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壁のシミを育ててみたら 203号室の怪物  作者: 猫森満月


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第4話 残されたもの

 翌朝、僕は異常な静けさの中で目を覚ました。


「……静かだ」


 いつもなら、この時間は隣の荒川のいびきか、テレビのニュースの音が壁越しに聞こえてくるはずだ。

 だが、今日はまるで世界から音が消えたように静まり返っている。

 小鳥のさえずりさえ、このアパートを避けているようだ。


 僕は布団から起き上がり、壁を見た。

 シミーは、昨夜の位置に張り付いたまま動いていなかった。

 タールのような黒い体は、パンパンに膨れ上がり、呼吸をするようにゆっくりと波打っている。

 消化しているのだ。あの大柄な男を、時間をかけて、溶かしているのだ。


「……おはよう、シミー」


 声をかけると、シミーの表面に白い目が浮かび上がった。

 いつもより動きが鈍い。満腹で眠いのだろうか。


『パパ……オナカ、オモイ』


 そんな念が伝わってきた直後だった。

 シミーの体の中央が、縦に大きく裂けた。

 まるで嘔吐おうとするように、中から何かがボトボトと畳の上に吐き出された。


「うわっ……!」


 僕は飛び退いた。

 黒い粘液にまみれて転がったのは、消化しきれなかった「異物」たちだった。


 安っぽい銀色のベルトのバックル。

 潰れたタバコの箱。

 小銭が数枚。

 そして——金歯が一本。


「……ッ」


 僕は口元を押さえた。

 現実だ。やっぱり、夢じゃなかった。

 隣人の荒川は、この黒い塊の中に飲み込まれ、ドロドロに溶かされて、栄養分として吸収されたのだ。

 そして、この無機物たちだけが、「彼が生きていた証拠」として排泄された。


「……どうしよう」


 通報? 無理だ。

 警察が来たら、部屋にこんな怪物がいることがバレる。シミーは駆除されるし、僕は……どうなる? 殺人幇助ほうじょ? いや、誰も信じないだろう。精神病院送りかもしれない。


(捨てるしかない)


 僕は台所から厚手のゴミ袋と、割り箸を持ってきた。

 吐き出された遺品を、割り箸で摘まんで袋に入れる。

 手が震える。金歯がカチャリと音を立てて袋の底に落ちた時、僕は自分が決定的な一線を越えたことを自覚した。


「ごめんね、シミー。汚いもの食べさせて」


 僕はシミーの体を濡れ雑巾で拭いてやった。

 黒い粘液が雑巾につく。それは、鉄錆てつさびのような血の臭いがした。


「パパが片付けておくから。……お前は、ゆっくり休んでていいよ」


 僕はゴミ袋を二重にし、さらにガムテープで厳重に密封した。

 これをアパートのゴミ捨て場に出すのは危険だ。

 夜になったら、少し離れた公園のゴミ箱か、コンビニのゴミ箱に分散して捨てよう。

 いや、いっそ埋めるべきか?


「……クーラーボックスだ」


 僕は思いついた。

 これから先、またシミーが何かを「食べる」かもしれない。

 その時のために、臭いを漏らさず、外に持ち出せる頑丈な容器が必要だ。


 僕は着替えて、ホームセンターへ向かうことにした。

 ドアを開け、廊下に出る。


 隣の204号室——荒川の部屋のドアは、閉まっていた。

 鍵がかかっているのかどうかは分からない。確かめる勇気もなかった。

 郵便受けには、今朝の新聞が刺さったままになっている。


「あ、須藤すどうさん」


 廊下の向こうから、明るい声がした。

 心臓が跳ね上がる。

 吉永真由美さんだ。大学へ行くところなのだろうか、清楚なブラウス姿が眩しい。


「あ……お、おはようございます」

 僕は挙動不審になりながら頭を下げた。

 彼女は、僕の顔を見て、そして隣の荒川の部屋をちらりと見た。


「今日は静かですね」

 彼女が小声で言った。

「昨日の夜、すごい音がしてましたけど……荒川さん、どこか行ったんでしょうか」


「え、ええ。……多分」

 僕は必死でポーカーフェイスを作った。

「なんか、夜逃げみたいに、静かになりましたよね」


「そうですか……よかった」

 真由美さんが、心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。

「私、怖くて……。でも、もう大丈夫なんですね」


 彼女が、僕に向かって微笑んだ。

 昨日の引きつった顔じゃない。花の咲くような、安堵の笑顔。


「ありがとうございます、須藤さん。なんだか、須藤さんがいてくれると安心します」


 ズキュン、と胸を撃ち抜かれた。

 彼女は僕にお礼を言った。

 何もしていない(ように見える)僕に。

 でも、事実は違う。僕がやったんだ。僕のシミーが、彼女のためにあの男を消したんだ。


(そうだ……これでいいんだ)


 罪悪感が、急速に「使命感」へと塗り替わっていく。

 この笑顔を守るためなら、死体の処理くらいなんだというのだ。

 僕は間違っていない。シミーは正しいことをしたんだ。


「い、行ってらっしゃいませ!」

「はい、行ってきます」


 彼女の背中を見送りながら、僕は暗い高揚感に包まれていた。

 僕たちは秘密の共犯関係にある(彼女は知らないけれど)。

 それが、僕と彼女の距離を縮めたような気がした。


 ホームセンターで大型のクーラーボックスと、消臭剤、園芸用のスコップを買って帰宅した。

 部屋に入ると、異変が起きていた。


「……シミー?」


 壁にいたはずのシミーが、いない。

 どこだ?

 押し入れ? 天井?


「ここだよ、パパ」


 頭の中に声が響いたのと同時だった。

 僕の足元に、黒い影がまとわりついた。


「うわっ!」


 シミーだ。

 壁から完全に剥がれ落ち、床の上をい回っていたのだ。

 しかも、その形が変わっている。

 不定形のスライム状だった体が、少し盛り上がり、四足歩行の犬のようなシルエットを模倣しようとしていた。


「お前……床を歩けるようになったのか?」


『ウン。アルケル。コッチノホウガ、ハヤイ』


 シミーが僕の足に頭(らしき部分)を擦り付ける。

 濡れた子犬のような仕草。

 可愛い。……でも、その体からは強烈な獣臭と、消化された人間の臭いが漂っている。


『パパ、イイニオイ』


 シミーが、僕のズボンの裾を甘噛みした。

「痛っ!」

 鋭い痛み。見ると、生地が溶け、皮膚が少し赤くなっていた。

 消化液だ。


『オナカ、スイタ』

『モット、オオキイノ、タベタイ』


 シミーの目が、赤く濁った光を帯びて僕を見上げている。

 荒川一人では足りないのか?

 いや、一度「人間」の味を覚えてしまったのだ。もう、ササミや虫けらでは満足できないのかもしれない。


「……待ってろ。今夜、何か探してくるから」


 僕はシミーをなだめ、買ってきたクーラーボックスの中に、とりあえず遺品の袋を隠した。

 シミーは不満そうにグルルと喉を鳴らしたが、僕が頭を撫でると大人しくなった。


 その時、僕は気づいていなかった。

 シミーが僕の足に擦り寄っていたのは、単なる甘えではないことに。

 僕の服に残っていた、廊下ですれ違った真由美さんの残り香。

「若いメス」の匂いを、シミーが執拗に嗅ぎ取っていたことに。


 部屋の隅で、シミーがボソリと呟いた気がした。


『ママ……?』


 僕はそれを聞き流し、クーラーボックスの蓋に厳重に鍵をかけた。

 共犯者の朝は、まだ始まったばかりだった。

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