鶏モモ肉
村澤にタイムループのことを相談したがあまり芳しくない反応をされ、さらに突然隣のクラスの平真子からデートの誘いを受けた「僕」はその手紙を見た。
突然ごめんね。、こんなことを伝えるのは不自然だし驚くと思います。でも、伝えさせてください。
今度デートに行ってくれませんか
お返事待っています。 平真子
どういうことだ。まったく頭が追いつかない。デート?僕が?あの平さんと?嘘だ。何かの罰ゲームでこんな手紙を渡せとでも言われたのだろう。そう思う他ない。なぜなら、相手はあの平真子だからだ。容姿端麗、学業優秀、才色兼備に加えて、魅力的な身体。豊満な胸と決して細いとは言えないが、それがかえって男子の本能をつつくスタイルはもはや男女関係なく学校で有名だ。その一方で男周りの噂など一切聞かない。男子の間では、あの鉄壁の要塞を誰が落とすのかという話で持ちきりだ。そんな彼女とデートなど僕ができるはずない。いや、してはいけない。デートをすれば、学校中の男子からの恨みを買うことにあるし、何より平さんに失礼である。それに……
気がつくと電車は終点に着いていた。家からの最寄り駅が終点でよかったとつくづく思う。昔のことを思い出すとよく眠ってしまう。
「まあ!なんてかわいいの!」
「ほら、ちゃんと挨拶しなさい」
「こんにちはー」
「あら、こんにちは。何歳かな?」
「よんさい!」
「あら四歳なのーもうお兄さんねぇー」
家に着くと母が焼き魚を食べながら、僕の幼い頃のビデオを見ている。横目で見てこのビデオに映っている子どもはかわいいな、と思っていると、何顔赤くしてるのと母が揶揄ってくる。
「あんた、昔っから人懐こかったよね。バレンタインも毎年結構貰ってきてたし。あ、明日帰り駅前のスーパで鶏モモ買っておいてね。水曜はお肉の特売日なの。」
「これお兄ちゃん?今とは全然違うね。このときはかわいいのに、今はなんかオタク陰キャって感じ。なんでそんなに地味になったの。」
階段を下りてきた四個下の妹から急に右ストレートをくらう。反抗期でもやはり妹はかわいいと思っていると、邪魔、さっさとお風呂入ってきてと一蹴された。
僕は幼い頃はよく社交的で人見知りをしない性格だと言われていた。実際自分でも、友だちは多い方だったと自負している。バレンタインのチョコだって母の言う通り毎年五,六個は貰っていた。しかし、高校に入ってからは人との話し方を忘れてしまった。
成長するにつれて、人間は色々な感情を手に入れる。別に欲しくなくとも。そんなこととは無関係に名状し難い複雑な感情を神か何かが一方的に押し付けなさる。そのせいか、僕はよく対人関係地雷を踏み抜くようになった。 “きもい”とは彼奴のためにある言葉である、という雰囲気を時々感じている。特に女子にはそう思われている。被害妄想かもしれないが、いじめと同じようにそう思われていると感じた時から始まっているのだ。
このようにして、僕は対人恐怖症とまではいかなくとも、かなり人間を、特に女子に対する不信感を募らせるようになった。それがこの僕だ。顔が整っている奴は裏があって、ごく一部の人にしか見せない顔がある。あの化粧という仮面の下に潜ませている素顔がある。洋服というスーツについているファスナーの中に本当の自分がいる。誰かと関わり、その人を人間として、また、恋愛的に好きになっている人たちはどちらを好きになっているのだろう。僕は僕に見せない一面を隠し持っている人は好きになれないが、どれだけ目の前の人が本性を顕わしていても、その瞳の奥に裏を探してしまう―
やっぱり平さんの件は断ろう。そう心に誓ってお風呂に入る。リビングではまだ僕の幼い頃のビデオを見ている。
