第七劇 真相罪悪
数年前のこと。
「みんな……どうなった? 」
ごみ溜めのような街。
でこぼこで整備などされていない道をノアは歩いていた。
フラフラと、冬空の元。
十歳にも満たない少女が一人で。
彼女は自警団のボス。その娘だった。
けれどある夜にアジトは無数の襲撃を受けた。
炎、鉛の雨、兵器の爆撃、冷たい刃。
見知った仲間は骸となり、父も母も見せしめのために首だけを持っていかれた。
残った死体の前で泣いていたノアは、辛うじてリシュアたちが連れ出した。
が、ショックのあまり、彼女は両親が死んだことすら思い出せていない。
心が自衛のために、記憶を壊していた。
「そうだ……今日、私の誕生日だ。お父さん達が祝ってくれるって……お母さんがケーキ作ってくれて、リシュアが珍しい物をくれて……なんで私、外にいるの? 誰の血? 」
ぼんやりと問うが、誰も彼女に答えをくれない。
その代わりに、
「……あの 」
「……? 」
彼女の前には三人の男が現れた。
見た目は一般人。けれどノアの直感は告げていた。
彼らは裏の人間であると。
「迷子ですか? 私たちが案内しましょ」
「っ!! 」
ノアは走る。
「追え!!!! 」
穏やかな声から一転。彼らは殺意と怒号を振りまくりノアを追いかける。
ノアは裏の人を見る機会が多かった。だから嘘や隠し事はすぐ分かる。
だか体は所詮子ども。
体力の限界などすぐに来た。
(なんで追ってくるの!? 誰? 何か悪いことした!? 謝る逃げな)
「あっ……うっ? 」
転んだノアは自分の足を見た。
裸足だった。親指の爪は、整備されていない地面に引き剥がされている。
「いっ 」
吐きかけた悲鳴をノアは慌てて飲み込む。
けれどそれを聞き逃すほど、追っ手は無能では無い。
彼らは獲物を捕まえた続けた。
だから今を生きている。
「ん? 」
追っ手は声がしたであろう路地を覗き込む。
けれど誰もいない。
汚いゴミや砕けたガラスだけが無惨に転がるだけだった。
(ゴミの中? あの一瞬で? )
『パリンッ 』
「っ!! 」
思考する間もなく、後ろの家から何かが割れる音がする。
彼は迷う。
けれど追跡者は本能に逆らえず、音の鳴るほうへと走っていった。
極上の獲物が二人。ゴミの中に隠れていることも知らずに。
「行った!? 追ってくる変態草食系男子行った!!? 」
超小声で喚く若い女性は、ゴミ袋の中から顔だけを出していた。
女性はノアを隠す直前に、そこらに転がるビンクズを反対側に投げていたのだ。
「いやぁなんとかなって良かった……大丈夫? 」
女性はやや短すぎるショートカットを弄りながらも、抱きしめているノアに優しく問いかける。
けれど当然、ノアはもがもがと抵抗をはじめた。
「わっ、落ち着いて。私は助けたんだよ? 」
「信用できるか!! 」
「言われてみたら確かに!! 」
ノアは正論を返した。
名も知らない女性も半泣きで正論を返した。
そのせいで二人の間には妙な空気がたまり込んだ。
「えっとぉ……じゃあ自己紹介がしようか。リース・リヴィエンタ。これで初対面じゃないね!! 」
彼女からは害意を感じられなかった。
だからこそノアは警戒していた。
この街で害意無きものなど、虫くらいしか居ない。
自ら喰われ、腸を貪る寄生虫か。
自ら喰われることを目的とする毒虫か。
それが分かっていたのに、ノアは油断した。
それほどまでに彼女は弱そうに見えた。
「……ノア 」
「ノアちゃん、よろしくね。じゃあ逃げよう!! 怖いイケメンさん達が来ないうちにね 」
リースはふわりとノアを抱きあげ、ドタバタと全力で路地から逃げる。
そして着どり着いた場所。
そこは普通の街中の一軒家だった。
「ここ私の家!! 」
「普通…… 」
「ここリビング!! 」
「狭い 」
「ここ空き部屋!! 好きに使ってね!! 」
「……えっ? 」
「じゃあ治療するから足見せて 」
何も言う暇もなく指先に消毒液をかけられるノア。
その表情が苦悶に染るより速く、リースは治療を終わらせた。
