凍てつく輝き、花のゆらぎ
入学式の翌日。クラスごとの初回オリエンテーションに向かう途中、私はエミリーと並んで歩いていた。
「わあ、校舎の中も素敵ですね……!」
「そうね」
感嘆の声を上げるエミリーに、私は冷静に返す。
興味がないわけではない。それ以上に気になるものがあった──周囲の視線だ。
無理もない。
いくら同室になったとはいえ、名門令嬢のロウェナ・ヴェインウッドが平民の少女エミリーと親しげに行動を共にしているのだ。
聖エリディア魔法学園の学内では、身分の貴賎もなく平等の機会を与えることを方針にしている。
とはいえども、貴族社会で生きてきた子息たちが、そう簡単に理屈だけで平民を受け入れられるわけではない。
ひそひそという囁き声が、すぐ背後で聞こえる。
「──あれが特待生?」
「あの子……平民でしょう?」
「信じられない。あの方が、あんな平民と……」
耳を澄まさなくても、絶え間ない声が聞こえてくる。
あからさまな視線、上から下まで品定めするような眼差し。
ロウェナ・ヴェインウッドの隣にいるというだけで、エミリーは瞬く間に学内の注目を集めている。
「ロウェナさん、こっちの通路、色合いがちょっと違いますね。建て増しされたところなんでしょうか?」
本人は、そんな好奇の視線にまるで気付いていないかのようにはしゃいでいる。
図太いのか天然なのか。いずれにせよ本人が気にしていないのなら、私が必要以上に気にすることではない。
「この学園は中世からあるの。建て増しされてても不思議じゃないけれど……」
私は色合いの違う通路の壁に手で触れる。
触れた瞬間、指先にかすかな魔力の脈動が伝わる。
「……魔力封入型の結界素材ね」
そう呟くと、エミリーがぱっと目を輝かせて私を見た。
「すごい……、触っただけで分かるんですね!」
「これくらい普通だから、そんなにはしゃがないの」
努めて淡々と答える。これ以上、持ち上げられても困る。
けれど、エミリーはまるで子犬のように、きらきらした目でこちらを見てきた。
「行くわよ、遅れるわ」
「あっ、はい!」
歩き出すと、彼女もそれに合わせて小走りで隣に並ぶ。
──その動き一つで、また後ろからざわつきが起こる。
「あの子、ロウェナ様と並んで歩くなんて……」
「図々しいわ、自分の身分が分からないのかしら」
言葉の端々に、嘲りと羨望が混ざっていた。
私が何も言わずに行動を共にしている、それだけで周囲も気付いているのだ。エミリー・ウィローが、ただの「平民の特待生」では済まない存在であることに。
けれど視線は鋭い。それは私への監視であり、彼女の攻撃への予兆でもあった。
「ロウェナさん、この先が教室ですよね。……なんだか緊張してきました」
ふと目を向けると、エミリーは両手を胸の前でぎゅっと握りしめていた。
その横顔はほんの少しだけ強張っていて、どうやら彼女なりに緊張しているらしい。
子犬のような無邪気さは、どうやらただの無防備ではない。
多少のざわめきや皮肉なら笑って受け流す、強かさと覚悟が、その頼りない小さな肩に宿っているように見えた。
私はほんの少しわずかに歩幅を落とし、彼女が自然に並びやすいように速度を合わせた。
それだけのことで、後ろのざらつきが更に強まる。
「他人の顔色ばかり気にしていても、前なんて見えないわ」
「え?」
「……なんでもない。ほら、教室はすぐそこよ」
エミリーは一瞬ぽかんとした顔をして、すぐにぱっと笑顔を咲かせた。
「はいっ!」
弾むような声。その足取りには、少しの迷いもない。
私と並んで歩くだけで、彼女は矢面に立つ。それがどんな意味を持つか、彼女はもう気付いているだろう。
にも関わらず、彼女は私の隣を歩くことを選んでいる。
──ならば、私のするべきも、もう決まっている。
教室の扉をくぐった瞬間、再び空気が変わるのが分かった。
ざわつく視線。息を呑む気配。誰もが、私たちの姿に注目している。
「……やっぱり目立っちゃいますね」
エミリーが苦笑混じりに呟いた。けれどその声に怯えの色はない。
「気にするだけ無駄よ」
「はい。ロウェナさんがいてくれるなら心強いです」
