10、長女・米沢都とモミジの葉
告白された経験はある。付き合った経験もある。申し訳ないと思いながらも振った経験もある。
だが、振られた経験はなかった。
彼女は天与の美貌に恵まれていた。
それなのに、まさか、シュークリームに振られるなんて——。
都は電車から降り、小さな駅の改札をくぐりぬけると、あからさまに気落ちした様子のまま、とぼとぼと街へ歩き始めた。
大都市東京都内とは行っても、米沢家のマンションのある地区はさほど都会でもない。最寄りの駅は小さく、止まる電車の本数も多くはなかった。そのため、一本乗り損ねると、予定の全てが狂ってしまう。だからこの駅では乗り合わせが命なのだと、貴恵から聞かされていたはずだった。なのに、都はものの見事に電車を一本乗り損ねた。
米沢家の長女・米沢都がこの日、人知れず心に決めていた予定は、弟たちの予想したような「デート」ではない。
巷で昔から有名な洋菓子店に行ってシュークリームを食べること、であった。
なんでも、月に一度、朝の開店と同時に限定三十個で売り出されるシュークリームが、歴史にその名を残すのではないかというほどに美味だという。
都がカナダへと留学する六年前から、そのシュークリーム伝説は語り継がれていた。都もその噂を耳にしたことはあったのであるが、あれから六年もの月日が流れ、もうなくなっていてもおかしくないと思っていたその洋菓子店は、まだきちんと存在していた。そればかりか、シュークリーム伝説もまだ潰えず語り継がれているというのだから驚きである。
ならば試さぬ手はないと、月一のこの日に向けて都は意気揚々と準備をしていた。のに、肝心の朝に寝坊してしまうなんて、自分の愚かさに泣けてくる。後悔で胸がただただ痛んだ。
(三十個って、あっというまなんだ……)
店先に掲げられた「今月のシュークリームは売り切れました」の札を見て、すっかり意気消沈した都は、そのまま折り返して再び電車に乗り、元来た道を辿っていた。
たった三駅ではあるけれども、往復にすれば六駅。電車賃を無駄にしてしまった。
今まで家に貢献できなかった分、これからは自分が弟たちの親代わりを務めるのだと意気込んで帰国したのはいいが、結局何の役にも立っていないどころか、三百円ほどの電車賃をどぶに捨ててしまった。
そう思うと、さらに陰鬱な心地になった。
都は、少しでも自分にできることはないであろうかと己の生活を振り返る。
料理は、貴恵が全て担当しており、都の出る幕はない。というよりも、都が手を出さないほうが、家族のためになるようである。
また、洗濯に関して言うと、男は「米沢家」女は「瀬田家」と寝る家が分けられているため、同時に洗濯も両家に分かれて行われていた。女たちの洗濯は、瀬田家の母親瀬田桃子が出勤前に、男たちの洗濯は、米沢家の父親米沢由朗が出勤前に片付けてしまう。朝に弱い都には、やはり出る幕がなかった。
掃除についても、家族それぞれに分担があるらしく、それぞれ自分の部屋は自分で清掃している。特に弟達は姉達に見られたくないものでもあるのかどうか、部屋を女性陣に見られることを嫌がった。拒否されてしまえば押し入るわけにもいかず、都も自分の部屋のみを清掃することしかできない。
こう考えてみると、都は家族のためになるようなことなど、何一つしていなかった。
(もう……全然駄目みたい)
軽い自己嫌悪に陥りながら、都は自分の腕にはめていた時計をちらりと見やった。
銀の小さな細工が光るその向こう側に、十一時を示す文字盤が見える。
まだ昼食には早い時間だ。
弟たちは今頃学校にいることだろうし、自分はこれからどうしようかと考えて、ふと思い当たった。
(……そういえば、今日、桂一郎たちの、運動会だ……)
都がそれを知ったのは、今朝方のことである。
せっかく伝説のシュークリームを買いに行こうと思っていたにも関わらず寝坊をし、朝から一人で大騒ぎをしていた都を心配そうに見つめながら、貴恵が言っていた。「今日は体育祭があるから、私たち帰りが遅くなるかもしれない」と。
(体育祭って、きっと、運動会みたいなものよね)
中学卒業と同時に海外に留学し、それからずっと海外生活をしている都には、日本の学校特有のその行事は遠い記憶の出来事であり、いまいち運動会と体育祭の違いはよくわからなかった。
ただ、一つ思うのは、そういった運動の祭典には必ず親など保護者が見学にいくものではなかっただろうか。
