チーズケーキ屋さん
ピピッ、ピピッ、ピピッ
目覚ましのアラームが何もなかった昨日を過去に放り投げるかのように鳴り響く。切ない、そう思う気力すらもないから余計に悲しくなる。僕はきっとこの先もあの日の出来事を忘れたくても忘れられないだろう。
―ごめん!君のことそんな対象って思ったことなかったかも…ほんっとうにごめんね―
もう何度言われたか分からない。確か三井には「そんなこともあるさ」って上辺だけの慰めの言葉をもらった気がする。その言葉すら暗唱できてしまう。はあ、と無駄に酸素を含んだ息を落としながら顔を洗う。まだ若いのに肌につやがない。きっとこれもそんな対象と思われなかった所以なのだろう。よく見える位置に置いた有名声優の写真付きカレンダーを眺めながらコーヒーを啜った。
テレビの中にだけいるアナウンサーは、今日も災害級の暑さが続きますという聞き慣れない文言の書かれた原稿を読み上げている。音声読み上げソフトを誰でも使えるこの時代にアナウンサーがわざわざ決められた文章を、感情を込めたふりをして読むのだから、僕もまだ生きていて良い。そんなことを思うからテレビは好きだ。
「僕はこれから旅をします。自分探しの旅っていうやつです。何かあれば、また手紙を書こうと思いますが、あまり期待しないでください。文才はないものですから。ではまたいつか。」誰に当てたわけでもない手紙を書いて鞄に入れながら家を出た。
「昨日のドラマみた?」
「数学の小テストって明日?」
「単語やったー?」
「おまえ今日も谷川に捕まったのかよ」
毎日同じような意味のない会話をするクラスメイトを横目に反復試行の問題を解く。少しだけ優越感に浸る自分に気づかぬふりしながらも、教室の隅で大きな顔をする。
「ちょっと今いいか?」
「あぁ、全然大丈夫だよ」
「環境保護は何のためにやるのか」
テーマさえ言えば僕が何かしらの考えを言うとクラス全員が知っている。でも誰もテーマを言ってこない。ただ一人を除いては。
「結局先進国のエゴじゃない?経済成長が行き詰まって新興国の発展に歯止めをかけて―」そう言ったところで担任が来て朝ショートが始まった。
一時間目はC英。毎週月曜日には単語テストがある。百個の単語から五十個が出題される。五十点中三十九点以下だと木曜の昼に再テストが待っている。一週間にたった百個覚えればいいだけなのに、隣に座っているあの人は、「先生!単語テストは明日にしましょう!今日はコンディションが悪いです!」と騒ぎ立てる。なぜ月曜の朝からこんなに元気なのか。もはや尊敬する。
隣同士で交換して採点。僕にだって慈悲の心くらいはある。五,六個なら不正をしようと思っていたのに、半分以上が空欄では救いようもない。
「とりあえずなんか書けば丸にしてあげるのに」右上に十二点と記した答案を返すときにそう言うと、
「君そういうところあるよねー。不正は良くないと思うよ?」とニヤニヤしながら僕を揶揄ってくる。どうやら道徳性と生真面目さは関係ないらしい。
眠たい授業が終わって二時間目の化学の教科書を出したところで、隣のあの人がようやく目を覚ました。
四時間目の古文が終わり、谷川先生が職員室に戻る前に、生川に一言小言を言った後、昼休みになった。隣のあの人は二、三人の友だちと昨日やっていた恋愛ドラマの話をし始めた。誰かが何か言う度に「ほんっとうに発狂したわ!」「あれさ、マジ許せない!」と声を荒げる。どうやら今期のドラマは純愛というよりドロドロの大人な恋愛を題材にしたものが多いらしい。終盤まではフラストレーションの溜まる展開になっているという書き込みをネットで見たことを思い出した。
「君はどう思う⁉」
「確かに男の意見も聞きたいかも。」
不意に話を振られたので、ドラマを見ていないことを手短に伝えると、理解させる気のない凄まじい速さで内容を説明された。主人公の女子大生が傷心にあることにつけ込んだ隣人の男が主人公を誑かしているらしい。その男は高校生の時、当時担任だった主人公の母関係を持っている。
