17、隣人・瀬田貴恵と、次男坊の告白
人間という生き物は、実に不便な生き物だ――。
貴恵は、さきほどまでの剣幕はどこへやら、舞台上では綺麗に笑ってのけた米沢家の次男坊・伶二郎を見て、そんなことを思った。
校舎裏での伶二郎と都の攻防の後、桂一郎と貴恵はそれぞれ彼らに付き添うこととなった。
「大丈夫」としきりに繰り返す都は明らかに動揺を隠しきれておらず、どう見ても「大丈夫」ではなかったため、桂一郎が家まで送って行くこととなった。彼は今日だけ臨時卓球部員であったが、部活の方へは「姉の具合が悪くなったため」と連絡したそうだ。とにかく、都の方には桂一郎が付いているので安心である。
都も伶二郎も、思い詰めると何をしでかすか知れず――こういうところがそっくりだ。似た者姉弟である――都には桂一郎が、伶二郎には貴恵が付き添うこととなった。
故に、貴恵は今、コンテストを終えた伶二郎を待っているところである。もうすでに時間は六時を越えて、いつもならとっくに帰宅している頃であった。今日は貴恵が夕飯を作ることは無理そうだ。
あらかじめ、都を連れて帰宅する桂一郎には、「今日は遅くなりそうだから出前とっといて」と伝えておいた。すると桂一郎は「英三郎たちが喜ぶな」と笑う。出前で喜ばれるとは心外だ。毎日欠かさず晩飯を作ってやってる貴恵にも少しは感謝をしてほしいところである。
と、傍目からは「熟年夫婦」と言われそうなやり取りを終えて桂一郎と別れ、慌ててい体育館へと戻った貴恵は、「受付員」という肩書きの特権により、もうすでに満員であった体育館の中へと入れてもらった。
丁度イベントは始まったばかりで、まだ伶二郎の出番ではない。
それから約二十分後頃に登場した伶二郎は、都に見せたような冷淡な顔はしておらず、いつも通りの柔らかな笑顔を浮かべていた。――たった二十分で、彼は上手に仮面を被る。
米沢家次男、米沢伶二郎。
もとより、何を考えているのかわからない、ミステリアスな少年だった。
それでも、彼の母、米沢文子がまだ生きていた頃は、彼も子供らしく様々な表情を見せてくれていたものだが、今では作られたような笑顔で感情を覆う。
そのため、正直なところ、貴恵には先刻の都に対するあの冷淡な態度が、果たして本音なのか、それとも演技なのか、それすらもわからないのだ。
ただ、去り際「ごめん」と貴恵に謝った時に見せた双眸が、ひどく悲しげに見えて、貴恵の心を震わせた。
人の心はわからない。心を知る唯一の窓は瞳であるとはよく言ったものであるが、もしもそれが本当ならば、伶二郎は今、とても傷ついているのではないだろうか。
舞台上に立つ彼を見つめて、貴恵は思う。
笑顔の仮面を被った彼は、傷心を一切外には見せなかった。
それがより、痛々しく思えた。
ミス・ミスターコンテストのイベントが終わるとすぐに、貴恵は受付へと戻った。
本当ならすぐに舞台裏へと飛んで行って伶二郎の傍に付き添ってやりたいところだったのだが、まだ、「ありがとうございました」と退場する観客たちに頭を下げるというとてつもなくどうでもいい仕事が残っている。
退場する中にいた何人かの同学年の友人が、「伶二郎くんカッコよかったよ」と社交辞令か本気なのかわからない感想を貴恵に託していったが、いつもなら「どこが」と笑い飛ばす貴恵も、今日は曖昧に笑うことしかできなかった。なにしろ、事情が事情である。
ようやく観客の全てが退場し、館内が空になった時には、日は暮れていた。
文化祭自体が終わりに近付いて、グラウンドの方では後夜祭の準備が進められている。
これにて受付員の仕事は完了し、貴恵は一緒に受付をしていた先輩への挨拶もなおざりに、まだ片付けをしている体育館内へと飛び込んだ。
