同性愛者とニアリー
『僕は彼のことが好きだ。これ以上付け足しようがなく、愛していると言えば繕い過ぎているし命にも代えられると言えば虚勢になる。なので端的に、僕は彼のことが好きだ。
紺野弦を一言で表すならイメージ通りの高校生だ。街頭インタビューをして、あなたが思う男子高校生とは、と訊けば過半数が彼みたいな人物像を掲げるだろう。テニス部に所属し催し物に積極的で、誰とも分け隔てなく接する。均等の取れた身体は小麦色に焼けていて、唇は薄く目は大きい。長いまつ毛は瞬く度に茶色の虹彩を隠し、鼻筋は一直線だ。
では僕はどうかと言えば、あまり考えたくない。目立つことがリスクになるといつの間にか考えるようになり、いつの間にか黙っている姿がデフォルトになってしまった。なぜ僕と彼がその仲を友達と表すことができるまで深まったかと言えば、出身中学校が同じという共通点があったからだ。中学生の時は一度も話したことが無い。そもそも、彼は僕のことを知らなかったし、僕もそれまで話したことすらなかった。高校の入学式で彼の方から話しかけてきて、そこで判明した。属するコミュニティの選択肢どころかグループも形成されていない時期にその共通点があるのは大きく、彼の周りに砂鉄のように人が集まる時期になってもやはり僕と彼は友達であり続けることができた。世間、つまり教室内の評判で言えば僕の肩書きは「紺野くんの友達」となっている。彼もそう思っているだろうし、僕もそれで良い。
いつから彼のことを四六時中考えるようになったかは定かではない。いつの間にかそうなっていたとしか言いようがない。
僕がいつ自分の内面の歪な部分に気付いたのかは今は関係ない。確かにあれほどまで僕の好奇心と欲望を駆り立てた女というものがいつから案山子と思えるようになったのかというは僕にとってはもちろん人生のターニングポイントだし、僕がもし自伝を出すなら目次に載せる。しかし今はどうでも良い。なぜなら彼のことを語る上で僕の事情など入る隙が無いのだから。そんな資格は無いのだから。
二年生の始め、彼に恋人ができた。「俺、彼女できたわ」と彼は言った。彼にとっては些細なことだったのかもしれない。僕らみたいな子供にとって恋愛は無責任に遊べるゲームのようなもので、本人らがどれだけ心血を注いでいるつもりになっていても将来に向けての練習項目のひとつに過ぎない。なので進学するか、または進級するか、もしくはもっと前段階でかの二人は何となく破局するだろうな、と思っていた。しかし僕はそれを口に出すほど野暮でもないし捻くれてもいない。だから、そこまで気にしなくても良かったはずだ。
眩しさが故でなく目を反らしたのは初めてだった。
彼が異性愛者だったことでもなく、あの女がそこそこ美人だったからでもなく、あの二人が一年生の体育祭のときに一緒に実行委員を務めたからでもなく、問題は、僕が彼に何のアプローチもしなかった点にある。僕は遂に彼に何ひとつとして伝えることができなかった。
今年は何か変えようと思っていた矢先のことだったので、彼から直接恋愛事情を聞かされた僕は次の日に熱を出して学校を休んだ。そして当然のように何も知らない彼がお見舞いチャットをお見舞いしてくれたので食事は更に喉を通らなくなった。
恋というのは花粉症のようなものだ。別に杉の森に入って深呼吸をしなくても、日常生活で僅かに花粉を摂取し続ければある日突然発症する。僕は彼にただそこにいて欲しかっただけ、普通に学校で顔を合わせ普通に話すことができれば良いと考えていたが、どうやら違ったらしい。いつの間にか彼のために用意していた袋はいつの間にか一杯になっていた。
だから、これはおかしい。今回のようなことが起きるのであれば、それはあの時期だったははずだ。』
そこまで書いて、俊は慣れたはずの椅子の感触がどうにもしっくりこず、卓上ランプを消しながら立ち上がり伸びをした。天井のライトとカーテンから漏れるぬるい月明かりが混ざり、畳のいつの間にか付いた真新しい擦った跡を際立たせていた。
本棚の上には埃が積もっていて奥の方は小さく不細工な蜘蛛の巣が張っていたが俊はそれに気づかない。俊は小学校の頃から使っている勉強机に目を落とし、でこぼこした表面を親指の腹でなぞった。
紙の音がする。漫画のページを捲っているのは俊ではなく彼がさっきからずっと視界の端に捉えている彼が『彼』と呼んでいる存在だった。『彼』は敷かれた布団の上に片膝を立て壁に背をもたれながら漫画を読んでいた。俊が眺めていると『彼』は顔を上げとぼけた表情で笑みを浮かべた。俊は目を細め下を向き部屋を出た。
俊が廊下に出ると洗面台のドアは開いていてやつれた顔が鏡に映った。洗面所が暗いからではなく、彼は誰から見ても不健康な表情をしていた。その右を見ると閉じられたドアがあった。
リビングに置かれた食卓と三脚の椅子はその奥にあるソファとテレビ、テーブル代わりの低く長い木製のスツールがあるせいでいやに大きく見えた。食卓は丸い水跡が坂道の滑り止めのように並んでいて、対照的にスツールは光を均等に反射している。
椅子と壁の間を猫のようにすり抜け猫の額のような台所に立つと俊は乱雑に冷蔵庫の冷凍室を開けクリップで止められたチャーハンの袋を取り出し、目分量で皿に入れラップもかけずに電子レンジに入れた。
ストレスだ。調理開始のボタンを押しながら俊は微かに後頭部に響く頭痛にそう結論を付けた。
肩甲骨の辺りにこそばゆさを感じ、俊の背筋は陸に打ち揚げられた海老のように反った。見ると、『彼』が漫画を片手に口をすぼめている。
「これの続きってどこにある?探しても見つからない」
「三段目の本棚の奥、前後で二列になってるから。ほら」
言いながら俊は自室に戻り本棚から漫画を取り出し『彼』に渡してやった。『彼』はまた布団に寝転がりページを捲った。俊はまた椅子に座り鉛筆を素早く動かした。
『今、彼に話しかけられた。漫画の続きが読みたかったらしい。
分かっている。あれは幻覚で、おそらく幻覚に話しかけるというのはあまり推奨された行為ではない。僕の場合は交流と呼べる域にまで入っているのでもしこの病気が治ったと医者に太鼓判を押されても日常生活に支障が出るかもしれない。
彼は煎餅布団に寝転がり、ワイシャツの固いカラーを整えてからまたページを眺め始めた。外跳ねしたまつ毛はこの距離からでも分かるくらいに芯がある。捲った袖、前腕はメリハリがあってきめ細かい肌は少しだけ照明を反射していた。雨が当たったら面白いくらいに滑るだろう。
でも彼は紺野弦ではない。幻覚だ。
紺野弦が既にこの世にいないからそうと決めているのではなく、可能性として、確率として確実にあり得ないから僕は彼が彼ではないと断言している。
さて、現在時刻は午後九時、今日できることは病院の予約と医者にこの症状をどう説明するかを事前に考えるという二つだけだ。症状だけを言えば済むかもしれないが、しかし僕はそれだけで済まないだろう。きっと、心に入れるだけ入れて腐りかけている全てを吐き出してしまう。そうなったときの為に僕は彼のことを思い出さなくてはいけない。僕が彼について何を思ったのか、そして僕の内側が焦げてしまったのはどうしてか。
入学式の頃から思い出しても良さそうだが、しかしそれでは時間がかかり過ぎてしまう。なので僕にとって最も大きな事件から思い出そう。まずは向き合うことから始めなけれ』
電子レンジの甲高いベル音が響いた。ため息をついてデジタル時計を見る。二二時四七分。普段は既に眠っている時刻だった。俊は学生鞄のジッパーを開けため息をついてからクリアファイルを机の上に引っ張り出した。明日提出しなくてはいけない課題だ。俊にとって量はそれほどでもなく、頭を使うほどでもない。交点の位置ベクトルの問いと現代文の記述問題がそれぞれプリント二枚分。課題は週に二回出され、彼はそれを毎回期日に提出し、忌々しいレ点を付けられたことは無い。
重い頭を支える手、指の間からは俊が自分以外に面白いと思う奴がいるのかと疑う重厚なSFを描いた漫画のページをペラペラと捲る『彼』が見える。俊はどうして自分はこんな状況で明日のことを考えられているのか不思議だった。
「どうした、俊」
『彼』が見上げる。前髪の影が細い鎖骨に引っ掛かっていた。
「プリントが終わってない。夕飯もまだだ。いつもはとっくに寝てるはずなのにやる気が起きない。焦ってるのに僕は幻覚を見ていて日記を書いている。優先順位がぐちゃぐちゃだ。どうしたもこうしたも無いよ。僕はどうかしているんだ」
「大変だな」
「たぶん君のせいだ。いや僕のせいか」
「哲学の話か?」
「病気の話だよ」
「明日は休め」
「無理だ。幻覚が見えるほど精神がまいっていても学校は休めない。高校生はどんな時でも学校に行かなくちゃいけないし、提出物は出さなくちゃいけないんだ。あと、それ面白くないだろ。下から二段目にあるやつの方が面白い。それ描いた漫画家は次の作品で有名になったんだ。僕がその漫画を買ったのはただのカッコつけ。皆と同じじゃ嫌だって思ったんだよ。だからこうなっちゃったのかな」
「俊って捻くれてるのか素直なのか曖昧だよな」
「それ、やめてくれ。彼は僕のことを名字で呼ぶんだ」
机の脚の周り、そこだけ色の濃いままの畳を足の親指で押しながら俊は『彼』を睨んだ。水垢塗れの窓ガラスを隠す乳白色のカーテンと灰色の壁を背景に片膝を立て座る『彼』は俊の目にはいつまでも異質に見えた。
「課題は俺がやっておく。レンジの中で飯が冷めてるぞ」
言われた途端に俊は空腹感を思い出した。何か小さい引っ掛かりが彼の頭に芽生えたが、それは目の前の異常によって一瞬で霧散した。
「いや、自分でやるよ。今日書こうと思ってる分はもうすぐ終わるから、これが終わったら食べて、そんで寝る。だから、じっとしておいてくれ」
『彼』は返事をせず、また漫画を読み始めた。俊は机に向き直り鉛筆を握って指で開かれた日記を押し癖をつけた。だが鉛筆はいくら待っても新しい文字を書いてくれず、ページが捲られる音が空間に滲んだ
「僕ってさ、女だったら絶対よく分からない社会人と付き合う女子高校生になってたと思う」
「なんだ急に」
『彼』は漫画を閉じた。
「あれってさ、要は死刑囚と結婚する女と一緒だろ?つまり自分は何も持っていないと思っていて、それが嫌で、でも目立ち方も分からないような人間なんだよ僕は」
「穿った見方だ」
「じゃあ例えを戻すよ。社会人と付き合う女子高校生がいるだろ?」
「四組のあの女子のことか。天藤さんだっけ、ぱっとしない見た目なのによくやるよな」
「ぱっとしないからだ。髪型を変えたりメイクをしてみたりするのが、ぱっとしたい女子高校生の常套手段だ。でも彼女は恐らく出会い系アプリで探し見つけた男と付き合った。どうしてだと思う?」
「それは、お前がさっきも言ったように『ぱっとする方法』が分からないからじゃないのか?」
「根本に自分の立場を変えたくないという思いがあるからだ。彼女が属する環境は『家』と『学校』だ。他にもあるかもしれないけど今はどうでも良い。彼女はその環境における自分の立ち位置が変わってしまうのが怖いんだよ。だから自分で新たな環境、つまり『社会人と交際するための場所』を作り出したんだ」
「天藤さんが心配なんだ」
「いや全然。そもそも話したこと無いし。それに、社会人だったら誰でも良い根暗な女と女子高校生だったら誰でも良いしょうもない男のアレコレに関わりたくない。とにかく、僕はそういうタイプの人種ってことだよ。僕は手に入れた環境を逃したくないばかりに君を作り出してしまった」
「俺はちゃんといるよ」
「自問自答はもううんざりだ。僕はリビングにいるから、戻ってくるまでに消えておいてくれ」
「ひどいな」
「本当にな」
俊は横目で『彼』を見ながらゆっくりとドアを閉めた。電子レンジから漏れた魚介と醤油の臭いが充満していた。俊は家具を縫うように進み換気扇を点けてから皿を取り出し棚からスプーンを出すと、食卓に着かずにその場で茶色の米を口に運んだ。
「座って食べろよ」
いつの間にか横に立っていた『彼』は憐れむような眼差しで俊に言った。
「分かったよ」