真っ直ぐ見つめてくる。その無防備な信頼に、ほんのわずかに胸がざわつく。
「席は自由に座っていいみたいですね。ロウェナさん、隣いいですか?」
当然のようにそう言って微笑む彼女に、周囲の空気が凍りついたように感じる。
けれど私は誰の顔も見ずに席に着く。
「好きにしなさい」
「はい、好きにします!」
嬉しそうに頷くエミリーの笑顔は、やはり子犬のように無邪気だ。
教室内は、すでに多くの生徒が着席していた。
自由席とはいえ、自然と貴族同士、平民同士で固まっている気配が露骨だった。
その中で、ロウェナ・ヴェインウッドとエミリー・ウィローという並びは、まるで異物のように教室の空気に波紋を広げていた。
その波紋の中心にいるエミリー本人はというと、緊張しながらも小声で「すごい、教室の装飾も凝ってますね!」などと呟いていて、隣に座る私は自然と肩の力が抜けるのを感じた。
やがて、教室の扉がそっと開いた。
入って来たのは、淡い色合いのローブに身を包んだ線の細い青年だった。おどおどと視線を泳がせながら、手にした資料を胸に抱えて教壇に立つ。
「……あの人が先生?」
「なんだか頼りなさそう……」
教室の空気がざわつく中、青年は小さく咳払いした。
「あ、あのっ──えぇと、おはようございますっ……。えっと、皆さんの担任で、ライナス・コートレイです……」
控えめな声に、生徒たちの数人がくすくすと笑った。だが彼はそれに気付いているのかいないのか、所在なさげに眼鏡を上げると、手元の資料をめくりながら言葉を続ける。
「まずは、自己紹介から……前から順に一人ずつ名前と、得意分野などがあれば……」
どよめきとともに、教室の空気が揺れる。
誰もが初対面、誰もが“他人の品定め”を始める時間。私はこの時間があまり好きではない。
教室の前列から、ぽつぽつと名乗る声が上がる。
名前と出身地や得意な魔法分野。それだけのはずなのに、一人一人が張り合っているように聞こえるのは、気のせいではないだろう。
家名を誇示するように名乗る者、わざわざ家の実績を並べる者。
それを受けて、平民の生徒たちは小さく萎縮するか、逆に反骨心を見せるか、どちらに分かれていた。
やがて、エミリーの番が来た。
「エミリー・ウィローです! 南部地方出身で、得意な魔法は回復系です。よろしくお願いします!」
堂々とまではいかない。けれど、明朗で快活な自己紹介だった。
そして、家名も地位も語らないその自己紹介に、教室の空気が一瞬だけ凍った。
「……平民らしいわね」
「地方の癒し手ってことかしら」
「それであの人と同室なんて、運が良かったのね」
ささやきが、空気の隙間を縫って広がっていく。
私は無言のまま立ち上がり、自分の番が来たことを示す。
「ロウェナ・ヴェインウッドです」
名乗るだけで、場の空気が変わった。誰かが小さく息を呑み、わずかに姿勢を伸ばす気配。
私にとってはいつものことだ。注目されるのも、過剰に気を遣われるのも、反発されるのも。この名前には、それだけの意味がある。
「ロウェナさん、ロウェナさん、得意魔法は!?」
突然、隣からぴょこんと手を挙げたエミリーの声が響いた。
私は思わずは彼女を見やる。好奇心に満ちた瞳が、真っ直ぐに見つめている。
「答える必要、ある?」
「あると思います! だって、知りたいですし……!」
悪意のない瞳に嘆息する。
教室の視線が私に集まる。その中には期待、警戒、あるいは嫉妬……さまざまな感情が混ざっていた。
「氷属性魔法と空間制御」
周囲が再びざわめく。
やはり、という反応。けれど、その内のいくつかには、ほんのわずかな畏怖の色も混じっている。
空間制御──極めれば、瞬間転移や異空間封印などの応用にも通じる高度な魔法体系。
加えて氷属性。感情を律し、精密な制御を必要とする冷厳な魔法。
その両方を習得してるというだけで、周囲にとって私は異質であり、畏れるにたる存在だと示すことになる。
隣を見ると、エミリーは相変わらず嬉しそうに頷いている。
周囲の反応など、視界にすら入っていないかのように。
「……以上です。次の方、どうぞ」
