第八劇 転げ回る賽
「っ!? 」
悪夢の中にいたノアは、体の震えで目が覚めた。
ここはどこかの部屋だった。
(……隠れアジトか )
嫌な汗で濡れる体を抱きしめ、ノアはあの悪夢を忘れようとする。
だが足首には掴まれた感覚が根強く残っている。
足を触れど感覚は拭えない。
「失礼します、ルブフェルムです 」
「あぁ、入れ 」
部屋に入ってきたルブフェルムの手には、甘い香りと湯気を揺らすマグカップがあった。
「ココアです。いらないなら私が貰いますが……どうします? 」
「頂こう 」
ココアは子供のノアすら目眩がするほどの甘さだった。
よく見れば溶けていない砂糖が、水面を漂っている。
「……何杯入れた 」
「16です。あぁ、もちろん大さじですよ 」
「……もうお前が飲め 」
マグカップを受け取ったルブフェルムは、お腹を空かせた子犬のようひココアを飲み干した。
ルブフェルムの満足気な笑み。
けれどノアの表情は暗いままだった。
「あれからどうなった? 」
「ヴィアラの指示で、気絶したボスを移動させました。ヴィアラとルースは情報収集。私はサボってます 」
「……そこは言い訳しろ 」
「ボスは嘘が分かるじゃないですか 」
頭を抑えるノアは長い長いため息をつく。
その悩みに満ちた顔は、少女の年齢にはあまりにも不釣り合いな物だった。
「あぁそれと、部下として聞きますが……これからどうしますか? 」
「決まってる。クロウに報復……壊れた自警団を立て直す 」
「無理だと思いますが? 」
雑にマグカップを回しながら、ルブフェルムは首を傾けた。
「なんだと? 」
「資金も人員もアジト共に消えました。けれどクロウの自警団はどんどんと勢力を伸ばしています。どう考えても無理ではありませんか? 」
「そんなの……そんなの…… 」
「残った資金を使えば……まぁ円卓の監視を運良く抜けられれば、国境を越えられるでしょう。今の状況では逃げることが賢い選択だと思いますが? 」
それが分からないほどノアはバカではない。
だが自分だけ助かった過去が思考の邪魔をする。
頭では分かっても、心は納得いかない。
「……私はボスだ。逆らうことは許さない 」
「……えぇ。仰せのままに 」
話しても無駄だと言いたげに頭を下げるルブフェルム。
大人の対応をされた傷だらけの子供は、ただ怯えるように布団に包まるしか無かった。
「私は……間違ってる。間違ってる……でも、父さんのために……母さんのために 」
脳裏をかけた首のない死体。
高山病のような気持ち悪さが、ノアの心に重くのしかかる。
「助けられたんだ……私は。リーズに、リシュアに、リルに。だから何かしないと。何か示さないと 」
自分を説得するように語るノアは、何度も何度も足を掻く。
掻きむしる。
けれども傷や痛みが産まれるばかりで、垂れる血は不快な感覚を増させるばかり。
当然だ。
彼女は死んだ者達に誇れるようなものなど、何も持っていないのだから。
「私はどうして生きてるのだろうか 」
ふと出てきた疑問。
絶望の上でもがくノアは足を滑らせた。
ならば向かう道は一つだった。
「ここは何処だろうか 」
ノアはぼんやりと街を歩いていた。
護衛もつけず、たった一人で。
あの時と同じように。
「おいテメェ!! 」
街中で誰かが叫んだ。
治安の悪い裏ではよくあるケンカだった。
その怒鳴り声を聞いただけで、ノアは吐き気にも似た恐れを喉の奥で感じていた。
頭痛のような動悸が脳を揺らし、飢えのような憂鬱が体内を掻きむしる。
「ぇ 」
ノアはその場で茶色い胃液を吐いた。
それを見た通行人は慌ててノアに駆け寄った。
「だ、大丈夫か? 迷子か? 」
脳裏にかけたあの言葉。
『迷子ですか? 』
ノアは反射的に逃げた。
あの時の同じように、誰かに追われてると思ったから。
思い込んだから。
「ハハッ…… 」
すきま風のような息遣い。
ノアの胃液により焼かれた喉は、呼吸の都度痛みに蝕まれる。
疲れたノアはゴミ箱に倒れた。
けれどその中には誰も居なかった。
「……… 」
ノアは落ちている。
死に向かって。
その体は砕け散るために加速している。
「……ハハッ 」
ノアは笑いながら、大きな建物の階段を登る。
足には冷気のような恐怖がまとわりつくが、それすらも生ぬるくしてしまう苦痛が、ノアの心を穴だらけにしている。