うんざりしているということを包み隠さずに俊は言った。そして次の瞬間には俊はもう席に座り右手にはスプーンが握られていた。思わず振り返ると、さっきまで自分がいた台所が見える。
時が飛んだ。俊は率直にそう思った。
「どうした」
目の前に座る『彼』が驚いたような顔で俊に言った。
「いや、あれ、僕、いつの間に座ったんだ」
喋りながら俊は口の中が空になっていることに気づく。反射的にスプーンを離し俊は立ち上がった。
「やばい。解離性ナントカだ」
「なんだそれ」
「時間が飛んだように感じるみたいな、病気だ。僕はさっきまでの記憶を失ったんだ」
俊は人が切れたように椅子に腰を落とし、両手で顔を隠した。
「ヤバい。僕、相当ヤバい」
狼狽えている俊の真っ暗な視界に光が走った。『彼』が俊の手に自分の手を被せ指を指の隙間に滑り込ませたからだ。汗が滲んで冷えた手が段々と暖かくなっていくのを俊は震えが収まるまで感じていた。
「大丈夫。お前は大丈夫。今日はやることも多かったし幻覚も見てるしでかなり疲れている。だからちょっとうつらうつらしてただけだ。大袈裟に捉えるな」
息を整え『彼』の言葉を反芻していた俊は突然手を振り払い『彼』を睨みつけた。『彼』は眉を下げて慈しむように俊を見返した。
「あっち行ってろよ。僕は一人で食べるから」
「そうか?じゃあ部屋で待ってる」
意外にも素直に部屋に戻っていく『彼』を見て、やはりこいつは幻覚なのだと俊は自分を納得させるように繰り返し思った。
スプーンを取り口に入れた米粒のまとまりは冷たく、水気が少しも残っていなかった。
*
教室の窓は半開きにされていたが入ってくるのは遅い熱風だけで、後ろの席で半袖のシャツを前回にしている男子生徒は最後に点けられたのはいつなのかとエアコンを眺めていた。
「青木さ、たまには総菜パン食べろよ。いつもそのよく分からないでかいパンばっかだけど、身体悪くするぞ」
紺野は頬をすこし膨らませながら言った。俊は口角を上げながら口の中のものがペースト状になるまで噛み、パックの牛乳で流し込んでから喋り始めた。
「これが一番美味い」
「あれだ、第二栄養失調になるぞ」
「何それ。第一が普通の栄養失調?」
「そう、カロリーが足りてるけど栄養が偏っててなる栄養失調」
「そうなると、どうなるんだ」
「さあ?身体が腐るんじゃない?」
二人は鼻で笑い合い、俊は昼休憩に一つの机を共有して昼食を食べるというごく自然な行為に及んでおきながら耳から蒸気が出そうな火照りを覚えていた。顔は赤くなっていないか、目の前を見過ぎていないか、顔を近付けさせてはいないか、猫撫で声を出していないか。俊は自分の秘密が露見することよりも、それによって周囲の人間が紺野弦を見る目が変わってしまうことを何よりも恐れていた。
机の丸い角の下から見える太ももや膝に引っかかって張っている学生ズボンの質感を見ている間、俊はやたらと空洞の多いごわついたパンの味を忘れることができていた。
オレンジ色の空気を破るように乱雑なガタガタという音が聞こえたかと思うと俊の視界に椅子が運ばれてきた。見上げると鈴木友康という若干背の低い男が目をぎょろぎょろとさせながらわざと大袈裟に座った。
「何してんの」
鈴木は右のポケットに何かを入れているようで、そこを抑えながら二人を交互に見た。
「別に、昼飯食べてる」
俊の素っ気ない返事をフォローしようと紺野は身体を鈴木の方に向けて目を細めて言った。
「なんかいいことあった?」
俊は紺野のそういった誰にでも向ける気遣いがあまり好きではなかったし、それが自分の小さい我儘が生み出した嫉妬であることも理解していた。俊は体育祭が終わってから紺野と仲良くしている他クラスの女子にも同様の感情を向けていたが、しかしこの鈴木という男子にはまた別の、ある種の嫌悪感を上乗せしていた。
「これ、見てみ」
鈴木がポケットから半分だけ見せたのは電子タバコだった。最近流行りの、中にリキッド液を入れてボタンを押しながら吸う充電・加熱式のタバコだ。
また始まった。俊はそう思い、一応驚いたように目を精一杯開かせながらため息を殺すためにストローで牛乳を力強く吸った。
俊は中学三年生の頃を思い出していた。彼はそれまであまり勉強というものに関心を持たなかったが、スマートフォンを手に入れてからテストで良い点を取るのがいかに将来の助けになるかを、SNSなどで他人の成功を突発的に見せつけられながら否応なく理解した。そして遅れを取り戻すように勉学に励み、そこそこの県内偏差値を持つ公立高校の入試を突破した。彼は工業科や商業科など、自分の在籍する普通科よりも偏差値の低いグループを見下していたが、それは冷笑というよりも憐れみや同族嫌悪という方が正しかった。
俊はどうしてこの鈴木という生徒は受験勉強をひたむきに頑張ったはずなのに不良ぶるのだろう、と思っていた。もしかして、中学生時代はそういった反社会的なコンテンツを制限されていて、高校である程度親に許され自由を獲得し、そうして不良漫画を読んだりして影響されたのだろうか、とも彼は考え、同時に鈴木を大変哀れに思った。
「何それ」
紺野が訊いた。
表情から察するに紺野は鈴木が控えめに見せびらかしているのが校内に持ち込むのが禁止されているどころか未成年者が所持するのが法に抵触する物品であることを知らないようで、俊の頭の中には警報が轟いた。
「電子タバコ。ドンキで盗んできた」
まるで自己紹介でもするように堂々と自身の犯行を自供した鈴木の顔は得意げだった。
俊は呆れ顔を隠すことなく鈴木に向けた。鈴木はその悪意に気づかずへらへらと作り笑いを浮かべている。
工業科には荒れてる風を装っている生徒が多い。その影響で商業科や普通科の生徒たちも見よう見真似で万引きをしてみたりするというのを俊は風の噂程度に聞いていた。そういった人間はこれといったアイデンティティが無いからこそ、居場所を作るためにそういった小さな悪事を誇示するのだと図書館に置かれていたあまり有名ではない精神科医が書いた本を読んで俊は知っていた。
「いや、え、タバコなの、それ」
紺野はまるでキリンを初めて見た子供のように目を丸くさせ、俊を見た。俊は彼の目を見て、まるで娘を凌辱された父親のように鈴木を睨みつけた。
「そんなもん持ってくるな」
「は、なに、嘗めてる??」
鈴木は椅子から素早く立ち上がり、しかめっ面で俊に凄んだ。しかしその覚えたての映画を再現しているような鈴木の立ち居振る舞いを見て寒気を覚え、さっきまでの怒りがかなり収まっていることを自覚した。
「鈴木さ、お前つまんないよ。そういうヤンキーアピールってかなり痛いし、巻き込まれたくない。僕たちがそれ盗んだって言われてどうすると思った?すごい、かっこいいってなると思った?前から思ってんだけど、お前ってなんかズレてるよ。なんか、友達がいないから親にアニメの話する奴みたいな、そういう感じ。分かる?」
強い衝撃が頭に加わったと思ったら、なぜか地面に手をついていた。俊は自分がどうしてそんなことをしているのか分からず、どうして左の頬に鈍い痛みが走っているのか分からなかった。そして口の中に錆びた鉄の臭いが広がると同時に、いつかの記憶が蘇った。太い脚と細かなひび割れのある親指の爪。足の甲から脛、膝にかけてをびっしりと覆った縮れ毛。拳を握りながら犬の糞でも踏んだようにこちらを見る大柄の男。
痛みではなく、衝撃ではなく、理由が分からないまま俊はその場から動けなくなった。
「何やってんだ」
初めて聞いた。そう俊は思った。彼が紺野の大声を聞いたのはこれが初めてだった。気付けば紺野は鈴木を組み伏せ、後ろの方で女子が廊下に何かを叫んでいる。すぐに教師が来て、俊と紺野、そして鈴木が連れていかれた。その際、鈴木はポケットから電子タバコを取り出し側にあった机の中に入れたが、後から来た別の教師によって回収された。
翌週、鈴木友康の名前は生徒名簿から消された。
あの電子タバコは盗まれたものではなくて、鈴木が兄の部屋から持ってきたものだという噂が広まったが、俊はそれ以上知ろうとはしなかったし、興味も湧かなかった。
「鈴木って覚えてる?一年の時の」
俊は布団に寝転がり窓の外の灰色の雲を見ながら『彼』に訊いた。『彼』は側で胡坐をかきながら俊の顔を覗き込み、俊は目を合わせないように顔を背け続けた。
「まあ覚えてるか。君は僕の幻覚なんだし」
俊は『彼』に背を向けながら言った。
「鈴木さ、あの時、母親が再婚したらしい。子持ちが再婚なんて急にできないだろうし、きっと、鈴木は何度もこれから父親になる母親の男と会ってたんだろうな。そりゃあ、荒れる。だって母親が女になる瞬間をこの先ずっと見続けて、その原因の金で生活しなきゃいけない訳だし」
『彼』はいつの間にか俊の背中にぴったり合わせるように添い寝をしていた。うなじに吐息が掛かり身体が反応するのを俊はぐっと堪えた。
「後悔してるってことか?」
「違う」
俊は素早く体勢を変え『彼』と向かい合った。小さな鼻先同士が付いてしまいそうな距離だった。
「鈴木はもっと素直に助けを求めるべきだった。何もできないし特に仲良くもなかったけど、話に共感するくらいはできたのに、あいつは僕たちよりも上の立場を取ることで安心しようとした。罪悪感だけ残して、あいつは消えた。迷惑なんだよ。ああいう奴って」
「まあまあ、高校生だろ。じゃあ、そんなもんだろ」
「僕ならもっと上手くできた」
そう言って俊はため息を零し天井を見上げた。
「いや、無理か。こんな幻覚と対話してる奴じゃ」
『彼』は俊の上に跨り手錠のように太ももで腰を締め腹に薄い手を乗せた。長い指は確認するように肋骨をなぞりたるんだシャツの膨れ盛り上がった部分を爪が平らにした。くすぐったさに身を捩る隙もなく『彼』は俊の両手を固定し顔を近付けた。
「俺はちゃんといるよ」
俊は全身の血管が拡張し、ただ唾を飲み込んで『彼』を見た。西日をもろに浴びた横顔の凹凸は陰によって深みを増して、暗がりから覗く瞳の奥が乱反射している。
突如、脊髄に電撃が走り俊は『彼』を力任せに押しのけた。
「紺野はそんなことしないんだよ。気持ち悪い。僕はこんなことを望んでいたのかよ」
膝が震える。焦点が定まらない。
「あいつはそんなことしないんだよ。分かってるだろ」
「ごめん、ちょっとふざけすぎた」
迫る『彼』の手を引っ叩き俊は痺れる脚を引きずり部屋を出た。その際に窓ガラスが割れるような音が聞こえ反射的に後ろを振り返ったが、俊の目には気まずそうに俯く『彼』しか見えなかった。その立ち姿は青い哀愁を纏っていて、一瞬、ドアを閉めるのが遅くなった。
*
雨が降っていた。分厚い雨雲を何とか抜け出した日光はそのアパートをぼんやりと照らしている。
ドアが開かれ風が入り込むと玄関に立てかけてあった傘は糸が切れたように倒れた。俊はつむじからつま先まで濡れていて、靴を脱ぐ間に三和土には小さな水溜まりが二つ出来上がっていた。
「タオル持ってくるよ」
『彼』は昨日と変わらず皺ひとつ無い制服を着たままで、廊下の奥から呼びかけ、俊は強く目をつぶった後に改めて『彼』を見た。消えていない。
「まあ、今朝もいたしな」
俊は呟いた。
「いいよ、シャワー浴びるから」
鏡には青白い俊の顔が写っていたが、それは体調のせいではなく天井のライトが安物だからだ。排水溝からは深緑のカビが頭を覗かせている。ざらついたタイルに湯が当たると俊の細く毛の無い脚にダニのように鳥肌が広がった。
下着姿のままハンドタオルで頭を拭いている俊は鏡の端から顔を覗かせる『彼』を見てため息をついた。まだ消えていない。
「君、鏡に反射するのか」
「当たり前だろ。吸血鬼じゃないんだから」
『彼』はタオルを俊の手からするりと引き抜いた。
「拭いてやる」
強引にタオルを取り戻そうとした俊だったが、薄く冷たいプラスチック製のボタンが二個、薄い背中に当たっているのに気付いて首の後ろを掴まれた猫のように動きを止めた。彼は身を任せることにし、腕の力を抜いた。『彼』にもたれていなければ重心を失ってしまうが、幻覚であるはずの『彼』に体重を預けるという原理を超越した矛盾については一切考えなかった。
