第1話 203号室の同居人
築四十年の木造アパート「コーポ松風」の壁は、ダンボール並みに薄い。
「あー、クソッ! 使えねえなァ!」
ドガン! という衝撃音が、僕の背中を震わせた。
隣の204号室に住む荒川だ。また競馬か何かで負けたのだろう。壁を蹴り上げる音と、汚い怒号が筒抜けになって響いてくる。
僕はコンビニの制服をハンガーにかけながら、小さく溜息をついた。
「……ただいま」
返事はない。六畳一間の和室は、カビと古い畳の匂いが沈殿しているだけだ。
僕は須藤健太、二十八歳。
深夜のコンビニバイトで食いつなぎ、このボロアパートで息を潜めるように暮らしている。
夢もなければ、彼女もいない。友達と呼べる人間も、スマホのアドレス帳には一人もいない。
「……うるさいなあ」
隣の怒声はまだ続いている。
僕は争いごとが苦手だ。いや、極端に怖い。
もし壁を叩き返そうものなら、あの荒川という男は間違いなく金属バットを持って怒鳴り込んでくるだろう。
だから僕は、今日もノイズキャンセリングのヘッドホンを耳に押し込み、外界を遮断する。
世界なんて、こんなものだ。
理不尽で、うるさくて、僕みたいな弱者はただ嵐が過ぎるのを待つしかない。
——でも、一つだけ。
この灰色の世界にも、光はある。
僕はヘッドホンをしたまま、窓のカーテンを数センチだけ開けて、斜め向かいの201号室のドアを盗み見た。
ピンク色の傘が、ドアノブにかかっている。
(帰ってるんだ……)
吉永真由美さん。
女子大生で、黒髪が綺麗で、いつも石鹸のようないい匂いがする人。
今朝、ゴミ捨て場ですれ違った時のことを思い出す。
『あ、おはようございます』
彼女は僕に、笑顔でそう言ってくれたのだ。
「おはようございます」と、たった十文字の言葉。
それだけで、僕の今日の二十四時間は「生きていてよかった日」に変わった。
もちろん、会話なんてそれだけだ。僕みたいな根暗なフリーターが、あんな女神様と親しくなれるはずがない。
でも、彼女が同じアパートに住んでいる。それだけで、僕はこの薄汚い「コーポ松風」を愛おしく思うことができた。
「……さてと」
真由美さんの笑顔を脳内で反芻して栄養補給をした僕は、夕飯のカップラーメンにお湯を注ぐため、ヤカンを火にかけた。
沸騰するのを待つ間、何気なく部屋の壁——荒川の部屋と接している側の壁——に目をやった。
「ん?」
違和感があった。
砂壁の、ちょうど僕の目線の高さあたり。
そこに、親指の先くらいの大きさの、黒いシミができていた。
「なんだこれ。雨漏りか?」
このアパートならあり得る話だ。
僕は近づいて、そのシミをまじまじと観察した。
インクを垂らしたような、歪な楕円形。
だが、よく見ると、妙な形をしていた。
二つの点が並んでいて、その下に横に裂けたような線がある。
「……人の顔?」
ムンクの叫びというか、苦虫を噛み潰したおじさんの顔に見えなくもない。
そう認識した途端、そのシミが急に生々しい存在感を持って迫ってきた。
ドガン!!
また隣から壁を蹴る音がした。
「うるせえんだよ! 死ね!」
僕はビクッと肩を跳ねさせた。
すると、目の前の壁のシミが、微かに「震えた」ように見えた。
「……え?」
気のせいか?
振動で砂壁の粒子が動いただけだろうか。
でも、まるで隣の怒鳴り声に怯えているように見えた。
「……お前も、怖いのか?」
僕は思わず、そのシミに話しかけていた。
独り言は僕の悪い癖だ。誰とも話さない日が続くと、言葉が口から溢れてしまうのだ。
「災難だよな。あんなのが隣にいてさ」
僕は指先で、シミの表面をそっと撫でた。
カサカサとした砂壁の感触。だけど、シミの部分だけ妙に湿っていて、生温かい気がした。
「……腹、減ってんのかな」
自分でも何を考えているのか分からなかった。
ただ、そのシミが、うずくまって震えている小動物のように見えてしまったのだ。孤独な僕の、唯一の同居人のように。
僕は冷蔵庫から、賞味期限切れの牛乳を取り出した。
綿棒の先に牛乳を少し染み込ませ、シミの「口」に見える部分に、ちょんと当ててみる。
「ほら。……飲むか?」
馬鹿げている。壁に牛乳を塗るなんて、カビの原因になるだけだ。
すぐに拭き取ろうとした、その時だった。
スゥッ……。
綿棒の先の白い液体が、壁に吸い込まれた。
蒸発したのではない。明らかに、シミが「吸った」のだ。
そして、茶色っぽかったシミの色が、ほんの少しだけ濃く、黒くなった。
「……飲んだ」
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
怖い、という感情は不思議と湧かなかった。
代わりに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
反応があった。
僕の行動に対して、世界が(たとえ壁のシミだとしても)反応を返してくれた。
それは、バイト先で「いらっしゃいませ」と言っても無視される僕にとって、何よりも渇望していた「繋がり」だった。
「美味いか? ……そうか、美味いか」
僕は嬉しくなって、もう一度、綿棒に牛乳をつけて与えた。
シミはまた、スゥッとそれを飲み干した。
心なしか、「目」に見える二つの点が、少しだけ笑ったように三日月型に歪んだ気がした。
「よし。……名前、つけてやるよ」
僕はヤカンがピーピーと鳴るのも無視して、壁の同居人に語りかけた。
「シミーだ。……安直だけど、いい名前だろ?」
シミーは何も答えない。
ただ、壁の木目のフリをして、じっと僕を見つめている。
隣からは相変わらず荒川の罵声が聞こえてくるが、もう気にならなかった。
僕には今、守るべきものができたのだから。
この部屋の秘密。僕だけのペット。
「明日も、牛乳買ってくるからな」
僕は冷え切ったカップラーメンをすすりながら、壁のシミに向かって「いただきます」と言った。
203号室の、奇妙な共同生活が始まった瞬間だった。




