第一話 毎朝ひとつ増える傘
会社の正面玄関に置かれた傘立ては、晴れた日にはひどく所在なさそうに見えた。
銀色の細い枠の中に、何本かの忘れ物らしい傘が傾いている。持ち主の分からない紺色の長傘。骨が一本だけ曲がった折り畳み傘。そして、いつからそこにあるのか誰も知らない、色の褪せたチェック柄の傘。
雨の日には誰もが頼る場所なのに、晴れてしまえば、そこに目を向ける者はいない。
月曜日の朝も、空はよく晴れていた。
齋田さんは通用口から入ると、社員証を鞄の中から探し始めた。
小さな布製のトートバッグには、手帳、財布、化粧ポーチ、文庫本、昨日コンビニでもらったレシート、それから用途の分からない小さなクリップが入っている。社員証は、そうした物の間に隠れるのが得意だった。
「あれ……?」
鞄の中をのぞき込んだまま、齋田さんが立ち止まる。
後ろから来た営業部の若手社員、佐伯が足を止めた。
「齋田さん、また社員証ですか?」
「うん。さっきまであったんだけど」
「さっきまでって、家を出る前ですか?」
「そこまでは覚えてないかな」
「それは、さっきとは言わない気がします」
佐伯は慣れた手つきで、齋田さんのトートバッグの外側を指さした。
社員証は持ち手についた透明なケースに収まっていた。
「あ」
齋田さんはようやく顔を上げた。
「今日は、見つけるの早かったね」
「僕が見つけたんですけど」
「そうだった。ありがとう」
齋田さんは悪びれずに笑った。
佐伯は時々、この人は本当に総務部で働いていて大丈夫なのだろうかと思う。しかし、社員がどの部署へ異動したか、どの備品がいつ交換されたか、誰がどんな申請で困っていたかということになると、齋田さんは不思議なほどよく覚えていた。
人の誕生日は忘れるのに、その人が半年も前に「家の鍵をなくした」と話していたことは覚えている。
会議の開始時刻は間違えるのに、出席者の一人が途中からほとんど話さなくなったことには気づいている。
何を覚えて、何を忘れるのか。
佐伯には、その基準がいまだによく分からなかった。
社員証をかざし、齋田さんが玄関を通り抜ける。
そのとき、傘立ての隅に真新しい透明なビニール傘が一本あることに気づいた。
持ち手には傷ひとつなく、透明な生地はきれいに畳まれている。留め具もきちんと巻かれていた。
「傘だ」
齋田さんが言った。
佐伯は一度だけ傘立てを見た。
「傘立てですからね」
「うん。そうだね」
それで月曜日の朝の会話は終わった。
***
火曜日も晴れていた。
朝のニュースでは、今週いっぱい大きな天気の崩れはないと言っていた。湿度は低く、窓を開けると、少し冷たい風がオフィスに入ってきた。
玄関を通った齋田さんは、傘立てを見て足を止めた。
透明なビニール傘が二本になっていた。
齋田さんは二本を交互に眺めた。
ただし、その日は朝一番から会議があった。総務主任の岡田が、離れたところから腕時計を指でたたいている。
「齋田さん、九時からですよ」
「今、何時ですか?」
「八時五十九分です」
「まだ一分ありますね」
「移動時間がありません」
「あ、そっか」
齋田さんは傘のことを忘れ、岡田の後を追った。
岡田は四十代後半。机の上の書類は常に端がそろっており、ペン立ての中では黒、赤、青の順に筆記具が並んでいた。
「念のため確認しておく」が口癖で、何も起きていないうちから、何かが起きた場合の対応を考えている。
齋田さんとは正反対に見えた。
しかし岡田は、齋田さんが会議室を間違える可能性を見越して、必ず少し早めに声をかける。そのことを親切だと言われると、やっぱり「業務上必要だからだ」と答えた。
***
水曜日の朝、傘は三本になっていた。
木曜日には四本。
金曜日の朝には五本になった。
その週、雨は一滴も降っていなかった。
さすがに社員たちも、傘の増加に気づき始めた。
「絶対、毎日一本ずつ増えてますよ」
始業前の給湯室で、佐伯は声を潜めた。
もっとも、声を潜める必要はなかった。話題になっている傘は、誰の個人情報でもなければ、会社の機密でもない。
それでも佐伯は、こういう話をするときには自然と声が小さくなる。
経理部の長谷川が、コーヒーメーカーの表示を見つめたまま答えた。