「学校はどうだった。今日はお前の嫌いな英語の授業があっただろ」
『彼』はタオルの擦れる音で掻き消されないよに声を少しだけ張った。
「英語が嫌いなんじゃなくて先生が嫌いなんだ。あの人、笑顔のままヒステリック起こすから」
「ストレスだろうな」
「それが分かってるのに彼女がいなくなってから茶化すクラスメイトも嫌いだ」
「それもストレスの発散だ」
「分かってる。いちいち言わなくていい。これもストレスの発散だし」
「発散になってるなら良かった」
「良くない。君は幻覚だから、不健康だ」
「病院の予約は済んだのか?」
「まだしてない。日記を書くのが先だ」
懐かしい。そう思いながら俊は布越しの『彼』の指に集中していた。脳を覆っている薄皮がゆっくりと剥がされているような感覚に眠気が寄ってくる。頭で生じた温かさは背骨を通って背中に広がり腰で散らばった。俊は重くなった瞼の隙間から鏡越しにこちらを見る『彼』の目を見て、そのまましばらく見続けた。
「ありがとう。もういいよ。ドライヤーは自分でやるから、部屋にいてくれ」
「分かった。また後で。あと、昨日はごめん」
俊は返事をせず、首にタオルを掛けシンクに両手を付いたまま、自室のドアが閉まる音を聞くまでずっと自分を睨んでいた。
『最初に書くのを忘れてしまったので今書いておく。あなたがこの日記を読んでいるということは、どういう手段を取ったにしろ僕のプライバシーを侵しているということになる。僕は医者に説明するために、僕が現実からこれ以上逃げないようにするためにこれを書いているが、現在進行形で頭のおかしくなっている僕のことだからこの日記をどこかに投げ捨てるかもしれない。
もしもあなたが僕と全く関係の無い誰かだった場合、日記という秘密の結晶にヒビを入れた行為に対する責任を取ってもらいたいと思っている。前のページを読んでいたら分かるように僕は今人生でもうこれ以上無いというほどに疲れていて、どうしようもない。だって幻覚を見ていてしかも会話までしている。しかし意見を交換できる人間などいないし、いたとしてもこれについて誰かと話し合いたい気分になることは一生ない。だから、もしあなたが今している行為にペットボトルのキャップ一杯分ほどでも背徳感を覚えているのなら、ぜひとも最後まで読み進めていただきたい。僕がこれから記すあれこれはただの些細な物事についての記録であって、客観的に見て善か悪か、間違いか正解か、零か百かなどときっぱり白黒付けられるものではないと思うので、何かを判断するというよりも、考えるというよりも、この日記の内容をどうか覚えていて欲しい。
さて、話を進める。原因は間違いなく、あれに違いない。あれ以降、あの教室はおかしくなった。いや、元からそうだったのかもしれない。率直に言って居心地が悪い。
すこし前、文化祭が開催された。他のところはどうだか知らないが僕の学校ではそれぞれクラスから選出された代表者が集まり実行委員会となって、具体的に言えば屋台の場所決めやそこで生の食材を扱うなら学校の規定に沿っているかを確認したり、教室の貸し借りなどを取り持つなどをする。生徒の自主性を重んじているのか教師陣の体力の限界なのかは知らないが、校風は自由な方だろう。僕のクラスからはもちろん紺野が選ばれた。一番最初に立候補したのが彼だったからだ。
すこし話は逸れるが、僕はこの日記に所謂な学園モノのドタバタ劇を記すつもりはない。なぜならそんな事は起きなかったからだ。僕がこれから書くのは創作物のようにハッキリキッチリしているものではなくて、もっと取り留めのないような、直視するのも面倒に思えるような、そんな話だ。
文化祭の二週間前の会議で、僕のクラスは唐揚げの屋台を出すことになった。無難な出し物だ。実行委員を務める紺野のお陰もあり、普段テニス部が練習をしている広場の入り口、その向かって右手側という立地の良いスペースを使わせてもらえることになった。そして企画会議が最終段階に移るその日に事件は起こる。看板のデザインや客引き、調理と下ごしらえの担当や遊びの範疇を越えない値段設定などを決めたその日の帰りに担任の福田がこんなことを言った。
「あれ、封筒が無い」
こぼれた一言に対し最初に首を素早く動かしたのは紺野だ。頭の切れる彼のことだから、その一言だけで事態の深刻さを理解したのだろう。
封筒とは準備金を入れていた茶封筒のことだ。食材、油、紙の食器や屋台の装飾、そのた細々したものを買うために教室の生徒全員が出し合った二千円、計三万四千円が入った封筒を探している福田を見続け、最初はちょっとしたトラブルを楽しんでいた僕たちの口角は段々と下がっていった。
午後三時二十分、下校時間は過ぎており中にはこの日の会議を部活動より優先している生徒もいた。まず立ち上がったのは野球部の岩崎だった。
「無いって、無いんですか?」
眉間には皺が寄っていた。彼の表情を見た何人かの生徒は背筋を少し伸ばした。岩崎はやや堅物だが何かにつけて面倒見が良い。正義感が強く、本人も自分が周囲からそう見られることを理解しているようだ。
「職員室じゃないですか?」
紺野が福田に歩み寄ったが、福田は彼を見ようとせず何度も開けたはずの棚の中身を机の上に出し始める。ホッチキス、サインペン、ルーズリーフ、印鑑、ファイル数点。
「ここに入れておいたはずなんだよ」
そう言って福田は机の左上の棚を指した。
「昼に皆から貰ったろ?それで、ずっと入れておいたんだけど。ちょっと職員室見て来る」
扉が閉まり残された僕らは互いに目線を配らせたり首を傾げながらして待っていた。まず二千円というのは高校生にとっては簡単に切り捨てらない金額だ。その筈だ。母子家庭の僕は週に一回コンビニでアルバイトをしているし、僕以外にも家計に余裕を持たせたくて働いているクラスメイトはいた。だからといって僕は特別に金の大切さを知っているなどとは思っていない。私立などはこういったイベントのために事前に積立金を募っているらしいが僕の学校がその都度集金するので保護者からやいのやいのと言われる生徒も多いだろう。そうでないとしても、無くなっても気にならない金額でないという事は誰にとっても確かだった。
戻ってきた福田の表情で皆、全てを察した。
金が消えた。
結論から言って、犯人捜しは行われなかった。金の入った封筒が担任の机の中にあるということを把握していなかった生徒の方が多く、そもそも警戒していなかった。それに教室には休み時間の度に他のクラスの奴が出入りしていたので容疑者の特定すら困難だった。当然防犯カメラなども設置していないし、もし誰かが封筒が盗まれるのを見たらその話はあっという間にクラス中に広がっているはずだった。
「まあ、皆いろいろ考えるのは分かるけど、あまり憶測であれこれ言わないようにな。こっちで何とかするから、取り敢えず会議進めておいて。終わったら勝手に帰って良いから」
福田はそう言い残し再び職員室に向かった。その時は皆、まだ何かの間違いで封筒が一時的に無くなったと思っている節があったので取りあえず上辺だけは笑ってそれぞれの役割などを決めその日は解散した。
学校から出た時、僕は解放感に浸っていた。福田がいなくなってからの会議は皆どこかぎこちなく、それを自覚しないようにするためか誰かが特に面白くもないことを言うと過剰に手を叩いて笑ったりしていた。今考えると、あれは一種の現実逃避だ。
その日の僕は明日には全部解決しているだろうと考えていた。あのちょっと抜けたところのある福田のことだから、実は机の奥に封筒があったり、他の場所に保管しいていたのを忘れていたとか、そういう牧歌的な結末を予想していた。いっそ、クラスの誰が金を盗んだのかというのがすぐに分かって、皆でそいつを責めたて私刑に私刑を重ねてしまえた方が良かった。今なら切実にそう思う。
翌日の空気は若干重苦しくピリついていた。
僕たちの最初の課題として、もう一度集金をする必要があり、そしてそれは達成できなかった。
その日、黒宮という男子が登校して来るや否や真っ先に僕を見つけ話しかけてきた。
「ねえ、集金ってさ、今日やる感じかな」
彼は僕と同じくアルバイトをしている身だが平日はほぼ毎日家から近所のファストフード店で働いている。以前、同じ店の世間知らずな広報が明らかに家庭に金銭的課題があるような高校生アルバイトの一日のスケジュールを時間割を公開し搾取だとか何とか批判されたが、その時間割通りの生活を送っている奴だ。
「なにも聞いてないけど、今日じゃないんじゃない?ていうかあの封筒がまだ見つかってないってだけで、無くなったとは限らないし、またちゃんと発表されるだろ」
黒宮はトイレでも我慢しているかのように足をもじもじとさせ、僕の目を見たり見なかったりしていた。
「いや、それがさ、うーん、やっぱ、見つからなかったら、やっぱりお金は出した方が良いのかな」
何も言えなかった。彼と彼の家にとって二千円は大金だった。僕は文房具やノート、漫画や小説を買うためにアルバイトをしているが彼は違う。彼がいなければ彼の家は成り立たないのだろう。そしてもしもう一度集金されるようなことがあればかなり困るのだろう。黒宮は僕に伝書鳩になってくれとお願いしていた。別にその意図を汲まない理由もなかったのですぐに紺野にそのことを伝えると、彼は少し曇った表情をして答えた。
「なんか、もう一回集金するのは無理らしい。うちのクラスの保護者が今、けっこう騒いでるらしくて。いや一部なんだけど」
後から聞いたことだが、黒宮の親も含めてクラスの半数近くの親が今回の事件をちゃんとした事件として捉えていて問題の解決を先にすべきだと言っているらしい。それを聞いてホームルームの時間が始める直前になってやっと教室に入って来た福田の顔が少しやつれていたのに納得がいった。あの時、僕は確かに嫌な予感というものを覚えていた。何ができたかは分からないが、何かするべきだったのは事実だ。
福田は厳しい目つきで教壇に立ち、僕たちは何を言われるでもなく席に着いた。
午前八時十七分。二分遅れで始まったこのホームルームで僕は僕たちの生態を目の当たりにする。
「ええと、皆にちょっと報告なんだけど、お金は見つからなかった。どこを探しても無い。もちろん今も他の先生が精一杯探してくれてて、俺もそうなんだけど」
福田は苦虫を嚙み潰したような顔をして言葉を詰まらせ、紺野に手招きをした。
「紺野、ちょっと説明してくれる?」
紺野は頷きながら席を立った。
何も置いていない教卓をじっと見つめる紺野を見る僕たち、そして福田。岩崎は太い腕を組み彼の言葉を待っていて、黒宮はなぜか申し訳なさそうな顔で俯いていた。そして紺野は邪気を払いように手を叩き既に集まっていた注目を更に集中させた。。
「屋台は中止になった。朝、先生方とも少し話をしたんだけど、もう一回皆にお金を出してもらうのはあまり良くないし俺もそう思う。だからこのホームルームで代替案を出そう」
彼には良くも悪くもリーダー適性がある。皆を引っ張ろうとする。企画書の作成や他クラス、教師陣との話し合いなど面倒事を他人に任せない。その日の朝、自分だけ早く登校して教師と話し合ったことだって、彼でなく福田から他の生徒に広まった。今思えば、彼はクラスメイトに被害者意識を持たせることを避けていたのだと思う。その後に起きることをある程度予想してああいった立ち回りをしていたのかもしれない。
紺野は誰よりもあのクラスが文化祭を楽しめるように考えていた。しかし、だからと言ってクラスメイトが彼を無条件に慕い思い通りに動くとは限らない。
「代わりの案ってこと?今から決めるのはさすがに無理っぽくない?」
竹下が言った。この男は言動にところどころ棘があり本人も敢えてそうしているようで、普段ネットで何を見ているかまる分かりだ。しかしやや整ったルックスをしているので陰鬱な雰囲気があまり感じられない。それに嫌味な教師に対してもズバズバと意見を述べるので一部の生徒からはかなり気に入られている。
「文化祭の準備の為に学校がいろいろ時間作ってくれる前から話し合ってあれこれ決めてたろ。今から何ができるんだよ」
