はじまりの鐘が鳴る朝
よろしくお願いいたします
重厚な石造の建物が、朝の柔らかな光を浴びて静かに佇んでいた。
中世の趣を残すその外観は、まるで何世紀もの知の魔法の重みを刻み込んだかのように荘厳で、見る者に畏敬の念を抱かせる。
灰色の石壁には蔦が絡み、季節ごとに異なる表情を見せる。広々とした中庭には整然と手入れされた芝と石畳が広がり、中央に据えられた噴水が澄んだ水を湛えている。
高くそびえる時計塔が学園の中心に構えられ、重厚な鐘が時を刻む音は、校内のどこにいても微かに聞こえることだろう。
尖塔とアーチが連なるゴシック様式の建築は、魔法そのものが石に宿ったような美しさを放っている。
ステンドグラスの大窓から差し込む光は、色とりどりのガラスが織りなす虹のような輝きが床に落とし、生徒たちの足音を優しく包む。
聖エリディア魔法学園。
その見事な外観に、思わず感嘆のため息が漏れる。
夢にまで見た魔法学園が、今、目の前にある。
……これで今の私が、“悪役令嬢ロウェナ”でなければ、どれだけ幸福だったことだろう。
『Regency Lumen~運命を照らす灯~』
聖エリディア魔法学園に特待生として迎えられた主人公が、魔法の才能を磨きながら、個性豊かな仲間達と絆を深めていく乙女ゲームだ。
その中に登場する悪役令嬢が、ロウェナ・ヴェインウッド。
彼女は魔法使いの中でも名門と言われる家の出で、幼い頃から魔法の天才だと持て囃された傲慢な少女。
特待生に選ばれなかったことでひどくプライドを傷つけられたロウェナは、特待生に選ばれた主人公に嫉妬心を抱く。最終的には魔力暴走を起こして、ラスボスとして主人公に敗北して死んでしまう。
ぶるりと身震いをする。
早い段階でゲームの記憶を取り戻した私は傲慢なロウェナにはならなかったが、どれだけ努力をしても特待生に選ばれることはなかった。
前世の記憶を持っているからかといって、そう簡単に運命を変えられるわけではないらしい。
しかし、諦めるわけにはいかない。
私は死にたくない。
物語の中で彼女が迎えた破滅の結末を、ただ黙って受け入れるつもりはない。
きっと未来は変えられる。
そのために私は、初日の式典で誰とも関らず、名家の令嬢らしい冷静さを装い、空気のように過ごしていた……はずだった。
だが入学初日。
運命は、私のそんなささやかな努力をあっさりと踏みにじってくる。
「ロウェナ・ヴェインウッドさん、ですか? 私、エミリー・ウィローです! 今日から同室ですね、よろしくお願いします!」
そう言って花のような笑みを浮かべたのは、ゲームの主人公だった。
聖エリディア魔法学園は全寮制だ。部屋は二人部屋。そこまではいい。
主人公の同室は友人キャラのイーディスだったはずなのに、どうして悪役令嬢の私と同室になっているのだろう?
「……うん、よろしく」
とっさに取り繕ってそう返すのがやっとだった。
浮かべた笑みは、きっと不自然だったと思う。頬が引きつっていたのが、自分でも分かった。
エミリーはそんな私の動揺に気付いていないのか、気に留める様子もなく、ぱっと表情を明るくする。
「実は私、入学前からロウェナさんのお名前、知ってたんです」
「……そうなの?」
名門ヴェインウッド家の名は、魔法界ではそれなりに有名だ。特に旧家の生徒の間では。
けれど、平民出身のエミリーがなぜ知っているのだろう。
「私、学園に入学することが決まってから、ずっと不安で……。だから、魔法使いの方々のことを、こっそり調べたんです。どんな方がいるのかなって」
ふと目を伏せて、彼女は小さく笑った。
「ロウェナさんのこと、名門一家の天才だって。頭が良くて、容姿も完璧で、ちょっと近寄りがたいって噂もあって……。でも、憧れてたんです。そんな人と同室になれるなんて、信じられないくらいで」
その声には、あざとさも下心もない。
ただ純粋に、憧れの人に対する真っ直ぐな想いが滲んでいた。
「憧れなんて……」
思わず、そう口をついて出てしまった。
誰かにそんな風に言われるのは、初めてだった。
これまで褒められることはあっても、それは“当然”の評価だった。
私はロウェナ・ヴェインウッド。名家の娘で、魔法の才に恵まれた、他人よりも少し器用なだけの人間。“天才”なのだから、できて当たり前。
「はい。ずっと、お会いしたいと思っていました」
エミリーは、真っ直ぐな瞳で私を見上げてくる。
その光は疑いも臆病さもない。ただの尊敬と、小さな親しみ。
私は視線をそらすしかなかった。
真っ直ぐに向けられる好意が、こんなにも眩しくて、戸惑うものだとは知らなかった。
「……そのうち、幻滅するかもしれないわ」
口の端で苦笑をこぼす。自嘲するように。
けれど、エミリーは小さく首を振った。
「しません。──きっと、もっと素敵なところを知れるんだろうなって思ってますから」
思わず言葉を失う。
あぁ、そうだ。──ゲームの主人公は、こういう子だった。
真っ直ぐで、純粋で、人を疑うことを知らない。
悪役令嬢ロウェナに対してさえも、「きっと分かり合える」と信じてくれるような、そんな子。
だから、私はこの子が好きだった。
攻略対象の誰よりも、この子の幸せを願って、何度もエンディングを見届けた。
この子を笑顔にする物語を、繰り返し、繰り返し、夢中になって追いかけた。
「じゃあ、失望されないように頑張らないといけないわね。……改めてよろしく、エミリー」
精一杯の笑みを返すと、エミリーは顔を綻ばせた。
「はいっ! よろしくお願いします、ロウェナさん!」