1、米沢家の人々
人間という生き物は、言語を使うことによって知能を得た。指先を使うことによって脳を発達させた。道具を使うことによって文明を発展させ、さらに高度な道具を作り上げた。それだけではないだろうが、とにかく、先人達は現在の地球の上に様々な形で便利な発明を残してくれていったと思う。
だがその反面、本能だけで生きるわけにいかなくなった人間は理性という建前を身に着けて、ややこしい生物になってしまった。これを便利と言っていいのかどうかはわからない。
また、発展した文明は次々に形を変え、ついには人間の脳を越えてしまったのではないかと思う。
本当に、ややこしい生物だ。——新しい機械の使い方がさっぱり理解できないなんて。
高校二年生、花の十七歳を迎える瀬田貴恵は、最新式の電子レンジを前に、なす術もなく、腕組みをしていた。
パイ生地も、上にのせる具も、全て完璧だと自負している。あとは焼くだけなのに、肝心のその作業が進まない。進まないどころか始まりもしない。温度を設定し、時間も設定したというのにこの「レンジ」という機械がうんともすんとも言わないのだ。ひょっとしたら不良品なのではないかと思えてきた。
「きー姉、お腹すいたー」
変声期中の掠れた声がして、廊下から台所につながる扉が開いた。
のそのそと覗き込んできたのは、痩せた眼鏡の少年。此処、米沢家の末っ子四男清四郎である。
ちなみに、姉と呼ばれ姉として扱われてはいるが、貴恵と米沢家との間に血の繋がりはない。しかし、幼い頃より家族同然の付き合いをしてきたため、彼らは互いに互いを姉弟と思っていた。
「もう六時だし、もうすぐご飯だから。清は間食すると夕飯食べれなくなるからやめときな」
清四郎は唸っただけで了承はしない。台所の隅々まで何かを探し回った後、レンジと睨みあっている貴恵を眼鏡越しに見やった。
「ねえ、此処に置いといたせんべいは?」
「せんべい? ……ああ、さっき英三郎が食べてったよ」
ええ、と清四郎が非難の声を上げた。彼はぶつぶつ文句を言いながら、冷蔵庫を探り始める。
「英君、いっつも僕のお菓子食べるんだよ。なのに僕が英君の食べるとすぐ怒るし」
「まー、英三郎は消化早いからね。あんたと違ってずっと動き回ってるし」
話題の的、米沢家の三男坊を思い浮かべながら貴恵はレンジの設定を一度初期化した。
米沢家三男坊、英三郎は今家の中にはいない。大方、マンションの下の公園で一人ボールを投げているのだろう。今年中学生になった英三郎は、地元の公立に通っている。その中学は、貴恵の母校でもあるのだが、野球で有名で、遠くから越境して通ってくる生徒もいるほどだ。貴恵は野球などとは縁がなかったが、小学生の頃から野球一筋の英三郎は、入学するなり入部届けを持っていった。今は一軍入りを目指して猛特訓中である。
まだ冷蔵庫の中へ愚痴を吐き続けている清四郎には無視を決め込んで、貴恵は設定をし直し再びスタートボタンを押した。が、動かない。米沢家には一歳の時よりかれこれ十六年出入りしている。最近ではこの家の食事の用意は全て貴恵の担当であった。言わば、この台所の番人である。当然、此処に置いてある全ての調理用機械は 使いこなしていたわけだが、新しい機械が入ってくるとは迂闊であった。
どのボタンを押してみても反応しないレンジに痺れを切らし、貴恵はついに機械を購入した張本人を呼んだ。
「桂一郎——っ!」
米沢桂一郎、米沢家の長男は貴恵と同い年だ。家が隣同士で、家族同然の付き合いを十六年間続け、学校もずっと同じとくれば、一時期は顔を見るのもうんざりするほどであったが、最近では互いに空気のような存在として新しい境地へと至ったところであった。
しかし、呼べど呼べども奴はやってこない。空気の声は音とならず、耳へは届かないということだろうか。苛苛してきた貴恵は、このやろうと拳を握り、電子レンジを叩き始めた。動かないテレビを無理やり起動させるのと同じ要領である。
ばしばしと新品のレンジが攻撃を受ける様を見て、驚いたのは清四郎だ。これはまずいと思ったのか冷蔵庫を閉めて台所を飛び出すと、「桂兄、早く来て! きー姉がレンジ壊してるよ!」と悲鳴をあげた。それを受けてようやく姿を現した長男は、台所の引き戸を開けるなり目を丸くする。
「うっわ、お前やめろよ! それいくらしたと思ってんだ!」
電子レンジに喧嘩を売る幼馴染の姿にさすがにぎょっとしたのか、年中能天気なその男も顔をひきつらせた。とは言え、ずっと此処で新入りと戦ってきた貴恵の方が、さらに険しい顔をしている。
「これさあ、不良品じゃないの? 動かないんだけど」
「は? この前俺が使った時は動いたんだけど」
桂一郎はそう言うと、貴恵を退かしてレンジを操作した。すると、何故だろう。ものの数秒でレンジが動き出したではないか。「予熱」と書かれたランプが点灯したのを見て、貴恵の口は開いたまま塞がらない。
