第6話 擬態と訪問者
「……臭いな」
バイトから帰った僕は、部屋に入った瞬間に鼻をつまんだ。
クーラーボックスからの異臭ではない。
部屋中が、むせ返るような薔薇の香りで充満していたのだ。
「シミー、お前また……」
部屋の隅を見ると、床に転がっていた芳香剤の容器が空になっていた。
シミーだ。
最近のシミーは、肉だけでなく、強い匂いのするものを好んで摂取するようになっていた。
石鹸、柔軟剤、そして芳香剤。
まるで、自分の体から発する獣臭と死臭を隠そうとしているかのようだ。
「あんまり変なもの食うなよ。腹壊すぞ」
僕はスーツを脱ぎながら、壁の定位置にいるはずのシミーを探した。
いない。
床にもいない。
「シミー?」
視線を巡らせると、ちゃぶ台の上に「それ」は鎮座していた。
「……うわっ」
僕は思わず後ずさりした。
シミーが、形を変えていた。
今までのスライム状でも、犬のような形でもない。
黒い粘液が盛り上がり、なんとなく「人の上半身」のようなシルエットを作っていたのだ。
そして、その頭部にあたる部分には——先日盗んできた真由美さんのピンク色のシュシュが巻かれていた。
『パパ……オカエリ』
シミーの表面に浮かんだ裂け目(口)が動き、空気が抜けるような奇妙な音を発した。
それは、言葉だった。
今まで脳内に直接響く念話だけだったシミーが、初めて物理的な声帯を模倣して喋ったのだ。
「お前……喋れるのか?」
『マネ……シタ。パパ、スキ?』
シミーが、ぐにゃりと首(らしき部分)を傾げる。
その仕草。その角度。
見覚えがあった。コンビニで真由美さんが「また相談してもいいですか?」と言った時の、あの上目遣いの角度そのものだった。
「……真由美さんの、真似か?」
背筋が凍ると同時に、胸の奥が熱くなった。
不気味だ。黒いタールの塊が、憧れの女性を真似ているなんて、冒涜だ。
でも——可愛いと思ってしまった。
僕を喜ばせるために、一生懸命「僕の好きなもの」になろうとしている。その健気さが、歪んだ愛おしさを掻き立てる。
「……ああ、好きだよ。上手だね、シミー」
僕は近づいて、シュシュのあたりを撫でてやった。
シミーは嬉しそうにブクブクと泡立ち、薔薇の香りを撒き散らした。
『ママ……ナル。ボク、ママニ、ナル』
「え?」
『ママヲ、タベテ、ボクガ、ママニ、ナル』
シミーの白い目が、三日月型に歪んだ。
無邪気な捕食宣言。
シミーにとって「なる」ということは、対象を取り込み、融合することと同義なのだ。
「ダメだ!」
僕は強く否定した。
「食べるのはダメだ。真由美さんは見て楽しむものなんだ。……それに、お前が真由美さんになったら、僕とお前は親子じゃなくなっちゃうだろ?」
『ナンデ?』
シミーは理解できない様子で首を傾げた。
『パパ、ママ、スキ。ボク、ママ、スキ。……イッショ』
論理が通じない。
怪物の純粋な愛情は、倫理の壁を軽々と溶かしていく。
その時だった。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間に誰だ? 集金か? 警察か?
僕は警戒してドアスコープを覗こうとした。
「あの、須藤さん。いらっしゃいますか?」
鈴のような声。
心臓が止まるかと思った。
真由美さんだ。
「ッ!」
僕は慌てて振り返り、シミーを見た。
シミーも反応していた。
シュシュをつけた頭部を、玄関の方へグインと向けている。
『ニオイ……! ホンモノ……!』
シミーの体が震え出し、黒い触手が床を叩く。
まずい。興奮している。
本物がすぐそこにいると気づいてしまった。
「ち、ちょっと待ってください!」
僕は裏返った声で叫び、シミーの前に立ちふさがった。
「シミー、動くなよ。絶対に音を立てるな」
『タベタイ。アイタイ』
「ダメだ! 大人しくしてろ!」
僕はシミーを押し入れに押し込みたかったが、触ろうとすると興奮して噛みつかれそうになった。
仕方なく、ちゃぶ台の上に毛布を被せ、シミーを隠した。
黒い隆起が毛布の下でモゾモゾと動いている。
僕は深呼吸をして、玄関へ向かった。
ドアチェーンをかけたまま、少しだけドアを開ける。
「は、はい……」
隙間から、真由美さんの顔が見えた。
お風呂上がりなのだろうか、髪が少し濡れていて、石鹸の香りが漂ってくる。
ラフなTシャツ姿。無防備なその姿に、僕は眩暈を覚えた。
「夜分にごめんなさい。……これ、実家から野菜がたくさん送られてきて。作りすぎちゃったので」
彼女の手には、タッパーが握られていた。
肉じゃがだ。
「須藤さん、コンビニ弁当ばかりだって言ってたから……迷惑でしたか?」
「と、とんでもない! 嬉しいです! 大好物です!」
僕はチェーン越しの会話も忘れて、激しく首を振った。
彼女の手料理。
これは夢か? 僕は今、人生の絶頂にいるんじゃないか?