まだ幼かった頃、都は両親がそろって自分の運動会へ見学に来てくれたことを、なんとなく覚えていた。
だが、今は、その片親はおらず、片親は仕事に忙しい。貴恵の母、桃子に至っては、米沢家の父由郎よりもずっと多忙なキャリアウーマンだ。ひょっとしたら貴恵は生まれてこの方、親が運動会に来てくれたことなどなかったのではないだろうか。
そこまで考えて、都は、
(……なら、私が行こう)
一人、心の中で、決意した。
今度こそ、失敗はしまい。これこそが、自分の役目である。
家事など一切できなくとも、それくらいのことならできる。そして今、彼ら彼女らの運動会に見学にいくことができるのは、この都しかいないのだ。
決意をしてからの都の行動は、早かった。
もともと彼らの通う高校は此処から歩いても行ける距離にある。
方向感覚の良い都は、一度行ったことのある場所ならば、地図など見ずともそこへ辿り着くことができるという自信があった。
よし、とアスファルトを踏みしめて、目指すは弟たちの通う高校である。
シュークリームを食べ損ねてしまったことなど、彼女の頭からはすでに忘れ去られていた。
都は坂の多い町並みを越え、確実な方向感覚を武器に、まっすぐ弟達の高校を目指した。
そもそもシュークリームのために家を出たため、さして洒落た格好はしていないのだが、普通の父兄はどのような格好で子供の運動会に現れるのだろうか。
都は通り過ぎるマンションの自動ドアに映る自分の姿を、ちらりと一瞥した。
薄手のコートは、数年前にフランスへ学会に行った時に買った物。髪は夏カナダにいる時に切ってから、自分で手入れして巻いている。ブーツや時計、アクセサリー類は全て貰い物であった。その送り主は全て同一人物である。
都はその送り主の顔を思い浮かべた。
カナダで出会ったその人物は、本当に都に良くしてくれた。彼が送ってくれたこのアクセサリー類も全て、高額ではないにしろ、良品だ。
特に、と都は腕にはめた銀の時計を撫でる。
これは恐らく、都の持つ物の中でも最も良い品である。そして、都にとって、最も大切な物でもあった。この時計を製造しているブランドそのものに価値はない。だが、これを買って都に送ってくれた人の、気持ちに多大な価値がある。
その送り主のことを思うと、都の心に、一段と深いもやがかかった。
(自分から振り切って日本へ戻ってきておきながら、何を今更……)
都はぐっと歯を噛み締めた。そうとも、悔やむことは許されない。
――あの人を振り切ったのは、他でもない、自分自身なのだから。
――だが、もしも都が彼を振り切らなくても……彼は都を受け入れなかっただろう。
彼女はぎゅっと右手の平で、左手首にはめた時計を握り締めた。
金属製のベルトは、空気に触れている側面は冷たく、手首に巻かれている側面は暖かい。その二面性は、まるで送り主を象徴しているかのようで、息が苦しくなる。
だが、腕時計はこうやって外側から握り締めていればやがて手の体温で暖まる。
どうして、人の心はこうはうまくいかないのだろう――。
メビウスの帯のごとく、何度も何度も同じ事を考えていると、突如、パーンと破裂音がした。
はっと我に返り、都は顔をあげる。
すると、すぐ目前に白い校舎が見えた。
どうやら、考え事をしているうちに目的地に辿り着いていたらしい。
自分の野性的な方向感覚に感心さえ覚えながら、都は塀を辿って、校門へと向かった。
クラスは一学年三組まで。一組みに五十人ほどの生徒がいて、単純計算すると全校生徒は約四百五十人ということになる。
そこにちらほらと保護者の姿が混じり、教員も混ざる。
ざっと六百人程度の群衆が、グラウンドにはひしめきあっていた。だが、グラウンドは広く、決して窮屈ではない。その上今日は清々しい晴天だ。
都は校門をくぐりぬけて広いグラウンドを目にして、息を呑んだ。
此処に来たのは今日で二度目だ。前に来たのは一月前、雨も降っていないのに傘を届けに来た時以来である。そして今見える景色は、その時とはだいぶ印象が違っていた。
もちろん、グラウンドにたくさんの人がいるということもあったが、何より大きな変化は、グラウンドを囲む木々の紅葉である。
一月でこんなにも変わるのか、と感嘆していた。
赤や黄色の大木が、風に揺られては木の葉を落とす。それは高校生たちの祭典の背景を彩る華やかなカーテンのようだ。
すっかりその美しさに目を奪われて、自然と都はそちらの方へと向かっていた。