文化祭のイベント係である生徒たちが、体育館の床にモップがけをしている。舞台上の装飾をはずしている生徒や備品を運ぶ生徒、そのどれもが祭りの終わりを名残惜しみながらも、満足感に溢れていた。
ミス・ミスター出演者の何人かはすでに着替えを終えて、ぽつぽつと体育館から退場していたが、その中に伶二郎の姿はない。まだ更衣室にいるようだなと予測して、貴恵は体育館の床を蹴り飛ばした。
階段すら使わずに直接舞台の上へと飛び乗って、貴恵は首を右へ左へと巡らせる。更衣室は、この舞台の裏側だ。右からでも左からでも行ける。
とりあえず左から、と舞台の裏側へ回ると、そこでは数人の女子が一人の女子を囲んで何やら沈鬱な空気を醸し出していた。
その女子の輪の中心にいる女子生徒は、貴恵より学年が一つ下で、確か伶二郎と同じクラスに属していたはずだ。その女子生徒が、数人の女子に囲まれてめそめそと泣いている。囲む女子たちは、口々に彼女を慰めていた。よほど悲しい出来事があったらしい。
泣いているその女子生徒は、同じクラスの伶二郎に熱をあげているらしいことで有名であった。噂に疎い貴恵でさえそれを知っていたのだから、相当有名だったはずだ。
その彼女が、伶二郎のいるであろう更衣室の近くでめそめそと泣いているのだから、はからずとも事態は飲み込めた。
文化祭やら修学旅行やら、そういった行事にかこつけて青春を謳歌するのはよくある話である。
さすがに沈鬱な雰囲気を醸す彼女たちに「伶二郎どこいるか知ってる?」とは聞けず、貴恵は黙ってその横を通り過ぎた。体育館の入り口にいて、まだ彼の姿は見ていないのだから、この奥、更衣室にいるはずだろう。
この舞台の裏側には、地下へと通じる階段があった。
その下には、体育館倉庫と更衣室が並べられている。
暗く湿っているため、好き好んでそこを使う者はいないが、行事の時には重宝された。ミス・ミスターの出演者たちも、今日はこの更衣室を使ったはずだ。
貴恵がその階段を下ると、暗い下階から一人の男子生徒が上がって来た。
貴恵とは同学年の男子生徒で、顔も名前も知ってはいるものの、話したことはない。
その程度の知り合いでしかないのに馴れ馴れしくするのもどうかと思ったが、尋ねないわけにもいかず、すれ違い様に彼の肩を叩いた。
「下、更衣室、まだ誰かいる?」
男子生徒は貴恵に突然話しかけられたことに驚いたようであったが、すぐに反応して答えてくれた。
「女子の方は知らねえけど、男子の方は米沢の弟だけ残ってるよ」
それだけ教えてもらえれば、十分であった。
貴恵は短くお礼を言って、暗い階段を下りて行く。
頭上で光っている蛍光灯はほとんどその役割を果たしておらず、かろうじて足下が見える程度である。
階段を降りると、冷たい金属製の扉が並んでいた。
そのうちの一つの扉の上に、「男子更衣室」と書かれたプラスチックの白い板が掲げられている。
貴恵はそれを確認すると、その扉の前で声をあげた。
「伶二郎っ? いるんでしょっ?」
声が涼しい地下の空間に響き渡って行く。返事はない。
返事はないが、この地下に下る道はあの階段一つしかないため、突然彼が消えるなどという超常現象のあるはずもなく、彼が中にいることは明らかだった。
「伶っ、わかると思うけど、貴恵だよ! 入るよ? いい? 入るからね?」
男子更衣室に踏み込むということには少し抵抗があったものの、他に人はいないはずである。
大胆な性格も手伝って、貴恵は重い錆び付いた扉を引いた。ぎい、と冷たい音をたてて、扉が開く。
貴恵は部活動をしていないため、体育館に設置されたこの更衣室を利用したことがない。ましてや男子更衣室など覗いたこともあるはずがなく、初めてみるその暗い部屋に、目を奪われた。
