30歳童貞医師、初恋を重篤な疾患だと勘違いする
大粒の雨が窓を濡らす、6月の初旬。
病棟が就寝時間に入り、
回診も終わってナースステーションにつかの間の平穏が訪れる時間。
手島明利(30歳・童貞)は、看護師たちが談笑する隅で、
大学ノートに何かを書きこんでいた。
「主訴:特定個体接近時における頻脈および思考機能低下」
手島は自分の額に手のひらを当て、何かを考えこんでいる。
右手で持っているボールペンはコツコツとリズムを刻んでおり、ノートにはインクだまりができていた。
ここ最近のいくつかの自覚症状、彼は自分自身に何か重篤な疾患があるのではと懸念していた。
手島は、患者の異常を見逃さない優秀な内科医として評価をされていた。
数値のわずかなズレ、患者の些細な違和感、そのすべてを拾い上げ、原因を突き止める。それが彼の仕事であり、矜持でもある。それゆえ、勤務先の病院では若手の有望株として将来を嘱望されていた。
だが――
「……おかしい」
優秀な彼でも、自分自身のこととなると冷静な判断ができなくなるのか、この自覚症状に病名を付けられないでいた。
「発症条件:同一個体に限定。再現性あり」
ここまではいい。
問題は――
「原因:不明」
医師として、それは看過できない。
安静時、異常なし。血圧正常、採血所見も特記事項なし。
器質的疾患は否定的。
――となると機能的、もしくは情動要因……。
思考を進めながら、無意識に視線を上げる。
その瞬間。
「先生、また考え込んでます?」
横から覗き込むように、看護師の佐倉蓮果が顔を出した。
心臓が、大きく脈を打つのを感じた。
――発症確認。
脈拍上昇。呼吸浅化。軽度の思考遅延。
手島は慣れた手つきで手首に指を当てる。
――頻脈傾向……やはり……。
肩にかかる程度の綺麗な栗色の髪をなびかせる彼女ーー
佐倉蓮果は時々手島にちょっかいをかけてくる6年目の看護師だ。
猫のような切れ長の瞳はいつもどこか楽しげで、いたずらっぽい、どこかつかめない雰囲気をまとっていた。
一方で仕事ぶりは堅実で、気配りができ、患者への対応も丁寧だ。
場の空気を読むのが上手く、医師と患者の間を自然に取り持つことができるため、周囲からの信頼も厚い。
無口でとっつきづらい手島は看護師からは敬遠されがちなのだが、彼女だけはそんな彼にも分け隔てなくふるまった。
「先生?」
反応のない手島に、蓮果は再度問いかける。
聞こえなかったのかと勘違いしたのか、少しだけ距離を詰める。
その距離、およそ50センチ。
――一般的対人距離としては近接域……だが許容範囲内のはずだ。
より正確に彼女の表情を観察するために、
手島は無意識にさらに距離を詰めた。
――瞳孔に変化は……。
「先生、逆に近いです」
その距離、およそ35センチ。
彼女の大きな黒い瞳に、自分の姿が映った。
蓮果は白い頬に影を落とすほど長い睫毛をぱちぱちとさせている。
「……測定に必要な距離だ」
ごほん、と咳払いをして、最もらしいことを言って見せる。
「何の測定ですか?」
「生体反応の確認だ」
「私の?」
「そうだ」
即答する。
こういう場合、迷いがあっては患者を不安にさせる、というのを彼は長い経験で知っていた。
蓮果は一瞬だけ目を丸くして、すぐに楽しそうに目を細めて笑った。
「じゃあ、もっと近づきましょうか」
彼女は手島の隣の椅子に座り、すっと彼のほうに寄せた。
距離がさらに縮まる。
――トリガーが自発的に接近……?
