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壁のシミを育ててみたら 203号室の怪物  作者: 猫森満月


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第5話 真夜中のプレゼント

 深夜の公園。街灯もまばらな茂みの中で、僕はスコップを片手に立ち尽くしていた。

 足元には、業務スーパーで買った大量の鶏ムネ肉と、豚のハツ(心臓)が転がっている。

 総重量二キロ。僕の三日分の食費が消えた。


 しかし、シミーは不満そうだった。

 黒い子犬のような姿で茂みに潜み、肉の山を見下ろしているが、食べる気配がない。


『パパ……コレ、チガウ』

『ニオイ、シナイ』


「贅沢言うなよ。今はこれで我慢してくれ」

 僕は周囲を警戒しながら小声で叱った。

「あんな大きな獲物(人間)、そう簡単に見つかるわけないだろ」


 シミーは、一度覚えた「極上の味」を忘れていなかった。

 スーパーの肉には、恐怖のスパイスも、生きた血液の温度もない。死んだ肉では、この怪物の空腹を満たすことはできないのだ。


『ツマンナイ』


 シミーはそう呟くと、仕方なさそうに豚の心臓を一つだけ丸呑みにした。

 残りの肉には見向きもしない。

 そして、鼻(らしき穴)をヒクつかせ、アパートの方角——いや、もっとピンポイントな「誰か」がいる方角をじっと見つめている。


『ママ……タベタイ』


「ッ! バカ、滅多なこと言うな!」

 僕は慌ててシミーの口(裂け目)を手で塞いだ。

「あの方(真由美さん)は食べ物じゃない! 鑑賞するものなんだ!」


 僕の歪んだ倫理観など、シミーには理解できない。

 シミーにとって、僕が執着する対象はすべて「欲求の対象」でしかないのだ。


「帰るぞ。誰かに見られたら終わりだ」

 僕は残った肉を回収し、シミーを抱きかかえてアパートへ走った。

 シミーの体は、ひんやりとしていて、生き物特有の温かみがない。

 まるで、動く死体を抱いているような気分だった。


 翌日。

 僕は寝不足の目をこすりながら、コンビニのバイトに向かった。

「いらっしゃいませー」

 機械的に声を出す。頭の中は、今夜のシミーの餌のことで一杯だ。野良猫でも捕まえるか? いや、動物虐待で通報されるリスクがある。じゃあ、ホームレス? ……まさか。


「あの、すみません」


 鈴のような声に、僕は現実に引き戻された。

 レジの前に立っていたのは、吉永真由美さんだった。


「あ……!」

「ふふ、ここでお仕事されてたんですね。奇遇です」


 彼女はバスケットに、サラダとヨーグルト、そしてヘアゴムを入れていた。

 私服姿だ。大学の帰りだろうか。淡いブルーのワンピースが、店内の蛍光灯の下で輝いて見える。


「は、はい! いつもご利用ありがとうございますっ!」

 僕は噛み噛みになりながらレジを打った。

 心臓が破裂しそうだ。彼女が僕の職場を知ってくれた。認識してくれた。


「あの、昨日はありがとうございました。須藤さんがいてくれて心強かったです」

 彼女はお釣りを受け取りながら、少し恥ずかしそうに言った。

「私、一人暮らしで頼れる人がいなくて……。また何かあったら、相談してもいいですか?」


「も、もちろんです! い、いつでもどうぞ!」

「よかった。……じゃあ、また」


 彼女は小さく手を振って店を出て行った。

 その後ろ姿を見送りながら、僕はレジカウンターの中で拳を握りしめた。


(守らなきゃ)

(僕が、彼女の平穏を守るんだ)


