15、隣人・瀬田貴恵の文化祭
人間という生き物は、心の持ちよう一つでどのようにでも変われるものらしい。何事においてもイメージトレーニングが重要視されるのは、そのためだ。できると思えばできるし、できないと思えば失敗する。
気持ち一つで、人間は、いくらでも変容できるものなのだ。
貴恵は、熱気を吐き出す高校の校舎全体を眺めて、まるで他人事のように、考察していた。
十一月も後半、ついに待ちに待った文化祭である。
年に一度の学校挙げての祝祭ということで、今日は学校全体が沸き立っていた。
校舎は、普段彼女たちの生活しているあなぐらとは打って変わって、一つのアミューズメントパークのようだ。
部活ごとに競って出し物を披露するこの一大イベントは、一年の中でも最も盛り上がる瞬間だという。が、貴恵のように部活に所属していない者には無縁の行事であった。――そのはずで、あった。
貴恵は今、校舎の本棟とは別棟に設置された体育館の入り口にいる。
彼女は先ほどからずっと「受付」と書かれたプレートの横に立ち、名ばかりの「受付員」を演じている。それは、その場所に仁王立ちになり、通り過ぎていく人波を眺めながるという仕事であった。
なんでも、本日午後三時から開演される文化祭委員主催の「ミス・ミスターコンテスト」のために、体育館は華やかな舞台へと改築されているという。
ミスミスターと言えば、文化祭の大目玉だ。
貴恵はそのようなきらびやかな舞台とは全くもって無関係であったが、やることもなくぶらぶらしていたところを、例によって、担任の教師に捕まった。
「暇なら手伝え」と一喝されて、一体何事かと思って来てみれば、受付を担当していた生徒が急に失踪したという。
そんなこと言われても、私は関係ないではないですか、という貴恵の反論も虚しく、受付のプレートの横へと立つように命じられた。
本当なら、出欠も取り終わったことだしやることもないし、今日はさっさと帰ってしまおうと思っていたわけであるが、教師に頼み込まれて先輩に頭を下げられて、それでも無視できるほど貴恵は心が強くない。
格別な用事のあるわけでもなかったため、致し方なく、貴恵は臨時受付員として、体育館の前に君臨したのであった。
人がぞろぞろと体育館の中へと流れて行く。
受付員の仕事は、不審な人物が中に紛れていないかチェックすることと、体育館内が満員になったところで扉を閉めることの二つであった。
そのどちらについても具体的な基準はなく、実に曖昧な仕事である。
こんなことでセキュリティ的に大丈夫なのだろうかと不安な気持ちもあるが、貴恵一人でどうこうできる問題でもない。一緒に受付員をやっている先輩とは顔見知りでさえないし、澄まして立っていること以外に出来ることもなく――これが、なかなか辛かった。
じっとしているよりも動いている方が性に合う貴恵は、普段からなるべくなら動く仕事を担当するようにしている。故に、ただ立っているだけでいいと言われると逆に落ち着かないのだが、隣の先輩がじっとしている手前、もそもそ動くわけにもいかず、欠伸さえできない。
がちがちに固められた蝋人形のようにその場に立ち尽くしてどれほどの時間が過ぎただろう。
そろそろ限界だ、と貴恵が心底苦痛を感じ始めたところで、突如、体育館の中から声をかけられた。
「きー姉?」
聞き慣れた声に、貴恵は振り向く。少しでも動くことができて、助かったと思った。あと少し固まっていたら、本当に蝋人形になっていたような気さえする。
それはともかくとして、どうして彼がここに、と声の主のことを疑問に思うが、すぐに、この男はミスター候補だったのだと思い出す。
同時に、振り返った途端、衝撃の光景が目に飛び込んで来て、唖然とした。
「……何、その格好……?」
貴恵とその男との付き合いは、決して短くはない。
家族として二年間、ともに時間を過ごしてきたわけであるが、彼、米沢家次男坊・伶二郎のそのような姿を、貴恵は未だかつて一度も見た事がなかった。
黒いジャケットに金のボタンがきらきらと輝く。腕には肩章が巻いてあり、腰にはダミーであろうが金や銀に光る豪勢な剣が差してあった。白いスキニーのようなズボンを履いて、黒のごつごつとしたブーツにブーツインしている。
これから中世の騎士の物語でも演じるのであろうかと思ってから、堪えきれずに噴き出した。
別に彼がウケを狙ってその格好をしているわけではないとはわかっているものの、一度笑ってしまうと止まらない。