想定外の行動に手島は少しだけ動揺したが、好都合でもある。
手島はさらに視線を蓮果に固定する。一瞬の変化も逃がさないように。
「……」
「……」
数秒、無言が続いた。
「先生、ここはツッコミどころですよ」
しびれをきらした蓮果が口を開く。
「問題ない」
「あります」
そう言いながらも、蓮果は離れようとはせずむしろ、わずかに身を寄せた。
意図的だ。明らかに。
――接近に対する拒否反応なし……。
メモを取ろうとして再度ボールペンを取ろうとすると、
机の上に置かれていた蓮果の指先に自分の手が少しだけ、触れた。
「――っ」
――接触部位:手指。
――皮膚温……少し高い。
「今の、記録しないんですか?」
その様子を見た彼女はくすくすと笑って、からかうような声でそう言った。
だが、どこか嬉しそうでもあった。
◆
昼休み、病院の食堂は人の話し声や食器の音でいつも通り騒々しい。
手島は同期の鈴木に誘われ、一緒に日替わりランチをつついていた。
「お前……そんなこともわからないのか?」
蓮果といる時に発症する今までの症状を話すと、鈴木が頭を抱えた。
「わからない、教えてくれ」
手島はアジフライをかじりながら、淡々とそう言った。
彼は自分の症状を記録していたノートを開いてもう一度鈴木に伝える。
「接触時に頻脈傾向。対象不在時に軽度の空虚感。
情動要因による生理反応の可能性が高い。いったいこの症状は何なんだ?」
そのノートには下記のような内容がズラッと書き記されていた。
ーーー
20XX年3月16日 佐倉蓮果に対して視線の自発的追従反応が持続的に観察され、対象人物への注意集中が顕著であることを認める。
20XX年3月27日 対象と当直。会話前後に、動悸・軽度の呼吸浅表化・情緒不安定性を確認。
20XX年4月20日 歓迎会で対象が隣に着席。胸部圧迫感および心拍数上昇を認める。脈拍124/分。
ーーー
「声が大きいぞ、恥ずかしい」
「!? 恥ずかしいことなのか?」
手島が真面目な顔で言う。その眼には一寸の曇りはなかった。
「いいか、それは こーー」
鈴木は何かを言いかけて、やめた。
目線を少し斜め下にして、口元に手を当て何かを考えているようだ。
「……」
「何か気づいたことがあるなら遠慮せずに言ってくれ」
「いや、人の発達にはそれぞれのペースがある。無理に進行させるのはよくないと思いなおしてな……」
彼の言わんとすることが手島には分らなかった。
鈴木は数分考えこみ、そして手島の書いたノートを見ながら彼にこう尋ねた。
「対象人物への注意力集中とは?」
「ナースステーションにはあれだけ人がいるのに、一瞬で佐倉を見つけてしまう。そしてどこにいても自然と目で追う」
「……情緒不安定性は?」
「当直で呼び出しに来るのはいつも佐倉だったのに、その日は別の看護師が来た。嫌われたのかもしれないと感情がかき乱され、報告への返答がいつもより1秒遅れた」
「……胸部圧迫感」
「飲み会の席は移動が激しく、その日は7人の看護師や医師が自分の隣に来たのに、
佐倉の時だけ心拍数の上昇が認められる。おまけに彼女が自分の話で笑ってくれると胸が苦しくなる」
そこまで一気に質問をすると、鈴木はふうーと大きく長く息を吐いた。
「それほど症状があって分からないのはお前くらいなもんだぜ」
◆
その午後。
診療がひと段落し、カルテを記入していた手島のもとに再び蓮果がやってきた。
「手島先生、検証の続きしません?」
手島のデスクの隣にあった椅子を引き寄せて、少し体を寄せるように座る。
最初から距離が近い。
ーートリガーの行動が積極的すぎる……。
再び脈が速くなるのを感じた手島はふうと深呼吸をしてから蓮果に向き直る。
「……検証の続きとは?」
「再現性の確認です」
彼女はにっこりといたずらっぽい顔で笑った。
完全にからかっているような顔だ。
それでも手島は一歩踏み込む。観察のために。
「この距離は……どうですか?」
先ほどよりも少しだけ蓮果は近づいた。
だが手島はさらに顔を寄せる。
ふとした拍子に鼻先が触れてしまいそうな距離だ。
「……先生?」
お互いの吐息が聞こえる。
「……前回と同じだ、それ以上の情報はない」
「それじゃあ」
そのまま、机の上に乗っていた手の上に彼女の掌が重なった。
自分とは違う華奢な指先、柔らかな肌質。
「――っ!」
ーー把持……?いや、これは握手ではない。
ーー意図的接触……継続時間が長い。
「接触刺激です」
楽しそうに言う。
「私はドキドキしてます」
彼女は目線を落とし、そう言った。
バラ色に染まった頬がよく見える。
その一言が頭の中で響きわたり、心拍数が跳ね上がる。
だがそれ以上に、言葉が引っかかる。
「……どういう意味だ」
「そのままです」
彼女は目線をあげて、じっと手島を見つめてきた。