割れた爪の処理、指先にはカワイイ小動物の絆創膏まで巻かれている。
「はい、終わったよ。速いでしょ? 昔から手当だけは得意だから!! 」
「ありがと……それで、あなたは父さんの知り合い? 」
少し冷静になったノアは疑問に思う。
この手当てをしてくれたリースという人が何者なのかを。
けれども問われた彼女は首をかしげ、目を点にし、しまいには頭の上にはてなマークを浮かべたのだ。
「えっ、誰? 」
「じゃあリシュアの? 」
「誰ぇ? 」
「……ヴィアラの」
「なんだか綺麗な名前だね……それで誰? 」
駆け上がる悪寒。ノアは後ろに飛び退いた。
「おまっ……誰だ!? 」
「えっ、一般人だよ? ただ悪い大人たちが金髪の女の子を探してるって知ってるだけ 」
「……差し出すのか? 」
「いいや? 家族にしようと思って!! 」
「……? ……!? 」
ノアの顔は引き攣り、背中にはじわりとした汗が滲む。
異質な目の前にいる女。
それ程までにヤバいやつなのだと、ノアは心と体で理解した。
「あぁ誤解しないで。無理やりじゃないし、ノアちゃんの仲間が迎えに来たらちゃんと解放するから。それまでここを隠し宿として使ってよ 」
「なんでそんな……都合のいい事を 」
「罪滅ぼし、それと善意 」
ノアの手を取ったリース。
そして彼女は、嫌悪すら覚える優しすぎる笑みを浮かべた。
「翼を怪我した鳥をすくい上げるような、枯れた花に水を注ぐような。そんな善意で私は君を助けるよ。だから存分に利用して? 」
普通の人ならばただの異常者に見えるだろう。
けれどノアにはその目に見覚えがあった。
それは極たまに、裏へと現れる異質。
誰かを救うしかできない異常者。
救うことが生きがい。などでは済まされず、救うことでしか生きられない欠陥の人間。
だからその目は裏切らない。
彼女らは、誰かを救うことでしか救われないのだから。
「……分かった 」
ノアの頷きに、リースは頬を赤い暖色に染めた。
すりすりと頬ずりをされるノアは嫌な顔をしていたが、その頬はほんの少し赤に染まっていた。
「良かった〜。私一人でここに住んでるから寂しかったんだよ 」
「……? 誰もいないのか? 」
とうぜん疑問に思うノア。
なぜならこの部屋は男部屋だからだ。
ベットも掛けられた服も机の上の置物でさえも、男用のものだった。
「うん? あぁこの部屋? 弟の部屋だよ 」
「帰ってきたら困るんじゃ」
「帰ってこないよ、私のせいで 」
昼に夜風が吹くような不気味な声。
ノアは初めて身の危険を察知した。
(……壊れてる )
「でも大丈夫。帰ってきたらちゃんと出迎えるつもりだから……大丈夫!! だから気にしないで? 」
「えっ? 」
ふと、扉が開いた。
二人だけしか居ないハズの家で、物音一つなく。
そして人影が部屋の中に写し出された。
「……なるほど 」
妙に納得したような女性の声だった。
瞬間、リースは音もなく彼女に飛びかかる。
リースの背中はノアの視界を遮っていた。
だから女性の顔が見えなかった。
だが次の瞬間には見える。
吹き飛んだリースの腹の穴からクッキリと。
返り血を浴びるやけに白い肌を持つ女性が見えたのだ。
彼女は白いワンピースを身にまとい、その腕には純白の義手をつけていた。
白い義手。
そんな物を付けられるのは、この都市にはアイツらしか居ない。
「円卓の騎士…… 」
「ふむ。キミが逃げてると噂の娘さんかな? 」
一瞬で正体を看破されたが、ノアは逃げられない。
足の怪我、まだ生きているかもしれないリースの安否。
それが足枷となっていたからだ。
(……殺される )
「あぁ。勘違いしてるところ悪いけどさ、私はもうすぐ死ぬから。キミを捕まえる元気はないよ 」
「……はっ? 」
死んだリースを綺麗に寝せる円卓の騎士。
彼女は長いため息を吐き、どっこいしょと言いながらノアの隣に腰掛けた。
「自己紹介。クソみたいな円卓 ランスロット。名前はリル……ただのリルだよ 」
雨のように浴びせられた無数の名。
困惑するノアにとっては、そんな事はどうでも良い物だ。
