家へ来たことはあったのだが、そこに自分の部屋を用意してもらって住まうのは、もう何年ぶりのことだろう。
かつて使っていた布団はあまりにも小さくて使い物にならず、兄の桂一郎と二段ベッドを共有することになった。
桂一郎は嫌な顔一つせず、「俺が上だからな!」とふざけて笑った。
「じゃんけんで決めれば?」と助言した瀬田桃子と、「桂一郎はじゃんけん弱いから嫌なんだよ」と突っ込んだ瀬田貴恵の親子や、周囲で笑っている弟たちなど、伶二郎はその時のことを事細かに覚えている。
なにもかもが新鮮で、みんなが笑顔で自分を受け入れてくれることが本当に嬉しくて、何年経っても忘れられない大切な思い出だ。
――だが、何よりも鮮明な記憶は、マンションの下にそびえたつ、巨大な桜の樹と、そこで出会った春の精だ。
母文子と伶二郎の帰った三月中旬のその日、米沢家の長女は不在であった。
家にいないどころか、国内にすらいなかった。
大学進学を控えていた彼女は、どうしても行きたい大学があるとかなんとかで、当時通っていたイギリスの高校で推薦状をもらうために奔走していた時期である。
伶二郎は、その長女と、ほとんど顔も合わせたことがなかった。
片手で数えられる年の頃に幾度か遊んでもらったことはあったはずだが、その頃から病院と自宅とを行き来していた伶二郎には、彼女の記憶がほとんどない。
伶二郎の頭の中に描かれる「家族」という図の中に、実の姉の姿は含まれていなかった。
隣家に住む血の繋がりのない貴恵や桃子でさえ「家族」として認識していたのに、顔を想像することもできない姉のことは、不透明な影として意識の端に置いておくことしかできなかったのである。
三月下旬にもなると、東京の桜は満開になり、その薄い桃色のような白のような花弁を壮大にまき散らしていた。
今この調子だと入学式の頃には葉桜ね、と母文子は苦笑していたが、その性急さが都会らしくて、伶二郎には好ましく思えた。
生家に戻ってしばらく経ち、だんだんと家族の中にも馴染めるようになって一週間。
三月の下旬のその日、米沢瀬田両家の人間は、それぞれ仕事に出かけたり学校へ行ったり、友達と遊びに行ったりしている中、特にやることのなかった伶二郎は、初めて一人で留守番をしていた。
お世辞にもおいしいとは言えない薬を規定量だけきちんと飲み干して、ぼんやりとする。
家族がいると狭い家も、一人だと心許ないくらいに広かった。
暇を持て余しているとだんだん寂しくなってきて、何かやることはないだろうかと考える。
「そうだ」と突然思い立って、彼はこのマンションの中を探検することにした。
探検と言ったって普通のマンションだから、特に面白い物もなかろうが、ぐるりと一周するだけで何か発見があるかもしれない。
そう思い、伶二郎は家を施錠しマンションの中を歩き回った。
マンションは十五階建て、米沢家があるのは十階である。
とりあえず一番上までエレベーターで上ると、伶二郎はそれぞれのフロアを一周し、階段で下り、一周し、階段で下りるのを繰り返した。
さほど目新しい物はなかったものの、それぞれの家の前に例えば子供の傘や、可愛らしい表札や、植木鉢や、その住人の個性が表れていて、それを見ているだけでも楽しかった。
そして四階あたりまで下った時、さすがに疲れてしまった伶二郎は、マンションの廊下で休憩していた。
廊下の欄干に頬杖をついて、そこからマンションの裏側に生える桜の大木を見つめる。
四階から見てもまだ少し高いその大木は、このマンションの建てられる前からずっと此処に根を張っていたのだという。立派な樹だ。
その淡い色合いは、まさに春を象徴しているようで、見る者全てを感嘆させる。
綺麗だなぁとぼんやり思ってそれを見つめていると、不意に、その樹の麓に何者かが現れたことに気が付いた。
その人はいつからそこにいたのだろう。
美しい桜を見上げて、その迫力に圧倒されるわけではなく、桜吹雪の中に身を任せているように見えた。
驚くほどその淡く白い桜吹雪の中にとけこんで、まるでその人自身が春みたい。
(……春の精?)
メルヘンチックなことを思ってしまってから、自分の考えに照れた。
さすがに中学二年生にもなって妖精の存在など信じているわけもなく、それは間違いなく人間だと頭ではわかっている。
だが、本当に綺麗な人だったから、それが人間かどうかなんてどうでもよくなって、伶二郎は彼女に見とれた。
一体どこの誰だろう、と惚けた心地で思っていると、春の精がちらりとこちらを見上げる。
柔らかそうな長い髪の毛がふわりと風に浮いて、白い薄手のコートが花弁と一緒になびいた。
そして、四階からでもわかるくらいにはっきりと、明るい笑みを浮かべて、こちらに向かって手を振った。
伶二郎は慌てて振り返り、周囲に自分以外誰もいないことを確認する。ならば、あれは自分に対して振られた手であると気付き、おずおずと手を振り返した。
すると春の精はそれはもう嬉しそうに笑って、小首を傾げたのだ。
なぜかその仕草に、伶二郎は泣きたくなるくらいに、胸を痛めた。――呼吸器不全で病院に運ばれる以外に、こんなに心臓が高鳴ることがあるなんて。
(なにこれ……胸、苦しい)
それが、伶二郎の意識の中にある、姉、都との初対面であった。
春の精と見紛ったその人は、特に春が似合うというわけでもなかった。
一年のうちのほとんどを外国で過ごしていた彼女が帰国する季節はまちまちで、その都度彼女は季節に溶け込んだ。
雪の降る日は冷たい空気を吸い込んで温かな日差しに変える、冬の精。
熱い日差しの降り注ぐ日には艶やかな日光に反射する、夏の精。
赤い色のもみじに紛れる日には香り豊かな、秋の精。
人間業とは思えないその変貌ぶりに戸惑い、伶二郎はひたすら目を奪われた。
最初のうちこそ、これが自分の姉であることを誇りに思っていたが、やがて自分ではどうすることもできないもどかしさに悩まされるようになった。
移り変わる季節のように、自由奔放な姿が眩しくて、同時に恋しいと思う。
その気持ちの理由に気が付いた時、母が突然の死を遂げた。
母の死に、家族はそれぞれ多大なるショックを受けていた。だが、伶二郎の受けた衝撃は、比類できない。
他の誰よりも、人生の中でその人と過ごした時間の占める割合が多いのは、伶二郎だ。
それ故、不思議でならなかった。
共に過ごしてきた記憶はあるのに、これから過ごして行くはずの未来が描けないなんて。
それなら、今までのことも全て嘘だったのではないかと不思議な気持ちになった。
自分は長い夢の中にいて、母親を欲するあまりにそんな都合の良い絵物語を描いていたのではないか、なんて。
昏迷の最中にあって、彼を一瞬で目覚めさせたのは、他でもない姉・都の一言であった。
――これからは、家族のために貢献したい。私がみんなのお母さん代わりになるから。
その言葉をどう受け止めていいのかもわからずに、伶二郎は拒絶した。
その瞬間から、何かが狂ってしまったのだ。
それまでは、季節の精霊に対する淡い憧れのような想いであったそれが、どす黒い大蛇のようにうねって彼をがんじがらめにする。
心地良く暖かでもどかしかった感情が、今はただ苦痛でしかなかった。
底なし沼に掴む藁さえ見つけられずに沈んで行くような、そんな感覚だ。
伶二郎は一人、絶望の淵に立たされていた。