「先生、分かってないなら困ります」
「説明を求める」
「医者なのに?」
「医者だからだ」
「臨床経験がない以上、推測ではなく確認が必要だ」
佐倉は少しだけ困ったように笑う。
そして――
「じゃあヒントです」
手を握る力が、少し強くなる。
「私、こんなことするの先生だけです」
彼女の桃色の唇が動き、吐息が手島のほほをかすめた。
彼の心臓が大きく揺さぶられ、視界が緊張で揺れた。
そして瞬間、跳ねるように手島は蓮果から体を離すと
その拍子に机に上に置かれていたペンスタンドが倒れ、ガタガタと文房具が机の上から零れ落ちた。
年頃の女性との刺激的な接触は、手島は生まれて初めてだった。
思考がいっぱいいっぱいになった手島は思ったことをそのまま口に出した。
「意味が分からない」
その瞬間、楽しそうに輝いていた彼女の目から光が消え
とたんに顔を赤くして、手島から離れた。
「……すみませんでした、仕事に戻ります」
蓮果は頭を深々と下げて、振り返って病棟に戻っていく。
その声は少しだけ、震えていた。
◆
数日後。再び病院内の食堂。
「症例報告を行う」
「やめて」
手島は同期の鈴木を捕まえて自身の症状を記録したノートを片手に報告を行っていた。
鈴木は顔を隠すように頭を抱えて、悶絶する。
「頼む、聞いてくれ。実は数日前から対象に避けられている気がしてな。原因を解明したい」
「絶対その分析のせいだって」
彼の制止を無視して手島はつづけた。
「まず状況の確認だが、特定個体との接触により、心拍数上昇および認知機能低下を認める」
「せめて声小さくして」
「さらに対象側からの自発的接触行動を確認。同症状の発生も確認」
「そこ重要なやつだぞ」
「相互的関係性が示唆される」
そこで、ようやく言葉が止まる。
――相互的。
そこに、彼女が手島を避ける理由がある気がした。
「両想いだな」
固まる手島を見ながら
鈴木はぽつりとつぶやいたが、その声は手島には届いていなかった。
◆
その日の夜、重く冷たい雨が窓を打ち付けていた。
佐倉蓮果は自室の部屋のベッドに深く体をうずめていた。
眠って忘れてしまいたい。彼女の胸を苦しめるこの感情を捨ててしまいたい。
そう思えば思うほど、彼女の思考は手島明利に埋め尽くされてしまう。
最初にこの気持ちに気付いたのは、たぶん蓮果の方だった。
「佐倉、顔色が悪いな」
あれは、何気ない一言だった。
カルテを見ながら、ついでみたいに言われた言葉。
「…え、そうですか?」
「軽度の蒼白。反応も遅い」
顔も上げずに言う。
体調管理ができておらず仕事のパフォーマンスが落ちていることを指摘されたようで、蓮果は正直、少しムッとした。
だが実際ここ最近 緊急入院や入院患者の急変が続いており、行きつく暇もない日々が続いていた。
でも。
「……朝、食べてないだろ」
そこで初めて、顔を上げた。
裏表のない真剣なまなざしが蓮果に突き刺さる。
「なんで分かるんですか」
「血糖低下時の典型的な反応だ」
当たり前みたいに言う。
それだけだった。
優しさとか、気遣いとか、そういう空気は一切ない。
だが――ちゃんと見ているのだ、とそのとき思った。
それが、最初だった。
夜勤明けで、限界に近かった日も。
「無理するな」
その日は急患続きで、ずっと走り回った日だった。
ようやく落ち着いて引き継ぎのために奔走していたところ
同じく当直だった手島に短く言われた。
「してませんよ」
「している」
「歩幅が狭い。重心が前に落ちてる。疲労が出てる」
淡々と分析してくる。
正直、少し怖いと思った。
でも。
「今日はもう上がれ。夜勤明けの長時間勤務は非効率だ」
「いや、まだ業務が――」
「処置系は他の看護師に振る。記録は後でまとめてやればいい」
間髪入れずに言う。
「師長には俺から伝えておく」
それだけ言って、もう自分の業務に戻ってる。
こっちを見もしない。
ずるい、と思った。
ああいう優しさは、逃げ場がない。
気づいたときには、もう好きだった。
病院ではいつのまにか自然と目で追っていたし、
当直が重なるとその日がずっと待ち遠しかった。
休日はどこかでばったり会えないかな、なんて思いながら街をきょろきょろした。
早く休みが明けたらいいのに、そうしたら彼に会えるのに。
蓮果は少しでも自分のことを意識してほしかった。
だけどあの人はーー
距離を詰めても。
触れてみても。
分かりやすく好意を口にしても全く気付くそぶりがない。
ここまでやって気づかないのか、と呆れるのを通り越して思わず、笑ってしまった。
けれど――いつだってまっすぐに蓮果の冗談に付き合ってくれた。
それが嬉しくて、だから余計に、やめられなかった。
そしてーー一線を越えてしまった。
ーー意味が分からない。
そう言って困ったように眉を寄せた手島の顔が瞳の裏に焼き付いて離れない。
