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隣人・瀬田貴恵の場合  作者: askaK
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14、長男・米沢桂一郎の疑問

 米沢家長男、桂一郎がバイトを終えた時には、すでに空は夜闇の色に染まっていた。

 桂一郎はバイト先から自宅までの道を自転車で駆け抜けて、ペダルを蹴飛ばしマンションへと続く坂道を根性で登りきる。

 すっかり日も落ち夕飯の時間になって、学校帰りからバイトへ行く途中におにぎりを一つ食べて以来何も口にしていない桂一郎の腹の空き具合は、限界点を突破しようとしていた。

 家に帰れば貴恵が夕飯を用意してくれているはずだから、と無駄な金は一切使わず、間食などしていない。

 早く家に帰らなくては、空腹で倒れてしまう、と桂一郎は自転車のペダルを最後の力で踏みしめて、マンションの駐輪場へと飛び込んだ。


 自転車を止めてエレベーターのボタンを押し、早く早くと機械を急かしながら十階へと上って「米沢」の表札を目指す。

 そして自宅に辿り着くなり開いていないだろうと思いながらもドアノブを捻ると、予想に反して鍵はかかっていなかった。

 がちゃ、と音をたてて玄関の扉が開く。

(不用心だな……)

 なんで施錠していないのだろうと疑問に思いながらも家に入った桂一郎は、「ただいま」を言うより先に玄関先に立ち尽くしている男の背中に危うく衝突しそうになった。

「うぉっと」

 慌てて立ち止まって身を引くと、玄関で靴も脱がずに立ち尽くしている男が振り返る。

 桂一郎と同じ制服を纏ったその青年は、桂一郎とは一歳違いの弟であった。米沢家次男の、伶二郎である。

「あ、ごめん桂兄……おかえり」

 決して広くはない玄関は、高校生男子が二人も入るにはあまりにも窮屈だ。

 伶二郎は壁に背中をぺたりと張り付けて桂一郎の入るスペースを空けたが、靴を脱ごうとはしなかった。

「伶、お前も今帰ったとこ?」

 がちゃん、と後ろ手に玄関の扉を閉めながら問うと、伶二郎は「うん」と頷いた。

 が、しかし、伶二郎は依然としてこの狭い玄関のスペースから動こうとしない。

 一体どうしたのだろうと不思議に思いながら、桂一郎が靴を脱いで廊下に上がろうとすると、その廊下中に、凄まじい怒鳴り声が響き渡った。

「大丈夫なんて誰が言ったのっ!? 医者が言ったのっ!? 言ってないでしょっ!? 素人が勝手な判断するんじゃないっ!!」

 きん、と耳をつんざくようなその甲高い声に、桂一郎は驚愕する。

 一体何が起こっているのかと考えるより先に、即座に言い返す声が聞こえた。

 こちらもこちらで凄まじく怒り狂っており、声の出せる限り、がなり立てている。

「どーせ部活行ったところで筋トレしかしねえっつってんじゃん!! スクワットの何が肩に響くんだよっ!!」

 あまりの声量に、くわんくわんと耳鳴りで頭が痛むような気がした。

 騒音を理由にご近所から苦情が届くのではないだろうかと桂一郎は不安になる。

 玄関先で足を止めていた伶二郎も困ったような顔をして、首を竦めていた。

「なんか凄すぎて……入れない」

 どうやら伶二郎は、帰宅したものの、廊下の先、リビングの方で激しく言い合っている彼らに圧倒されて、この玄関先で足止めを食らっていたようだった。

 桂一郎は困惑する伶二郎の視線の先、廊下の奥を見やると、貴恵がリビングの入り口に鬼のような剣幕で仁王立ちになっていた。

 おそらく、リビングの方から言い返しているのは、三男・英三郎である。

 末っ子清四郎が焦ったように廊下を行き来しているのも見えた。それでどうなるわけでもなかろうが、彼は彼なりに兄たちの仲裁をしようとしているのだろう。

 桂一郎はそんな廊下の光景を眺め、ぽりぽりと頭をかくと、こそっと弟伶二郎に耳打ちする。

「……話が全く読めねえんだけど、何がどうしたわけ?」

「さあ……俺も今帰ってきたところだから、わかんない」

 伶二郎は困ったように笑った。確かに、桂一郎と同じく今しがた帰宅した彼が事情を知るわけもなかろう。

 しかしそれにしても彼は何故今帰宅したのだろう、と一つ年下の弟の姿を見やって、桂一郎は首を傾げた。

 バイトを終えてから帰宅した桂一郎と同じ時間に帰宅するというのは、どうにも中途半端である。学校帰りにどこかに遊びに行って帰って来たにしては早すぎるし、まっすぐ帰ってきたにしては遅すぎる。