 彼女の笑顔のためなら、僕はどんな汚いことだってできる。

 荒川を消したことは間違いじゃなかった。

 シミーは僕の守護神だ。僕たちの秘密の子供だ。


 バイトが終わり、高揚した気分のままアパートに帰った。

「ただいま、シミー! 今日、真由美さんと話せたよ!」


 僕は勢いよくドアを開けた。

 だが、返事はなかった。


「……シミー?」


 部屋のどこにも、あの黒い塊がいない。

 壁にも、床にも、押し入れの中にも。

 クーラーボックス(荒川入り)の鍵はかかったままだ。


「嘘だろ……脱走したのか!?」


 血の気が引いた。

 窓は閉まっている。玄関も施錠していた。

 だが、シミーは「液体」になれる。郵便受けの隙間や、換気扇の隙間から外に出ることができるのだ。


「どこへ行った!?」


 僕は慌てて廊下に飛び出した。

 夜のアパートは静まり返っている。

 まさか、他の住人を襲っているのか? 悲鳴は聞こえない。


 僕は床を這いつくばるようにして痕跡を探した。

 すると、廊下の隅に、点々と黒い粘液の跡が残っているのを見つけた。

 その跡は、僕の部屋から伸びて——


 斜め向かいの、201号室の前で止まっていた。


「……ッ!」


 心臓が止まるかと思った。

 真由美さんの部屋だ。

 僕は音を立てないように、忍び足で近づいた。


 201号室のドアの下。

 わずかな隙間に、黒い影がへばりついていた。

 シミーだ。

 シミーは体をペラペラの紙のように薄く引き伸ばし、ドアの隙間から部屋の中を「覗こう」としていた。

 いや、侵入しようとしているのか?


『イイニオイ……』

『ココニ、イル……』


「バカ野郎!」


 僕は小声で叫び、シミーの尻尾(?)を掴んで引き剥がした。

 ブチチッ、という粘着質な音がする。


「何してるんだ! 戻れ!」

 僕は暴れるシミーを強引に抱え込み、自分の部屋へと連れ戻した。


「ハァ、ハァ……」

 鍵をかけ、シミーを畳の上に放り投げる。

「お前、何てことするんだ! あそこに入っちゃダメだと言っただろ!」


 シミーは不満そうにグルルと唸り、不定形の体をもぞもぞと動かした。

『パパ、ズルい』

『パパダケ、イイ思イ、シテル』


「違う! あれは……!」


『ボク、トッテキタ。パパ、コレ、スキ?』


 シミーが、体の中心をパカっと開いた。

 黒い粘液の中から、唾液まみれの「何か」が転がり出た。


 それは、ピンク色のシュシュだった。

 見覚えがある。真由美さんが、いつも髪を束ねているゴムだ。

 そしてもう一つ。使い古された歯ブラシ。


「お前……これ……」


『ソノ隙間カラ、ヒロッタ。洗面所ニ、オチテタ』


 シミーは得意げに、二つの「戦利品」を僕の前に押しやった。

 ドアの隙間から触手を伸ばし、脱衣所かどこかに落ちていたものを盗み出してきたのだ。


「……泥棒じゃないか」


 僕は叱るべきだった。

 こんなことをさせてはいけない。これは犯罪だ。真由美さんに対する冒涜ぼうとくだ。

 シミーを叩いて、これらを捨てて、二度とするなと言い聞かせるべきだ。


 しかし。

 僕の手は、震えながらシュシュへと伸びていた。


 手に取ると、微かに石鹸の香りがした。

 彼女の髪の匂い。

 あの清楚な笑顔の裏側にある、生活の匂い。


「……あぁ……」


 僕は、それを顔に近づけ、深く吸い込んでしまった。

 背徳感と、強烈な興奮が脳を焼き尽くす。

 僕の手の中にある、女神の一部。

 シミーがいなければ、一生触れることさえできなかった聖遺物。


「パパ、ウレシイ?」


 シミーが、つぶらな白い瞳で僕を見上げている。

 その目は、褒められるのを待っている子供の目だった。


 僕は、歯ブラシを握りしめ、シュシュをポケットにしまった。

 捨てることなんて、できなかった。


「……シミー」

 僕はかすれた声で言った。

「……ありがとう。でも、次からは……見つからないようにやれよ」


『ウン! ワカッタ!』


 シミーは嬉しそうに飛び跳ね、僕の足元に擦り寄った。

 僕はシミーの頭を撫でた。

 その手は、真由美さんの私物に触れた手だ。


 一線を越えた。

 荒川を殺した時とは違う、もっとドロドロとした一線を。

 僕はシミーの行動を肯定してしまった。

 僕の欲望のために、この怪物を「ストーカー」として利用することを認めてしまったのだ。


「僕たちは家族だもんな。……助け合わないとな」


 僕はクーラーボックスの上に腰掛け、薄暗い部屋で、真由美さんの歯ブラシを見つめ続けた。

 壁の向こうでは、何も知らない彼女が眠っている。

 その寝顔を守るためなら、僕はどんな怪物にだってなってやる。


 ——でも、僕は気づいていなかった。

 シミーが僕にプレゼントをくれたのは、僕を喜ばせるためだけではないことに。

「パパが喜ぶ=この匂いの主は『良いもの』」

 そう学習したシミーの中で、真由美さんへの食欲が、「愛着」という名の執着へと変質し始めていることに。


 203号室の闇は、隣の部屋を飲み込むほどに膨れ上がっていた。

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