ちょっと意識してほしかっただけ、
真面目で、堅物で、でも優しいあの人に
自分のことを恋愛対象として見てほしかっただけ。
「好きな人をいじめるなんて、ガキ過ぎる」
蓮果は消え入るような声で、そうつぶやいた。
◆
翌日の帰り道。
手島と病院の職員用玄関で蓮果と出くわした。
「今日は早いんですね」
蓮果のトーンはいつもとかわらない。
ただいつもいたずらっぽく光る瞳が、スッと手島から目をそらした。
仕事の終わりの彼女はデニムのジャケットにチュール素材のピンクのスカートに着替えており、そして大きなイヤリングが耳元で揺れていた。
私服の彼女はいつもより少し大人っぽく手島の心臓はまた大きく跳ねる。
気まずい空気が流れつつも、避けているようにも思われたくないと思った二人は、一緒に駅まで歩く流れになった。
外は朝からしとしとと小雨が降っていて、道路には水たまりがあちらこちらにできていた。
傘を差し、二人は歩き始める。
「ああ、急患も少なかったし担当患者も落ち着いているからな。帰って論文でも進めるよ」
「真面目すぎです」
蓮果は少しだけ笑う。その姿を見て手島は嬉しくなる。
「この間食堂で、呼吸器内科の鈴木先生と私のこと話してませんでした?」
「……聞こえてたのか」
「私の名前だけ」
手島はどうごまかせばいいのか、そもそもごまかすべきなのかもわからず
正直に彼女に話すことにした。
「最近気になることがあって鈴木に意見を求めていたんだ」
「気になること?」
手島はうなずく。
「君といると、胸部の圧迫感および心拍数上昇が認められる。君の言動や行動に対し感情反応が過敏化しており一喜一憂してしまう」
「へえ、それで診断結果は?」
彼は首を横に振った。
「わからない、君といる時だけなんだ。
だが鈴木は何か心当たりがあるようだった。もしかしたら不治の病で友人の僕に告知を躊躇っているのかもしれない。申し訳ないが、君にも意見を求めたい」
手島がそう告げると、彼女の足がその場でピタッと止まった。
「実は、私も先生と同じ症状があります」
手島が振り返って彼女のほうを見る。
傘が彼女の顔に影を落とし、表情はあまり見えなかった。
「やはりそうか。胸部の圧迫感は」
「はい、先生が他の女性と話してるのを見ると胸が苦しいです」
「心拍数上昇もあるのか」
「先生と一緒にいるとドキドキします」
「……感情反応が過敏化」
「先生の言葉に一喜一憂してしまいます」
瞬間、風が吹いて彼女の栗色の髪の毛をさらった。
蓮果の顔を隠していた傘があおられて、
その隙間からのぞいた彼女の瞳がまっすぐに手島を見つめている。
雲の隙間から少しだけのぞいた太陽の光が、雨粒に反射してキラキラと光る。
ーー綺麗だ。
手島は直感的にそう思った。
「先生」
「……なんだ」
「からかってごめんなさい」
そして蓮果は手島のほうをまっすぐ見る。
「私、先生のことが好きです」
いつものような軽やかに鈴が鳴るような声ではなく、
静かで、でもはっきりした声でそう告げた。
「だから、わざと近づいてました」
彼女の瞳から一筋涙がこぼれる。
「触ったのも、全部わざとです」
涙は頬をつたって、ぽとりと地面に落ちた。
「先生の反応、見たかったのもありますけど」
少しだけ笑う。
「先生にもっと触れたくて」
蓮果が潤んだ瞳で手島をじっと見つめた。
声ははっきりと聞こえたが唇は震えていた。
いつも余裕があって飄々と仕事をこなす彼女の精いっぱいの表情を見たとき、
手島は気が付いたら、自分の傘を放り出して彼女の手を握りしめていた。
「……確認する」
「はい?」
彼女の瞳が大きく見開かれる。
「その感情は、継続性があるか」
まるで実験結果を問いただすような固い話し方に、蓮果は思わず吹き出した。
そして彼が濡れないように、自分の傘を差しだす。
「ありますよ」
「再現性は」
「いくらでも」
迷いのない即答。
手島は一度だけ視線を落とし――そして、また彼女に戻す。
「本症例が双方向性の情動反応ということなのであれば」
手島はごほんと、一つ咳払いをして
恥ずかしそうに目線を外した。
「長期的な経過観察を提案する」
「それって」
蓮果の声が少しだけ弾む。
「交際を前提とした関係性の維持だ。
なお、観察項目には手指接触の頻度増加も含まれる」
手島はようやく自分自身の症状に診断をつけることができた。
「俺も、お前がこの症状の原因だ」
それが≪恋≫だと。
「……それ、告白ですか?」
「その解釈で問題ない」
数秒後。
蓮果は彼の手を握り返した。
「……じゃあ、よろしくお願いします」
手島は迷わず、その手を取った。
「……ああ」
再び心拍数が上がる。
だがもう、それは異常ではない。
なお、本症例は完治の見込みはない。
だが――
予後は、極めて良好である。
≪ 完 ≫




