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壁のシミを育ててみたら 203号室の怪物  作者: 猫森満月


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第3話 騒音と捕食

 スーパーの特売で買った鶏のササミを、僕は指で摘まんでいた。


「ほら、シミー。ごはんだぞ」


 壁のシミーは、今や大人のてのひらよりも大きくなっていた。

 僕が肉を近づけると、黒い表面がさざ波のように泡立ち、中央が縦に裂けて「口」を作る。

 そこへササミを放り込む。


 ジュルッ。


 咀嚼そしゃく音はない。消化液で溶かしているのか、肉は瞬く間に黒い粘液の中へと沈んでいった。

 以前のような「染み込む」感じではない。明らかに「食べて」いる。

 シミーは今や、壁の模様ではなく、壁に張り付いた軟体動物のようだった。厚みが増し、呼吸に合わせて数センチ隆起しているのが見て取れる。


「すごいな……また大きくなったか?」


 僕は空になったトレイをゴミ袋に入れながら、満足感に浸った。

 シミーは僕が育てている。僕の稼ぎで、僕の選んだ餌で、この命は維持されている。

 それは、社会の歯車ですらない僕にとって、唯一の「支配」と「庇護」の実感だった。


 その時だった。

 廊下から、女性の悲鳴が聞こえた。


「きゃっ! ……やめてください!」


 真由美さんの声だ。

 僕は弾かれたように玄関へ走り、ドアスコープ(覗き穴)に目を押し当てた。


 魚眼レンズの歪んだ視界の先。

 斜め向かいの201号室の前で、真由美さんがうずくまっていた。

 その前に立ちはだかっているのは、隣人の荒川だ。

 酒に酔っているのか、赤ら顔で千鳥足になりながら、真由美さんの行く手を塞いでいる。


「いいじゃねえかよ、姉ちゃん。俺の部屋で飲み直そうぜぇ?」

「警察呼びますよ! どいてください!」

「ツレないこと言うなよォ。いつも見てんだぜ、お前のこと……」


 荒川の手が、真由美さんの肩に伸びる。

 真由美さんが必死に振り払う。


「……ッ!」


 僕はドアノブを握りしめた。

 助けなきゃ。今すぐドアを開けて、「何をしてるんですか!」と叫んで、彼女を助けなきゃ。

 僕の中のヒーロー願望が叫び声を上げる。


 だが、体は動かなかった。

 足がすくみ、指先が震える。

(もしドアを開けたら、荒川はこっちに来る)

(殴られるかもしれない。部屋に火をつけられるかもしれない)

(怖い、怖い、怖い……)


 僕は情けないことに、ドアノブから手を離し、後ずさりした。

「……くそっ」

 自分の弱さが憎い。真由美さんが泣きそうな顔をしているのに、僕は安全な部屋の中で震えているだけだ。


「誰か……!」

 真由美さんの助けを求める声が聞こえる。

 でも、他の住人は誰も出てこない。関わりたくないのだ。僕と同じように。


 僕は部屋の奥へ逃げた。

 布団を被って耳を塞ごうとした。

 その時、視界に入った。


 壁のシミーが、激しく脈打っていた。


「……シミー?」


 シミーの色が変わっていた。

 タールのような黒から、怒りを孕んだような赤黒い色へ。

 表面が沸騰したようにボコボコと泡立ち、壁の上をい回っている。


『パパ、コワイ?』


 声なき声が、脳裏に響いた気がした。

 僕の恐怖。僕の憤り。そして、あの男への殺意。

 それらが、へその緒で繋がった胎児のように、シミーへ流れ込んでいる。


「……ああ、怖いよ」

 僕は泣きそうな声で言った。

「あいつさえいなければ。あいつがいなくなれば、真由美さんも僕も平和なのに……!」


 ドガン!

 外で大きな音がした。真由美さんが部屋に逃げ込み、ドアを閉めた音だろうか。

 続いて、荒川のドスの利いた怒鳴り声。

「ふざけんな! 出てこいこのアマ!」

 ドンドンドンドン!