価値がない。
生きる理由がない。
自分のせいで死んだ。
その呪詛にも等しい言の刃が、ノアの心に傷という死化粧を施す。
優しさは平等ではないが、苦痛は平等である。
わずか16歳の少女の心は、平等に折り曲げられた。
「はははっ!!! 」
ノアは死にたくないと思った。
けれど体は走り出し、足は足場のない空へと
「あっ? 」
駆け出す寸前、右手を掴まれた。
そのおかげで飛び降りれなかった。
「いやぁ死にたくないですよね〜。でも体が動いてしまう……分かりますよその気持ち 」
ノアの手を握ったのは、優しく笑うルースだった。
「散歩中に屋上にいたらまさかボスと会うなんて〜 」
「嘘だ 」
「えぇ。死にそうな顔してたんで、どーせ飛び降りに来るだろうなぁって。知ってます? 逃げたい人ほど飛び降りるんですよ 」
何かを知ってるように微笑むルース。
けれどノアを掴む手は骨が折れそうなほどに力強い。
「離せ。お前には関係の無いことだ 」
「いや貴方が死ねば僕が死ぬんですよ。この首輪爆発するんでしょ? 」
「あれはお前をやる気にさせるための嘘だ。離せ 」
ノアは腕を振り払おうとするが、その手は何をしても離れない。
「離せ!! 」
苦しくなることを恐れたノアは叫ぶ。
けれどルースは冷静に、自分の首輪を何気なく外した。
「……っ!? 」
「僕はですねぇ、一度人を見殺しにしました 」
ヘラヘラと笑うルース。
けれどその目は、手の届かない過去を写している。
見殺しにしたという言葉。
ノアは少し、気が惹かれてしまった。
「誰を……殺した? 」
「姉ちゃんですね 」
同一人物とは分からないが、ノアの頭には彼女が思い浮かんだ。
「僕たち虐待されてましてね〜。騎士が助けに来る前に殺されると思ったので、僕が父を殺したんです。風呂に入ってる途中に、機械を浴槽に投げ入れて感電死って感じで。笑えることに父が死んだら騎士は飛んできましたよ。まぁ……風呂で髭剃りしてたら感電死って結論付けられましたけどね 」
「逃げて……ないじゃないか。立ち向かってる 」
「まぁ問題はその後ですよ。母さんは暴力のトラウマが原因で自殺しましたし、姉ちゃんも僕が殺したとバレるんじゃないかってずっと苦しんでましたよ。風呂掃除は毎日10回行うし、騎士とすれ違う度に過呼吸を起こすほど。こんな生活続けてたら姉ちゃんも自殺するなって思ったから、僕は裏に逃げましたね 」
コッコっと靴を鳴らすルース。
彼は、死に際に立つノアの隣へと向かった。
「姉ちゃんを守るために、父をずっと観察してたから、人を見る目だけは育ってました。あとか弱そうだったみたいなんで、ただ話すだけで油断してくれるんですよね〜 」
ルースは語る。
自らの羽を毟る、壊れた白鳥のように。
「姉ちゃんとは連絡を取ってましたよ。でも会いに行かなかった。だってまた苦しめそうだから 」
絵に書いたような、作り物の笑みでルースは笑う。
「んでまぁ、はい。姉ちゃんはとある事件に巻き込まれて死んでましたね。まぁそのうち自殺しそうな人でしたし、危ないことばかりしてましたし……いつかは死にそうだなって思ってた。でも会いに行ってれば、違う結末はあったのかなって……少し夢を見るんです 」
「リーズ? 」
ふと名を呟いたノア。
対してルースは、ただ悲しそうに笑った。
「……やっぱり、金髪の女の子ってあなただったんですね。姉ちゃん、危なそうな子を見ると絶対ほっとこない人ですから 」
ルースの言葉には信頼があった。
どうせそうやって死ぬんだろうなと言いたげな、冷たく強固な信頼が。
「そんな姉ちゃんを見習って、僕はあなたを見捨てたくない。ちなみに僕も見殺しにしたくない 」
ルースの言葉に嘘はなかった。
だがノアは何を言えばいいか分からなかった。
自分のせいで死んだと言おうとしたが、そんな事を言ってもルースが辛いだけだと思ってしまう。
「あっ、冷静になってくれましたね。死にたいは衝動みたいなもんですから、少し時間を置くと落ち着きますよ 」
「……そうだな 」
ルースの言う通り、死にたいという気持ちは少し楽になった。
けれど霞のような死にたい衝動は、今もノアの心を苦しませている。
「でもまた……死にたくなるだろうな 」
飛び降りたら楽になるかもしれない。
今でも好奇心に似た自殺願望が、ノアの体を突き動かそうとしている。