「まあまあ、あまり凝ったものにはできないだろうけど、取りあえず何か出さなくちゃいけないからさ」
窘めるように紺野は言った。
「教室空けといて『休憩室』にするとかでいいんじゃね?三年でそれやるクラスあるし」
若干の笑いが起こった。
「確かに三年生はあまり大々的なものをやらないけど、それは受験もあるしあまり注力できないからそうしてるだけであって、だから二年生は場所決めの際に優遇されていたりするだろ?今回は実質的に文化祭を全力で楽しめる最後の年なんだよ」
「そんなこと言ったってなあ」
「竹下。そんなん言っても仕方ないだろ」
岩崎が口を挟んだ。
「取り敢えず、屋外は無理なんだよな?」
「そうだね。場所を借りる理由が無くなった」
「ここの教室は他クラスに貸し出しする予定も無いし、ここで何かすれば良いだろう」
言い終わり岩崎が横目で睨むと竹下は口元を歪めた。この二人は性格が合わないのだろう、何かと揉めることが多い。それが分かっているので周りは両名をあまり近づけようとしない。
「それこそ準備が必要だろ。一昨日に準備の早いクラスを回ってみたけど、二組の『喫茶店』はメニューも衣装も内装も手芸部の奴らが丹精込めて作ってるマジもんだし、工業科の『お化け屋敷』なんか電動の仕掛けが用意される予定なんだぞ?クオリティが半端じゃない」
「俺らもそういうの作れば良いだろ。今から本気でやれば間に合うかもしれない。最初の会議の時に出た『縁日』はどうだ。あれ、子供用プールに水風船沈めて景品用意するだけじゃねーか」
「予算は?」
言い合いはそこで止まった。そう、予算が無ければ何もできない。
「ねえ、子供用のプールなら家にあるけど」
奥花という女子が手を挙げた。クラスの女子グループのリーダーだ。女子の領域は複雑で分かり難いが多分そうだ。詳しくは知らないが、彼女がその位置に持ち上げられている理由は顔が良くて家が金持ちだからというのが大きいと僕は解釈している。
「確か一個だけしかなかったけど、あれなら持って来れるよ」
一同が目を開かせたが紺野の表情は芳しくなかった。
「そういうのは禁止なんだ。壊れた時に保証ができないから」
それだけでなく、出し物の質がクラスの保護者の家計によって決まってしまうというのも理由のひとつだ。だから屋台や調理器具など学校が用意できないものは全て皆で出し合った予算で買うというのがルールとなっている。そして、今自分たちが置かれている状況ようやく理解したクラスの連中がざわめき始めた。
「今から決めるの無理じゃない?」「思った。間に合ないよね」「てか何ができるの?」「こういう時ってどうすればいいの?」「見る側に回るしかなくない?」
誰もが聞こえるか聞こえないかくらいの声で話し合っていた。紺野はまた手を叩き視線を集めた。
「トラブルには見舞われたけど、それでも予算が無いなりに何かできることはあるはずだ」
「例えば?」
竹下は紺野のような明るい気質の人間があまり好きではないとその時に思った。その声には明確に敵意が潜んでいたからだ。
「え?」
「お前もクラスの一員なんだから、何か案を出してくれよ」
「じゃあ迷路はどう?これだったら壁を作るだけでいいし、途中で謎解きなんかも混ぜて脱出ゲームみたいにできるかもしれない」
「材料は?他のクラスから余り物貰っても大した量にはならないだろ」
「ダンボールで作れるんじゃない?」
ダンボール。この単語が出た時のあの皆の落胆した顔を笑顔を保ちながら眺める紺野を思い出すと今でも胸が締め付けられる。
「ダンボール?」「何それ中学生みたい」「謎解きとかはどうするんだろう」「紙に書いてその辺に貼るんじゃない?」「なにそれ」「恥っず」「それなら参加しないって」
声の波紋は一定の音量を保ってクラス中に伝播した。
僕たちは年齢も十代後半、制服を着ていて進路など将来のことを一応は考えているがまだ子供だ。未熟で不完全で大人びた振る舞いをしたくて仕方のないガキだ。ここで誰もが言いたかったことを僕が今ここで代弁しよう。はっきり言って、低クオリティの出し物をするくらいなら最初から何もやらない方がマシだ。それがクラスの総意だった。
この日記を読んでいるあなたがもし大人なら奇妙だと思うだろう。馬鹿馬鹿しいと笑うだろう。でも皆は程度の高いごっこ遊びがしたかっただけだ。ダンボールで作った壁、マジックペンで描かれた飾り、想像できるのはどれも「人に見られたら恥ずかしいもの」だ。せっかくの青春をそんな思い出で汚すくらいなら、竹下の言う通り『休憩室』だの『待機所』だのという斜に構えたものを見せた方がマシと考えるのはよく理解できた。これがリアルな高校生だ。漫画に出てくるような社会人が親しみやすい真っ直ぐな子供っぽさや純粋が故の賢さなんて持ち合わせていない。苦笑してしまうほどの思春期感情は留まるところを知らない。恥ずかしいという感覚はよく僕たちの足を引っ張る。僕が困っている紺野を視界に捉えながらもこの時に教室に漂う空気に気圧されじっとしていたのも、目立ちたくないという感情に寄り添った行動だった。言うなら、あの場であれこれと考えていながらも意見を出さなかった僕が一番の子供だ。
「もう『休憩室』にしようぜ。机片付けて椅子並べておいたらそれっぽくなるでしょ」
竹下に皆が頷いた。もうそれで良い。今からするべきは挑戦ではなく敗戦処理なのだと皆が無言で舵を切った。
「分かった。じゃあそれで委員会には提出する。で、内装はどんな感じにする?駅とか歯医者の待合室みたいにしてみようか」
「だから、予算無いだろ。ダンボールとかコピー用紙以外で小道具作れないなら、意味ないだろ」
会議はそこで終わった。
可哀想に。紺野は何かをやりたかったのに。何か、いつか思い出して浸れるような何かを。凝ったことを。面白いことを皆で協力して実現させたかった。何もできない、というのは彼にとってかなり悔しい結末だったに違いない。でも彼は納得した。これ以上皆を引っ張ることはできないと理解した。そして、彼はクラスの雰囲気があれ以上悪くなるのを何よりも恐れたのだろう。
ここで終わっていれば良かった。あそこまではまだ子供の領域に僕たちは留まれていた。もしかしたら時間が原因だったのかもしれない。ホームルームが終わるまであと四十分もあった。さっさと次の授業が始まれば良かったのに。それに、一時的にではあるが竹下がクラスを纏めた雰囲気になったのも良くなかった。
岩崎がため息交じりにこんなことを言った。
「てかさ、金は誰が盗んだんだろうな」
皆が彼を見た。言った本人も失言の後悔を隠せず広い背中を少し丸めた。
もしかしたら皆、そのことから目を背けたかったのかもしれない。もしくは誰かが言うのを待っていたのかもしれない。竹下はそれを考えて早く結論を出したかったのかもしれないし、紺野もそれを察して妥協したのかもしれない。ともかく、僕たちを辛うじて纏まらせていた細い鎖はそうして断ち切られた。
岩崎にそんなつもりはなかったのだろう。竹下が注目されていたのがちょっと疎ましくてあんなことを言ったのだろう。でも、僕は彼のことを生涯忘れない。小石程度ではあるがこの確かな憎悪をずっと抱き続けるだろう。
その発言があり、さっきまで岩崎に向いていた視線がいつの間にかより鋭くなって黒宮に向いていた。僕の頭の片隅にはこれがあった。彼の家が金に困っているというのは周知の事実だったからだ。調子の良い奴らが彼の勤務先に団体で行く計画を立てているのを何度か見たことがある。それに彼は少しいじられキャラ風なところもある。
でも証拠は無いし、そもそも彼の家は三万円程度では何ともならない。
僕は咄嗟に擁護できなかった。それは黒宮の家の借金の原因が父親の会社が倒産したことによるものだと皆に伝えるのが憚られたからではなく、視線のもう半分が僕に向いていたからだ。これは予想外だった。そう言えば、あのクラスでアルバイトをしているのは彼と僕の二人だった。』
そこまで書いて俊はシャツの中にタオルを突っ込み背中を拭いた。雨は止み濡れた路面から反射した夕日が窓に当たり冊子は大粒の結露で覆われている。
「暑い」
「この家、湿気が随分こもるな。除湿つけようか」
「エアコンがリビングにしかないから意味ないんだよ」
「ドア開けとけばいいじゃん」
「ああ、確かに」
俊はドアを開け食卓の上に置かれていたリモコンを持った。エアコンの排風口には鯉幟のように埃がくっついていて、それを見ながら俊は唇を尖がらせた。
「なんか変な気分だ」
「どうして?」
部屋から『彼』の声が響いた。
「僕、何か学校に忘れ物をした気がする」
俊は速足で部屋に戻り鞄を漁った。教科書、ノート、筆箱、財布、スマートフォン、何も忘れていない。しかし彼は納得しなかった。
「病院の予約じゃないか?するするって言って、結局してないだろ」
「違う、いや、それだ。予約日がまだ決められないから先に病院を探そうと思ってたんだ」
俊はしばらく近場の心療内科やクリニックをグーグルマップで調べたがどれも違うような気がしてすぐに充電ケーブルを差しまた電源を切った。
脳みそを質量を持たない濁流が通過していくような感覚を覚えた俊は開かれていた日記帳を見た。俊は自分の字があまり好きではなかった。入学したての頃、授業の合間にノートを取っていると前の席の男子が彼の字をまるで子供が書いたような字だと嘲笑したのだ。それ以来彼は事あるごとに日記をつけるようになった。その男子の顔は忘れてしまっていたが、彼はその言葉を一言一句、抑揚や声色に至るまで詳細に記憶している。
「紺野も思ってたのかな」
「俺が何?」
「君じゃない。紺野。僕の字ってさ、子供の字みたいなんだよ。ほら」
「いや、普通こんなもんだろ」
「そりゃあ君はそう言うよね。でも僕は恥ずかしい。紺野の字は綺麗だったな。書道の授業で彼の字を見るけど、あれは絶対に書道教室に通ってた字だよ」
「そういえば、俊って習い事したことなかったよな」
「だから何だよ。別に珍しくないだろ。それに習い事なんてしなきゃしないで良いんだ。紺野って小学校の頃からずっとテニスクラブに入ってたんだって。他にもサッカーとか、水泳とか、色々」
「よく知ってるな。お前、好きな人にはとことん質問するタイプか?」
「しないよ。だって過去のこと聞くとか嫌だろ。だから会話の流れで漏れ出た情報をこうやって記憶してる」
「ストーカーになっちゃいそうだな」
「それより酷いよ。幻覚を見ちゃってるんだから」
俊はニヒルに笑い、すぐに口を手で押さえた。
「俺は幻覚じゃないよ」
「ああ、そう。でも、紺野の母親って見るからに教育ママだよな。入学式で見たことあるけど、あのタイトスカートも高そうだったし、ブラウスも見るからにいいヤツだった。何よりあの体型、相当金が掛かってる」
『彼』はいつの間にか俊の目の前に立っていて、椅子から立ち上がろうとする俊の肩を押さえつけ耳を掌で覆った。暖かい。ドアから流れる冷気が足元を掬い俊の身体からは風船のように力が抜けていった。
「日記を書くんだろ?それか先に予習と復習を済ませるか?」
『彼』は微笑み三日月のようになっている瞼を俊は口を開けながら見ていた。日記、そうだ、日記を書かなくてはいけない。俊はそう反芻したが、『彼』の意見に従うのが癪に障り頭を振った。
「その前にまず夕飯を食べるよ。それからだ」
「そうだな。もう六時だしな」
外は暗くなっていた。いつの間にそんなに時間が経っていたのだろうと俊は思ったが、あまり気に留めずに冷凍室を開けた。
見ると、ベランダに続く一枚ガラスのスライドドアが無い。無くなっている。いや、指紋も見えないほど透明なだけだ。俊は目を凝らしたが、普段は天井のライトの反射で迷路のように白くなっているはずのスライドドアが確かに綺麗に、透明になっている。
「今日はどうだった」
『彼』が唐突に訊いた。俊は一瞬質問の意味が理解できずに頭ですこし反芻した。
「そういえば、今日カラオケに誘われたよ」
「行けば良かったのに。あ、俺がいないとお前誘い断るもんな。多分クラスの何人かは気付いているぞ。特に女子とかな」
『彼』はあからさまに歯をむき出しにして笑顔を作り、それを見て俊は首を振りながら鼻で笑った。
