【幕間】私の憧れ
エミリー視点の話です。
あの日のことは、今でもはっきり覚えている。
聖エリディア魔法学園の入学式。
私みたいな平民が特待生として、おとぎ話みたいな魔法使いの人たちと同じ学園に入るなんて、それだけでもう夢みたいだった。
白い制服はちょっと大きくて、靴も新品で足に馴染んでなかった。
魔法で浮いている天井の光に目を丸くして、隣の子のマントの生地をこっそり見比べたりして。
──要するに、落ち着きのない田舎娘、だったと思う。自分でも。
周囲からくすくすという笑い声と悪意に満ちた声が聞こえる。
「ほら、あの子でしょう? 特待生の──」
「あぁ、平民だって噂の……」
覚悟はしていたことだった。
聖エリディア魔法学園は、名門の子息が通う場所。平民が足を踏み入れるには、あまりにも格式が高い。
特待生なんて肩書きがあったって誰も同じとは思ってくれない。むしろ、余計に目立ってしまう。
平民の特待生。そんな私を面白く思わない人は多くいるはずだ。
仕方ない。仕方ないことなんだ。そう、自分に言い聞かせる。
けれど次の瞬間、私の耳に信じられない言葉が届いた。
「ロウェナ様を差し置いて特待生なんて、何様のつもりなのかしらね」
ロウェナ様。知っている名前だった。
ロウェナ・ヴェインウッド。
魔法使いの中でその名前を知らない人はいないといわれるほど特別な存在。
入学前に少しでも魔法のことを知ろうと調べた新聞の中で、何度も見た名前だ。
世界的な魔法会議で高位の魔法使いと並んで写っていた、整った顔立ちをした少女。
漠然と、すごい人なんだろうなって思った。
優秀な魔法使いを輩出してきた名門貴族の令嬢。魔法の天才と謳われる、私と同い年の女の子。
──ロウェナ様を差し置いて。
そんなつもりなんて、あるはずない。
私はただ、魔法が好きで、勉強が好きで、だから一生懸命に頑張ってきただけなのに。
でも、周囲のざわめきはどんどん増していく。
それはまるで祝福の場だった入学式が、私にとっての裁きの場に変わってしまったようで。
その時だった。
会場の空気が、一瞬、ひやりと凍った気がした。
壇上から歩いてきた一人の少女が、私の横を通り過ぎる。
濃紺のマントに、銀糸の刺繍。真っ直ぐな背筋と、周囲に流されない孤高の気配。
──ロウェナ・ヴェインウッドだった。
なにも言わずに通り過ぎていく、その横顔。
声をかけられるはずもない。けれど私は、目が離せなかった。
記事で何度も見た。憧れた。
私もこの人みたいな魔法使いになれればいいな、そんな夢想をした。
そんな憧れが、今、目の前にいる。
その優美な姿に誰もが感嘆の息を漏らす。
でも──私だけは、少しだけ違う想いで、ロウェナさんの背中を見つめていた。
ただ綺麗だからじゃない。立派だからでもない。
その姿の奥に、ほんの少しだけ、寂しさのようなものを見た気がしたのだ。
誰にも心を許していないような。
まるで、ずっと一人で立っているみたいな、そんな背中だった。
その背中が遠ざかっていくのを、私は息をするのも忘れて見送っていた。
──あれが、ロウェナさん。
周囲の視線も、声も、何もかも忘れて。
ただ、あの人の存在が、目と胸に焼き付いて離れなかった。
たった一度通り過ぎただけなのに。
言葉も交わしていないのに。
それでも、あの時、私は確かに思ったのだ。
「この人の近くにいたい」と。
理由なく、ただ強く、思ってしまった。
そんな私の思いに呼応してか、ロウェナさんと関わる機会はすぐに訪れた。
「ロウェナ・ヴェインウッドさん、ですか? 私、エミリー・ウィローです! 今日から同室ですね、よろしくお願いします!」
そう言って、思い切って笑いかけた。声が少しだけ上ずってしまったのは、自覚している。
だって──憧れの人が目の前にいるんだもの。
その人は、ゆっくりとこちらに視線を向けた。整った横顔、背筋の伸びた立ち姿、ただそこにいるだけで周囲の空気が変わってしまうような、そんな人。
新聞記事の中で何度も見た、あのロウェナ・ヴェインウッドが、今、私の目の前にいる。
夢みたいで、でも現実で。どうしよう、心臓が跳ねてる。
「……うん、よろしくね」
少しだけぎこちない笑顔でそう言ったロウェナさんの声は、落ち着いていて、少し冷たくて──でも、どこか困ってるような、そんな響きがあった。
ああ、やっぱり綺麗。声まで綺麗。
私はいても立ってもいられなくて、気持ちを抑えきれず、つい話しかけてしまった。
「実は私、入学前からロウェナさんのお名前、知ってたんです」
ロウェナさんは、少しだけ目を見開いたように見えた。
「……そうなの?」
「はい。学園に入ることが決まってから、すごく不安で……。だから、貴族の方々のことを、こっそり調べてたんです」
思い返せば、夜遅くまで灯りをつけて新聞を読んでいた日々。慣れない文字に苦戦しながらも、貴族や魔法の家系について少しでも知っておきたくて、必死だった。
その中で、何度も目にした名前──ロウェナ・ヴェインウッド。
「ロウェナさんのこと、名門一家の天才だって。頭が良くて、容姿も完璧で、ちょっと近寄りがたいって噂もありましたけど……それでも、憧れてたんです。そんな人と同室になれるなんて、信じられないくらいで」
私の言葉に、ロウェナさんは小さく息をのんだようだった。
嘘なんてない。ただ、心からの想い。
会えて嬉しかった。同室になれて、運命だって思った。
「憧れ、なんて……」
ロウェナさんがぽつりとつぶやく。
その声は、どこか不思議そうで、少しだけ寂しそうで。
「はい。ずっと、お会いしてみたいと思ってました」
胸の奥から、まっすぐな気持ちを込めて伝える。こんなふうに人に何かを伝えたのは、初めてかもしれない。
けれど、ロウェナさんは視線を逸らしてしまった。やっぱり迷惑だったのかな。重かったのかな。
そう思ったそのとき──
「……そのうち、幻滅するかもしれないわ」
ロウェナさんは笑った。けれど、それはどこか自嘲するかのように見えた。
思わず、私は首を振っていた。
「しません。――きっと、もっと素敵なところを知れるんだろうなって、思ってますから」
それが、私の正直な気持ちだった。
ロウェナ・ヴェインウッドさんは、完璧で、冷たくて、遠い人かもしれない。
でも、きっとそれだけじゃないって、思ったのだ。
あの入学式の日、私の前を通りすぎた背中。誰にも頼らず立っているような、あの背中が、私はずっと気になっていた。
もっと知りたい。
もっと近づきたい。
ただ、それだけ。
だから、私の言葉にふっと柔らかく笑ってくれたロウェナさんの顔が、とても嬉しかった。
「じゃあ、失望されないように頑張らなくちゃいけないわね。……改めてよろしく、エミリー」
その声に、胸が熱くなる。
「はいっ! よろしくお願いします、ロウェナさん!」
この日から始まる学園生活が、きっと何か特別なものになる予感がした。
その予感は、私の心の中で、そっと芽吹いたばかりの魔法みたいに、ふわりと温かかった。