「月曜日から一日一本なら、計算上はそうなります」
「計算しなくても分かりますよ」
「確認しただけです」
長谷川は三十代後半。無表情で、話すときに結論から求める。冗談を言われると、一度頭の中で内容を検証してから、笑うべきかどうかを決めるようなところがあった。
佐伯は紙コップを片手に、さらに声を低くした。
「誰かの嫌がらせじゃないですか?」
「傘を置くことによって、誰にどのような不利益が生じるんですか」
「傘立てがいっぱいになるとか」
長谷川は給湯室の出口から傘立ての方向を見た。
「現時点で空きは十分あります」
「じゃあ、何かの合図ですよ」
「誰に対する、何の合図ですか」
「そこは今から考えます」
佐伯は自信ありげに言った。
給湯室の隅でティーバッグを揺らしていた営業部の三浦が、呆れたように振り返った。
「考えてから言いなさいよ」
三浦は仕事が速く、電話口では相手に反論の余地を与えないほど簡潔に話す。後輩が困っていれば自然に手を貸すが、礼を言われると「そのくらい普通でしょ」と面倒そうに返す。
佐伯は三浦に向き直った。
「三浦さんは怖くないんですか?」
「傘が五本あるくらいで、何が怖いの」
「毎日、規則正しく増えてるんですよ。誰も置いているところを見てないのに」
「朝早く来ている人が置いてるだけでしょ」
「退職した人かもしれませんよ」
「どうして退職した人が、新品の傘を毎朝一本ずつ置きに来るのよ」
「会社に何か伝えたいことがあるとか」
「ダイイングメッセージかよ」
「いや、辞めただけで死んでないし」
佐伯の想像の中では、五本のビニール傘はすでに重大な告発を象徴する暗号になっていた。
その日の午前中、誰かが社内チャットに書き込んだ。
玄関のビニール傘に心当たりのある方はいませんか?
返信はなかった。
午後になると、「傘の本数は退職者の人数と関係がある」という新たな退職者関係説が生まれた。さらに一時間後には、「夜、警備員が巡回するたびに傘の位置が変わっているらしい」と、誰が確認したのか分からない話まで加わった。
小さな謎には、空白がある。
人はその空白を放置できず、自分の想像で埋めようとする。しかも、平凡な説明より少し不気味な説明のほうが、なぜか広まりやすい。
夕方、総務の岡田が傘立ての前に立った。
腕を組み、五本の透明な傘を見つめる。
「心当たりがある者はいないんだな」
佐伯と長谷川、三浦、それから何人かの社員が周囲に集まっていた。
「今のところ、誰も名乗り出ていません」
佐伯が答えた。
「来週までに持ち主が分からなければ、忘れ物として処分する」
岡田は言った。
「念のため、防犯上の確認もしておいたほうがいいかもしれないな」
「やっぱり防犯カメラ見ます?」
佐伯の声には、なぜか少し期待が混じっていた。
「大げさじゃない?」
三浦が眉を寄せる。
「しかし、誰が、何の目的で置いたのか分からないまま放置するわけにはいかない」
「目的って、傘ですよ」
「傘だから問題がないとは限らない」
そこへ、書類の束を抱えた齋田さんがやってきた。
みんなが傘立てを囲んでいるのを見て、少し離れたところで立ち止まる。
「何かあったんですか?」
「例の傘です」
佐伯が神妙な顔で言った。
「例の?」
「毎日増えてる傘ですよ」
「ああ」
齋田さんはようやく思い出したらしい。
「今日も増えたんですね」
「齋田さん、気づいてたんですか?」
「月曜日に一本あったから」
「だったら、もっと早く言ってくださいよ」
「傘立てに傘があるって言ったら、佐伯さんが『傘立てですからね』って」
佐伯は黙った。
確かに言ったような気がした。
岡田が状況を説明した。
「持ち主が分からない。来週までに判明しなければ、忘れ物として処分するつもりだ」
「処分しちゃうんですか?」
「所有者不明のまま、いつまでも置いておくわけにはいかない」
「そうなんだ」
齋田さんは書類を近くの台に置いた。
それから傘立ての前にしゃがみ込む。
スカートの裾を片手で押さえ、いちばん端の傘を抜き取った。
開きはしなかった。
持ち手を眺め、傘の先端を下からのぞき込む。次に二本目を取り出し、最初の一本と床の上に並べた。
「齋田さん、何か書いてありますか?」
「何も書いてないよ」