「でもさ、実際そうやって女性で遊ぶことがかっこいいというか、そんな自分が好きな男はいると思う」と、悲しい現実を無慈悲に突きつけるとより一段と声が大きくなる。そのせいか、ハンバーグが冷たく感じた。
「ねえねえ、君さ、今日何もないしょ?」片手で片付くほど友だちしかいない僕の前に立ったあの人が、さも当然のように僕の鞄を奪い取る。無論あの人はその5人に含まれていない。それを知るわけもなく、駅前のケーキ屋に連れて行こうする。知らぬが仏と同時に、知らせぬは鬼でもある。
家に帰ったら見る予定だったアニメのオープニング頭の中で流しながら、あの人の背中を眺めながら駅前通りを歩いていく。学校を出る前から鼻歌を歌っているあの人は僕の心情を気にかけるわけもない。
「ここ!ここ!このカフェ・アウ・フロメイジ?まっいいや!早く入ろっ!」
相変わらずのハイトーンボイスが駅前の喧噪に溶け込む。
「カフェ・オ・フロマージュね。フランス語だよ。チーズ入りのコーヒー?変な名前だね。」と正論ともとれる突っ込みをしながら、白い木材の枠にガラスが埋め込まれたドアを開けて店内に入る。あの人は似合わない静けさを珍しく纏っていた。クリーム色を基調とした壁と、オレンジ色の間接照明が暖かく僕たちを受け入れる。所々に黒っぽい水色の模様と黒い穴のような水玉があり、なるほど、店内全体がチーズの中というわけか、と感心せずにはいられない。
「桃ピュレ―入りベイクドチーズケーキと、紅茶!もちろんミルク入りで!」
席に着くなりメニューも見ず注文した。気後れする店員に同情しながら、控えめにブラックコーヒーを頼んだ。
「君って甘いもの嫌いなのー?」
注文した品を待つ間も惜しいらしい。口を閉じることを知らないのかと思うくらい話しかけてくる。チーズが苦手、そうぼやくと、
「そんなこと私が知らないとでも?知っててあえて連れてきたんだよ。誰も傷つけない君がどう振る舞うのか確かめるためにねっ」
どうやら僕は知らないうちに試されていたらしい。幼い頃から母に振り回されていた僕は、どの店でも売っていそうな飲み物を注文することが最適解だと心得ている。
「待って、なんで僕がチーズ苦手って知っているの?」
違和感を言葉にするのは良くも悪くも僕の癖だ。
「昨日君から聞いたよ。うーん、正確には今日なんだけどねぇー」
「何を言っているの?昨日は日曜だったから僕は家から出てないし、今日だって単語テストとドラマの話しかしていないよ。」
日頃から支離滅裂なことを言うが今日は特に酷いなと呆れながら丁寧に説明してあげる。
「君、私がまた意味の分からないことを言ってると思ってるしょ⁇良くないぞーまず受容をしてからじゃないと対話はできないんだよ」
なるほど、そうなんだねとなんとなく話を切り上げると同時に注文していたケーキと紅茶とコーヒーが届いた。そのコーヒーを啜りながら、高校生の拙い舌で大人な味を堪能した。
カフェを出てまた駅前通りを歩きながらスマホで十七時五十分になることを確認する。「女の子とのデート初めてだね?」
また揶揄ってくる。デート中に時間を確認するのは御法度と承知の上だと伝えると、
「君のそういうところが好き。」
と僕の耳元であの人が囁く。たった一瞬に女性の魅力がすべて詰まっていた。風になびく髪の匂い。甘い香りの含まれた吐息。照れて赤くなった耳。それ以上に僕の胸を離さなかったのは夕日に照らされて赤く染まった頬を伝う涙だった。
寝る前に明日の数学の小テストの勉強をする。どうも基本的な問題しか出ないはずなのに、時間がかかる。円の方程式を何度も間違える。あの涙のことを考えないようにしても焼き付いた一瞬のシーンは目が映写機となり壁に映し出されていた。