「君じゃないけどね」
「行けば良かったのに」
「無理だよ、知ってるだろ。それにあいつらとどこか行くなんて、気持ち悪い。あいつらもう新しいグループを作ろうとしてるし」
「グループって?」
「いちいち聞くなよ。お前は知ってるだろ」
「いや、知らないな。説明してくれよ」
俊はため息をつきながら冷凍チャーハンを取り出し皿に盛った。
「グループだよ。グループ。ありがちだろ。高校生はグループを作って行動するんだ。そういう生態なんだ」
「でもそうしないと自分の居場所を作れないんだろ?大変だな」
俊は殊更に電子レンジを強く閉めた。
「違う。あいつらはそういうのが好きなんだ。天敵もいないのに群れを作りたがるしグループ分けしたがる」
『彼』は顎を突き出しながら首を傾げ俊を見下ろした。
「そういうのって?」
「うるさい」
タイマーをセットし俊は椅子に座った。
「教えてくれよ」
座る俊の横顔すれすれに食卓に手をつきながら顔を近づけ『彼』は言った。その吐息が前髪にかかると俊は、やはりこの家に制服姿の『彼』は不釣り合いだ、と思った。
「バイト先に、やたらと仕事熱心なフリーターがいるんだ。二七歳の」
「いいじゃん。熱心な奴は嫌いか?」
「皮肉で言ったんだ。そいつ、店長に頼まれてもいないのにシフトの提出を急かして出れない日があると理由を聞いてくるんだ。バイトリーダーでもないのに。他にも店に知り合いを呼んで買い物してもらって商品の説明しながらレジ打ったり、恵方巻とかクリスマスケーキとかが出るとバイト集めて百個売ろうとか言ったりさ、痛いだろ?」
『彼』は呆れたように上体を起こし腰に手を当てた。
「まあ、なんか言いたいことは分かるけどさ。それってその人が見つけた自分の役割を全うしてるっていうか、居場所を堪能してるって感じじゃないのか?そんな目くじら立てることでもないし、別に迷惑かけてないしいいじゃん」
「いや、なんか、何て言うんだろう。その人さ、別に頑張ってる訳じゃないんだよ。シフトのことだって一回聞いてきたらそれまでだし、ていうか聞かないことの方が多いし、知り合いを呼ぶって言っても一人か二人の友達が来た後に、あれ俺が呼んだんだよねって言ってるだけで偶然来てるかもしれないし、去年のクリスマスケーキも見た限りだとポップをレジ横に置いただけで声掛けとかもしてないんだよ」
「ふーん、それで何が言いたいんだよ」
「頑張ってる風に見せてるだけってこと。自分でも相当嫌なことを言ってるのは分かるけど、あの人は頑張ってる雰囲気を醸し出したいんだ」
聞き終わると『彼』は椅子に座り大袈裟に両手を広げた。
「そんなやつ沢山いるだろ。なんだよそのビミョーな話は。いちいち考えるの疲れないか?大体、そのフリーターさんと学校のクラスメイトがどう関係してるんだ」
俊は細い腕を組んで天井を見上げた。茶色の染みが点々としている。
「その人は最初、本当に頑張ろうとしてたはずなんだ。店長に聞いたことあるけど、社員になるって意気込んでたらしい。でもできなかった。だから、ああいうことをする。そして、たぶんあの人は自分が何をしているか気付いていない。本当に自分が努力していると思っている」
「つまり?」
「人は一度レールに乗ってしまうと目的と見せかけの判断がつかなくなる」
電子レンジのベルが鳴った。タイマーが切れた音だ。
*
『もう夜だ。いつ自分がまともでいられなくなるか、いや既にまともではないのだが、後から役に立つかもしれないので僕の幻覚の変化について少し書き留めておく。
幻覚の彼はどうやら物を持つだけでなく部屋の電気を消したりもできるらしい。漫画を読むのと部屋の電気を消すのでは訳が違う。彼が渡した漫画を布団に寝転びながら読む光景を僕が見ている時、実際には誰もいないベッドに僕の手から落ちた漫画がくてんと置かれている状態になっている。今日は頭を拭いてもらったりしたが、実際には僕が自分でタオルを持っているだけに過ぎない。つまり脳がリアルタイムに映像を改竄し認識している。今しがた、彼が布団から起き上がり「もう遅いから」と言って部屋の電気を消したのを僕は椅子に座りながら見た。これがどういうことかと言えば、過去の映像記憶を改竄しているのである。僕の「椅子から立ち上がりドアの横にあるスイッチを操作した」という記憶がごっそり消え代わりに先述の記憶が埋まった。つまり上書きの範囲が過去にまで広がっている。
危ない。危険だ。だが今すぐ病院に行こうとは全く思えない。僕は異常だ。僕は頭がおかしい。現在進行形でだ。だから忘れないうちに、まだ記憶が鮮明なうちに書き留めなければいけない。
話を戻そう。
人から疑われるには何が必要か。それは雰囲気である。何となく。それっぽい感じ。まずフレーバーが漂い、その後に疑惑を型に入れれば理想が形になる。そして疑うという行為は思っていたよりも負担なようで、つまり当事者たちにとってはあまり時間を掛けたくないものなようで、瞬時に文化祭の資金三万四千円を盗んだ犯人はその日のうちに僕と黒宮のどちらかという真実が広まった。
そのホームルームが終わった後も、休み時間も、放課後も、誰も、僕には何も言わなかった。言葉の代わりに言葉以外のもので、視線でもって、表情でもって、態度でもって、誰もが僕にメッセージを送信し続けた。
結論ありきの議論というのはよく行われる。古では容疑者を籠に入れて水に沈めたり熱した鉄を握らせるなどのそれっぽいことをして一応の過程を突貫で拵えていた。そして犠牲となった誰かを眺めて被害者たちは溜飲を下げる。あの時、磔になったのは僕と黒宮だった。
反論はしなかった。なぜなら、さっきも書いたように誰も何も言わなかったからだ。文字通り、言い返す余地がない。始まっていない議論で反論することはできない。
馬鹿みたいだ。直接言葉にしなければ何もしていないことになるとあいつらは本当に思っていたのだろうか。公的な裁判でもないのにどうしてそんな姑息な真似をするのだろうか。
犯人捜しは行われなかった。あったのは犯人決めだけだ。僕の知らない所で、見えない場所で、陰で、僕のいない表で。それも直接的に僕が犯人だと言うのではなく、僕や黒宮の家がどれだけ貧しいか、まだいつどのような時にその貧しさが醸し出されていたかの思い出交換会が闇市のように開催されたとその時の僕は奥歯を噛み締めていた。
「青木くん、ちょっと話さない?」
昼休憩、久々に一人で菓子パンを食べていたら黒宮が背を屈めて小声で話しかけてきた。僕は彼に思わず「馬鹿かお前は」と言いそうになったが堪え、彼の誘導に従いトイレに向かった。
向かっている間、僕は少し黒宮に感謝していた。僕に背を向けてこそこそ何かを話す奴、一瞬こちらを見る奴、孤独というものに慣れているつもりだったがそれは思春期の思い上がりで、僕は確実に心を蝕まれていた。思わず、紺野にクラスで起きていること、僕がされていることを相談しようと思ったが、そうなると彼が何を言われるか分かったものではないのでできなかった。そういった葛藤から一時的に逃れられたのは後にどんな傷を残すとしても僕にはありがたいことだった。
黒宮は僕以上に内心穏やかではない様子だった。ずっと維持されたいかり肩とくんずほぐれつしている手元は見ていていたたまれない気持ちになった。
「何か、俺たちってことになってるらしいよ」
くすんだ鏡を背景にして指を指で擦りながら黒宮はそう言った。
「何が」
「あの、お金、盗んだの」
「そうなんだ」
彼は沈黙した。なるほど、と思った。彼は僕に何とかしてくれと言っているのだと理解した。何か妙案を捻り出して欲しいと。確かに、二年生の時点でクラスメイトを裏切り金を盗んだという生々しすぎる汚名を背負うのは砂利を飲むよりも辛い。それについては僕もどうしようかと考えていた。
「それ、誰が言ってた?」
「誰ってことは無いけど」
「そんなことはないだろ。お前、誰かに何か言われたんじゃないのか?」
「いや、多分、みんなグループチャットで話してる。何か、皆ずっと画面で何か打ってるし、俺が近付いたら隠すし」
その時に文化祭用に作られたグループチャットを確認したがその日の前日からやり取りは止まっていた。教えられてそれが普通だと思ったが、準備金が無くなった時点で何人かがグループを作ったのだろう。僕の知らないところというのはそういったチャット内のことで、そこで噂が噂を呼んでいた。
「移動教室の時に岩崎くんに言われた」
「何を」
「どっちだ、って」
「それだけ?」
「いや、その後も何か言おうとしてたけど、紺野くんが止めた」
「そうか、紺野もそこら辺は把握してるのか。でも僕には何も言ってこなかったぞ。紺野だったら、僕のこのピンチを助けようとするはずだ。あいつは良い奴だから」
「青木君ってツンツンしてるからさ。何か、言い難かったんじゃない?」
僕が周囲からツンツンしている奴だというのはこの時に初めて知った。好きな人の幻覚を見るくらいにはナイーブだというのに。
「俺は盗んでないし、あ、変な意味じゃないよ」
「今のは変な意味だろう。でも馬鹿だよなあいつら。お前の家があんなはした金でどうにかなるわけないのに」
「うん、ありがとう。で、でさ」
「何」
「ぶっちゃけさ、どうなの?」
その時の黒宮の顔は三日三晩下痢を我慢しているかのように引き攣り、汗までかいていた。色々事情があってこれから強盗するサラリーマンのような奥に潜む気迫があったし、卒業式に好きな子に告白する中学生のようなあどけなさもあった。
「盗むか。だいたいあの机に封筒があったのなんてクラスのほとんどが知らなかっただろ。おい、僕たちは今味方同士なんだぞ。二人だけだけど。協力し合わないと」
「そうだね、うん。でも、少し気になっちゃって。もし、もし本当に盗んでたら俺にだけは言って欲しいな。俺、先月のバイト代結構あるからさ、封筒にそのお金入れて、どこかに隠しておけばそのうち見つかって、何て言うか、全部解決するんじゃないかなって、思って」
「お前が文化祭代を奢る義理なんてないだろ。紺野が言ってたように、金が無いならないでやるしかないんだよ。まあ、結果としてはかなりつまらない企画になったけど」
「まあ、うん。そうだね」
さて、ここからどう挽回するか、そもそも策を講じて何かをできるような事なのか、と考えていた時、違和感が芽生えた。シリーズものの探偵ドラマの捨て回くらい素っ頓狂な推理、というか情景が頭の中に一気に広がった。
黒宮は両手を腹部から離さなかった。離さないというか、トイレに来てから全く動かしていない。いや、教室を出る時から腕の位置は変わっていなかった。まるで何かを押さえているようで、僕は急にそれが凄く不自然に思えた。
僕にはもう少し自制心が必要だ。
僕は彼の両手を払うように叩いた。
黒宮の制服の裾から何かがぽとんと落ちた。落ちる前にそれが何かは分かった。スマートフォンだった。それも通話中の。
「なんだこれ」
と言った途端に通話は切れた。黒宮を見ると今にも泣きそう、というか既に泣いていて、僕に少しでも追及されようものなら舌を噛み切ってしまいそうだったので彼のことを無視しそのまま教室に戻った。
扉を開けるとゴキブリ共は光から逃れるように背中を向けた。唯一僕を見ていたのは紺野だった。音の無い騒動に困惑した彼の机にはノートが開かれていて、恐らくは文化祭の企画書の下書きか予習をしたいた。
もしドラマや映画の世界の話なら、あの場面で僕が何か力の籠った言葉を放ち、そしてそれに言い返す輩たちが出てくる。そしてエンディングテーマが流れ次回予告が始まる。でも現実は違う。僕にそこまでの胆力は無く、またもしそれを実行に移しても白けた顔をしたボウフラどもの失笑が聞こえるだけだ。
黙って席に着くと、皆、僕なんかいないかのように振る舞った。
僕の味方は僕の敵でないことが条件である。よってあの時教室の中にいた唯一の味方は紺野ただ一人だった。僕はその事実に満足するべきだった。