 201号室のドアを叩く音が、アパート中に響き渡る。


「うるさい……うるさい、うるさい!」

 僕は頭を抱えた。


 その瞬間。

 ベリッ。

 という音がして、僕は顔を上げた。


 壁のシミーが、がれ落ちた。


「えっ……」


 床に落ちた黒い塊は、アメーバのように形を変えながら、畳の上を滑るように移動し始めた。

 向かう先は、僕がいる布団ではない。

 玄関だ。


「シ、シミー? どこへ行くんだ?」


 シミーは、郵便受けの下のわずかな隙間——新聞紙一枚がやっと通るような隙間へ、その体をニュルリとねじ込んでいく。

 液体のように、影のように。


「待て! 外に出ちゃダメだ!」


 僕の制止は間に合わなかった。

 シミーは音もなく廊下へと消えた。


 僕は慌てて追いかけ、再びドアスコープを覗いた。


 廊下には、まだ荒川がいた。真由美さんのドアの前で、悪態をついている。

「チッ、高飛車な女だぜ……ん?」


 荒川が足元を見た。

 アパートの薄暗い蛍光灯の下、黒い影が、荒川の背後に忍び寄っていた。

 僕の部屋から這い出した、あの不定形の闇。


「なんだこれ、油か? 汚ねえな……」


 荒川がその影を踏もうとした、次の瞬間。


 影が、跳ねた。


 バシュッ! という風切り音。

 シミーの体が一瞬で広がり、荒川の顔面に張り付いた。


「——ッ!? むぐッ!?」


 荒川の声が途切れる。

 黒い粘液が、目、鼻、口、耳——顔にあるすべての穴という穴を塞ぎ、覆い尽くす。

 荒川がのたうち回る。両手で顔を掻きむしり、シミーを引き剥がそうとする。

 だが、シミーはタコのように吸い付き、決して離れない。


「……!」


 僕は息を止めて見守った。

 これは夢か? 現実か?

 廊下で、大の大人が音もなく藻掻もがいている。

 叫び声は出ない。シミーが完全に音を遮断しているからだ。


 数秒後。

 荒川の動きが止まった。

 気絶したのか、窒息したのか。

 膝から崩れ落ち、廊下に倒れ込む。


 すると、シミーの体がさらに変化した。

 荒川の顔を覆っていた黒い膜が、ズルリと下へ伸び、荒川の全身を包み込み始めたのだ。

 まるで、大蛇が獲物を丸呑みにするように。


 ズズ……ズズズ……。


 重いものを引きずる音がした。

 シミーに包まれた荒川の体が、ゆっくりと移動していく。

 201号室の前から、隣の——荒川自身の部屋である204号室の方へ。


 カチャリ、と鍵が開く音がした。(荒川は鍵を持っていたのか、シミーが内側から開けたのか)

 ドアが開き、闇が闇を引きずり込み、そして静かにドアが閉まった。


 廊下には、誰もいなくなった。

 真由美さんの部屋のドアノブにかかっていたピンクの傘だけが、揺れていた。


「…………」


 僕は震える手でドアから離れ、部屋の真ん中でへたり込んだ。

 何が起きた?

 シミーが、荒川を襲った。

 そして、連れ去った。


 数分後。

 郵便受けの下の隙間から、黒い液体が逆流してきた。

 部屋に戻ってきたシミーだ。


 元の位置——壁の定位置にズルズルと這い戻ると、シミーはピタリと動きを止めた。

 以前より、明らかに一回り大きくなっている。

 そして、その体からは、微かに安っぽいタバコの臭いと、脂汗のような臭いが漂っていた。


「……シミー」


 僕は恐る恐る声をかけた。

「お前……あいつを、どうしたんだ?」


 シミーの表面に、二つの白い点が浮かび上がった。

 目だ。

 その目は、三日月型に細められ、満腹の笑みを浮かべているように見えた。


『パパ、静カニナッタ?』


 そう言われた気がした。


「……ああ」

 僕は認めるしかなかった。

 隣の部屋からは、もう何の物音もしない。

 あの不快な怒号も、壁を蹴る音も、二度と聞こえてこないだろう。


「静かになったよ。……ありがとう」


 恐怖よりも先に、安堵あんどが来た。

 そして、暗い喜びが湧き上がってきた。

 シミーは僕のためにやってくれたのだ。僕と、真由美さんを守るために、あの害虫を駆除してくれたのだ。


「いい子だ……」


 僕は震える手で、タバコ臭いシミーの体を撫でた。

 壁の向こうで荒川がどうなっているのか——消化されているのか、単に窒息死して隠されているのか——それは考えないことにした。


 ただ一つ確かなことは。

 僕たちは「共犯者」になったということだ。


 その夜、僕は久しぶりにヘッドホンをつけずに眠った。

 静寂が、こんなにも心地よいものだとは知らなかった。

 壁のシミーが、守り神のように僕を見下ろしていた。

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