「指紋は?」
「見えないと思う」
真顔で答えてから、齋田さんは三本目を抜いた。
何かを推理しているようには見えない。むしろ、雑貨店でどちらの商品を買おうか迷っているようだった。
岡田がしびれを切らした。
「何か気になることがあるのか」
「んー……」
齋田さんは五本の傘を順番に見比べた。
「でもね」
その言葉が出ると、なぜか周囲の社員は黙った。
齋田さんが重要な指摘をするとき、本人はたいてい、それが重要だとは分かっていない。
「この傘、全部きれいすぎない?」
「新品ということですか」
長谷川が尋ねた。
「たぶん。雨に濡れた跡もないし、地面についた汚れもないから」
「誰かが新品を毎日一本ずつ置いている、ということですね」
岡田が腕を組み直した。
「どうして、そんなことをするんだ?」
「分かりませんけど、何かの準備じゃないですか」
佐伯が再び想像を広げ始めた。
「五本そろったところで、何かが起きるとか」
「もう五本そろってるでしょう」
三浦が言った。
「月曜日に六本目が来るかもしれません」
「何本で完成なのよ」
その間も、齋田さんは傘を見ていた。
「これ、同じ傘じゃないね」
「全部ビニール傘でしょう」
「うん。でも、ほら」
齋田さんは二本を並べ、持ち手を示した。
一本はきれいな半円を描いている。もう一本は持ち手の内側が少し平らになっている。
「留めるところも違うよ。こっちはボタンで、こっちは面ファスナー」
社員たちも、ようやく傘の違いを確かめ始めた。
骨の数。
透明な生地の厚さ。
持ち手の形。
先端部分の色。
並んでいると同じように見えた五本の傘は、よく見ればすべて違う商品だった。
「毎日、別の店で買ってきたのかもしれませんね」
佐伯が言った。
「購入元を特定されないために」
「どうして特定されたくないんですか」
長谷川が聞く。
「それは……まだ分かりません」
岡田は考え込んだ。
「意図的に種類を変えている可能性はあるな」
そのとき、齋田さんが顔を上げた。
「どうして、同じ人だと思うんですか?」
誰もすぐには答えなかった。
佐伯が困ったように言った。
「だって、毎朝一本ずつ増えたからですよ」
「うん」
齋田さんは素直にうなずいた。
「でも、それだけだよね」
「毎日増えているんだから、同じ人が計画的に置いたと考えるのが自然だろう」
岡田が言った。
「そうかもしれません」
齋田さんは否定しなかった。
否定する代わりに、もう一度五本の傘を眺めた。
「でも、全部違う傘なら、持ってきた人も五人かもしれないよ」
あまりにも単純な言葉だった。
しかし、その場にいた誰も、その可能性を考えていなかった。
一人の人物が、毎日一本ずつ傘を置く。
全員がいつの間にか同じ場面を想像し、その場面を疑うことを忘れていた。
長い沈黙のあと、三浦が小さく息を吐いた。
「あの……」
全員の視線が集まる。
三浦は自分の腕をさすりながら、傘立てのいちばん左にある一本を指さした。
「最初の傘は、たぶん私」
「三浦さんだったんですか?」
佐伯が声を上げた。
「全部、三浦さんが?」
「違う、一本目だけ。ほかは知らない」
「どうして黙って置いたんです?」
「家に新品が何本かあったのよ。会社に一本置いておけば、急に雨が降ったとき誰かが使えると思って」
三浦は早口で説明した。
「それだけ。別に深い意味はないから」
少し前の夕方。
外回りから戻った新入社員が、玄関で雨を見ながら困っていた。三浦が声をかけようとしたとき、その社員は鞄を頭に載せ、駅へ向かって走り出してしまった。
追いかけて傘を渡すほどではないと思った。けれど濡れていく背中が、しばらく頭に残った。
翌週、自宅の収納棚で未使用のビニール傘を見つけた。
だから会社へ持ってきた。
ただ、それだけだった。
「共有用なら、そう書いておけばよかったのでは?」
長谷川が尋ねた。
「わざわざ貼り紙をするほどのことじゃないでしょ」
「結果として、目的が伝わっていません」
「だって、まさか…こんな騒ぎになると思わないじゃない」
三浦が顔をしかめる。
長谷川はしばらく一番左の傘を見ていた。
やがて、隣の傘を指さした。
「二本目は、私です」
「長谷川さんも?」