その日の終わり、また会議が開かれた。議題は僕の糾弾、ではなく文化祭についてだった。どうやら紺野が竹下や岩崎、奥花などクラスの主要なメンバーといつの間にか話をつけていたようで『休憩室』の飾り付けは力を入れようという結果に落ち着いたらしい。これはある程度予想していた。なぜなら犯人はもう判明しており、敵の妨害に屈したままではいられないというのが彼らにとっての青春になったからだ。
「田舎の駅の待合室みたいにするのはどう?」
まず初めに奥花が発言した。それを皮切りにあちこちから意見が出されチョークを抓む紺野の手は忙しく皆のアイディアを黒板に書き出し続けた。爽やかに手を上げ発現をする彼らを見て、どうやら成功したらしいと僕は思った。
「ベンチは野球部の部室にあるから借りて来る。二個くらいあればいいか?」
ざわざわ。
「いいね、頼むよ」
ざわざわ。
「看板とかは?あの大きい駅の名前が書いてあるやつ。あれ作りたくない?」
ざわざわ。
「額縁を買う金が無いから一階の廊下に掛けてある賞状が入ってるやつ借りよう」
ざわざわ。
「あ、黒板に時刻表みたいなの書きたいかも」
ざわざわ。
「昔っぽくていいね」
ざわざわ。
「ごみ箱とか置いたらどうかな。昔の駅って結構散らかってるし」
ざわざわ。
「駅の名前どうする?」
ざわざわ。
「近くの駅の名前とかは?」
ざわざわ。
「それだと再現したかったみたいになるなぁ」
ざわざわ。
「シンプルに二年三組は?」
ざわざわ。
「採用」
ざわざわ。
「自動販売機なのは?」
ざわざわ。
「ダンボールに紙貼って描いちゃう?」
ざわざわ。
「お前絵うまいじゃん。描いてよ」
ざわざわ。
「いや負担デカすぎ誰か手伝えな」
ざわざわ。
「スマホで定期的に電車が来る時の音出す?」
ざわざわ。
「はい採用」
ざわざわ。
「演劇部の部室に車掌っぽい衣装あるけどどうする?」
ざわざわ。
「誰か車掌やってよ車掌」
ざわざわ。
「座ってだけでいいなら俺やるわ」
ざわざわ。
「あ、下の自販機のごみ箱持って来る?」
ざわざわ。
「はい採用採用」
ざわざわ。
ざわざわ。
「採用」
ざわざわ。
ざわざわ。
「採用」
ざわざわ。
ざわざわ。
「採用」
ざわざわ。
ざわざわ。
「僕は盗んでない」
静寂。
イヤホンを外したような静かさだった。
皆の視線は上に向いていた。僕は無意識に立ち上がっていた。紺野の顔は豆鉄砲を食らったようで、僕はすぐに自分の取り返しのつかない過ちを後悔した。どうしてあんなことをしてしまったのか。時間が経てば何かが変わっていたかもしてないのに。何の考えも無しに自分の立場を危うくしただけだ。
あの時の僕は何を考えていたのだろう。なぜだかほとんど覚えていないが、何も考えていなかったなんてことはない。きっと夢想家の僕のことだから反旗を翻した僕に感化されて黒宮辺りが同調しクラスに声を上げ、なんだかんだでクラス内勢力が二分しなんだかんだで僕たちが勝利する、みたいなことを想像したのかもしれない。でも実際は違った。場が凍り付いただけだ。
「どうした、落ち着け。青木」
福田が言った。奴もあの場にいた。あいつはクラスを統括するという自分の立場をちゃんと分かっていたのだろうか。あいつがちゃんと管理をしていないからああいう騒動が起きていたのに、特に何かしたでもなく申し訳ないと思っている気配すら無かった。
勇み足で向かって来たのは岩崎だった。僕が暴れると思ったのか止めに来たらしく目には力が入っていた。あの場所において僕はただのおかしい奴になっていた。突然暴れだす根暗なよく分からない奴だ。でも、あいつだって騒ぎを大きくさせた要因の一つだ。それどころか元凶と言っても良い。僕はああいう奴が一番嫌いだ。あの真剣な顔の皮を一枚剥がせば皆のヒーローになれるぞしめしめとほくそ笑んでいるに違いなかった。周りの奴は岩崎を救世主を見るような目で追っていた。ふざけるな。僕からすれば一つの物事に一段落を付けるためにクラスメイトの高校生活を潰しても構わないと考えているお前らの方が恐怖でしかない。別に普通にしてれば良かったじゃないか。皆で被害者気分に浸りたくて僕を犠牲にした。被害者でいることは気持ちが良いから、皆はその美味いイベントを見逃したくなかった。でも文化祭は成功させなくちゃいけない。物事に踏ん切りをつけなくちゃいけない。だから僕を犯人にした。そもそも犯人がいるかどうかも分からない事件の犯人に仕立て上げた。探偵気取りのごみ共。インスタントな非日常はそんなに楽しかったのだろうか。』
「どうすれば良かったと思う?」
俊は振り返って布団に潜っている『彼』に聞いた。
遠くの方でなっている間延びしたサイレンが部屋に木霊しいずれ消えた。
『彼』はえずきを堪え目の端に涙を溜めた俊を見ると駆け寄り耳を両手で軽く塞いだ。細く長い指は徐々に俊の髪を掻き分け頭全体を手が覆い、『彼』は俊の頭を自分の腹に当てた。俊は目を瞑りながら微かに聞こえる心臓の音に耳を澄ませた。
「どうしようもなかったろ。あれはお前には無理だ。抗いようがなかった。事故みたいなものだ」
「でも、クラスメイトともっと良好な関係を築けていたらああはならなかったと思うんだよ」
「あんな奴らとどうやって良好な関係を築くんだ?あんなことで誰かを生贄にしないと前に進めないような奴ら、率直に言って気持ち悪いね。吐き気がする」
「僕ひとりならそう吐き捨てられる。でも紺野がいる」
「俺はここにいるよ」
俊は『彼』の腰に手を回し大きく鼻から息を吸った。
「君は違う」
その時、ドアが破裂したように開きドアノブが弾けた。
『彼』を抱きしめながら俊は宇宙服にも見える装甲服に身を包んだ男が一人、フルフェイスヘルメットの薄黄色に澄んだシールド越しにこちらを睨みながら銃口が鉄パイプのようになっている拳銃らしきものを構えている。
「え、誰?」
俊が言うと、『彼』はより強い力で俊の頭を寄せ、そして男は消えた。初めからいなかったかのように。『彼』が振り返ると開いたドアからさっきの男と同じ格好をした男二人が紐で括られたように向い合せでくっつきながら、まるで見えないクレーンに引っ張られているように床を滑って現れた。目は血走っていて、動かない自分の身体に苛立ち焦っているのが分かる。
「おい」
俊からは見えてなかったが『彼』の顔は険しく、片方の男を指差して言った。
「俺はもう少し待てって言ったはずだ。お前、今外でこの会話を聞いてる奴に直接言え、今度邪魔したらお前ら全員こうだぞって」
『彼』が指をもう片方の男に向けると、さっきの男と同じく音も無く消えた。
「さっさと出ていけ」
残った男は仰向けのまま床を滑り、開かれた玄関ドアから外に放り投げられた。
外から廊下を通った風が部屋に届き俊のやっと汗が滲み始めた額を撫でた。彼の吐息は熱く指先は小刻みに震えていた。
「誰だ今の。ていうか今のなんだ」
SF漫画から飛び出してきたような兵士が突然現れ、消えた。おそらく、『彼』によって消された。俊の脳はその事実を受け入れるべきが拒絶するべきかで大混乱を起こし今にもそのエネルギーが声になって細い喉を通り口から飛び出そうとしていた。
掌が俊の両目を覆った。
「忘れろ」
耳元で聞こえた声はコンマ数秒で脳に届き、俊は座ったまま意識を失った。
『彼』はゆっくりと俊を勉強机に突っ伏すようにし、部屋を出た。床にはうっすらと足跡が付いていて、開かれた玄関から続いている。『彼』は洗濯機の中から雑巾を取り出し水で濡らすと、しゃがんで足跡を一つずつ丹念に拭いた。
床が元通りになる頃には雨の音が強くなっていた。
「不用心だと思うんだけど」
玄関先に女が立っていた。彼女は開かれたドアを肘で抑えていた。その高い背丈にレディースジャケットとパンツスーツを合わせたその立ち姿はアパレルショップのマネキンを連想させ、底の薄いスニーカーを履いていても足の長さは誤魔化せなかった。
「どうせ来るかなって思ってたから、開けてたんだよ」
『彼』は女を睨みながら汚れた雑巾の面を内側に折り畳んだ。それを見た女は表情を変えずに口を開いた。
「自分で拭くのね。てことは、もうすぐあなたはただの人形になる」
「分かってるよ。だから放っておいてくれ」
「それは無理。何人死んでると思ってるの。次は私が行くから、準備しておいて」
「さっさと閉めろ」
*
『教室で癇癪を起してから数日間、僕は家にいた。ずっと自分の部屋に引きこもり時計を見ては焦燥感に駆られ布団で目隠しをする日々は新しい体験だったが得られたものは何一つ無く、漫画や小説を読んだり映画を見たりしても全く身が入らず、次第に常日頃からあった将来への漠然とした不安がめきめきと大きくなり、僕は文化祭が終わった次の日に登校した。
教室の扉は鉄の様に重く触れることもできずにそのまま回れ右をして帰る、きっと自分はそんな選択をするのだと思っていたが現実はそう上手くはいかない。扉は開いていた。授業以外では解放されているのが普通だ。僕は何の障壁にもぶつからずに教室に入った。
夢かと思った。しかし現実だった。
皆が僕に笑顔で近寄って来た。岩崎や竹下を先頭に施しを求める乞食のようにへこへこと腰を下げ労わるように彼らは僕を迎え入れた。
そして、紺野が不登校になっていた。理由は簡単で、彼が犯人だったからだ。僕が学校を休んだ次の日、彼の鞄からくしゃくしゃになった茶封筒が見つかったらしい。表に『二年三組 文化祭準備金 三,四〇〇円』と記載された空の封筒は誰がどうみても確定的で言い逃れしようもない証拠だったと皆が口を揃えて言った。
馬鹿丸出しだ。そもそも彼が犯人だとして、どうしてそんな自分の立場を危うくするだけ証拠品を鞄なんかに入れたままにするのか。その茶封筒が本物である証拠などどこにもないじゃないか。書かれていた文章だって誰かが勝手に書いたものかもしれないじゃないか。どうにでもできるじゃないか。どうとでもできるじゃないか。事件後少し経ってから現れる証拠なんか捏造に決まっているじゃないか。嘘に決まっているじゃないか。どうしてお前らはそんなに
だから、僕はあの時彼を庇うべきだった。
僕はなんて言っただろう。何を言われてそれにどう答えたのだろう。誰が何を言いどんな表情をしたのだろう。彼らはどうやって僕に阿り僕はどう受け止めたのだろう。僕はどうやって彼らの輪に馴染んだのだろう。彼と引き換えに僕は何を手に入れたのだろう。
岩崎が言うには、まず僕と黒宮が疑われ、先に黒宮の事情聴取がグループチャット内で行われた。教室にいながらそこでは会話せず、電子の四畳半で取り調べが開始された。そして紺野が彼の家計はそんな半端な金ではどうにも変わらないと説明し黒宮の疑いは晴れた。そして次の標的が僕になったところで、紺野が例の作戦を思いついた。あのスマートフォンは紺野と通話を繋いでいた。
紺野は自分が助かるために他人を犠牲にした汚い奴だった。狡猾で策略家で卑しい奴だ。皆はもっと早くに伝えたかったが、友達が自分を陥れていたことを部屋で孤独にしている僕が知ったらどれほどショックを受けるだろと危惧してその日まで待っていたらしい。
僕はそれらの詭弁を全て信じた。そしてホームルームが始まり、授業が始まり、昼休憩が始まり、午後の授業が始まり、放課後になり、帰宅し、夕飯を食べ、やるべき課題を済ませてから予習をしてシャワーを浴び歯を磨いてから布団に潜った。その日は家の近くを通る車の音も窓を叩く風も気にならず型に塡まるように眠ることができた。
文化祭は上手くいったらしい。奇を衒ってはいるが造りが凝っていると褒められたそうだ。共有された集合写真は彼の部分だけがスタンプで上書きされていた。
嬉しかった。居場所があるということが。そしてそれを失うのがすごく怖かった。だから僕はどういった経緯で紺野の鞄からその封筒が出てきて、誰が最初に騒ぎ、下校時間になるまで彼はどうしていたかを誰にも訊かなかったし誰も話そうとしなかった。
僕にはどうしようもなかった。だって、これは子供の世界の出来事なのだから。証拠とか、証人とか、アリバイとか、公平とか、平等とか、そういうものは存在しない。皆で一斉にくじを引いて、ただ一枚の外れを当てたのが彼だった。あれはそういう話だった。