「死ぬって……なんの冗談? 円卓が死ぬなんて有り得ない 」
「私たちをなんだと思ってるの? 円卓だって死ぬよ、私は円卓で一番弱いからね〜 」
「そうじゃなくてなんで死ぬ……いや、なんでリースを殺したの!? 」
溢れ出した困惑。
けれどリルは首を傾げてふふんと笑った。
彼女は異常者だ。
「殺してないよ、彼女は自爆しただけ 」
「……はっ? 」
さらに困惑するノア。
その表情を面白がるようにリルは笑う。
「あれは裏でも稀な自爆装置だよ。ほら、極小針の暗殺道具あるじゃん? あれを自爆と共に敵へ飛ばす。そうすると、爆発に驚いた敵の頭にビッシリと極小針が突き刺さる。結果はまぁ……うん、脳細胞ズタズタの臓器不全かな? 死ぬのは遅いけどね〜 」
嘘をついている雰囲気じゃなかった。
だからこそノアは恐怖した。
(嘘じゃないでもなんでそんな冷静にそもそもリースがなんでそんなのをアレは嘘? 私を殺したかったの? 何が本当でどういう事? )
「困惑しなくてもいい。一つ一つ紐解いていこう 」
ぐるぐると目を回すノアを置いて、リルはワンピースをなびかせクルクルと回る。
「私は頭が良いんだ。一目見ればその人の過去がわかる 」
「……? 」
「彼女は虐待を受けていた。それで弟が亡くなった、そして自分が死ねば良かったと思ってた。だから誰かを守るために生きたい、誰かを救って死にたい。そんな矛盾を孕んで苦しんでいた。だからあんな危険なものを身に付けていたんだろうね 」
子供を誤魔化すような全く信ぴょう性のない言葉の羅列。
けれどそう納得しなければ、さっきまで笑っていたリースが自爆する理由は見つからない。
「酷いよあれは。体の中にいつ爆発するか分からない爆弾を入れるような物だから。もう彼女は日頃から壊れてたんだろうね……それ程までに重たい罪悪感だったみたい 」
「なんで……躱さなかった? 」
ノアはこう言いたかった。
円卓である者が、あれを躱せないはずは無いと。
その問いにリルは、さらなる笑みで答える。
「誰かが受止めてあげないと可哀想じゃん。それに彼女、最期は満足したみたいだしね……ほら 」
指さされたリースの死体。
それは死体に見えなかった。
口元は笑い、目元も笑い、血色こそないがまるで今にも笑い声を上げそうな。
不気味で柔らかい笑みを浮かべていた。
「もし躱してたら、きっと彼女は後悔の中で死んでいた。今度は守れたという充実感で死ねたんだ。良かったじゃないか 」
「そんなこと……分かるわけ」
「さて、次はキミへ質問だ 」
リルはピタリと動きを止め、まっすぐノアを見つめる。
その目には捕食者のような圧迫感があった。
「彼女の意志を汲み、私は死ぬまでキミを守り通そう。そしてキミは、生き残った後どうしたい? 」
「どうって…… 」
逃げていた問題がノアの前に立ち塞がる。
アジトは崩壊、両親の安否は不明。
仲間の生死も、そもそも自分がいつまで生きられるかも分からない。
この円卓の騎士に、気まぐれに殺されるかもしれない。
(でも )
足元に感じる死の冷たさ。
けれど臆すことなく、ノアは啖呵を切る。
「私が自警団を復興させる。あの組織を動かし続けた、父と母のために 」
瞬間、ノアの脳裏には首のない死体がチラついた。
(……誰の死体だ? なんで私が泣いている? 父さんはどうなったんだっけ? なんで復興を目指してるの? )
それが死んだ両親であることを分かっていない。
「うん! いい心意気だね 」
グイッと顔を寄せるリル。
ノアはビックリして後ろに飛び退いた。
「……お前、そんなんで本当に死ぬのか? 」
「うん、脳みそが終わってるよ。そのせいでハイテンション!! まぁ目標も決まったことだし 」
リルは机の上の鉛筆を手に取った。
そしてふわりと壁に寄りかかると、鉛筆を指で挟み、デコピンで吹き飛ばした。
その先端は壁を貫通。
静かに盗み聞きをしていた追っ手の脳を、無音で貫いた。
「ご飯にでもしよっか 」
そして始まったのは、奇妙で歪な生活。
ひび割れた人間たちが壊れていく狂気の日常。
ーーー