佐伯の目がさらに大きくなる。
「月曜日の傘を見て、会社が共用傘を設置したと判断しました」
「誰にも確認せずに?」
「必要性は理解できました。一本だけでは、使用中に在庫がなくなります。そのため、自宅にあった未使用品を一本追加しました」
「傘を在庫って呼ぶ人、初めて見ました」
「物品なので、在庫です」
長谷川は真顔だった。
そのとき、近くで清掃をしていた小谷が、モップを動かす手を止めた。
「三本目は、私です」
「小谷さんまで?」
小谷は五十代の寡黙な社員で、ほかの社員が出勤する前から社内を整えている。誰が何時ごろ出社するか、どの部署のごみ箱に紙コップが多いか、どの会議室の時計が二分進んでいるかまで知っていた。
しかし、知っていることをわざわざ話す人ではなかった。
「二本並んでいましたから、そういうものを置くことになったのだと思いました。家にも一本ありましたので」
「じゃあ、最初から気づいてたんですか? 全部違う人かもしれないって」
佐伯が聞いた。
小谷はわずかに笑った。
「皆さんが楽しそうに話していましたから」
「止めてくださいよ」
「誰も困ってはいないようでしたので」
四本目の傘が、その場にいる全員の視線を受けた。
少し太い骨を持つ、丈夫そうなビニール傘だった。
齋田さんがそれを持ち上げる。
「これは、ほかの傘よりしっかりしてるね」
佐伯の表情が固まった。
「あ」
「佐伯さん?」
「それ、僕です」
三浦が目を細めた。
「あなた、さっき嫌がらせかもしれないって言ってたわよね」
「僕が置いたのは一本だけですよ。あとの四本は誰が置いたか知らなかったので」
「自分も傘を増やしておいて、ほかの人を疑ってたの?」
「だって僕の傘以外に、四本もあるんですよ」
長谷川が淡々と指摘した。
「全員が同じように考えた結果です」
佐伯は四本目の傘を見た。
「三本目が少し細かったから、一本くらい風に強そうなものがあったほうがいいと思ったんです」
「親切だったんだね」
齋田さんが言う。
「いや、そこまででは……」
「選んで持ってきたんでしょう?」
「まあ、せっかく置くなら、使えるもののほうがいいので」
最後に、五本目の傘が残った。
社員たちは顔を見合わせた。
しばらくして、岡田が小さく咳払いをした。
「五本目は私だ」
今度こそ、全員が驚いた。
「主任も置いたんですか?」
「四本もあるなら、来客用を含めて一定数確保しておいたほうがいいと判断した」
「それなら、最初から言ってくださいよ」
「社内の自主的な取り組みだと思ったんだ。私が口を出す必要はないと考えた」
「自主的な取り組みなのに、持ち主不明で処分しようとしてたんですか?」
佐伯の質問に、岡田は目をそらした。
「誰も名乗らないのは、管理上の問題だからだ」
「主任も名乗ってなかったじゃないですか」
「聞かれなかったからだ」
三浦が吹き出した。
それにつられ、佐伯も笑い始める。
長谷川だけは、何がおかしいのか確かめるように周囲を見ていた。やがて状況を理解したらしく、少し遅れて口元を緩めた。
五本の傘を前にして、社員たちの間にあった不気味さは、いつの間にか消えていた。
誰かが何かを企んでいたわけではない。
最初の一本を見た人が、その意味を想像した。
次の人は、並んだ二本から別の意味を受け取った。
誰も相談していない。
誰も全体を知らない。
それでも、傘は一本ずつ増えていった。
「結局、全員、理由が違ったんですね」
長谷川が言った。
「私は在庫の補充です」
「僕は丈夫な傘が必要だと思ったからです」
「私は来客対応だ」
「私は家に余っていたから」
三浦がそっけなく付け加えた。
小谷はモップの柄に手を添えたまま、何も言わなかった。
齋田さんは、五本の傘を眺めていた。
「みんな、同じことを考えたんだね」
「話を聞いていましたか?」
長谷川が尋ねる。
「理由は全部違います」
「うん。理由は違うけど」
齋田さんは、五本の傘を一本ずつ傘立てに戻した。
「誰かが困ったとき、傘があったほうがいいと思ったんでしょう?」
誰も答えなかった。
三浦は窓の外を見た。
長谷川はコーヒーの残った紙コップを持ち直した。
佐伯は、自分の選んだ丈夫な傘の持ち手を指先でなぞった。
