【幕間】紅茶の香りが満ちるまで
学園本棟の資料室。
午後の陽光が高窓から差し込み、魔力灯で補うように淡い光を机に落とし込んでいた。
正面の席ではシリウスが、その隣ではルパートが、それぞれ書面を確認しながら淡々と作業を進めている。
私とシリウスは、出会った侵食種についての報告書のため。
ルパートは、エミリーが分解した鉱石についての始末書のため。
エミリーは補習へ行っており、今この場にはいない。
……静かで、平和だ。
「──“接触時の状況”の項目、記録と齟齬がある。『対象物は石かと思って』などという記述、報告書に記す内容ではない」
低く、やや苛立ちを滲ませた声が響いた。ルパートだ。
「これは……エミリーの原案か。先に通された下書きのままになっていたな」
シリウスが淡々と指摘し、私は内心で溜め息をつく。
「『岩っぽいけど光ったから気になって』……これは何だ。記述か? 感想文か?」
報告書をぺらりとめくり、困惑というより諦めに近い顔をしている。
彼がこんな顔をするのは珍しい。エミリーの影響力がよく分かる。
「……エミリーには、後で簡潔に書くように指導しておきます」
「助かる。彼女の文章は、抑揚が過剰だ。読んでいると状況が見えてくるのはいいが、想定された文体ではない」
真顔で述べるルパートに、シリウスがふっと目を細めた。
「だが、印象に残る報告書ではあった」
「……だからといって評価はしない。特待生であるなら、なおさら──」
その時、扉が勢いよく開いた。
「ロウェナさん! ルパート先輩にシリウス先輩も! あの、できました!」
元気な声と共に、エミリーが皿を持って資料室に入ってきた。
「……報告書ではなく、菓子か?」
ルパートの眉がぴくりと動いた。
けれど、彼の目がわずかに皿に注がれているのを私は見逃さない。
「報告書もちゃんとありますよ! でも、頑張ったごほうび……タルト、焼いてきたんです。林檎と胡桃と蜂蜜!」
満足げに差し出された皿の上には、小さなタルトが数個。香ばしい匂いを立てて並んでいた。
「……作業中に糖分補給、か」
「そうです! ルパート先輩、好きですよね、甘いの」
「……別に、嫌いではないだけだ」
その否定は、肯定に近い。
シリウスはわずかに肩を揺らし、笑みを堪えるように視線を落とした。
「では、休憩にしましょう。ちょうど区切りもいいところですし」
私が言うと、エミリーは「やったー!」と小さくガッツポーズをして、素早く手提げから紙ナプキンと小さなカップを取り出した。準備がいい。
「紅茶も淹れてきました! 保温魔法しているので温かいですよ」
「……君は何のために補習に行ってきたんだ?」
ルパートが呆れたように言うが、既にタルトに手を伸ばしている。
「努力の成果です! ちゃんとお詫びと反省と……仲直りタルト!」
「誰と仲直りする必要があるんだ」
「えー、ルパート先輩とか?」
タルトを口に運びながらも、ルパートはそれ以上は何も言わなかった。
代わりに、彼の表情がほんの少しだけ和らいだような気がする。
私とシリウスもそれぞれタルトを手に取る。
外はさっくり、中はしっとりと甘く、香ばしい。
「……美味しい」
私がそう言うと、エミリーが目を輝かせた。
「本当ですか? ロウェナさんに言ってもらえるなんて嬉しいなぁ」
「報告書を書く力も、料理の腕と同じくらい伸ばしてくれ」
「それはそれ、これはこれですっ」
エミリーの返しに、ルパートが静かに嘆息した。
資料室の午後は、相変わらず穏やかな光に包まれている。
書類の山の合間に、少しだけ流れる甘やかな時間。
……悪くない、日常のひとときだった。
「次は何味がいいですか?」
タルトを食べ終えたルパートが書類に視線を戻したタイミングで、エミリーが問いかけた。
紅茶のカップを両手で持ちながら、期待に満ちた目でルパートを見ている。
「……次?」
「はい! 次にまた何か作るとしたら、ルパート先輩はどんな味が好きかなって」
その問いにルパートはわずかに眉をひそめ、面倒事を前にした表情を浮かべた。けれど、即座に要らないとは言わない。
むしろ──ほんの少しだけ、考えていた。
「……ラムレーズン」
「えっ、レーズン好きなんですか? 意外です!」
「……干し葡萄は、保存食として機能が高い。糖分と栄養価の点でも、魔力消費時に適している」
「ええと……つまり、好きってことですか?」
「……嫌いではない」
口調はいつも通りぶっきらぼうなのに、その言い回しに笑い出しそうになる。視線の端で、シリウスが静かに笑っているのが分かる。
「じゃあ今度、ラムレーズンタルトに挑戦してみますね!」
エミリーは満面の笑みを浮かべて、紅茶を一口飲んだ。
彼女の存在は、どうしてこうも場を柔らかくするのだろう。
それまではただの報告作業でしかなかった資料室が、今はどこか温かな空間に変わっていた。
「……しかし、まさか補習を抜けてここまで来るとは」
「ちゃんと終わってから来ましたよ! あ、でも先生には『真っ直ぐ帰るように』って言われたかも……?」
「……つまり、また始末書が増えるな」
ルパートが小さく溜め息をついたのに合わせて、シリウスが「手間がかかる」とでも言いたげに微笑んだ。
そしてふと私に視線を向けてくる。
「ロウェナ、君の分の報告も仕上げておいた方がいいだろう。エミリーがまた何かを言い出す前に」
「……そうですね」
紅茶を一口飲んで、私はペンを取り直す。
エミリーはまだ、「それならいっそ全員の好みを聞いて、詰め合わせで……」などと呟きながら、空になった皿を見つめていた。
その横顔を見ながら、私はほんの少し、口元を緩める。
……穏やかな日常が、もう少しだけ続きますように。