その顔を見て、ルースはまた笑った。
その気持ちを分かっているからだ。
「いやぁ困りましたね〜。死にたいあなたと死なせたくない僕。うん、これは討論しても仕方がないことです。なので賭けませんか? 」
ルースはふんわりとノアの手を握り、もう一歩足を踏み出した。
「あなたが死ねばあなたの勝ち。あなたが生きれば僕の勝ち。betは……人生なんてどうでしょう? 」
その問いは、一人の少女には容易く決められない物だった。
だからこそルースは、蜘蛛が獲物を巻くように言葉で丸め込む。
「僕たちはゴミの中にいます。些細な火種で焼き払われ、積み重なるゴミがゴミを潰すだけの地獄の中。きっとこの先、安定なんて言葉はどこにも現れない。なら、賭けるべきだと思いませんか? 死ねば価値が消えるのなら、生きてる間に価値を使いましょう 」
丸め込まれているとノアは分かっていた。
けれどその目が。
リーズのように壊れた目が。
リルのように悲しみを宿した目が。
彼女の背を悪魔の方へと押した。
「……あぁ 」
「じゃあ、行きましょうか 」
エスコートのように手を引かれるノア。
ルースが先に。そしてノアも落ちた。
(……怖い )
内蔵が押し出されるような浮遊感。
ノアは恐怖を感じたが、彼女にはもうどうしようも無かった。
この世に穏やかな死など存在しない。
穏やかな死を望んだとしても、意識が死に落ちる寸前には恐怖があるだけ。
恐怖を感じた時には手遅れなだけ。
手を伸ばしても、誰も助けてくれないだけだ。
「あ〜……怖っ 」
けれど彼女には、ルースが居た。
自死を経験したことのある、壊れた男がそばにいた。
人は学ぶものである。
だからルースは飛び降りた時の対処法を知っていた。
「ふっ 」
ルースは壁に手を伸ばす。
壁に触れた指先はヤスリのように削れ、爪は飛び、関節は小枝のように反対側に。
けれども伸ばされた手は壁の溝を掴み、下に落ちる体は壁に打ち付けられた。
二人の体重で加速した体。
ルースの足からは白い骨が血を撒き散らして咲いている。
だが離さない。
左腕も両足も折れたが、右腕は彼女を抱きしめていた。
ルースは一切、ノアを見ていない。
あの日離した手だけを見ていた。
だからもう離さないと決めていた。
「着地しますよ 」
ルースは折れた足で壁を蹴る。
血も骨もホコリのように舞い、血で壁に生を描く。
壁にぶつかったため勢いは減速。
そのまま二人はあの日のように、ゴミ箱の中に落ちた。
「……生きてますか〜 」
「…………あぁ 」
ゴミ箱の中にはビンがあった。
捨てられたナイフもある。
壊れた刃先たちはルースの背に突き刺さっていたが、そんな痛みは後悔に勝らず。
後悔を乗り越えたルースは高笑いを決め込んだ。
「賭けは、僕の勝ちだ!! さぁノアさん。壊れた者同士、生きましょうよ 」
ゴミ箱の中の男は狂っていた。
ノアは既視感を覚えた。
それはあの日、ゴミ箱で救ってくれた彼女だ。
ノアの苦痛は何も解決していない。
あの後悔は消えていない。
死にたいという感情も同じく、未だにノアの足首を引きずっている。
けれど、けれども。
この男がいる限り、ノアは死を何度も乗り越えさせられる。
そう直感していた。
「あぁ…… 」
落下の恐怖に怯え、ただ涙ながらに頷く姿は少女のモノだった。
後悔も責任も恐怖に埋もれ、死にたいと叫ぶ心は血の温もりに。
体を歪ませるほど強い抱擁が溶かしてゆく。
ノアは今日はじめて、心の底から泣けた。
だからこそ、心の底に澱んでいた憂鬱は発散を始めた。
泣けば死に近付く者ではなく、泣けば泣くだけ成長するただの子供に成れたのだ。
「ただもう……無茶はするな 」
「いやぁそれは出来ませんね 」
体を起こしたルースは、傷のない右手でノアの手を撫でる。
「死を克服するための賭け。それに勝ったのなら次は、生きるために賭けないと。この円卓都市という檻から、あなたを縛る過去から逃がすために。だから賭けさせてくれませんか? 」
手を離し、ルースはにっこりと作り笑いを浮かべた。
ノアは壊れた心のまま頷いた。
「あぁ。好きにしろ、私の人生はもうお前のものだ 」
「……なら、好きにしますね 」
ルースはそっとノアを抱き寄せ、隠していた銃をこめかみに当てた。
ちょうど少女の脳みそがぶちまけられるように。
銃声が誰もいない路地に響いた。