岡田は腕を組んだまま、何か反論する言葉を探しているようだった。しかし結局、何も言わなかった。
齋田さんは五本の傘が並んだところを見て、満足そうにうなずいた。
「誰のものでもない親切って、あるんだね」
***
その日の夕方、傘立ての横に小さな札が置かれた。
急な雨のときは、ご自由にお使いください。
返却はいつでも構いません。
白い厚紙に、読みやすい字で書かれていた。
誰が書いたのかという話になったが、今度は誰も調べようとは言わなかった。
月曜日の朝。
出社した佐伯が、玄関で大きな声を上げた。
「増えてます!」
社員たちが集まってくる。
傘立てには、六本の傘があった。
新しく加わったのは、透明なビニール傘ではない。淡い水色の折り畳み傘だった。
持ち手には、小さな紙が紐で結ばれていた。
ビニール傘ではありませんが、よかったら仲間に入れてください。
「今度は誰ですか?」
佐伯が周囲を見回す。
「僕じゃありません」
「私でもない」
長谷川が答える。
岡田は傘を手に取り、状態を確認した。
「未使用品のようだな」
「防犯カメラ、確認します?」
佐伯がからかうように聞いた。
岡田は返事をしなかった。
代わりに、齋田さんが水色の折り畳み傘を手に取った。
「かわいいですね」
「誰が置いたのか、気にならないんですか?」
「少しは気になるけど」
齋田さんは傘に結ばれた紙をもう一度読んだ。
「んー……でもね」
そこにいた全員が、自然と次の言葉を待った。
「分からないままでも、困らない不思議はあるんじゃないかな」
齋田さんは水色の傘を傘立てに戻した。
その日は朝から、雲ひとつない青空が広がっていた。
天気予報にも、傘のマークはなかった。
しかし午後になると、遠くの空に灰色の雲が現れた。雲はいつの間にかビルの上まで広がり、夕方には大粒の雨が窓ガラスをたたき始めた。
退勤時刻になると、社員たちは玄関で足を止めた。
「さっそく出番ですね」
誰かが言った。
傘立てから、傘が一本ずつ持ち出されていった。
三浦が置いた最初の傘。
長谷川が補充した二本目。
小谷がそっと加えた三本目。
佐伯が選んだ丈夫な四本目。
岡田が来客対応のために置いた五本目。
どれが誰の傘だったかは、もう誰も気にしていなかった。
最後に残ったのは、淡い水色の折り畳み傘だった。
仕事を終えた齋田さんが玄関へやってきた。
立ち止まり、激しく降る雨を見つめる。
「齋田さん、傘は?」
佐伯が尋ねた。
「持ってないよ」
「今日は降るかもしれないって、午後に話してたじゃないですか」
「そうだった?」
「齋田さんも、その場にいましたよ」
「聞いてなかったのかもしれないね」
齋田さんは困ったように笑った。
佐伯は傘立てを指さした。
「それ、借りたらどうですか?」
「でも、誰のか分からないよ」
「分からないままでいいって、齋田さんが言ったんでしょう」
「そうだった」
齋田さんは水色の傘を手に取った。
玄関の軒下で傘を開く。
内側には、小さな星の模様が散っていた。外から見ると淡い水色なのに、傘の下から見上げれば、雨の夜に星空が広がっているようだった。
「わあ」
齋田さんはしばらく、傘の内側を見上げていた。
「どうしました?」
「星がある」
「早く帰らないと、雨が強くなりますよ」
「うん」
一歩踏み出しかけてから、齋田さんは振り返った。
空になった傘立てへ向かって、小さく頭を下げる。
「借りますね」
もちろん、返事はなかった。
それでも誰かに見送られているような気がして、齋田さんは少し笑った。
雨の中を、水色の傘がゆっくりと遠ざかっていく。
佐伯はその後ろ姿を見送りながら、傘を置いた人物について考えた。
けれど、今度は恐ろしい想像も、奇妙な推理も浮かんでこなかった。
代わりに、自宅の押し入れに折り畳み傘が一本あったことを思い出した。
まだ一度も使っていない、黄色い傘だった。
明日、持ってきてもいいかもしれない。
そう考えてから、佐伯は首を振った。
黙って持ってきたら、また騒ぎになる。
今度は小さな紙に、ひと言書いておこう。
黄色ですが、仲間に入れてください。
外ではまだ雨が降っていた。
空になった傘立てだけが、次の一本を待っているように、玄関の隅に静かに立っていた。