なんて断ろうか。平さんの厚意には感謝をしなくてはならない。だからといってそれに甘えるでもない。その日は用事があるから……いや、まだ日程も何も決めていない。勉強が忙しいも違うだろうし。やはり人間関係は頭を悩ませる。僕が考えすぎなのかもしれないが、多くの人から好かれている以上、相手を傷つけるような真似はしたくない。波風を立てずに生きていきたい。
「ちょっとお兄ちゃんいつまでお風呂入ってるの?」
外からする妹の声に驚き、浴槽ののお湯が波立つ。気がつかぬうちに長湯してしまっているらしい。
「あーごめん、今上がる。」
そう言って僕は脱衣所へ行き、バスタオルで体を拭いた。
寝る前に平さんに渡す手紙をしたためる。
平さんはきっと僕なんかとデートをしても楽しくないだろうからお断りします。ごめんなさい。
よし。これでいい。夢のように甘い話などこの暗く残酷な現実には存在しえないに決まっている。全力で走れば、その分だけの衝撃を受ける。欲しがるから手に入らなくて絶望する。そう。だからこれでいいんだ。自分に言い聞かせながら床についた。
朧気な意識の中で雨音がする。時計を見る。時刻は午前5時34分になっている。
「今日は火曜か―」
そう思うやいなやスマホが鳴る。
「誰ですか。」
仕方なくその電話に出ると、あの人の声がする。いつもより元気のなさそうなどんよりとした声。
「まただよ。また今日も火曜日になってる。」
この言葉を聞いた途端に激しい吐き気に襲われる。もう電話どころではない。今すぐにでもトイレに―
「大丈夫⁉おーい!どうしたの?まだ具合悪いの⁉」
ごめん。またかけ直す。精一杯振り絞った僕の声は届いたのだろうか。そんなことを考える余裕すらない。そのままベッドの上に汚物をぶちまけた。
すでに起きていた母が異変に気づいたらしく、僕のもとへ急いで駆けてくる。しかし、一度吐いてしまうと気分が楽になる。熱を測るが平熱だ。喉の痛みもないし、鼻水だって出ていない。むしろ十分な休養をとった後のようだ。
村澤と学校で授業の確認をしていると、僕を見つけたあの人が一目散に僕の席へやってくる。どうやら心配でたまらなかったらしい。
こんなことがあったと伝え、心配かけたことを謝る。
「そうだ、村澤も是非一緒に話したいことがある。放課後時間あるか?」
忘れないうちにタイムループの話を村澤にもしておきたい。
「少しなら付き合ってやってもいいが、痴話喧嘩なら他所でやってくれよ。」
「余計なことを言ってくれるな。はあ」
とため息をついたところでチャイムが鳴り、朝ショートに時間になった。
放課後の教室は他に人がいてもなぜだか僕だけの空間に感じられる。この雰囲気がなんとなく好きだ。
村澤とあの人を待っていると、突然教室の電気が消える。あの人の悪戯だろう。呆れながら廊下に出ると、そこには隣のクラスの平真子がうずくまっている。大丈夫ですか、と声をかけながら近寄る。白くきれいな太ももに目を奪われながら。
「あ、その、ごめんなさい!教室に、その、誰も、いないと思って。はっ!これ!渡したくて、そのグシャグシャになっちゃったけど、あの、どうぞ!」
彼女から手紙を受け取ると足早に去ってしまった。その後ろ姿をぼんやり眺めていると、顳顬の奥から「なーにみとれちゃった?真子ちゃんかわいいって有名だもんね」と揶揄う声がする。
「別に。ただクシャクシャになった手紙を貰った。ずっと握りしめていたんだと思う。」
「君にもとうとうモテ期到来⁉」
「わからないけど。」
「おーいムラッチーどこかの誰かさんがお隣の天使からラブレターをもらいましたよー」
「補習は終わったのか。」
「うふふ。二回目になれば慣れたもんよ」
「は?二回目?何言ってるんだよ。」
「あぁ、実はそのことで話したいんだ。」
