表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
破滅の令嬢と救済の少女  作者: あさくら
それはまだ、名もない関係
9/216

【幕間】紅茶の香りが満ちるまで

 学園本棟の資料室。

 午後の陽光が高窓から差し込み、魔力灯で補うように淡い光を机に落とし込んでいた。


 正面の席ではシリウスが、その隣ではルパートが、それぞれ書面を確認しながら淡々と作業を進めている。

 私とシリウスは、出会った侵食種についての報告書のため。

 ルパートは、エミリーが分解した鉱石についての始末書のため。

 エミリーは補習へ行っており、今この場にはいない。


 ……静かで、平和だ。



「──“接触時の状況”の項目、記録と齟齬がある。『対象物は石かと思って』などという記述、報告書に記す内容ではない」



 低く、やや苛立ちを滲ませた声が響いた。ルパートだ。



「これは……エミリーの原案か。先に通された下書きのままになっていたな」



 シリウスが淡々と指摘し、私は内心で溜め息をつく。



「『岩っぽいけど光ったから気になって』……これは何だ。記述か? 感想文か?」



 報告書をぺらりとめくり、困惑というより諦めに近い顔をしている。

 彼がこんな顔をするのは珍しい。エミリーの影響力がよく分かる。



「……エミリーには、後で簡潔に書くように指導しておきます」


「助かる。彼女の文章は、抑揚が過剰だ。読んでいると状況が見えてくるのはいいが、想定された文体ではない」



 真顔で述べるルパートに、シリウスがふっと目を細めた。



「だが、印象に残る報告書ではあった」


「……だからといって評価はしない。特待生であるなら、なおさら──」



 その時、扉が勢いよく開いた。



「ロウェナさん! ルパート先輩にシリウス先輩も! あの、できました!」



 元気な声と共に、エミリーが皿を持って資料室に入ってきた。



「……報告書ではなく、菓子か?」



 ルパートの眉がぴくりと動いた。

 けれど、彼の目がわずかに皿に注がれているのを私は見逃さない。



「報告書もちゃんとありますよ! でも、頑張ったごほうび……タルト、焼いてきたんです。林檎と胡桃と蜂蜜!」



 満足げに差し出された皿の上には、小さなタルトが数個。香ばしい匂いを立てて並んでいた。



「……作業中に糖分補給、か」


「そうです! ルパート先輩、好きですよね、甘いの」


「……別に、嫌いではないだけだ」



 その否定は、肯定に近い。

 シリウスはわずかに肩を揺らし、笑みを堪えるように視線を落とした。



「では、休憩にしましょう。ちょうど区切りもいいところですし」



 私が言うと、エミリーは「やったー!」と小さくガッツポーズをして、素早く手提げから紙ナプキンと小さなカップを取り出した。準備がいい。



「紅茶も淹れてきました! 保温魔法しているので温かいですよ」


「……君は何のために補習に行ってきたんだ?」



 ルパートが呆れたように言うが、既にタルトに手を伸ばしている。



「努力の成果です! ちゃんとお詫びと反省と……仲直りタルト!」


「誰と仲直りする必要があるんだ」


「えー、ルパート先輩とか?」



 タルトを口に運びながらも、ルパートはそれ以上は何も言わなかった。

 代わりに、彼の表情がほんの少しだけ和らいだような気がする。


 私とシリウスもそれぞれタルトを手に取る。

 外はさっくり、中はしっとりと甘く、香ばしい。



「……美味しい」



 私がそう言うと、エミリーが目を輝かせた。



「本当ですか? ロウェナさんに言ってもらえるなんて嬉しいなぁ」


「報告書を書く力も、料理の腕と同じくらい伸ばしてくれ」


「それはそれ、これはこれですっ」



 エミリーの返しに、ルパートが静かに嘆息した。


 資料室の午後は、相変わらず穏やかな光に包まれている。

 書類の山の合間に、少しだけ流れる甘やかな時間。


 ……悪くない、日常のひとときだった。



「次は何味がいいですか?」



 タルトを食べ終えたルパートが書類に視線を戻したタイミングで、エミリーが問いかけた。

 紅茶のカップを両手で持ちながら、期待に満ちた目でルパートを見ている。



「……次?」


「はい! 次にまた何か作るとしたら、ルパート先輩はどんな味が好きかなって」



 その問いにルパートはわずかに眉をひそめ、面倒事を前にした表情を浮かべた。けれど、即座に要らないとは言わない。

 むしろ──ほんの少しだけ、考えていた。



「……ラムレーズン」


「えっ、レーズン好きなんですか? 意外です!」


「……干し葡萄は、保存食として機能が高い。糖分と栄養価の点でも、魔力消費時に適している」


「ええと……つまり、好きってことですか?」


「……嫌いではない」



 口調はいつも通りぶっきらぼうなのに、その言い回しに笑い出しそうになる。視線の端で、シリウスが静かに笑っているのが分かる。



「じゃあ今度、ラムレーズンタルトに挑戦してみますね!」



 エミリーは満面の笑みを浮かべて、紅茶を一口飲んだ。


 彼女の存在は、どうしてこうも場を柔らかくするのだろう。

 それまではただの報告作業でしかなかった資料室が、今はどこか温かな空間に変わっていた。




「……しかし、まさか補習を抜けてここまで来るとは」


「ちゃんと終わってから来ましたよ! あ、でも先生には『真っ直ぐ帰るように』って言われたかも……?」


「……つまり、また始末書が増えるな」



 ルパートが小さく溜め息をついたのに合わせて、シリウスが「手間がかかる」とでも言いたげに微笑んだ。

 そしてふと私に視線を向けてくる。



「ロウェナ、君の分の報告も仕上げておいた方がいいだろう。エミリーがまた何かを言い出す前に」


「……そうですね」



 紅茶を一口飲んで、私はペンを取り直す。


 エミリーはまだ、「それならいっそ全員の好みを聞いて、詰め合わせで……」などと呟きながら、空になった皿を見つめていた。


 その横顔を見ながら、私はほんの少し、口元を緩める。

 ……穏やかな日常が、もう少しだけ続きますように。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