「お前はどこで何してたんだよ」

 また新たな「女友達」とやらをかどわかしてきたのだろうかと揶揄するように言ってやると、伶二郎は苦笑した。

「今日は病院。診断の日」

「――ああ、そっか」

 その答えを受けて、桂一郎は「しまった」と頬をかいた。


 幼い頃には入退院を繰り返していた伶二郎は、その昔、とても病弱であった。今でこそ健康体であるものの、それでも半年に一度の健康診断を欠かすことはできない。

 そのことを失念し、あらぬ誤解を抱いてしまったことを反省しつつ、それならそれで今日が診断であることくらいあらかじめ言っておいてくれればいいのにと思った。

 家族だからと言って何でもかんでも打ち明ける必要こそないが、それにしても伶二郎は極度の秘密主義である。

 桂一郎は、彼が家にいない時、何をしているのかさっぱり知らないし、普段何を考えているのかもわからない。

 学校で親しくしている友人のことの方が、兄弟である伶二郎よりもよっぽどわかるというものだ。


 と、突如、ばんっと激しく扉の閉まる音がして、みしみしと床が軋んだ。

 天井が崩れるなど何か災害がおこるのではないかと案ずる暇もなく、貴恵の声が廊下に響き渡る。

「英っ! ちょっと、英三郎っ! 開けなさい!! 聞いてんのっ!?」

 どうやら三男・英三郎はリビングを抜け出し、自室に引きこもるという作戦に出たらしい。

 貴恵は目くじらをたてて彼の部屋の扉を叩きながら叫び散らしているが、哀れなのは末っ子清四郎である。清四郎と英三郎の寝室は共同であるため、清四郎はこの騒ぎが静まらない限り、自分の部屋に入ることもできないのだ。

「きー姉、きー姉……英君せっかくレギュラーになれて、今が頑張り時なんだからさ……」

 小学生の末っ子が、非常に大人びた仕草で貴恵を宥めようとするが、効果は期待できそうにない。

「だったら、尚更休んだ方がいいじゃない! レギュラーになったら、平部員よりもずっと練習させられるに決まってんだから!! ただの脱臼ならまだしも、肩の筋肉やられてんでしょ! 冗談じゃないってのっ!!」

 貴恵の叫びを聞いて、なんとなく状況の読めて来た桂一郎は、伶二郎と顔を見合わせて失笑した。

 困ったように玄関に佇んだままの伶二郎を押しのけて、桂一郎は靴を脱ぐと、騒がしい廊下を強行突破することに決める。

「貴恵、ちょっと近所迷惑だから、静かにしろよ」

 軽い口調でそう言いながら、無理矢理狭い廊下を通り抜けようとすると、そこに立ちはだかる貴恵に睨みつけられた。

「英三郎が部活に出ないって言ったら、すぐにでも静かにするっつーのっ!!」

「まじかよ。英三郎は部活命なんだから。言わねえだろ」

「言わせてみせる!」

「や、今日は無理じゃね? とりあえず諦めたら?」

「そういうわけにいかないでしょ!! だって肩脱臼して筋肉までやられてるってのに、この子ったら、部活出るっていうんだよ!? ――あたしは許さないからね! あんたが「はい」って言わないんだったら、学校まで直談判しにいってやるんだから!!」