「大丈夫?君さっきから顔色良くないよ?」
「きっとループの話になると気分が優れなくなってしまうと思う。」
「そうなんだ~でもムラッチあんまり信じてくれなかったねー」
「半信半疑って感じだったね。」
あの人との帰り道。友だちのほとんどいない僕にはまだ慣れない。結局、村澤には興味があるから悪ふざけに付き合うというスタンスだった。とは言っても、当然と言えば当然の反応だ。いきなりクラスメイトに時間がループしているなんて言われたら、友だちで居続けるか迷うだろう。
「そ・う・い・え・ば、真子ちゃんからのお手紙の内容は?」
すっかり忘れていた。仕方ないから、鞄からクシャクシャになった手紙を取り出して、中に入っている便箋に目を通す。横からあの人が覗いてくる。胸が腕に当たるなんて展開を期待した僕はなんて愚かなのだろう。しかし困ったものだ。まさかあの平さんからデートのお誘いを受けるとは。あの人は隣で大はしゃぎして煩くて敵わない。これは行くべきなのか。誰がどう見たって何かの手違いに決まっている。それに、僕はデートをするようなキャラではないし、どうせ僕を嘲笑うための誘いに違いない。
「これは、お断りするよ。」
そうあの人に言うと、
「だからダメなんだよ!君は!なんで断るの⁉」
「別になんだっていいだろう?平さんみたいに魅力的な人は僕とは釣り合わない。正ヒロインになるべき人なんだ。あれは。」
「何意味わかんないこと言ってるの!バカじゃないの?真子ちゃんがどれだけ勇気振り絞ったと思ってるの⁉くだらないこと言ってないでさっさとお返事連絡しなさい!LINEなら私があげるから」
「待てよ、だから僕は行かないって言っているだろ。なんでそう勝手に決めるんだ。」
「もうしつこい!行きたくないの⁉あの真子ちゃんとのデートだよ?」
「そりゃ行きたいさ。行きたいに決まっている。だけど、なんで僕を選ぶのかが分からない。知らない方が良かったと思うことはいくらだってある。遠い存在だから、手の届かぬところにいる高嶺の花だから、男子は皆崇め奉っていることを知らないくせに、説教垂れるなよ。」
「そんなつまらない理屈こねくり回すなら、自分の目で確かめなさい!平真子という人物がどのような人物か、その目で焼き付けてきなさい!さっきみたいに!この臆病者!姑息!相手にバレないところからエッチな目で女子を眺めてるだけの変態!」
いつぶりだろうか。誰かから、それも同じクラスの人から叱られるなんて。そうだ。この人の言う通りだ。僕は、本当は怖いだけだ。知らないという状態に安住して、都合よく僕の中の「平真子」という幻を創っている。僕はこんなにも弱い存在だったのか。痛感する。
―弱さ、惨めさ、臆病さ、愚かさ―
「わかった。行ってみる。」
「そう、それでいいのよ、君は。何か困ったことがあったらなんでも訊いてね。少しは頼ってほしいんだから」
安堵と優しさの混ざったような、でもどこか悲しげな声だった。
放課後、僕は平さんを玄関前で待つことにした。あの人からLINEはもらったが、どうせなら直接言いたい。それに、僕がいきなりLINEを送るのも不自然極まりない。
「ごめんね、待った?待ったよね。会議が長引いちゃって。」
「大丈夫。そんなに待っていないよ。それで、昨日のことだけど、僕でいいなら、是非、一緒に行こう。」
僕なりに平生を装っているが、動揺は言葉に乗って伝わってしまう。
「えぇーっと、ありがとう!こちらこそよろしくお願いします!あ、あの、もし、よかったらでいいんだけど、その、LINE、交換しない?」
そう言って、僕に差し出したスマホを握っている手は小さくて愛おしかった。
帰りに近所のスーパーで母に頼まれていた鶏モモ肉を買って、いつもと同じ玄関のドアを開けた。