地下ということで窓はなく、古い換気扇がひたすら回り続ける小さな部屋は、湿っぽい。ただ、蛍光灯は薄暗い廊下よりもしっかりと備えられていて、部屋の中は明るかった。
部屋の端には巨大な鏡が一つ設置されていて、その前にぼんやりと立ち尽くしているその男、伶二郎は、まだ着替えすらすんでいなかった。
中世ヨーロッパの騎士のような格好のまま、鏡を睨みつけ、無言に徹する青年の姿は、少し不気味である。
「……自分見てて、楽しい?」
思わず問いかけると、鏡の中の伶二郎の目が動いた。
鏡の中の彼と、目が合う。
目が合うなり彼は、緩やかに首を横に振った。
「全然……俺、自分の顔嫌いだし」
すっかり校内のアイドルと化し、ミスター候補にも選ばれ、大勢の女たちの声援をうけるその整った顔を、彼は汚い物でも見るかのように蔑み、睨みつけていた。
「だってさ……すっげえ、あの人に、似てるよね」
あの人、とは、おそらく姉の都のことだろう。
貴恵も、伶二郎と都はよく似ていると思っている。二人共に、母親似だ。とても美人であった今は亡き、米沢文子によく似ている。
しかし、ここで「そうだね」などと能天気に同意するわけにもいかず、貴恵は自ずと溜め息をこぼした。
無表情ではあるが、笑顔の仮面を被るよりはずっとわかりやすい。――彼はとてつもなく、苛立っている。
「……だから。……自分の顔が、みー姉によく似てるから、イライラしてんの?」
「うん」
伶二郎の返事は素っ気ない。
「イライラしてるから、さっき告白してきた子のこと、振ったでしょ」
「うん」
「けっこう、こっぴどく振ったでしょ」
「うん」
「いつもなら、もう少し余裕のある対応できたのにね」
「うん」
「ちょっと、わがままだったよね」
「うん」
無表情な彼の感情は、いつもの笑顔よりもずっと、読み取りやすく思えた。
笑顔の仮面になど騙されなければ、表面上繕われた表情になど惑わされなければ、彼の行いは非常に単純であったように思う。
今更ではあるが、貴恵は今までの伶二郎の全ての行動を思い起こして、彼の思惑を知り、同時に納得していた。
そういうことだったのか、と思う。
「さっき、ミス・ミスターの前に、みー姉に言ったこと。あれ、ほとんど、事実だけど、本心じゃないよね」
今度は、伶二郎からの返事はなかった。
ただ否定はしないため、貴恵は続ける。
「ここにいたって何の役にもたたないとか、自己中だとか。あれ、全部、あんたが自分に言いたかったことだよね。……すごく、似てるから、嫌なんでしょ? 自分を見てるみたいで嫌なんでしょう? みー姉のこと」
彼はやはり、無言であった。それが肯定の意味であると貴恵にはわかる。その証拠に、鏡に映る彼の顔に、後悔の色が浮かんだ。
「でも本当は、嫌いじゃないんだよね、みー姉のこと。むしろ、その逆だ。本当はすごくすごく好きでしかたなくて、その反動で、ああいう態度取るんだよね、伶二郎は」
今思い返してもみれば、伶二郎は昔からそういう少年だった。
ある程度気に入ったものならば、一も二もなく手にいれるけれども、一番欲しいものには手を出せない。ましてや、それが自分の姉だなんて、反発するしかないではないか。
「……伶二郎が、前に言っていた好きな人って……あれ、みー姉のことだったんだね」
自分で言いながら、自分の鼓動が早くなっていくのがわかった。
それが緊張によるものなのか、なんなのか、貴恵にはわからない。
ただひたすら、伶二郎の答えを待っている。
「――うん」
その答えは、少し、貴恵の心臓には重かった。
禁断の扉を開いて、出口のない迷路に迷い込んでしまったような、そんな気がした。