岐天駅
人はいつだって選択する。
全校集会の遅刻という烙印がかかった学校までの岐路や、大慌てで出入りする通勤時の改札列ラッシュだとか? 疲れ果てて辿る帰り道だったり……。
だが、何気なく進んだ先は、本当に望んだ道だったんだろうか。
皆が皆、此処での最後の歩みに後悔する。
それは――――立場に関わりなく、どんな原動力を持っていようとも決して納得など出来はしない。
とは言え、今の話をまだ知り得ない方がうちに。
この異空間でいつまで呑気に眠りこけているのやら。
所謂、レトロな古びた懐中時計を文字通りに懐から取り出せば――錆中心の金属音を立てる蓋開き、何が楽しンか、あらゆる部品がからくりに大働き。
まだ、余裕はあるな。
俺としてもいい加減ぐっすり眠りたいところだが、そうは問屋が卸さないもんで、時計の針が巻き戻るように時計は懐に返し、嫌々業務に臨む事に。
「ぉきてくださぃ。起きてくださぁーい」
現代にも一定数、生息する日本人。
か、我に返って考えれば外国系は見たことないな。
ご覧の中肉中背の中年男性は座り心地が悪いってのに、椅子に凭れ掛かってまで夢路を辿っていた。
さぞ草臥れたご様子で、お疲れさまな中小企業の……それも重っ苦しい残業から解放されたっぽく、
コクリと不安定に小首を傾げ、おまけに角ばった地味めがねが今にもズレ落ちそうで足が地に着かない。
勿論、文字通りの意味で。
二つの意味、いやふたりとも。
ほんのいっときの幸せを噛み締めるような寝顔で、苦しげにぶつぶつと何かを呟いてらっしゃる。
「るっさいよ。ってる。わかぁってるよ……ったく、ぁぁんでぇおれぇがぁぁ。までぇやんなきゃ」
「困ったなぁ、いま起きないとみんな大変ですよ」
逆上を逃れまいと日干しした毛布でやさしく包み込んだら裏目に出たのか、瞼の裏側から呼び掛けに応える訳もなくただ時間だけが虚しく過ぎていく。
「ハァァァ。起きてください!」
嘆息交えの丹田にチカラを込めた怒号を飛ばして漸く、俺の想いが届き、お目覚めの兆しを露わに。
但し、他人様の親切を平気で不機嫌に受け取り、右目眇めのファンサービスを追加して。
「……?」
「ずいぶんと、深く眠られていましたね」
微睡んだ眼をあちこちに泳がせ、
「ぁ、ん゙ん゙っ――コッ此処は?」
寝起きを誤魔化す咳払いのポーズのまま、窓枠から覗き見で辛うじて窺える看板をしっかり捉えた。
「……」
「岐天? 知らない駅だな」
「えぇ」
「きみも、っ……感じかな?」
「何方でも、貴方とさして変わりませんよ」
「へぇ学せ、残ギョウ、帰りかい? 若いのに頼もしいね」
下から上まで舐め回す視線で拾った広い視点だ。
「大凡、囚われてるって事は間違いないんですが」
「はは、そうだね」
色々と絶望的な寝言からは想像もしない紳士な仮面をお持ちの方で、全開となった扉を一瞥されるものの、未だに閉まる気配がない様に安堵していた。
「終点だったのか。起こしてくれたのはもしかして、キミ?」
「何度も何度も、繰り返しですがね」
「わ、わざわざありがとうね」
「お気になさらず」
毎度お馴染みの一連の流れ――光景に、乾いた瞳に休憩を挟みつつ重い腰を上げ、徐に立ち上がる。
「おぉっ、とっと」
危ないよろけ方だ……。
ふらふっらで安酒抜けねぇ振る舞いで支えありきで前へ前へと、不安ながらにその背を追いかけた。
「すみませーん! あれぇ、おかしいな」
一両、二両と閑古鳥も退勤しちゃったガラガラな車内を跨いでく。
「いやーははは、乗り過ごしちゃったなぁ」
同時に恒例行事の二段階目に移り、怪しい雲行きに予め、傘で杞憂の種を覆い隠すように常に災いを齎してきた口を縫って、面倒な切り返しもせずに、
「そうですか」そう感情任せに冷たい返球を放っていた。
些細な雑音が行き交い、谺する自然現象を、無駄に近しいおとなりのうさ、マーモットさんは酷く怯えた様子で耳を立て、しつこく振り返ってばかりで。