(うわあ、すごい……きれい)
グラウンドの端にある、一際大きな樹は、紅の一色に染まっている。
もみじというその樹木は、都が六年過ごしたカナダにも生えていた。だが、カナダでは当然これを「もみじ」とは呼ばない。それだけで故郷に生えるものとは違う植物に思えて不思議だったのが、これもまた奇妙なことに、日本に生えているだけでこの樹の名前は「もみじ」に戻る。
ざあ、と赤い嵐に包まれて、数枚の葉が都の体にと張り付いた。
ミルク色のコートに絡まるそれを取りはらいながらも、都は誰にも見つからぬよう、隠れて微笑した。――故郷の「もみじ」に包まれているだけで、なんだか嬉しくなるのはどうしてだろう。
そんなわけで、都はもみじにすっかり心奪われていて、自分に近付く気配に少しも気付かなかった。
赤い葉に戯れているその姿を、じっと見つめる人影がいたことに、全く気付かなかったのである。
その人影は、都に気付かれないのをいいことに、しばし彼女のことを見つめていた。
が、やがて、苦しげな表情を浮かべ、ぎゅっと唇を噛み締めて、表情を憎しみの色に変える。
そして。
「なあ、おい――」
低い声で、都に話しかけた。
「なにしてんの、あんた」
彼がそこにいたことに、全く気付いていなかった都は、驚きのあまり、飛び上がる。
飛び上がってあわてて振り返った先には、髪の毛を茶色に染め上げたジャージの青年が、こちらを睨みつけていた。
「あ、……伶君」
そこに立っていた青年、米沢家の次男坊は、昔入院生活をしていたこともあって、どちらかといえば華奢な方であった。
が、今となってはかつて病弱であったことも感じさせないほどに健康的になって、体が弱いことなど本人が言わなければ周りは気付かない。
「なんだ、伶君か、びっくりしたぁ……」
暢気な口調で言って都が微笑むと、米沢家の次男坊はますます表情を険しくさせた。
「なにしてんだよ、あんた……こんなところで」
その露骨に不機嫌そうな声色に、常なら都は怯んでしまうところであった。
だが、いつまでも自分の弟に脅えているわけにはいかない。
都はぐっと怖じ気づきそうになる己の心に鞭打って、なるべく自然な笑顔を浮かべた。
これからも、彼とは仲良くやっていかなくてはならない。だって、自分たちは、姉弟なのだから――。
「今日、運動会でしょ? だから、見に来たの。あ、そうだ、保護者席ってどこかなぁ。ここにいていいなら、ここから見学してもいいんだけど……」
「あ? どういうこと? 俺はなんであんたがこの学校にいるの、って聞いてるんだけど」
「え、だから、運動会見に……」
「マイケルとかジョニーとかとデートじゃないのかよ」
「マイケル? ジョニー?」
あまりにも予想外の質問に、都は目を白黒させた。
伶二郎は相変わらずの不興顔で、その内面で何を思っているのか全く読み取れない。真面目なのか、ふざけているのかさえわからず、都はひたすら困惑した。
「えっと……マイケルとジョニーって?」
都の知らない新人ミュージシャンとか、何かのユニットとか、そういうやつだろうか。
当惑する都に対し、彼女の目も見ずに、斜め下を睨みつける伶二郎は、低い声で続けた。
「桂兄と英三郎が盛り上がってた。あんたが誰とデートしてるか当てるって」
「デート?」
「あんたの相手は外人だろ?」
「……」
相変わらずマイケルとジョニーの謎は解けないが、そこまで聞いて、なんとなく事態は飲み込めた。
おそらく、朝方寝坊してパニック状態に陥っていた都を見て、弟たちの誰かが「デートに遅刻でもしたんじゃないか」と言ったのだろう。そういえば家を出る時に、どこへ行くのか誰にも告げていなかったなと今更のように気が付く。
とてもデートのような華やかな用事ではなくて、いっそ申し訳なくさえ思えるのだけれども。
「別に、デートに行こうと思って家を出たわけじゃないのよ、あのね……」
「へえ? 違うんだ?」
「うん、あのね、シュークリーム食べようと思って……」
「シュークリーム?」
それは想定外だったのか、伶二郎は眉根を寄せた。母親譲りの綺麗な顔が歪んでいて、思わず笑ってしまう。
ひらりと一枚もみじの赤い葉が舞い落ちて、彼の茶色い髪に引っかかった。
都はにこりと微笑んで、彼の頭に手を伸ばす。
「有名なシュークリーム食べにいこうと思ったんだけど、売り切れちゃった……伶君、頭に葉っぱついてる」
しかし、彼に伸ばした手は、ぱしりと安易に払いのけられた。
