河川敷のアタラクシア
朝起きると妙な吐き気を感じて学校を休むことにした「僕」だが、散歩から帰ると家の前には「あの人」がいた。
「あ!いたいたいた!」
まだ、時刻は九時になったばかりだ。それなのに相変わらずの元気であの人が僕を出迎えている。
「昨日、君寝落ちしたでしょー?」
一体なんの話をしているのか。昨日?寝落ち?僕が?まったく記憶にない。政治家は記憶改ざんのスペシャリストだが、今日の僕は政治家に引けを取らないかもしれない。ただ、今の僕は虫の居所が悪い。
「何の用?学校サボったのは気分が悪いから。それで、気分転換に散歩していた。それで、君はなぜ学校にいないで、ここにいるの。」
冷淡でいて、心のない蔑んだ声色になっている。
「待って、待って。そんなに怒らせるつもりないよ。ただいつも学校に来るのに今日休んでて、心配で、本当にただ、それだけ。」
「なら、もう学校へ行って大丈夫だね。こうして無事な僕を見られたから。」
「うん。そうだね…じゃあ!また後で連絡するね」
そう言って駆け出していくあの人を見ながら、胃の中の異物が蠢くのを感じた。
「よお、玄関で話していた子は誰だ?」
「おはよ。同じクラスの人。僕が心配で来たってさ。」
「なるほど。確かにおまえが学校休むなんて珍しいもんな。そうだ、俺も暇だしどっか行くか。」
母との会話にとどまらず、あの人との会話も聞いていたらしい。寝たふりをして人の話を盗み聞くなんて、まったく嫌らしい趣味だ。だが、そんな悪趣味すらも遺伝していることに余計嫌気がさす。
「特に行きたいところはないけど。」
「いいべ。適当にどこかへ行こう。」
身支度を済ませているうちに、自然とイライラは収まっていく。記憶にない過去を想像する。―僕があの人と寝落ち―そうすると、なぜか違和感の中に一筋の光が伸びていくような気配がする。
―違和感の正体―
時が経てばいずれ忘れてしまうこと。忘れてしまうのはもったいない。その違和感を解消できたときのすっきりした感覚より大切なものがその違和感に含まれている気がする。
「ほらーそろそろ行くぞー」
その父のかけ声と同時に現実に引き戻された。
―カーブを曲がる度に 迷いをひとつ落としていく―
父の車のカーオーディオからは日本のロックバンドの曲が流れている。父の影響でこのバンドを好きになって今やファンクラブ会員だ。特に父と話すことはない。互いに沈黙が苦手ではないから、車の中ではカーオーディオから流れてくる音楽と車のエンジン音だけが空気を振動させている。
車は川沿いを走っていき、河川敷の駐車スペースに止まった。
晴れの日の週末であれば、子連れの親子で賑わう河川敷であるが、今日は真っ白いタンクトップを着たそこかしこにシミのある中高年のランニングコースになっている。空を見上げれば、きれいな青空と真っ白い雲のコントラストがなんとも長閑かな雰囲気をつくり出している。川の水が流れる音が鼓膜を揺らし、それだけで喉が潤っていくような気がする。父は車のボンネットに寄りかかりながらたばこをふかしている。僕は一人で広い芝生の上に寝転がる。空に心が吸われるってどういうことか。むしろ意識の方が吸われるではないか。そよ風が芝生の上を走り僕の体の上を通っていく。この自然の中にぽつんと僕だけがいる状態がとても好きだ。頭を空っぽにして視覚、聴覚、嗅覚、触覚を使って自然を味わう。このままどこかへ消えてしまいたい。社会の喧騒から解き放たれて、煩わしい人間関係をすべての捨ててしまいたい。無為自然、悠々自適、アタラクシア。古代の思想家たちの目指した生活はこんなに美しい生活なのか。目を閉じる。頭の中で、音楽を再生する。
もうとっくに僕を悩ませていた違和感はどこかへ行ってしまっている。今頃学校では、ちょうど昼休みに入っているだろう。騒がしい教室でそれぞれ持ち寄ったお弁当を食べている頃だ。あの人は何しているだろう。今朝あんな追い出し方をしてしまったことを少し後悔する。
次の瞬間にはスマホを手に取っていた。そして自分でも訳が分からないが、あの人に電話をかける。
「もしもし」
「おー私もちょうど電話かけようとしてたんだーやっぱ私たち相性いい?」
「ははは、そうかもね。それでさ、今朝はごめん。ちょっと苛立っていて、あんな態度取ってしまった。本当は―」
「なんだ、そんなことかーこっちは全然気にしてないからだいじょーぶ!私も突然押しかけちゃったし」
「それでなんだけど、昨日の話をしたくて電話したんだけど、今時間ある?」