先程までの建前に薄ら笑いを貼り付けていた平和ボケの面構えは、顔面蒼白に様変わりされていく。
土足で、素足でも困りモノだが、何をとち狂ったのか、運転席の扉に手を掛けようとする瞬間――。
オレは、咄嗟に声を大にして静寂を切り裂いた。
「まだっ!! 辞めといた方が宜しいかと」
「えぇそう、なの? まぁ、そっかぁ、そうだよね。いずれ出てきてくれる、はず」
そんでもって、再び電車のお外に逃げ道という名の救いの手を探し求める。
淡々と、けれど何かを気取ったようで……疎かに不規則でいて散漫としたペースダウンで進みゆく。
扉や運転席によくある広告掲示板に扮した、一般人侵入禁止の張り紙いっぱい前面に押し出された、こーんなあからさまな注意書きも見えないなんて。
今、この瞬間に、やや前に赤裸々に馳せる心情を吐露し、奥底から心待ちにした夢の乗車口を前にして、何故か、あと一歩の所で踏み止まってしまう。
三度の間を置いて、徐に息を呑む。
まさかまさかの傍に佇む、俺の鼓膜に響くほど。
武者震いか〜将又、身震いなのか。後続を尻目に新たな扉として立ち尽くしてしまった。
畑に入ればカカシ顔負け、ダルマさんが転んだ大会あれば、優勝間違い無しの逸材。皮膚に滲んで止まず、絶え間なく滴り落ちる雫を除けば――だが。
「降りられないのですか?」
「……」
俺の疑問符の?すら届いていない。
感嘆符なら気付くかな。
「でしたら元の席へ戻られては」
「……」
無情な舌剣を躊躇いなく背に突き立てた。
「戻られたら如何です。もう一度、椅子で項垂れて夢の続きを見るといい。さぞ、夢見も良いでしょうし」
虚・無。
かと思われた矢先、最後のひと押しの苦労の末、踏み出してくれた。
俺にまで通ってくださいと言わんばかりに、いつになく枠のキワキワまで開放的に引っ込んだ扉と睨めっこを他所に、辺りを挙動不審に見回している。
「なっ、何だ。此処はぁ!?」
ついついコチラも好奇心に駆り立てられてしまい、決して電車内から一歩も髪一本も出ないように最大限の注意を払いつつ、そーっと顔を覗かせた。
「アァー、今日は曇ってンだ」
ふと、静止画に引けを取らない元乗客に目を向ければ、正に暗雲立ち込める光景に唖然としていた。
「……」
いつもながらに駅のホーム全体は毒っけのある鈍色の雲に包み込まれており、その真下と列車の先頭、後尾の姿だけがどうにも見えず終いだが、横目に映ったまんまの御仁は完全に言葉を失った状態。
「ご帰宅はお気に召しませんか」
「――君は……降りないのか?」
我に帰れば、裏表なくどくを吐いてばかりでスカートを覗き見るような変な姿勢を維持するオレを、朧げフィルターの掛かった魔の出口を挟んで不思議そうに見つめ、思わぬところでヒントに辿り着く。
とても、落ち着いた抑揚で。
「降りません。いえ……降りられませんよ」
「そ、それはどう意味かな」
「此処はまだ終点じゃないんです。いや――」
制服と体勢を整えながら、徒らに絹肌な下顎に手ェ当てて、意味もなーく左の上をぼうっと眺めた。
「捉え方によっては始点、なのかも知れません」
「き、君は一体、何が言いたいんだ?」
怪訝な形相に連なる冷え切った眼差しを向ける様に、羞恥に似たソワソワ感からどうしようもなく手を下ろし、その居た堪れなさからそっぽを向いた。
「ココで降りる方に告げることはありません。夜道にはくれぐれもお気をつけて」
何度目かも忘れた静寂。
彼方さんは、チラッと今現在のご自分の様子をぐるりと全身観察。
額にじわっと干からびそうな程に汗を染み出し、スローモーションに唾を喉仏に伝わせ、流し込む。
一呼吸終えるころには心変わりした両足が立ち止まった歩みが移る。心底嫌がっていた電車内へと。
だが、どうしたことか、腰を抜かして地に尻餅を付かれる。
「あ、あっ……!!」
なんとまぁ、
「足がっ!!」
感嘆符の多いこと。
年下の前で情けなく狼狽えていても、足から目を離せずにいるようで。
「当然でしょう」
