第3話 騒音と捕食
スーパーの特売で買った鶏のササミを、僕は指で摘まんでいた。
「ほら、シミー。ごはんだぞ」
壁のシミーは、今や大人の掌よりも大きくなっていた。
僕が肉を近づけると、黒い表面がさざ波のように泡立ち、中央が縦に裂けて「口」を作る。
そこへササミを放り込む。
ジュルッ。
咀嚼音はない。消化液で溶かしているのか、肉は瞬く間に黒い粘液の中へと沈んでいった。
以前のような「染み込む」感じではない。明らかに「食べて」いる。
シミーは今や、壁の模様ではなく、壁に張り付いた軟体動物のようだった。厚みが増し、呼吸に合わせて数センチ隆起しているのが見て取れる。
「すごいな……また大きくなったか?」
僕は空になったトレイをゴミ袋に入れながら、満足感に浸った。
シミーは僕が育てている。僕の稼ぎで、僕の選んだ餌で、この命は維持されている。
それは、社会の歯車ですらない僕にとって、唯一の「支配」と「庇護」の実感だった。
その時だった。
廊下から、女性の悲鳴が聞こえた。
「きゃっ! ……やめてください!」
真由美さんの声だ。
僕は弾かれたように玄関へ走り、ドアスコープ(覗き穴)に目を押し当てた。
魚眼レンズの歪んだ視界の先。
斜め向かいの201号室の前で、真由美さんがうずくまっていた。
その前に立ちはだかっているのは、隣人の荒川だ。
酒に酔っているのか、赤ら顔で千鳥足になりながら、真由美さんの行く手を塞いでいる。
「いいじゃねえかよ、姉ちゃん。俺の部屋で飲み直そうぜぇ?」
「警察呼びますよ! どいてください!」
「ツレないこと言うなよォ。いつも見てんだぜ、お前のこと……」
荒川の手が、真由美さんの肩に伸びる。
真由美さんが必死に振り払う。
「……ッ!」
僕はドアノブを握りしめた。
助けなきゃ。今すぐドアを開けて、「何をしてるんですか!」と叫んで、彼女を助けなきゃ。
僕の中のヒーロー願望が叫び声を上げる。
だが、体は動かなかった。
足がすくみ、指先が震える。
(もしドアを開けたら、荒川はこっちに来る)
(殴られるかもしれない。部屋に火をつけられるかもしれない)
(怖い、怖い、怖い……)
僕は情けないことに、ドアノブから手を離し、後ずさりした。
「……くそっ」
自分の弱さが憎い。真由美さんが泣きそうな顔をしているのに、僕は安全な部屋の中で震えているだけだ。
「誰か……!」
真由美さんの助けを求める声が聞こえる。
でも、他の住人は誰も出てこない。関わりたくないのだ。僕と同じように。
僕は部屋の奥へ逃げた。
布団を被って耳を塞ごうとした。
その時、視界に入った。
壁のシミーが、激しく脈打っていた。
「……シミー?」
シミーの色が変わっていた。
タールのような黒から、怒りを孕んだような赤黒い色へ。
表面が沸騰したようにボコボコと泡立ち、壁の上を這い回っている。
『パパ、コワイ?』
声なき声が、脳裏に響いた気がした。
僕の恐怖。僕の憤り。そして、あの男への殺意。
それらが、へその緒で繋がった胎児のように、シミーへ流れ込んでいる。
「……ああ、怖いよ」
僕は泣きそうな声で言った。
「あいつさえいなければ。あいつがいなくなれば、真由美さんも僕も平和なのに……!」
ドガン!
外で大きな音がした。真由美さんが部屋に逃げ込み、ドアを閉めた音だろうか。
続いて、荒川のドスの利いた怒鳴り声。
「ふざけんな! 出てこいこのアマ!」
ドンドンドンドン!