私は静かにそう言って、席に腰を下ろした。
エミリーは小さく拍手しようとして、周囲の空気に気付いて慌てて手を止める。
そこから先の自己紹介は、ややぎこちない空気のまま続いていった。
誰もが、私とエミリーのやりとりを見て、何かを感じたのだろう。明らかに言葉を選ぶものが増え、声が小さくなる生徒さえいた。
そんな中──
「俺はエイダン・ホロウェイ。得意魔法は物理強化と炎。それから剣技が得意です!」
張りのある快活な男の声が教室に響いた。
エイダン・ホロウェイ。
西方領の準男爵家の三男。特別な血筋ではないが、領内では有名な戦士として名を馳せる家系だ。
本人も実践経験があり、入学前から武闘派として一部に名を知られていた。
「あれが、ホロウェイ家の……」
「やっぱり堂々としているわね」
ささやきがまた広がる中、私は無意識に隣を見る。
エミリーが、ふと息を呑む音がした。
彼は『Regency Lumen~運命を照らす灯~』の攻略対象キャラクターの一人でもあり、エミリーとは入学式の日に対面しているはずだ。
小さなざわめきが教室を満たす中で、担任のライナス教師は苦笑いを浮かべつつ、手元の名簿に視線を落とす。
「え、ええと……次の方、お願いします……」
その後は滞りなく進んでいき、全員の自己紹介が終わった。
ライナス教師が「ありがとうございました」と頭を下げ、教室内にささやかな安堵の気配が広がる。
緊張が解けるように、誰もが肩を緩める中──
「エミリー!」
明るく通った声が、教室の一角から響いた。
振り返ると、教室の後方に座っていたエイダン・ホロウェイが立ち上がり、笑顔を浮かべながらこちらへ向かって歩いてくる。
「昨日ぶりだな。入学式の時はちゃんと話せなかったからさ。覚えてる?」
「あ……! はいっ、覚えてます!」
エミリーは驚いたように瞬きを繰り返した後、ぱっと笑顔を浮かべて応じた。
その反応に、エイダンの笑みが更に深まる。
「よかった。自己紹介、堂々としてたな。回復魔法、得意なんだって? すごいな」
「えっ、いえ……そんな、すごいなんて……!」
エミリーは慌てたように手を振ったが、その顔は嬉しそうに赤らんでいた。
教室の一角で、小さなどよめきが広がる。
貴族の子息、それも武家の名門の三男が、平民の少女に声をかけるという異例。
私は黙って様子を眺めていた。
エイダンの言葉に下心めいたものは見えない。ただ、率直な好意と関心がそこにはある。
けれど、それは小石を投げ込んだ湖面のように、また新たな波紋を教室に広げていった。
──エミリー・ウィローという存在に向けられる視線の質が、また少し変わる。
「……ホロウェイ卿、あの子に興味があるのかしら」
「まさか。あり得ないでしょう、あんな平民に」
貴族の子息たちの間に、ざわめきが走る。
しかし当のエイダン・ホロウェイはどこ吹く風だ。
「ロウェナさん」
エイダンは自然な流れで私の方へ視線を移す。その眼差しには敵意も畏れもなく、ただ真っ直ぐなものが宿っていた。
「あんたとも話してみたかったんだ。ヴェインウッド家の名はもちろん知ってるし、こうして同じクラスになれるなんて光栄だ」
「……そう」
そっけなく応じる。慣れた反応だった。家名への挨拶、形式的な社交。
けれど彼の声には不思議と敬意だけでなく、個人として見ている色が混じっているようだった。
「細密な氷魔法を駆使すると聞いている。よかったら今度、一緒に模擬戦でもしてみないか?」
「機会があればね」
「ああ、楽しみにしている」
屈託なく笑うエイダンに、私は一拍だけ間を置いてから言った。
「貴族のあなたが、どうしてエミリーに?」
周囲の数人が小さく息を呑むのが分かった。けれど、彼はまるでためらいなく答えた。
「平民かどうかなんて、俺にはどうでもいい。昨日会った時に真っ直ぐな目で話してくれて、それが嬉しかった。ただそれだけだ」
即答だった。
それを聞いたエミリーはぽかんとして、それから小さく俯き、けれどすぐに顔を上げた。
「……ありがとうございます。私も、昨日エイダンさんに声をかけてもらって安心しました」