まぁ急に膝から下が、綺麗さっぱり消えているのだから無理もないかも。
「え?」
「だって貴方、もう死んでますから」
「……は?」
幾度となく訪れたであろう時間。
ときが波立つように、視線もまた泳ぐ。
「き、きみはあるじゃないか!」
「へぇ……」
そう見えてるのか。
「ふ、ふざけるてるのか! 君はっ‼︎」
耳を劈く発狂の反響に頭がやられそうだ。
「そんなに私と話がしたいのでしたら中でしましょう。椅子に座って、落ち着いた状態でね」
「あぁ、アアッ。そうさせてもらおうか!」
厄介クレーマーの並々ならぬ的外れな文句は指先にまで走り、使い物にならない脳みその不始末を、なんだかんだと当てつけ紛いで愚痴を零しつつも、結局、我々は原点回帰を果たしてしまった。
激しめなドライアイで血走った眼差しを眼前に、殴打一歩手前の拳をみじん切りするみたいに小さく震わせ、腹痛なのかな自身の懐に片手を忍ばせた。
「っ!?」
痛いのは嫌なので顔を仰け反る刹那、意外なところで顔を歪める異様さに目線を落とすと、包丁の刃を腹部を鞘として収めてらっしゃるのを垣間見た。
おまけに血糊がドブか沼か濁った黒色に染まり、新品ワイシャツがワインのシミみたいに年代物に。
一癖も二癖も変わってらっしゃる腹黒さに目を背け、機嫌を損ねまいと事の概要を殊更、手短に説く。
「此処は、善と悪が均衡した者だけが乗れる場所。分岐の岐に天国の天を掛け合わせた――岐天です」
「ま、待て。待ってくれ。大前提として……君は何なんだ?」
「困った人を正しいほうに導く、ただの案内役ですよ」
「えき――」
「みんな、そうやって帰っていくんですから。あなただって、こう説明されて、まだ道に悩んでいたら、次に乗ってきた方に同じように教えるでしょう?」
「あ、あぁ」
「では、続けましょうか」
「そうだね。じゃ岐天? 起点じゃない。のかな。ほら馴染みのあるほう」
「創設者の匙加減でしょう。居たら、の話ですが」
「それで、どうすれば正しく降りられるんだ」
徐に両の掌を天に差し伸べる。
「此方に在りますは、天秤に乗った善と悪。右には悪を。例えて言うなら窃盗に暴力と痴漢、殺人を。対極である左には善が。やや弱い些細なゴミ拾いや、身を挺して誰かを護ったり、命を賭してまで赤の他人を助ける涙ぐましい自己犠牲なんかですね」
「ワタシは一度たりとも刑務所になど入ってない!」
「一目瞭然、ですから――純粋な頃から善い行いをコツコツと積まずに自分にばかり良いことをする。それでいて、平坦な道のりを突き進んでおいでで」
「……」
「そして、本来であればこれは、どちらかに傾き、あの代表的な――二つの道が開かれる。けど稀に平衡に、つまり……横並びになることがあるんです」
まるで子どもに勉学を教えている気分だ。
「それが」
「岐天という訳か」
……。
「ですからこれは簡単に言ってしまうと、最終審判を試験化した。みたいなモノだと思ってください」
「試験?」
「えぇ、貴方の明日が掛かった重大な試験」
「どうすれば出られる」
「電車の中で運転席の前後、何方かに入れば出られます」
「前と後ろ? では、出口は二つ?」
「一つは過去、もう一つは未来へ行けます」
「過去と未来?」
「えぇ、自らの行いを顧みる過去か、何もかも忘れ去って未来へと行くか。全ては、アナタ次第です」
「急に壮大だね」
「ですね」
「それに、博識じゃないか」
「何せ、目に焼き付いていますから」
「……?」
ここから先のデジャヴは、想像に難くない。
「君は、ここの運転手かい?」
「いいえ、違います」
オレは食い気味にそう云った。
そしてそして創作的な一流探偵の仕草を真似た、口元に手を当てて俯いての足組で思考を巡らせる。
「……」
狐疑逡巡。
と、言ったところだろうか。
未だ尚、悶々と結果を出さずにいる様に、傍観者としては時間どころか体まで溶けそうでならない。