伶二郎は冷たい目でぎろりと姉を睨みつけ、自分の手で自分の頭についた葉を振り払う。
「まあ、マイケルやらジョニーやらってのとデートしてるとは思わなかったけどさ」
彼に払いのけられた手が、行き場を失って彷徨う。
都は居心地悪く思いながらも怯むまいと頑張った。
が、次に発された伶二郎の言葉に、面食らう。
「ライアン・バーンズ、だっけ? その男とはどうなったの?」
都の腕にはめられた銀の時計が、太陽光を反射してきらりと光る。
その名前を聞いた途端、体中の血が逆流していくかのように、心臓が妙な音をたてて高鳴った。
伶二郎は依然として冷たい表情でこちらを睨みつけるままだ。
都は突然弟の口から出て来たその言葉に、なんと返していいのかわからない。
それでも、何か言葉を返さなくちゃと思って口を開き、
「どうして……その、名前……」
ようやくその一言のみを絞り出した。
ライアン・バーンズ――その名前を、家族に告げた覚えはなかった。というより、他言した覚えがなかった。別に、隠そうとしていたわけではない。ただ、都にとってそれは、そう簡単に会話に出せるような名前ではなかったのである。
伶二郎は目を細めて都から視線を逸らすと、競技の行われているグラウンドの方を睨みつけた。彼の鋭い眼差しからは、感情が読み取れない。
「……電話が、あった」
「電、話?」
「一週間前に、あんたに」
「え……」
「ライアン・バーンズって男から」
途切れ途切れに紡ぎ出される伶二郎の言葉に、頭の中が混乱し始めた。
一週間前? どうやってライアンは都の自宅の電話番号を知った? 伶二郎はどうして一週間も電話があったことを言わなかった?
疑問はいくつも浮かぶが、最も都の頭の中に強く渦巻いたのは――ライアンは、一体何の用がって電話をしてきたのだろう? ――その一つのみであった。
「……そう」
半ば錯乱状態に陥って、都は放心する。
意識とは別のところで勝手に口が動き、儀礼的に「ありがとう」と何故か弟にお礼を述べていた。一体それが何に対する謝礼なのかもわからない。電話があったことを伝えてくれたことに、だろうか?
嗚呼、そんなことよりも、彼が連絡をくれたなら、自分も折り返し連絡をしなくてはならない。
そう思って都は無意識のうちに一歩ずつ前へと踏み出していた。が、もみじの樹の下を抜けたところで、足を止める。――折り返すと言ったって、どうやって連絡をすればいいのだ。都は、彼の、ライアン・バーンズの連絡先を知らない。
「――おい、ちょっと……おいっ!」
後ろにいる弟が呼びかけて来ていることにさえ、しばらく気が付かなかった。
「おい、聞けって、おい!」
彼が大音声で呼びかけて来て、ようやくはっと都は我に返る。
振り返ると、伶二郎はこの上なく苛立ったような表情をしていた。どうやらずっと声を張り上げていたようだ。
「あ、ごめんね……なに?」
自分でも間抜けな切り返しだとは思うが、これ以上弟を怒らせたくもなくて、都は慌てて彼に問いかけた。
伶二郎はチッと舌打する。
「……誰なんだよ、ライアンって……」
吐き捨てるように呟かれた彼の言葉は、都の耳には届かなかった。
「え?」と聞き返すも、伶二郎は二度とはその言葉を言わない。
代わりに、心底不機嫌そうな顔で、問うてきた。
「あんたさぁ……聞かないの?」
「……何を?」
「俺が、一週間あんたに電話があったこと、黙ってたワケ」
「……ああ」
言われて、そういえばそんな疑問もあった、と都はようやく目の前の青年のことを見つめた。
青年は不機嫌そうな表情の中に、少し悲しげな色を浮かべる。
「あんたにとっては、どうでもいいことなんだよな」
都は目を見開き、しばし瞬いた。
今、都は日本にいる。海の向こう側にいるライアンという男は振り切ってこの国に帰国したつもりだ。それなのに、どうしてその名前を聞くだけでこうも周りが見えなくなってしまうのだろう。この国にいる家族以上に大切なものなどないはずなのに。
そうとも、ライアンこそ、都にとってはどうでもいいことだ。
都は自分で自分に強くそう言い聞かせて、首を横に振った。
「そんなつもりじゃないよ……」
そして、気を取り直し、目の前にいる自分より少し背の高い弟を見上げ、首を傾げる。
「伶くん、どうして電話があったこと、黙ってたの……?」
ライアンのことで動揺してしまった自分を押さえつけ、なるべく平静を保つ。
いつも通りに、と思った結果、いつも通りの微笑みが顔に登った。