「よかった。……あの、開けてもらえます?」
真由美さんがタッパーを渡そうと、ドアに手をかけた。
その瞬間。
ドンッ!!
部屋の奥で、大きな音がした。
ちゃぶ台が跳ね飛ばされた音だ。
「きゃっ!」
真由美さんが驚いて身を引く。
「な、何ですか? 今の音……」
「あ、いや、これは……猫! 猫を飼い始めたんです!」
僕は必死で嘘をついた。
「野良猫を拾って……まだ暴れてて……」
ズリ……ズリズリ……。
畳を這う音が近づいてくる。
湿った、重い音。
背後から、強烈な獣臭と薔薇の香りが迫ってくる。
『パパ……ソレ、ダレ?』
くぐもった声。
いや、声帯模写じゃない。ドアの隙間から漏れる真由美さんの匂いに、シミーが引き寄せられているのだ。
「す、すみません! 今、散らかってて開けられないんです! ここからで!」
僕はチェーンの隙間から無理やり手を伸ばし、タッパーを受け取った。
真由美さんの指先が一瞬、僕の手に触れる。
温かい。柔らかい。
『ズルイ』
耳元で、囁きが聞こえた。
振り返ると、すぐそこまで来ていた。
廊下の明かりが届かない暗闇の中に、毛布を被ったままの黒い塊が、ぬらりと立ち上がっていた。
シュシュをつけた頭部が、僕の肩越しに、ドアの隙間を覗き込んでいる。
『ソレ、ボクノ、ママ?』
シミーの白い目が、ドアの隙間の向こうにいる真由美さんを捉えた。
殺気とも、食欲ともつかない、粘着質な視線。
「ひっ……」
真由美さんが、何かの気配を感じたのか、青ざめた顔で後ずさった。
「須藤さん……後ろ、何か……」
「何でもないです! ありがとうございました! おやすみなさい!」
僕は叫ぶように言って、強引にドアを閉めた。
ガチャリ、と鍵をかける。
その直後。
ドォン!!
シミーが内側からドアに体当たりした。
『アケテ! アケテ!』
『ソコニイル! イイニオイ! タベタイ!』
シミーは毛布を脱ぎ捨て、黒い触手をドアノブに巻き付けた。
鍵を開けようとしている。知能がついている。
「やめろ! やめろシミー!」
僕はタッパーを床に置き、シミーに抱きついた。
黒い粘液が服を汚す。シミーは暴れる。
力強い。もう、僕の力では抑えきれないかもしれない。
「あれはダメだ! お前には、これをやるから!」
僕は床に置いたタッパー——真由美さんの手料理を開けた。
肉じゃがの甘い匂いが広がる。
シミーの動きがピタリと止まった。
触手がドアノブから離れ、タッパーへと伸びる。
『ママノ、ニオイ……』
シミーはタッパーに顔を突っ込み、肉じゃがを貪り食った。
ジャガイモも、人参も、プラスチックの容器ごと、バリバリと噛み砕いていく。
「……はは……」
僕はドアにもたれかかり、力なく笑った。
僕が食べるはずだった手料理。
女神からの施し。
それが、目の前で怪物に食い荒らされていく。
でも、これでいい。
これで真由美さんは守られた。
シミーの食欲は、間接的に満たされた。
『オイシイ……』
『モット、チョウダイ……』
完食したシミーが、黒い舌なめずりをして僕を見た。
その目は、もう満足していなかった。
料理だけじゃ足りない。
作った「本体」をよこせと、雄弁に語っていた。
僕は震える手でシミーの頭を撫でた。
シュシュは、黒い粘液に汚れてドロドロになっていた。
「我慢しろよ……。僕が、ずっとそばにいるから」
自分でも分かっていた。
もう限界だ。
この怪物は、この狭い部屋には収まりきらない。
そして僕の歪んだ愛情も、もう制御不能なところまで来てしまっている。
隣の部屋(荒川の部屋)の壁を、シミーがじっと見つめ始めた。
そこにはもう誰もいないはずなのに。
シミーは、壁を通り抜ける術を知っている。
そして、201号室は、すぐ斜め向かいだ。
僕たちの破滅は、すぐそこまで迫っていた。