僕は彼のことが好きだ。これ以上付け足しようがなく、愛していると言えば繕い過ぎているし命にも代えられると言えば虚勢になる。分かりやすく言えば、僕は紺野弦に自分の人生を犠牲にする程でもない愛着を持っている。彼が今どうしているかは知らない。誰も話そうとせず、机はずっと空いていて、そこだけ時間が止まっているように動かない。』
そこまで書いて俊は手を止めた。日記帳の見開きにはまだ半分以上の余白があり、それが彼を落ち着かせなかった。
鉛筆の先が何度もページの隅を叩き、そこだけが黒く汚れていた。頭痛がしていた。俊は日記帳の一番前のページを眺め、それから目を流して捲り続け、最後のページに戻った。
「もうすぐ花火があるぞ」
対面に座る『彼』は太鼓の音に搔き消されないように声を張った。何の邪気も無く単純な顔を上げた俊の鼻先に向かって『彼』は気泡の入った団扇を扇ぎ笑った。
「外で日記なんて書いたら、後ろから覗かれる」
空は薄い群青色に染まりアスファルトのひび割れを隠していた。屋台の群の方からは煙と人の声が上がり発電機のモーター音も聞こえない。スピーカーからはノイズの混じった音頭が流れている。
「日記がさ、埋まらないんだ」
「ページを埋めるために書くものじゃないだろう。それに、書くにしても家に帰ってからで良くないか?ここは暗いし、目が悪くなる」
「確かに」
どこかの会議室から引っ張り出されたような机の表面を爪で叩きながら俊は足元を見た。背もたれの無い四つ足の椅子にはガタがあり、重心を後ろに下げる度に音が鳴った。
「取りあえず屋台回ろう。俺、射的やってみたかったんだ」
笑顔で立ち上がった『彼』を見て俊も口角を上げた。
「早く行こう」
「もしこれが夢だったら」
『彼』は笑顔のまま俊を見下ろした。スピーカーからは音頭が流れている。
「もしこれが夢だったら、あの人たちは皆知ってる人でなきゃおかしい」
俊は屋台の方を指差して言った。
「どうした。ちょっと休むか」
俊は『彼』の方を向いた。その顔からは既に一切の力みが消えていて、目も口も半開きだった。
「家からここに来た記憶が無いんだ」
『彼』は眉をしかめて自分の手を見た。
「それだけじゃない。家にいると時々時間が飛ぶような感覚を覚えるし、何かすごく大切なものを失っている気がする」
俊は後頭部に大きな亀裂が走ったような感覚を覚え両手で抑えた。巨人に無理やり引き裂かれているような、そんな痛みだった。
「大丈夫か。ちょっと横になろう。いや、やっぱり今日はもう帰るか」
『彼』は唇を噛み屋台の方を睨みながら俊の肩に手を添え、そして俊はそれをゆっくりと振り払った。
「疲れてはいないよ。ただ、僕は君が現れてからずっと、今僕がいるのは夢の中なんじゃないかって思ってた。ちょっとだけ期待してた。夢っていうのは起きればほとんどを忘れてしまうものだけど、もしかしたら、見ている間はこんなに長く、そして楽しいものなんじゃないかって思ってた」
「でも、これは夢じゃない。夢じゃないから学校の連中も普通だし、あそこにいる人たちは皆知らない顔をしている。俺もちゃんといる」
「そう、これは夢じゃない。そして、十月に祭りがあるわけないし、君は紺野じゃないし、幻覚でもない。もっと別の何かだ。それに、僕は何かを忘れている。とても大切なものをどこかに置き忘れている」
『彼』は歯を食いしばり、唇を嚙み、荒い鼻息を一度出してから両手を俊の耳に近づけた。
「やめて」
済んでいるが確かに重い声だった。『彼』と俊が見るとそこには女が立っていた。その高い背丈にレディースジャケットとパンツスーツを合わせたその立ち姿はアパレルショップのマネキンを連想させ、底の薄いスニーカーを履いていても足の長さは誤魔化せなかった。
「青木俊ね、初めまして、伊藤です」
伊藤と名乗った女は二人の目線に追われながら俊の対面に座り脚を組んだ。
「突然ごめんね。でもこういうことは予兆なく突然起こるものなの。君の知らないところで私は『それ』と戦い、負けかけている。こんなに現実改変能力の高い個体は久々だし、部下も何人か殉職した。私は確実に処分を受ける。だから早く終わらせたいの。協力してくれる?」
自分以外にも『彼』が見えたということは『彼』は本当に実体を持っているのか、いや、この女も幻覚なのか、そもそも現実改変能力と言ったのか、それはなんだ。俊の頭は情報を処理しようとうねりを加速させた。
「今の会話聞いてたけど『それ』はもうすぐ何の変哲もない、ただそこにいるだけの存在になる。今だってもう人ひとりを消すほどの能力すら持っていない。それでもこの距離まで近づくのは危険よ。またメタ認知能力テストを受けなくちゃいけない。あれ、かなり手間なの」
伊藤は『彼』を見ながら言った。
「邪魔しないでくれ」
「青木くん、話を聞いてくれる?」
「よせ、俊、さっさと出よう」
『彼』は腕を引っ張ったが俊はその場に踏みとどまった。なんて弱い力だ。俊は『彼』の腕を見ながらそう思った。
「あの、彼が見えるんですか?」
「うん、君の横にいるのはニアリーと呼ばれる存在で、私はニアリーを処理する組織の一員です」
俊は目を細めた。まるでSF漫画から飛び出してきたような、そんな台詞だった。しかし彼には自分がここで彼女と話をしなければいけないと思える何かがあり、それを確かめたくて身体は自然と前のめりになっていた。
「あの、彼はどうして現れたんですか?」
「あなたが望んだから」
「よく分かりません」
「全部を理解しようとしなくても大丈夫。でも説明すると、『それ』は確実に弱っている。ニアリーは欲望のバッテリーなの。ニアリーは自分を生み出した人物の欲求のために行動する。時には現実を変える。でもいずれ電池切れを起こして、ただの人みたいになる。ご飯も食べないし汗もかかないただの人形になるの」
俊は目を伏せながらこめかみを抑えた。『彼』は喉を抑ええずくような素振りを見せた。俊は錨のように重い頭を抱えしばらく思考を巡らせた。
「なるほど、これ自体が夢だ」
伊藤は隠すこともなくため息をついた。初対面の大人の女の落胆した表情は俊にとって吹雪のように堪え、咄嗟に目をそらした。
「だって、そうでしょう。見たこともないあなたが急に現れて、よく分からない話をして、これ、夢ですよ。夢ですよね?」
「私がここに来れている理由は、私がちょっと今人生というものに疲れていて、危険を顧みない蛮勇を持ってしまっているから。そしてあなたの隣にいる『それ』がもう力を失いかけているから。どうして『それ』が力を失いかけているかと言えば、それはあなたが満足しかけているから」
「ほら、やっぱり矛盾してる。これは夢だ。だって、あなたのさっきの口ぶりだとあなたは彼を、なんというか、処理するなんて物騒な口ぶりでしたけど、もしそれを望んでいるなら、ただ待てば良い。彼は力を失いかけているんですよね?危険だというなら、ただ待っていればいいのではないでしょうか。どうして僕の前に現れたんですか?」
「任務だから。能力を使い果たしたニアリーに危険性はない。きっと隣の『それ』ももうすぐそうなる。こんな祭りを再現するくらいだから、もうそうなってるかもね。でも、私たちはニアリーを殺す。なぜなら元からニアリーはいなかったから。元からいないものがそこにいたら変でしょ?だからこの世から消して、元に戻すの」
「彼を殺すんですか」
「簡単に言えばそうする」
「ちょっと待ってください。ちょっと整理させてください。この夢は破綻している」
持ち直された鉛筆の先が日記帳に当たる寸前、伊藤は俊の手から日記帳を取り上げた。
「時間が無いの。こんな大規模な現実改変はさっさと終わらせる」
「おい女」
『彼』が怒鳴った。
「さっさとどこかへ行け。邪魔をするなあと少しなんだ。俊、こいつに興味を持つな」
伊藤は『彼』を鼻で笑った。
「だいぶ直接的ね。ねえ青木くん、紺野くんはこんなこと言うの?」
「さあ、知りません。そんな彼を見たことが無い」
「声に抑揚が無いわね。バイアスがかかってる。でも時間も無いし、話を続けましょう。というか、ちょっと質問しても良い?」
「僕は冷静です」
「だめだ。帰ろう。俊、家に帰るんだ」
俊は自分を引っ張る腕を力一杯手繰り寄せ『彼』の胸倉を掴んだ。
「黙っててくれ」
そう言われると『彼』は力なくその場にへたり込み乾いた眼で伊藤を睨んだ。俊は向き直り伊藤と目を合わせた。
「あの、僕、ずっと気になってることがあって、でもそれが何か分からないんです」
季節外れの湿気と暑さで伊藤の前髪の根元には汗が滲んでいた。彼女の眼は俊をまっすぐ捉え、彼には露呈していなかったが極度の緊張で奥歯は絶え間なく嚙み合っていた。そして小さく深呼吸をして、唇を弾いた。
「お母さん、どこにいるのかな」
『彼』は力無くその場に大の字になり、俊はそれに気付かず伊藤と目を合わせたまま質問の意図を理解しようとした。
「母はいません」
俊は困惑気味に答えた。そして思い出した。短い廊下の先に見える玄関、その手前、俊の部屋の横、そこにはドアがあった。俊は毎朝このドアの前を通り過ぎてから靴を履き外に出る。少なくとも彼はそう記憶している。その一連の動作に迷いはなく、また迷いなど入る余地も無く、それを意識してないほどに完璧なルーチンワークを自然に組んでいる。その、いつもの風景を何度も思い出し、その度に頭痛は繰り返し彼の頭を叩いた。
「君はどうしてアルバイトをしているのかな」
「うちは母子家計で、お金の余裕があまり無いんです。だから自分のものはなるべく自分で買うようにしています」
「そう、立派ね。私が君くらいのことは週末になる度にお父さんに手を合わせてた。ところで、お母さんは今どこにいるの?」
「さっき言いましたよ」
「答えて」
「僕に母はいません」
「離婚したの?」
「はい、僕が小学五年生の時に」
「お父さんはどこにいるの?」
「知りませんよ。きっとどっかで野垂れ死にしてます」
「お父さんはどんな人だったか教えて」
「分かりやすい暴力男でしたね。工事現場で働いてて、でも職人と言うほどじゃなくて、お酒を飲んで、暴れる。パチンコをして、負けて、暴れる。僕もよく殴られました」
「そう、それで、お母さんと暮らし始めたの?」
「いえ、あの、だから、僕に母はいません」
「亡くなったの?」
「ですから、いないんです。最初からいない」
伊藤は日記帳の後ろのページを破り取り机に置いた。
「今から私が二つ質問をするから、その答えを口には出さずにそれに書いて」
「何でですか」
「もうこれで終わりにするから、お願い」
俊は首を傾げながら鉛筆を握り紙片を手前に寄せた。
「最初の質問、どうして君はアルバイトをしているか」
尖った黒鉛が紙面をなぞる。
「最後の質問、いつから君の母親はいるか」
二つの答えを書き終えると俊は答案用紙を伊藤の側に置いた。
「どうぞ」
伊藤は紙片を素早く抓み俊の面前に突き出した。俊が思わずのけぞるとその距離だけ伊藤は腕を更に突き出した。
「これ、声に出して読んで」
「最後って言ったじゃないですか」
「読みなさい」
『・母子家庭だから・母親はいない』
俊はしばらくその二つの文章を眺めていた。そして短い叫び声を上げ『彼』を見た。『彼』は泣いていた。俊の指先が頬に当たる寸前、『彼』の体温が僅かに伝わりかけたところで、彼は消えた。元からいなかったかのように、一瞬にして目の前から消えた。
鳥の鳴き声がした。俊が見上げると電線には雀が止まっていた。音が消えた。振り返ると屋台も人も消え、そこはただのだだっ広い駐車場になっていた。
「青木くん」
伊藤はボールペンを赤ん坊のように無造作に握り俊に向けていた。
「もうひと踏ん張りお願い」
ペンの先から白い霧が噴射したのを見た直後、右胸に鋭い痛みが走ったと同時に俊の視界は真っ暗になった。強制的な入眠の前に彼が辛うじて感じることができたのは自分の頭が地面に落ちる寸前で人差し指と中指の付け根が岩のように突き出た大きな手に支えられた時の汗の染みた手の温もりだけだった。
「伊藤、お前辞めるのか」
男は自分の半分以下の年齢の軟弱な男子の寝顔を見ながら訊いた。そのワイシャツには所々に新しい汗染みが確認でき、捲った袖からは太く筋張った腕が生えている。