殺される側の犯罪者、殺す側の円卓。
この家ではその両者が暮らし、あろう事か騎士が犯罪者を数々の追っ手から守っているのだ。
「へ〜、頭いいねキミ。その歳でもうこんな本読めるんだ 」
「馬鹿にするな。もう9歳だ 」
「うんうんいい子だね〜 」
甘ったらしい声を上げながら、エプロン姿のリルは大きなハンバーグをひっくり返す。
その隣には死体が三つ転がっている。
それを見ているノアは、ふと不思議に思った。
「お前は本当に騎士なのか? この街の騎士は、皆平等を掲げてる。なのにお前はすごく……変だ 」
「まぁ平等なんかクソ喰らえ〜って思ってるしね 」
「……どういう意味だ? 」
「例えばさ、16年間虐待されていた少女が居るとしよう。あぁ暴力じゃなく精神的苦痛でね? 彼女は自由になりたかった、だから勇気を持って家族を殺したのに、誰も助けてくれず、待っているのは平等な制裁だけ……ハハッ、笑える平等でしょ? 」
「それは……お前の人生か? 」
「いいや、私は臆病だったからね。殺せなかったよ。だから自警団は有りだと思ってる。平等は人を守るだけで救わないものだから、救われない人たちの拠り所になる。まぁでも、危うさは含んでるね 」
リルはハンバーグを皿の上に乗せ、血の着いたエプロンを脱ぎ捨てた。
「悪とは腐りやすいものだから。自警団の人員を増やせば増やすほど、統率は取れなくなっていく 」
「でも……人員がなければ多くを救えない 」
「だから絞ることが大事なんだよ。何を救い、何を見捨てるか。ぜんぶを救おうとして、無理に人を増やす。そんな事をすれば何を組織に入れるか分からないでしょ? それに 」
「それに? 」
「自警団となれば、騎士を相手にすることになる。社会を維持するには抑止力がいるからね、勝手に暴れる自警団なんて騎士からメッタメタにされる。割に合わないよね 」
へへへと笑うリル。
少しの間考え、教師へ問いかけるようにノアは質問した。
「どうして自警団だけ認められないんだ? 」
「理由は色々。環境や時代によって理由は変わるけど……まぁ強いて言うなら、失敗した時かな。ほら、冤罪で人を捕まえ、処刑しちゃいましたとするじゃん? そしたら謝って済むわけ無いでしょ? じゃあ誰が責任を取る? 」
「間違った人? 」
「じゃあ殺した責任をどう取ろうか? 」
「……死ぬ? 」
「うん、死んで償いました〜。じゃあ次の事件、自警団みんなで追って殺した人が、実は冤罪だと分かりました。誰が責任を取ろうか? 」
「…………… 」
「こんな風にね、責任を取る方法が確立しないんだよ。でも騎士の場合はさ、責任を取る人が居るでしょ? 部下が冤罪で殺してしまったとしたら、上の人が責任を取ればいい。まぁそれはそれで問題はあるんだけどね〜 」
リルの言っている話は難しいものだった。
失敗は許されない。が、人とは失敗する生き物。
その失敗の責任を取る者が居なければ、きっと失敗をもみ消そうとする輩が増えるだろう。
そうならば新たな犯罪者を増やすだけだ。
騎士も自警団も平和のために戦っている。
だが人には変わりない。
失敗をした時、どう責任を取れるか。
その責任でどう被害者たちを納得させるか。
要は、失敗した後のことを考えられているかの話である。
「何が正しいか……分からないな 」
「完全に正しい物なんてこの世にないよ。だからこそ、正しいと思い込むのは危険なんだ 」
リルは作っていたソースを肉の上にかけ、机にコンっと優しく皿を置いた。
「はい授業はおしまい。ご飯食べよ 」
食事をし、追手を狩り、また学ぶ。
そして二人は死体が転がる部屋で、布団に入っていた。
ピッタリと、どこか壊れそうな体を支え合うように。
「どうしてお前は……円卓にいるんだ? 」
「ん〜? 旦那と息子がいるからね。円卓がクソだと思っても……好きな人たちを裏切りたくはないよ 」
「じゃあ……ここに居て良いのか? 」
ノアは壊れているのに心配した。
リルはひび割れた笑みを返した。