 貴恵の凄まじい形相とその言葉に、英三郎も大変だ、と思わず年の離れた弟に同情した。

「……お前さ、英三郎のこと心配してんの? それとも輝かしい中学生ライフを破壊したいわけ?」

「心配、してるに、決まってるじゃないっ!!!」

 今にも噛み付かれそうな勢いで言い放たれて、反射的に桂一郎は身を引く。

 桂一郎よりも二十センチも三十センチも背は低いくせに、この威圧感はなんとしたものだろう。

 一家を守る母、さしずめ台所の主といったところで、根性と迫力だけなら誰にも負けないだろうな、とどうでもいいことを考えた。

 これはどうしようもないな、とヒートアップしている貴恵には見切りを付けて、桂一郎は閉め切られた木製のドアを優しく叩くと中にいる弟を説得することにする。

「おーい、英三郎、きー姉は心配してるそーだぞ。安心させてやるためにも『出ない』って言ってやれ。まあ最悪、口だけでいいから『出ないよ』って言ってやれ」

「ばか、それじゃ何の意味もないじゃないっ!!」

「このままだと本当にこいつ学校まで乗り込んでくぞ。友達に噂されっぞ。それはちょっと俺としても恥ずかしいから止めてくれ」

「ふざけんじゃないわよっ!! なんなの、あんたは心配じゃないわけっ!?」

 怒りの矛先は、桂一郎にも向けられた。

 貴恵のこのような強気な物言いにも慣れて、今更たじろぐこともなくなったが、咄嗟に言い返すこともできない。

 桂一郎が当惑して苦笑しながら唸っていると、リビングの方から押し殺した笑いとともに、姉の都が登場した。

「なんか貴恵、本当にお母さんみたいね」

 屈託もなく笑う米沢家の長女・都は、ずっとリビングで事の子細を傍聴していたらしい。が、特に辟易した様子もなく、桂一郎と玄関に佇む伶二郎を見やった。

「おかえり、桂くん、伶くん」

 そして彼女はますます狭くなった廊下を懸命に通ろうとして、失敗した。

 合計四人の人間の詰まった細長い空間は、なかなか息苦しい。

 少し離れた玄関では、伶二郎が呆れたような表情を浮かべていた。

「あ、伶二郎、あんたも帰ってたのね。おかえり」

 貴恵は都の言葉でようやく伶二郎の存在に気付いたらしい。薄情な女であるが、当の伶二郎は嫌な顔一つせずに、「ただいま」と答えた。

「伶、今日も遅かったじゃない。あ、そうか、ミスターの打ち合わせとか?」

「ううん、病院」

 伶二郎はどうやら貴恵にも健康診断のことを伝えていなかったらしい。「今日だったの」と貴恵が驚きの声をあげている。

「……ねえ、ミスター、って?」 

 懸命に廊下を横歩きで通り抜け、ぼさぼさになった髪を手櫛でとかしながら、首を傾げたのは都であった。

 そうか、都は知らないのか、と桂一郎はにんまり笑う。

 桂一郎はそっと姉に耳打ちするような仕草をしながらも、わざと大きな声で言ってやった。

「伶二郎ね、高校の文化祭で、ミスター候補に選ばれてんの。なにしろうちの高校のアイドルだからね」

「へえ!」

 都の目が、興味津々と輝いた。実の姉に高校のミスター候補であることを知られるなんて、恥ずかしくてたまらないだろうと思って伶二郎をちらりと一瞥すると、予想外にも伶二郎は無表情であった。あれ、なんだか様子がおかしいな、と桂一郎は瞬く。

 そんな伶二郎の様子に気付くこともなく、「文化祭かー」と楽しそうに呟きながら、都は玄関へと向かった。伶二郎の隣に並ぶと、彼女は玄関に脱ぎ捨てられた突っかけを履いて、廊下の方を振り向く。

「――貴恵、私、レポート書くから、少し隣いるね」

 隣、とは、隣家瀬田家のことである。都の部屋は米沢家ではなく、女部屋として使われている瀬田家にあった。

「うん、わかった。ご飯になったら呼ぶから」

 貴恵がそう答えると、都は嬉しそうに頷いて、玄関から外へと出て行った。向かうは隣家だ。

 彼女を避けるようにして廊下へ上った伶二郎は、いっそう人口密度の高くなったその場所で、目を伏せた。

 そして、ぼそぼそと、誰に言うわけでもなく、呟く。

「……あの人、文化祭も来るつもりなのかな……?」

 口の中だけで響かせるような、その微かな声音は、おそらく誰にも聞かせる気のない独り言だったのだろう。が、桂一郎は、偶然にもその言葉を聞いてしまった。


 まるで、相手を憎悪するような声である。

 もちろん文脈からして「あの人」とは、都のことに違いない。


 一瞬呆気にとられた桂一郎は我に返り、「一体どういうことか」と伶二郎に問いかけようとするが、伶二郎が口を開く方がそれより早かった。

「きー姉、もう戻ってよ。清四郎も部屋に入りたいみたいだし。俺も部屋入りたいし、制服着替えたいし。ご飯の時間にもうすぐなるし」

 その口調はいつもの伶二郎のものであり、表情も明るい。そこにいるのは、いつも通りの伶二郎だった。

 おや、と桂一郎は首を傾げる。さっきの憎悪に満ちた声は、果たして聞き違いだろうか。

 そう不思議に思う桂一郎の横で、貴恵もどうやら英三郎を説得することは諦めたらしく、溜め息混じりに頷いた。

「……とりあえず、ご飯は作んなきゃね」

 そでまで張っていた意地を捨てると、一気に脱力してしまったらしい。

 台所へと去って行く彼女の後ろ姿は、先刻叫び散らしていた時の半分ほどの大きさにも見えた。

 ほっと安心したように、清四郎が息を吐く。

 桂一郎は二度ほど軽く清四郎の頭を叩いてやってから、貴恵に続いて台所に侵入した。なんでもいいから食べられる物を探るつもりである。

 台所で冷蔵庫の中を漁りながら、桂一郎は部屋に入って行く伶二郎の方をちらと伺った。制服のブレザーを脱ぎながら部屋に戻って行くその姿は、いつもと何ら変わらない。


 さきほど一瞬見せた、あの憎悪の顔は一体何だったのだろう。

 桂一郎は疑問を抱かずにはおれなかった。


 ――伶二郎は、感情の上に幾重にも蓋をする。


 それが、桂一郎の、伶二郎に対する印象であった。

 元来、人との深い関わり合いを好む桂一郎にとって、伶二郎のそんな態度は好ましからぬものであったが、今は空腹を満たすことが何よりも最優先だ。

 食欲には何物も勝てない。

 伶二郎には後ほどこっそり探りを入れることにして、今はとにかく食物を探そう。

 桂一郎はそう心に決めて、全力で冷蔵庫を漁ることに専念したのであった。

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