「それはよかった。これからよろしくな、エミリー」
「はい!」
エミリーが笑う。太陽のように真っ直ぐで、曇りなく。
その様子を見ていると、教室の空気がまた少し揺れ動いた。
ざわつき、疑念、羨望、そして──ほんの少しの尊敬。
立場や身分を超えた真っ直ぐなやり取りは、誰かの心に何かを投げかけたのかもしれない。
エイダンは軽く手を上げてその場を離れ、自分の席へと戻っていった。
「……自由な男ね」
私は思わず呟いた。別に否定しているわけではない。羨ましく思ったのかもしれない。
教室の後ろで再び椅子が音を立て、担任のライナス教師が口を開いた。
「あ、あの、では……自己紹介も終わったことですし、次は学園生活についての説明に移ります」
そう言って彼は教壇に置いた資料の束を配り始めた。
「今日の配布物には、年間のスケジュールや、寮のルール、それから授業の受講方法がまとめられています。ええと……質問があれば、後で個別に対応しますので……」
不慣れな手つきで配布された資料を受け取り、ぱらぱらと目を通す。
その横で、エミリーがひそひそとささやいた。
「ロウェナさん……エイダンさん、すごく優しい人ですね」
「そうね」
「なんだか、今までと全然違う世界に来たみたいです。まだ全部信じられないくらいで……」
浮かれた様子ではない。ただ、実感がまだ追い付いていないようだった。
「当然ね。そのうち慣れるわ」
「そうですよね、頑張ります」
オリエンテーションは、思った以上に情報量が多かった。
教室の空気は張り詰めたまま、けれど担任のライナス教師が一つ一つ丁寧に説明を進めるたび、次第に緊張の糸も緩んでいった。
資料には、授業の選択方法や試験の評価基準、寮での過ごし方が細かく記されていた。
寮では貴族と平民を区別せず、部屋割りも成績と魔力量を元に調整されていることが明言されていた。
つまり、エミリーとの同室は偶然ではなく、魔力量において彼女がそれだけ評価されいる証でもある。
それでも、周囲がすぐに納得するはずもない。
私は机の上の紙を静かに伏せた。エミリーも横で小さく息を吐いていた。
説明が全て終わった頃には、太陽が少し傾き始めていた。
ざわつく廊下を抜け、私たちは連れ立って寮へと戻った。
昼の喧騒に比べれば、足取りは静かだった。
「……なんだか、あっという間でしたね」
エミリーがぽつりと呟く。手に持った資料の束がぎゅっと握られ、わずかにシワが寄っていた。
「本当はもっと緊張して、何も話せないかと思ったんです。でも……ロウェナさんがいてくれたから平気でした」
「私のせいで目立ったわ。迷惑だったでしょう」
「そんなこと、全然ないです!」
即座に返された声に、思わず足を止める。彼女も立ち止まり、こちらを向いていた。
「……私、昨日からずっと怖かったんです。場違いなんじゃないかって。でもロウェナさんが隣にいてくれて、私ちゃんと前を向いていられたんです」
「……」
「それに、ロウェナさん、格好良かったです」
真っ直ぐ向けられる視線に、思わず視線をそらす。
「……そう。なら、良かったわ」
素っ気なく言ったつもりだった。けれど、その声がわずかに柔らかくなったのを自覚する。
エミリーは、しばらくこちらを見つめ、やがてふと微笑んだ。
「……やっぱり優しいんですね、ロウェナさんって」
「勘違いしないで。私はただ……」
ただ、なんだというのだろう。口をついて出かけた言葉を、私は途中で飲み込んだ。
優しくない。ロウェナ・ヴェインウッドは、ただの一度も優しかったことなどない。
利用されないように、軽んじられないように、冷酷に振る舞ってきた。
けれど、彼女の無邪気な言葉を否定し切ることが、どうしてもできなかった。
気まずさを誤魔化すように、私は歩き出す。
「……戻るわよ。夕食の前に、部屋で資料に目を通しておきたいし」
「はいっ、私もご一緒していいですか?」
ぱたぱたと軽やかな足音が隣に並ぶ。
横顔をちらりと盗み見ると、彼女の笑みは変わらず暖かかった。
「好きにしなさい」
夕日に染まる寮の廊下に、私たちの影が薄く伸びていた。