「うっそぉ、何で?」
「俺は、何で動かなかったのかの方が不思議だ……」
呆れたように首をすくめたその姿は、貴恵を馬鹿にしているようにも見える。理不尽な話ではあるが、腹が立ったため、彼の背中を引っ叩いた。予想以上にいい音がする。
「痛っ……お礼もなしにそれかよ!」
「ありがとうございましたー」
「うっぜぇ……そんなんだと一生男できないからな」
「あんたには言われたくないよ」
「俺はもてもてだもん。今年バレンタインいくつもらったと思う?」
「義理を本気にしちゃう男ってやだねぇ」
「義理じゃないから! まじまじ。見る?」
「えっ? まだとってあんのっ? もうバレンタインとか半年以上前なんだけど!」
「もったいないし」
「気色悪っ!」
貴恵が自分より二十センチ以上大きながたいのいい男と張り合っていると、新たな人影が台所に現れた。兄弟達と同じ遺伝子を引き継ぐと思えない綺麗な顔立ちをしている。そこに貴恵の姿を見つけると、すらりとスタイルのいい彼は困ったような笑みを浮かべた。
「きー姉、ひょっとして俺の分もご飯作っちゃった?」
米沢家次男坊、伶二郎は長男桂一郎の存在をさらりと無視する。伶二郎とてそんなに背の低い方ではないのだが、如何せん桂一郎が大柄なため、隣に並ぶと小さく見えた。
「え? うん、作っちゃったよ、ミートパイ」
貴恵はまだ焼いていない大皿を四つ示した。食べ盛りの男が四人もいるこの家では、いくら作っても作り過ぎということはない。特に、図体のでかい長男と、エネルギー消費の激しい三男の胃袋はブラックホールなのである。此処で料理長を務めて数年になる貴恵は彼らの底知れぬ食欲を熟知している。
しかし、伶二郎というミステリアスな弟は、とにもかくにも気まぐれで、突然思い付いたように「ご飯いらない」と言い出すことも少なくない。それは外で食べるという意味の時もあったし、単に食べたくないという意味の時もあった。
「どうしたの、具合悪いの……?」
後者である場合を案じて問うたが、彼は首を横に振った。幼い時には病弱で、入退院を繰り返していた伶二郎は、今は健康だとわかっていても線が細く見える。ついつい心配になってしまうが、今回は体調不良が原因ではないようだった。
「ちょっと出かけたいんだけど……まずいかな?」
「ミートパイは桂一郎と英三郎が食べるから平気だけど……もうすぐみー姉帰ってくるよ?」
「うん、だから、みー姉にごめんって言っといて。十時には帰るから」
伶二郎は安直に告げて、くるりと背を向けた。
みー姉こと、米沢都は、米沢家の長女だ。桂一郎、伶二郎、英三郎、清四郎の姉にあたる。
姉が一人に弟四人という大家族の米沢家と、貴恵の瀬田家は今は両方ともに片親だった。
貴恵は一人っ子で、物心付かぬうちに父親を亡くしているため家族が少ないが、ほとんど米沢家と同居状態なので、大家族の一員のようなものである。 つまり、都は貴恵にとっても姉のような存在であり、その彼女が久しぶりに帰宅するのだから歓迎会を開かないわけにはいかない。一日、二日里帰りすることはあっても、高校の時から海外へ留学している都が本格的に帰国するのは実に六年ぶりのことなのである。
だが、実の弟である伶二郎は貴恵ほど姉の都に関心がないようだった。
伶二郎は常に家族に対してもポーカーフェイスを気取っているため、その真意はわからないのだが、基本的にはいつでも何に対しても前向きで積極的だ。
その彼がこうも冷めた反応をするのは少し珍しかった。
「また女かぁ?」
冷めた背中に、呆れたように桂一郎が質問する。兄の問いかけに、弟はにっこりと笑った。
「まあね。ただの友達だけど」
笑顔の仮面を被り、彼は出て行った。廊下を歩く足音と、玄関の閉まる音がする。貴恵と桂一郎は顔を見合わせ首をすくめた。
十四の歳を越えるまで、ほとんど家族から離れて暮らしていた伶二郎は、家族にさえも心を隠したがる。そういう時は決まって曖昧な笑みを浮かべるのだ。母親譲りの綺麗な顔に、笑顔の仮面を被りたがる。
「あいつ、モテるな」
隣の桂一郎の情けない呟きに、貴恵は脱力した。人の言うことを端から全て真に受けるのは確かにこの大男の長所でもある。しかし、伶二郎のあれは誤魔化し以外の何でもないだろう。伶二郎が異性に人気のあることは嘘ではないが。
貴恵は苦笑するだけに留めて、料理の方へと向き直った。気付けばレンジはすでに予熱の温度に達している。今度こそきちんとレンジとコミュニケーションが取れますようにと心の中で念じて、貴恵は鍋掴みを手にはめた。これから帰宅する米沢家長女のため、歓迎会の料理を完成させなくてはならない。
料理長の腕の見せ所、と気合を入れて貴恵は皿を掴んだのであった。