第二話 魔王から冒険者へ
第二話 魔王から探索者へ
夕焼けに染まり、昼の顔から夜の顔へと移ろうとしている迷宮都市。ある者は家路を急ぎ、またある者は稼いだ金を手に街へと繰り出す。その人々でごった返す街の中では割合静かな裏通りを、魔王は辺りを見回しながらゆっくりと歩いていた。
「あの世のどこかではなさそうだな。雰囲気から言うと人間世界か? だが余は死んだはず……」
夕焼け空に太陽が昇り、家や商店の立ち並ぶあたりの様子に魔王は思い悩む。彼の知っている限り、このような光景があるのは人間世界だけであった。
しかし、魔界から人間世界に行くのは特別な大魔法を使わなければならないし、第一彼は死んだはずだ。それらの事実が魔王の頭を悩ませていた。しかもさらに理解しがたいことに、すでに老齢であったはずの彼の肉体は何故か若返っていた。
色が抜けていた髪は元の鮮やかな銀に染まり、しわに埋もれていた顔は本来の彫りの深い容貌をあらわにしている。魔力や筋力も衰え始める前にきちんと戻っているようであった。
「……今はとにかく情報が必要だな」
魔王はそうつぶやき、一端思考を打ち切った。そして辺りを歩いて人の姿を探す。冒険者の街の裏通りには到底似合わない豪奢なマントが揺れ、杖がかつかつと音を立てた。
「よう、兄ちゃん。金もってそうじゃん? 俺達にわけてくれよ」
魔王から放たれる高貴な気配に金の香りを嗅ぎとったのか、よからぬ輩が近づいてきた。人数は三人、それぞれくたびれた革の鎧を身につけている。大方冒険者崩れのチンピラだろう。
「余は金など持ってはおらぬ。他を当たれ」
魔王は気怠い顔をしてけんもほろろに男たちを追い返した。まったく相手になどしていない様子である。男たちはその態度にナメられたと苛立ち、腰から獲物を抜き放った。
「おい、なめたこと言ってんじゃねえぞ!」
男たちはナイフをちらつかせ、魔王を威圧した。しかし、魔王は眉をひそめるだけだ。それも当然、魔王にとってこの男たちの威圧など、子犬に吠えられた程度のことにしか感じられなかった。
「金を持ってないのは事実だ。無い袖は振れぬ」
「ちいっ、なら身ぐるみ置いていけ!」
男たちは魔王に襲い掛かかった。荒事には慣れているのか、なかなかの速度だ。三つの刃は滑らかな直線を描いて魔王に向かう。
しかし、その程度の攻撃が魔の頂点に君臨していた魔王に通用するはずがなかった。
「弱い者をいたぶる趣味はないが……余はやられたらやり返す主義だ」
魔王は身を翻すと、瞬く間に拳を繰り出した。右、左、正面。計三発の拳は男たちをくの字に曲げた。男たちは悲鳴すら上げずに白目を剥き、泡を吹く。
「うむ、若返ったせいか力が入りすぎたな。だがまあいい」
魔王はやれやれと呆れたような顔をすると男たちを通りの端に寄せた。そしてそのまま通りを歩き去ろうとする。だが、そこで彼はふと妙案を思いついた。
「そうだな、慰謝料代わりに記憶を覗かせてもらおう」
魔王は男に近寄ると顔を上げて額をさらけ出した。そして一言、呪文を紡ぐ。
「ジャックイン」
魔王は目を閉じ、男の額に手を重ねた。魔王の頭に男の記憶や知識が流れ込む。文字、歴史、生活の知識……ありとあらゆる膨大な量の情報に、魔王の頭の中はたちまち埋め尽くされていった。
だがさすがに魔王というべきか、しばらくすると情報処理を完了し、彼は男の知識をある程度は自分の物とした。だが所詮は街のチンピラの知識、ごく基本的なことしかなかった。もっとも、それだけでも魔王を興奮させるのには十分であったのだが。
「面白い、アルゲニアに迷宮か。何者が余を導いたのかは知らぬが、感謝しなければな」
魔王は口元を歪め、愉快そうにつぶやいた。未知の世界に未知の存在。特に、この迷宮都市に存在する迷宮は魔王を興奮させた。深い階層に潜む強大なモンスターに彼らの残す秘宝。さらに祝福を受け迷宮を探索していく冒険者、通称シーカーたち。
チンピラ男は迷宮にはあまり詳しくなかったようだが、その表層的な知識だけでもこれらの存在は魔王に少なからずある好奇心をくすぐった。
魔王本人は決してそうは言わないだろうが、魔王城に時折現れる勇者と戯れたのも彼が勇者という存在に好奇心を覚えたからである。それぐらい、彼は好奇心旺盛であるのだ。
「守るべき国もここにはない。気楽に冒険して暮らすのも悪くないな」
当面の生活方針を決定した魔王は、男の記憶にあったシーカーたちの拠点、シーカークランへと向かうことにした。だがその前に、機嫌の良くなった魔王は男に施しをしてやろうと考えた。魔王とはやはり気まぐれなのだ。
魔王は道端に落ちていた石を拾うと魔力を込め始める。石が透明な宝石のようになり青く輝き出した。魔王は満足そうな顔をすると怪しい輝きのそれを男の懐に滑り込ませる。
「良かったな。十年は餓えずに済むぞ」
魔王はそう言って笑った。彼が数分で造った宝石には、この男の稼ぎ十年分ぐらいの価値はあったのだ。
魔王は立ち上がると今度こそその場から歩き去る。そして、周囲から奇異な目で見られつつも通りを歩き、十分ほどでシーカークランに到着した。
「ほう、ここか。神の気配がするが……致し方ないか」
魔王が目にしたシーカークランはその後ろにある神殿と半ば一体化していた。ちょうど長方形に近い形のシーカークラン建物が三角屋根の神殿に接合したような形である。魔王は少し嫌な顔をしたが、さして気にはしない。
神と魔王の仲は悪いが、人間たちに思われているほどは悪くない。どちらかがどちらかを害したというのであれば容赦しないが、普段は互いに無関心。それに世界規模の危機に陥った時には協力したこともある。ちょうど同じ建物に住んでいる仲の悪い住人同士のような関係だと思えばわかりやすい。
だから、マナーさえ守れば神殿に入るぐらい大したことでは無いだろう、と魔王は考えたのだ。そのため、彼はゆっくりではあるがシーカークランへとためらうことなく足を踏み入れたのだった……。