「私は心が弱いからね〜、キミを見捨てられないんだ。このまま去れば、きっと後悔で苦しみ続けるだろうから。私にはそっちの方が苦しい 」
壊れたもの達は語り合う。
そして夜が明けた。
「さぁご飯だよ〜 」
蛆が肉を喰す傍らで、二人は食事をとっていた。
朝食はステーキだった。
「美味しくてソースをかけてさ、油を入れて毒を入れよう。美味しいね……あごめん。頭がバグってた 」
「ところでお前、自警団の人員を募るにはどうしたらいいと思う? 」
会話が噛み合っていない二人。
けれど会話は続いていく。
「いい待遇かな? 飲食と安全な寝室があれば結構人な集まるよ。志で集めるのはタブー。心なんてコロコロ変わるものだし、強い人は群れなくても一人で進んでる。それに、高すぎる忠誠心は利用されやすい 」
「そうか……どうしたらいいんだろうか? 」
「私ね、学校の先生になりたかったんだ 」
二人は笑っている。
「そうか。ならないのか? 」
「うん。もう人を殺しすぎた。でも今は楽しいですかね? 」
「そうか。なら良いじゃないか 」
「ね〜 」
リルの脳細胞の殆どは機能を停止していた。
ノアの心はあの事件を思い出せないほど壊れていた。
けれど追っ手は、リルの手によって叩き潰される。
彼女の脳は、自らよりもノアを守ることを優先していた。
「私さ〜、子供産めないんだよね 」
「それは辛いことなのか? 」
妙に掃除の行き届いた風呂の中。
湯船に浸かりながら二人は笑いあっていた。
「産めないことは辛くないよ。でもさ、時々不安かな。愛の形が分からないから、失いそうで不安になる。だから形に残る何かが欲しいの。愛し合っても愛情と満足感が残るだけで、形は残らない。このまま生きてて、形を残せず、次第に冷めていく愛だけが残るのかって考えると……辛いかな 」
「私はよく……分からない 」
「辛いことは分からなくていいよ。こんな辛い気持ちにはなって欲しくない 」
湯船の中で二人は寄り添い合う。
「息子のことは……愛しているのか? 」
「もちろん大好き!! でも忘れられないんだよ。いくら愛を注いで、注がれても、この子は他人なんだって……あーぁ、馬鹿になりたいな 」
「そうか…… 」
自覚していないが、ノアは失った母性を求めてリルに擦り寄った。
リルはほのかに残る母性でその体を抱きしめた。
そして夜が明けた。
「ご飯作らないと……ご飯作らないと 」
抑揚のない声で目が覚めたノアは、扉にぶつかり続けるリルを見た。
その目は虚ろ。
扉を開けることすらできていない。
(こいつ……本当に死ぬんだな )
「あれおはよう? 起こしちゃった? 」
「平気……起きる 」
部屋に横たわるリーズの死体からは、鼻の奥をピリリと刺激するような痛んだ臭いがしていた。
「ご飯……溺食善 」
「そうか 」
朝食はステーキだった。
なぜかこの家にはたくさん肉がある。
「最近お客さんが多いね。お酒どこにあるか知らない? カルマが買ってきてくれたヤツ 」
「分からない 」
天井を見つめ続けるリルの手を握るノア。
二人はゆっくりと席に着き、丸焦げのステーキを口に入れる。
「ユフナはすごい遠くにいるからさ、なかなか会えないんだよね。でもこの前花とか髪留めとか送ってきてさ、ビックリして泣いちゃったんだ〜 」
「そうか 」
「ねぇノア 」
リルはふらりと立ち上がると、ノアの首を掴んだ。
「逃げることも大事だよ 」
ハッキリと目を見るリル。
この言葉だけはノアに伝えたい。その意思が止まった脳を無理やり動かした。
「逃げたら失う。でも自分すらも失う訳じゃない。逃げて生き延びれば、それ相応の幸せが手に入るから。生きていれば必ず、幸せだと思える日が来るから。だから困難を正面から受け止める必要はないの 」
「……それでも私は継ぐ。ここで逃げたらきっと…………今以上に死にたくなる 」
壊れた目をした二人は、互いに笑い合う。
「そう言うと思った。私をキミは似てるから。だからプレゼント 」
リルの白い義手は木漏れ日のような優しい光を放つ。
それは彼女からの贈り物だった。