そんな彼女の微笑みを見下ろして、伶二郎はこめかみをふるわせる。彼は手で自分の頭を撫でて、俯いた。
静かなその動作の裏にあるのは――怒り、だろうか。
「あんたさ……ほんと、ムカつくわ」
「私?」
我ながら、随分と阿呆な返答だったと思う。
人差し指で自分を指し示して小首を傾げると、さらに伶二郎の顔に冷淡な色が浮かんだ。
馬鹿にしているつもりなど毛頭なかったのだが、そう思われたのかもしれない。
「あんた見てるとさ……イライラしてくるんだよ。大体さ……何のために日本に帰ってきたんだよ」
「え……と、だから……少しでもみんなの手伝いができたらいいな、って……」
「手伝い? そういえば日本に帰る、とか言い出した時、あんた、言ってたよな。これからは私が母親代わりになる、って。実際どうなんだよ。あんた、何もしてねえじゃん」
「……」
返す言葉もなかった。まさしくその通りである。都は日本に帰国したものの、まだ家族に対して何も貢献できていない。
口を噤んでしまった都を見つめ、はあ、と伶二郎は聞こえよがしに溜め息を吐いた。
「あんたが来てからさ……正直、いろいろ厄介事は、増えてるよ。きー姉も桂兄も、母さんの分まで、父さんや桃子さんの手伝いして頑張ってるよ。……けど、あんたが来てからは、あんたのフォローにまで手を焼いて、毎日てんてこまいだよ」
これに関しても、異論はない。都は俯いた。
ごめん、と謝るわけにもいかず、もっと頑張るね、と笑顔で答えることもできず、ただただ俯く。
伶二郎はそんな都の横を通り抜けて、その耳に近いところで呟いた。
「――あんたがいなくても、うちは、やっていけるよ」
その言葉が耳から脳へと辿り着き、それが消化されるまでに時間がかかる。
ようやくそれを理解して見上げた弟の眼光は、驚くほどに鋭い。――憎しみに満ちているかのように、見えた。
「ライアンのところに、帰りなよ。ミヤコさん」
気味が悪いほどに、はっきりと名前を発音されて、思わず身震いする。
この人は、本当に自分の弟なのだろうか。血のつながりは、あるはずだ。
だが、きっと、この人は、自分のことを姉だなんて、これっぽちも思っていない――。
言うだけ言って、満足したのか、伶二郎は黙って踵を返した。
別れの挨拶さえせずに、足早に去って行く。
その背を見送る都は、一つの言葉もかけられない。口を開いたら、情けのないことに、泣いてしまいそうだった。ずきずきと痛む胸を、必死に堪えることにしかできない。
別に、頼れる姉だと認めてほしくて努力していたわけではなかった。だが、それが甘えだったのかもしれない。
都は母親を亡くした弟たちのサポートを、少しでもできればいいなと、心からそう願っていたのである。
それなのに、今の自分は、姉としてすら認められてはいない――。
伶二郎は今まで一度だって、都のことを「姉」と呼んだことはなかった。
他の弟たちが貴恵を「きー姉」と呼ぶように、都のことを「みー姉」と呼んでくれるのに対し、彼は都のことを「あんた」もしくは「みやこさん」と呼ぶ。まるで血のつながりなんて、ないかのように。
自然と、手が手首の腕時計を握り締めていた。それによってどんな心の安定を計れるはずもなかったが、秒針の振動に合わせて、心臓は落ち着いて行く。
(一体私は、どうしたらいいんだろう……)
都は泣きそうになってツンと痛む鼻を押さえ、目を閉じた。
都は、伶二郎に言われたことの全てが正論であり、何一つ言い返せないということをきちんと理解している。
どれもこれも責められて当然のことだった。
都は米沢の家でちっとも何の役にもたっていない。いてもいなくてもいい存在だ。
なら、さっさと出て行った方がいいのではないだろうか――。
そう思うのに、彼に言われたその言葉に傷つくよりも、家を出た方がいいのではないかと悩むよりも、この時計の送り主のことを考えてしまう自分がとんでもなく憎らしかった。
(嗚呼……ライアン・バーンズ先生……先生、あなたなら、どうされますか……あなたは……あなたは……一体、何を今、考えているのですか)
溢れそうになる涙を拭ってもみじを見上げ、都は震える膝に、鞭打った。
彼女はゆっくりと前進を始める。このまま、体育祭を見学していく気には、とてもなれなかった。
結局、米沢家の長女は、弟たちの活躍の一つも見ないままに、帰宅した。
彼女はまたもや、家族のための務めを、果たすことができなかった。