脳みそから溶け始めたのか、幼少期に卒業する筈のつぶらな瞳が注がれ始め、終いには足を丁寧に折り畳むという慎ましさを覚えるようになっていた。
「最近は、近代化が進んでいるんですよね」
「それはどういう意味だい?」
先程とは打って変わって、ニコニコな上に丁寧口調と、振り切ったキャラチェン。別の意味で拷問だ。
「あまり深く悩まずに国語とかの小テスト? 程度だと思ってしまえば、とっても気が楽でしょう?」
「はは。テストの点が悪くても心は沈むよ」
社交辞令に洗礼を与えるように、マイペースに懐から形見を取り出し、刻一刻と迫るカウントダウンに直面して――史上、最低最っ悪な生を実感する。
まぁ、それが楽しくて仕方ないのだが。
此処では特に。
「良い時計だね」
「……」
「かなり古いタイプのようだけど、新品と比べても遜色ないよ。ちゃんと手入れをしている証拠だね」
「別にそんなことしてませんよ。でもそうですね。とても、とても大切なもの――です」
そう云い、胸元にグッと押し当てていた。
「私にも君くらいの娘がいてね」
「はぁ……」
唐突な過去語りに反抗期の子供並みに嫌な顔を向けるも、減らず口は留まるところを知らずにいて、
「昔はよく朝も夜も私のそばに、何処までも付いてくるような甘えん坊だったんだ。帰ってくるなり、抱っこを要求してきてね、『大きくなったらパパと結婚するんだ!』なんてことをよく言っていたよ」
「慕われていたんですね」
「あぁ、懐かしいな。あの頃は、妻も私に尽くしてくれていたんだ。どれだけ仕事で帰りが遅くなっても、娘と一緒に、玄関でずっと待ってくれていた」
それはそれで怖いな。
「なのに――なのになんで先に行ってしまうんだ」
どこか、欠けている気がする。
「日出る国で生まれた火の子が、理不尽な世の中に虐げられるなんてふざけてる」
「ごもっとも」
真面目の織り交ぜに無駄な共感を生むも、
「子供のときなんてどうでもいいことを考える暇も無く、夢だとかロマンなんかを追い求めてたのに」
「えぇ」
「今や、こんなことなら鼻からって考えてしまうこともあるんだ。でも、振り返ってみれば――妻と娘が支えてくれていたから……今のぼくがあるんだ」
「美談ですね」
「そうでもないさ」
「ですね」
「……」
雑にお茶を濁して退散を匂わそ。
「じゃあ、お先に失礼します」
「もう、行くのかい?」
「えぇ、長くなりそうなので」
「色々と……ありがとう」
「いいえ、当然のことです」
「また、何処かで」
「案外、すぐに会えますよ」
不自然な火種を残し、その場を後にした。
寝。
遅いなぁ〜。あの人はまだ、結果が変わらないってのに、選択の熟慮に入り浸っているのだろうか。俺もどくをはくのに頭を使って瞼の裏と睨めっこ。
おっ、来たか。
一歩一歩を大きく、未熟にも踏みしめていく音。
それは案の定、傍らでピタリと止む。
固唾を飲んで見守れば、劇場に匹敵する白熱した展開が繰り広げられる。その一部始終がありありと目に浮かぶので視界を重く閉ざした門を嫌々開く。
そして、身体を起こせば、今回の立役者と再会。
「き、君が何故、此処に⁉︎」
「そんなに驚かなくても。まるで幽霊でも見たみたいに」
大袈裟に眼球を剥き出しにして、固まった。
「ところで……こちらは未来行きですが?」
「い、いや違うんだ! 車掌に会いに」
「彼にお会いになりたいんですか? それならいくら駅を、電車の中を探しても無駄だと思いますよ」
「ぇ」
「だって、私がそうですから」
「さっ、さっきと言ってることが違うぞっっ!!」
惨めにも年下に感情を振り撒くマイナスの印象を相殺する記憶力を駆使し、俺に尖った指を差した。
「先ほども言ったように目的地まで貴方を運ぶ事は私にはできません。ですが、お客様にとっての正しい道を開き、導くことはできます。ワタシは、駅員」
「その制服がコスプレで、そういうドッキリだとか」
「違います」
「……」
「ぁあ、家族が亡くなられたのも嘘ですよね?」
「……」