「はい。この事案が終わった後、私は辞表を提出します」
「辞表なんてものは通用しない。考え直せ」
「もう何度も考えました」
「そうか。とりあえずこいつを運ぼう。あとは医務課の仕事だ」
男が手を上げるとどこからともなくバンが現れ中から宇宙服にも見える装甲服に身を包んだ男が数人現れた。彼らは俊を丁重にしかし素早く荷台に乗せ、備え付けられているバンドで彼をフロアに拘束した。
「俺がこれまで何人の部下を殉職させたと思う?毎日死んだ奴が夢に出てきて俺に恨み言を言うようになったし睡眠薬と酒を同時に服用しないと眠れない身体になった。たまに涙が止まらなくなるし食欲は十五年前から感じていない。でも俺は平気だ。なぜなら世界の平穏を天秤にかけているからだ。それはお前もそうだ。でもお前はまだ青いから、自分を大切にしようとしている」
「辞表を出します」
「そうか。もうすぐこの辺り一帯に散布薬が撒かれる。健忘症になりたくなかったらさっさと乗れ」
*
二〇一八年十月一日午前十時十分ドライブレコーダーが起動した。
青木友里は息子の青木俊を助手席に乗せ近所のスーパーマーケットに向かうために車を中谷プラザの駐車場から発進させた。当時は大雨で視界が悪く、友里は運転をする約一時間前に低気圧由来の頭痛のため市販の鎮痛剤を服用したと思われる。十時二五分、寿橋通りの交差点で停車中に友里は激しい頭痛を覚え俊にグローブボックスから鎮痛剤を出すように言うが俊はこれに車を路肩に停めるように促した。この時、友里の内頚動脈には小さな亀裂が走り出血状態にあった。何度かのやり取りの末、友里は上体を傾け手を伸ばしグローブボックスを開けようとした。その際に力んだことで動脈性出血が急速に悪化、同時に意識を失う。
通報したのは青木母子の後ろで信号待ちをしていた運転手の男で、彼は青信号になりクラクションを鳴らされても微動だにしない前の車を不審に思い降車し確認しに行ったところ俊の太ももに頭を置き捻じれた上半身を仰向けにして耳と鼻から血を流している友里を発見し救急に通報した。友里は搬送先の総合病院で死亡が確認され母親の死を間近で目撃した俊は二日間解離性昏迷の状態に陥り病院の関係者が父方の祖父と連絡を取り投薬治療の許可を得たことで現在は比較的安定している。
以上が伊藤の作成したカバーストーリーである。
*
俊は目の前の医者のこけた頬と忙しい合間を縫って髭を剃ったためにできてしまったであろう小さな瘡蓋を見ていた。この人はいつ休んでいるのだろうか、精神科の医者も体力を使うのだろうか、というようなことをぼんやりと思いながら俊は安定剤の副作用でややぼんやりとした頭を掻いた。
「あの、同級生と一緒に暮らしてたような気がするんです」
医者は眉を上げ、体を机に向けキーボードを打ちながら質問した。
「気ですか?それとも、記憶として覚えているということですか?」
「記憶ですね。曖昧なんですが、学校から帰ると家にその同級生がいたような記憶があるんです。普通に会話したりして、まあ夢みたいなものだとは思うんですが、なんというか、実感があるというか」
「なるほど。よくあることですね。記憶の混濁です。子供が夢で見た怪物を本気で怖がることってあるでしょう?成長しても、大きなショックを受けると人は夢だとか常日頃からしている想像が作り出した記憶と実際に目で見た映像記憶が混ざってしまうことがあるんです。混線みたいなものですね」
「治りますか」
医者は指で顎を擦りじょりじょりと音がした。
「青木さんが、そういった記憶が消える、ということを治ると定義するなら治ることはないですね。この記憶は現実ではない、この記憶は現実だと思い出すたびに意図的にグループ分けをするしかありません。でも、実際に考えてみてあり得ないことはあり得ないですから」
「そうですか」
そう一言言うとこの日の診察は終わった。処方箋を受け取る際も、調剤薬局で座っている間も、俊は心臓が宙に浮かんでいるような感覚を覚えていた。母親を失ったという現実に実感が持てなかったからだ。
アパートに戻り玄関を開けるとすぐに野球中継の実況が聞こえた。日に当てられて色の薄なったサンダルを揃えて恥に寄せると俊はため息を吐いた。
「ただいま」
祖父の義之は振り返ると力無く手を上げて返事をした。
「何か食べる?」
「いい。もう病院終わったのか」
義之は立ち上がり椅子に置いていた鞄を殊更重そうに肩に掛けると深い皺の入った手を差し出した。俊がナップサックから封筒を出し渡すと義之はその場で中身を確認し、神経痛の酷くなりつつある腰に手を当てながら廊下を渡り一度も振り返ることなく靴を履き玄関を出た。
俊は父親を覚えている。そしてあの祖父のことも俊は忘れない。愛情というものが焼き払われてしまったような家系だと彼は嫌悪していたし、だからこそ毎月多少の金を払ってでも一人暮らしを選択した。
退院後、まず俊に連絡を寄こしたのは保険会社だった。母親の友里の死亡保険金の受け取りについての確認だった。これは伊藤たちによる偽装工作のひとつだったが俊はそれが母の愛だと解釈していた。調味料が一つも無い台所、衣類や鞄で散らかった部屋、しかし母は自分の部屋を用意していたし通帳を見るに学費は毎月振り込んでいる。俊にはそれで充分だった。そもそも母のことを覚えていない自分が喪失感を得られないのは当然で、家に見られる母の痕跡はどれも彼女が世間一般が思い描く母親像と離れた存在だと証明するようなものばかりだということも関係しているのだろうと俊は思った。
ドアを開けるとそこは畳の部屋だった。押し入れがあって、本棚があって、勉強机があって、布団が敷かれている。
紺野がここにいた気がする。布団に寝転がり、こちらに微笑んでいた気がする。
俊は椅子に座り学生鞄から参考書とノート、筆箱を取り出しランプを点けた。贅沢を控え奨学金を借りれば大学進学を射程圏内に捉えられる保険金があるというのが自分に残された希望なのだと俊は思った。
*
『今日から日記をつけることにする。悩み事の大半は解決しないが、紙に文字にすれば心がスッキリするのだと医者も言ったいたし、僕もそう思う。
さて、僕は頭がおかしくなってしまったのかもしれない。最近、母を亡くした。本来なら出し切れないほどの涙を出し人生を投げ出すほど絶望するだろうに、僕はさっきまで受験勉強をしていた。今日から始めることにした。本当はもっと早く行動を起こしたかったが、薬の副作用でいまいちやる気が出なかった。明日の登校も不安だ。僕みたいな日陰者が久々に学校に行っても何も起こらないというのは分かっているが、その何も起こらないというのが辛い。きっと噂話好きなあの連中のことだから、もう色々と把握しているのだろう。しかし学校には行かないといけない。僕はもう高校を大学進学のための手段と思うことにした。
母と過ごした記憶が一切無い。あの父親は覚えているのに、母のことは全く覚えていない。医者は精神的なショックが原因だと言うが、どうにも納得がいかない。でも実際、心の病というのはそんなものなのだろうと思う。母親を失い実質的に天涯孤独になったにもかかわらず僕はそれをあまり気にしてはいない。気にしなくてはいけないと思うがその義務感が魚の目のような違和感を僕に抱かせる。僕は生涯、この違和感と向き合わなくてはいけないのだろうと思う。
僕が今一番気にしているのは紺野のことだ。本当は罪悪感や無力感を抱かなければいけないのに僕は彼に助けを求めている。家に彼がいて欲しいと心の底から思っている。孤独が故でなく、そうでなければいけないというような、曲がった愛情のような愛着のような何かが心に渦巻いている。
書いていて思ったが、日記の良いところは誰かと対話している気分になれる点にあると僕は思う。
最近の僕は母親を失った可哀想な子供としての自分を装っている。このところは医者や病院の受付、後は祖父とくらいしか会っていないが、要するに、元気に振る舞わず、またわざとらしく涙を見せるというようなこともしてないということだ。だから以前した失恋や僕が紺野に対し今どのような複雑な感情を抱いているかなんて、もし相談する相手がいたとしても僕は語らないだろう。そんなことをすれば人格を疑われてしまう。
可哀想な奴は分かりやすく可哀想でなくてはいけない。
では早速、書き起こそう。僕が彼に何をしたのか。まずは向き合うところから』
そこまで書いて俊は鉛筆を止めた。芯が折れたからだ。筆箱を開けてみると鉛筆削りが壊れていた。芯を削り出す金属の部分といつの間にかひび割れていた外枠のプラスチックが分離している。他の鉛筆も取り出した途端に中で折れていた芯が抜け落ちた。まるで長時間振り続けたように筆箱の中身は汚れている。俊は舌打ちをして財布を持った。
上着を着てくるべきだった。葬式会場から流れてきたような夜風が裾から入る度に俊はそう思った。コンビニまでの数百メートルを俊は足早に歩いた。
店内はほんのり暖かくレジスターの横には内側に水滴のびっしりついた保温機が置いてある。中には肉まんや焼き鳥が見え、俊は唾液を飲み込んで文房具のコーナーを探した。
「青木」
後ろから声をかけられた。そこには紺野弦が立ってた。運動部らしいナイロンのロングコートを羽織り、俊には最後に見たときと比べ目元が緩いように見えた。
「あれ、何してんの」
いつの間にか鼓動が聞こえるほど脈打っていた。俊は熱くなりつつある自分の顔が目に見えるほど赤くなっていないか不安になりなるべく顔を伏せた。
「いや、消しゴム買おうと思って」
「そう」
会計をする間、二人は特に会話せず、店を出て駐車場のごみ箱の前で自然と立ち止まり向かい合った。
「もう冬用の制服出した?」
「一応、学校行くかもしれないし。てか、青木はどうなの」
声に力が無い。俊は肌寒さとは別の理由で膝を震わせた。
「何が?」
「学校、行くの?」
「明日から行こうと思ってる」
「そっか、俺はいつか行くって感じかな」
「うん、無理して行くこともないと思う」
「確かに、かなり気まずいし」
その言葉を聞いた途端、俊の震えは収まった。
「気まずいことなんてない。あいつらの方がおかしいんだから」
ビニール袋を持った拳は必要以上に握り締められていた。流れ出してしまう。俊は必死に落ち着こうとした。そして、彼の内に宿る灰色の炎に水をぶっかけるように紺野は笑った。
「どうした」
そう言われ紺野は口を抑えた。
「聞いてない?」
「何が?」
「あれ、福田がやったんだよ」
「福田?それ、どういう意味?」
「福田がさ、なんか、株とか仮想通貨みたいなものでめっちゃ損したらしくて、それで盗んだらしい。これ女子から教えてもらったんだけど、他の先生の財布からも金抜いてて、バレて捕まったらしいぞ。あれ、マジで聞いてないの?黒宮とかが教えてると思ってた」
「いや僕、あまりスマホ開かないし、通知も切ってるから」
「いや珍しいな。今時そんな高校生いないって」
紺野が噴き出すと俊も自然に笑い声を出した。
「え、じゃあなんで紺野は学校来ないんだよ」
「いやあ、気まずいじゃん。なんか。いやさ、俺けっこう責められたし」
紺野は耳を掻きながら唇と尖らせた。俊の脚には今にも前に飛び出し駆けだしそうな力が籠っていた。俊にとって彼が今から行おうとしている行為は初めてのことであり、それはこれまでの人生で最大の緊張を彼に与えた。
「あのさ」
道路を挟んだ向かいの家の壁に反響するほどの大声に紺野は目を見開いた。
「明日、一緒に学校行こう」
車の走行音と虫の声が混ざり俊の耳の中に入っていく。言ってしまった。それも大声で。やってしまった。俊の頭ではあの教室で突発的な弁明をした時のことが走馬灯のように駆け巡っていた。
「うん、じゃあ行くわ、学校」
紺野は伸ばした鼻の下を掻きながら呟くように言った。
「え、マジで?本当に?」
「マジマジ、明日ここで集合しよう。そんで、行こう。学校」
俊は何度も無言で頷いた。
「時間とかはどうしようか」
「七時四十分くらいならいける。また連絡するわ」
「うん、じゃあ、また明日」
「また明日」
もっと伝えなければいけないことが沢山あるように思えたが、俊は小さく手を振って紺野を見送った。