「この義手の能力はね、他人の知能を私レベルまで上げる能力なの。あれが私のせいだったのはビックリしたよ。それを一瞬だけ施した……これでキミは他人の嘘を見抜けるようになる 」
「どうして……それを? 」
「死を望むキミが、少しでも苦しまなくするためのもの。どうしようもなく死のうとした時、他人の言葉を信じられるようにする保険。キミにも……生きてて良かったと思える日が来て欲しいから 」
知恵の譲渡を終えたリルは、だらりと手を下ろした。
顔を上げたノアの目に映ったのは、光を反射しない目を持つリルだった。
「死んだのか……? 」
その同時にキイっと、何かが軋む音がした。
いつからか玄関の戸は半開きになっていた。
「死ね 」
地に映る影の形が変わる。
追跡者である三つの影は待っていたのだ。
最初から、騎士が死に無防備になるノアを。
この時まで。
「行ってらっしゃい。千の苦しみを越え、一の幸せにたどり着くことを、私は願ってる 」
けれども、影の首は認知すらできない何かが切り裂いた。
バタバタと倒れる死体たち。
いつからか、リルの義手からは赤い液体がポタポタと零れている。
「そうか……ありがとう 」
リルの心臓が動いている。
けれど言葉を話す機能は、もう頭の中に残っていない。
光にも音にも反応しない生き人形。
ただ敵になるものを狩るだけに動く殺戮人形。
リルという人間が死んだのだと、ノアは理解した。
「……… 」
リルの受け渡す能力。
その根底は、自分の苦しみを理解して欲しいという願い。
犯罪者が殺されるしかない世界で、犯罪者の過去を分かってしまう苦しみを。
救われたかったと願う犯罪者に、共感してしまう弱い心を。
あの時変わっていればという結果論な後悔が、心を蝕んでいるという事に。
リルは一人だった。
精神的孤独は、いくら現実が満たされても埋まらなかった。
だから理解者が欲しかった。
その飢えにも近しい感情を、知恵を受け取ったノアだけは理解していた。
「……… 」
ノアは虫が蔓延る部屋で目が覚めた。
リルの精神的な死から二週間。
座らせたリーズの死体はとっくに腐っている。
特に目と足の部分は、たくさんむしにたべられていた。
「……ありがとう 」
ノアは虫を払い、柔らかい肌の死体を抱きしめた。
形はどうであれ、自分を助けてくれた恩人に感謝を示したかった。
「……酷いな 」
リビングだった場所はあまりにも酷かった。
床など血で見えない。
荷物のように積まれた死体が足の踏み場を邪魔してる。
そんなゴミ屋敷で、倒れている一人の死体を見つけた。
リルだった物だ。
「……… 」
ノアは死体を持ち上げる。
予想より重かったせいか、ノアは死体を落としてしまった。
ゴンッと頭から地面に落ちる死体。
それをもう一度持ち上げ、血の着いた椅子に彼女を座らせた。
顔に着いた血を袖で拭き、半開きになった目を閉じさせ、まるで絵本のお姫様のように美しく、最初に見つけた人がそう思うようにと、死体を動かした。
けれど固まった死体は、粘土よりも融通が効かない。
ノアは何度も死体を椅子から落としてしまった。
その度に新しい血が顔を赤くする。
「ごめんなさい…… 」
死体を落とす度に涙も落ちる。
けれど手が震えるほどに失敗し、ノアの心を掻き乱した。
それを何十回も繰り返した。
そしてようやく、転がる死体よりかはマシになった。
「ハハッ……ハハハっ 」
汗だらけのノアは、血まみれの手で顔を抑えた。
彼女にはもう、自分が何をしているのか分からなかった。
けれど、頭の中で聞こえた言葉がある。
『行ってらっしゃい 』
そう言われたのならば、返す言葉は一つだけだった。
「行って……来ます…… 」
何人もの犠牲の上に生き残った一人。
優秀な大人が何人も死に、生き残ってしまった無能な子供。
彼女はゆっくりと玄関に手を伸ばした。
けれど寸前、その足を何かが掴む。
そしてずるりと体を引っ張られた。
『『『『『『お前だけ生き残るのか? 』』』』』
底なしの血溜まりから覗く、ノアのせいで死んだ犠牲者。
罪悪感はノアを引きずり込んだ。