201号室のドアを叩く音が、アパート中に響き渡る。
「うるさい……うるさい、うるさい!」
僕は頭を抱えた。
その瞬間。
ベリッ。
という音がして、僕は顔を上げた。
壁のシミーが、剥がれ落ちた。
「えっ……」
床に落ちた黒い塊は、アメーバのように形を変えながら、畳の上を滑るように移動し始めた。
向かう先は、僕がいる布団ではない。
玄関だ。
「シ、シミー? どこへ行くんだ?」
シミーは、郵便受けの下のわずかな隙間——新聞紙一枚がやっと通るような隙間へ、その体をニュルリとねじ込んでいく。
液体のように、影のように。
「待て! 外に出ちゃダメだ!」
僕の制止は間に合わなかった。
シミーは音もなく廊下へと消えた。
僕は慌てて追いかけ、再びドアスコープを覗いた。
廊下には、まだ荒川がいた。真由美さんのドアの前で、悪態をついている。
「チッ、高飛車な女だぜ……ん?」
荒川が足元を見た。
アパートの薄暗い蛍光灯の下、黒い影が、荒川の背後に忍び寄っていた。
僕の部屋から這い出した、あの不定形の闇。
「なんだこれ、油か? 汚ねえな……」
荒川がその影を踏もうとした、次の瞬間。
影が、跳ねた。
バシュッ! という風切り音。
シミーの体が一瞬で広がり、荒川の顔面に張り付いた。
「——ッ!? むぐッ!?」
荒川の声が途切れる。
黒い粘液が、目、鼻、口、耳——顔にあるすべての穴という穴を塞ぎ、覆い尽くす。
荒川がのたうち回る。両手で顔を掻きむしり、シミーを引き剥がそうとする。
だが、シミーはタコのように吸い付き、決して離れない。
「……!」
僕は息を止めて見守った。
これは夢か? 現実か?
廊下で、大の大人が音もなく藻掻いている。
叫び声は出ない。シミーが完全に音を遮断しているからだ。
数秒後。
荒川の動きが止まった。
気絶したのか、窒息したのか。
膝から崩れ落ち、廊下に倒れ込む。
すると、シミーの体がさらに変化した。
荒川の顔を覆っていた黒い膜が、ズルリと下へ伸び、荒川の全身を包み込み始めたのだ。
まるで、大蛇が獲物を丸呑みにするように。
ズズ……ズズズ……。
重いものを引きずる音がした。
シミーに包まれた荒川の体が、ゆっくりと移動していく。
201号室の前から、隣の——荒川自身の部屋である204号室の方へ。
カチャリ、と鍵が開く音がした。(荒川は鍵を持っていたのか、シミーが内側から開けたのか)
ドアが開き、闇が闇を引きずり込み、そして静かにドアが閉まった。
廊下には、誰もいなくなった。
真由美さんの部屋のドアノブにかかっていたピンクの傘だけが、揺れていた。
「…………」
僕は震える手でドアから離れ、部屋の真ん中でへたり込んだ。
何が起きた?
シミーが、荒川を襲った。
そして、連れ去った。
数分後。
郵便受けの下の隙間から、黒い液体が逆流してきた。
部屋に戻ってきたシミーだ。
元の位置——壁の定位置にズルズルと這い戻ると、シミーはピタリと動きを止めた。
以前より、明らかに一回り大きくなっている。
そして、その体からは、微かに安っぽいタバコの臭いと、脂汗のような臭いが漂っていた。
「……シミー」
僕は恐る恐る声をかけた。
「お前……あいつを、どうしたんだ?」
シミーの表面に、二つの白い点が浮かび上がった。
目だ。
その目は、三日月型に細められ、満腹の笑みを浮かべているように見えた。
『パパ、静カニナッタ?』
そう言われた気がした。
「……ああ」
僕は認めるしかなかった。
隣の部屋からは、もう何の物音もしない。
あの不快な怒号も、壁を蹴る音も、二度と聞こえてこないだろう。
「静かになったよ。……ありがとう」
恐怖よりも先に、安堵が来た。
そして、暗い喜びが湧き上がってきた。
シミーは僕のためにやってくれたのだ。僕と、真由美さんを守るために、あの害虫を駆除してくれたのだ。
「いい子だ……」
僕は震える手で、タバコ臭いシミーの体を撫でた。
壁の向こうで荒川がどうなっているのか——消化されているのか、単に窒息死して隠されているのか——それは考えないことにした。
ただ一つ確かなことは。
僕たちは「共犯者」になったということだ。
その夜、僕は久しぶりにヘッドホンをつけずに眠った。
静寂が、こんなにも心地よいものだとは知らなかった。
壁のシミーが、守り神のように僕を見下ろしていた。