「今年のミスターの衣装だって……そんなに笑わなくても」
伶二郎は目立つ衣装を隠すようにして縮こまった。
そういえば、と貴恵は思い出す。ミス・ミスターコンテストでは毎年何かしらのテーマが決められ、出演者はそのテーマに沿った衣装を纏うことになるのだとは、貴恵も聞いたことがあった。
今年のテーマは中世ヨーロッパか何かなのだろうか。
貴恵はまだコンテスト自体を見た事がないため、その実体についてはよく知らない。
「てゆーか、それは何をイメージしてるわけ? ナポレオン? ルイ十四世?」
「知らないけど……これから俺、舞台に立たなきゃいけないんだけど、そんなに面白い?」
「ううん、似合ってる、似合ってるって!」
笑いを堪えながらもばしばし背中を叩いてやると、伶二郎は疑うような目付きをする。「ほんとだよ」と貴恵は付け加えた。
二十一世紀の日本にあまりにも不相応なその格好を前にして笑ってしまうのはしょうがないこととして、ひとまず置いておく。その上で、「似合っている」と言ったのは、嘘でもなければお世辞でもなかった。
もとより色素の薄い男であるが、髪を流行の茶の色に染めているため、欧風の衣装もそこまで違和感はない。また、体の線が華奢であるため、不格好ではなかった。例えばこれを桂一郎などに着させたら、ただのコントになってしまうだろう。伶二郎だからこそ、その衣装で舞台へと上らせてもらえるのである。
と、そこまで考えたところで、本来なら最初に思い浮かぶであろう疑問がようやく浮かぶ。
「あれ? そういやあんた、どうして此処にいるの? その格好で外歩いてたらコンテストのネタばれになっちゃうんじゃないの?」
貴恵は今の役目は、体育館の入場受付員である。
彼女の前には列ができており、大勢の人がそこを通り過ぎて行った。
そのうちの何人かがちらちらとこちらへ視線を投げかけて、何やらひそひそと噂をしている。
思い切り、開幕前にネタばらしをしてしまっている感は、否めない。
「うん、そうなんだけどね……トイレ行きたくなって……体育館の中のトイレ、今開幕前だからってすっごく混んでるんだよね」
えへへと誤摩化すように彼は笑うが、あまりにもどうしようもない動機に脱力した。
貴恵はがっくりと肩を落として、いつもの通り、苦言を吐く。
「……着替える前に、行きなさい」
「うん、そうだね……」
その通りであるというように、伶二郎は苦りきって頷く。反省はしているようだ。
ならば、と貴恵は溜め息混じりに伶二郎の背中を押して、校舎の本棟の方へと突き飛ばした。いつまでも此処にいたら、目立ってしまう。
押されてよろめいたその背中に向かって、貴恵は言い放った。
「ほら、さっさと行ってくる! 衣装係に迷惑かけないように、服装はきちっとしてから帰ってくること!」
母親のようなその小言を受けて、伶二郎はこちらを振り返ると、にこりと笑う。そして頷くなり、校舎の方へと走って行った。
そんな彼の姿を、通行人たちが興味深そうに見ている。完全なるネタばれであった。
まったくしょうがないな、と心の中で毒づいた貴恵は受付のプレートの下で気を取り直して姿勢を正した。
少しの間、受付員としての仕事を放棄してしまったが、特に問題はなさそうだ。
隣の先輩も伶二郎と貴恵の会話にすっかり気を取られていたようで、何かを聞きたそうにこちらを伺っていたが、応答するのが面倒だったので、貴恵は気付かないふりを決め込んだ。
ちらりと体育館の中の方を眺めれば、あと少しで満員になりそうなところであった。
時間は本番十分前と、丁度良い頃合いである。
ミス・ミスターコンテスト以外にも体育館の舞台では様々なイベントが行われる予定だというが、メインは当然、ミス・ミスターだ。その主役とも言える出演者がトイレに走っているのだから、致し方がない――。
貴恵は誰にも気付かれぬよう、こっそりと苦笑した。
同時に少しだけ、誇らしく思う。
自分の弟も同然である伶二郎がミスターに出ていることも、彼にそれだけの人気があることも、そして、そんな彼と自分が他の誰よりも懇意であることも――。
妙な話であるが、何故だか、貴恵はそんなことを、誇らしく思った。
まったくあんなひ弱な男にみんなきゃあきゃあ言っちゃって、といつもなら呆れていたはずだというのに、今は呆れよりも誇らしさの方が勝る。
貴恵にはその理由がわからない。わかる必要もないだろうと、彼女は毅然とした態度で受付員に徹したのであった。