「私は一流探偵でもないので、仕草や言動からしか読み取れませんが、最愛とまで宣っておきながら、やけに思い悩むなとは思ったんです。それに家族が死んだのなら、こっちには来ないでしょう……普通」
また我を忘れ、非人道的に現実を突きつける。
「あのとき、運転席へ入ろうとした私を、何故君は止めた?」
「天国や地獄より恐ろしい未来を迎えるからですね」
「なにっ?」
「普通に考えて、岐天に来た人間なんかが過去や未来に行ける訳ないでしょ。どんな、高待遇ですか」
「き、君は一体、何がしたいんだ! 私を弄んで何の意味がある⁉︎」
「そんなに怖がらなくても……まるでお化けを目にしたみたいに」
悟った頬が恐怖で素直に引き攣って、モンスターの常套手段な見え見えの狂気に走る。
「どうして教えてくれなかった!」
「駅員に淡い期待を抱かないでください」
「な、なら。だったら、邪な考えを持って逆の道に行ったらどうなる⁉︎」
「望み通りの行き先を。それも選択ですから」
「どうして、私がこんな目に」
「お互い、生まれてくる時代を間違えたんでしょう。で、災難続きでご臨終って訳です。どうです――自身の現状、理解頂けました?」
「ふっ、ふざけるな!」
「大変、大真面目」
「こんな馬鹿げた問題ごときで私の運命を、勝手に決められてたまるか!」
「善行。あるいは悪行を積んで来なかった己を呪ってください」
「私は、私はこれから先、どうなる!」
「それは貴方が一番良く分かってるでしょう?」
理不尽を憎もうが、恐れを含もうが、怒りを孕もうが、必ず。必ず、結果は変わらない。
「切符を拝見します」
血が滲み出るくらい奥歯を噛みしめ、無情に進みゆく時の流れを味合わなければならないのだから。
「私はっ報われるべきだ! 全てをやり直す資格がある筈だ! きっと、必ずそうなんだ!」
「貴方は資格取得の試験に堕ちました。残念ながらこれが現実です、受け止めてください」
意味もなく、閉ざした道へと振り返った。
「恨むなら……前の車掌を恨んでください」
颯と思わず零した過去にピタッと動きを。
「前の?」
止めた。
きっと、彼との今際の際の静寂を迎え、この場で誰もが一度は想像するであろう天啓。
鈍間でいても一切の揺らぎなく、踵を返すとともに禽獣たる眼差しだけをオレに向けた。
「君が死ねば、次の車掌は誰になる?」
こっちは、悠長に天を仰がせてもらった。
残り少ない海馬を切り刻んでくるズキズキとした鋭い痛みが前頭部を絶え間なく襲った。
「それだけは……『やめておけ』」
「私が、どうやって命を落としたか、気になるかい」
「いえ、全く」
「その日もいつも通りに仕事を終え、帰ってきたんだ」
「語られるんですね」
「娘は思春期などとかこつけて年中、夜遅くまで出歩き、父への尊敬の念を忘れるどころか、クソ親父などと罵声を浴びせ、妻は残業を片付けた私に労いの言葉もなく、惣菜コーナーから見つけてきた揚げ物を皿に移し替えることもなく、テーブルの上に」
「心中、お察しします」
「米も自分で炊かなくてはならず、明日の支度も済ませなければならない。空も明るくなり始め、そうなっては一日の疲れを洗い落とす湯船にゆっくり浸かる時間すら無い。また――明日も明後日も仕事だ」
「えぇ」
「体に限界が来るまでこの地獄に終わりなどこない。だが、何の為にだ? 今や愛想を尽かされた、私の愛する妻や娘に金を残す為か? え? 世間からの築き上げたプライドを守る為? 何の為だ?」
「いっそのこと、別れを告げれば良かったのでは」
「あぁそうしたよ。別の方法でな。このまま寝てしまえばまた救われない地獄の苦しみがやってくる。だからキッチンから刃物を取り出し、私は妻のいる寝室に向かった。いつも通りにな。そしたら……」
「……」
「どうなったと思う?」
「さぁ」
「人の金で肥えた体のせいで上手く刺せなくてね、肋骨の間を針の糸を通すようになんて芸当、あの時の怒りを覚えた私には出来なくてね。アドレナリンが昂った妻に包丁を奪われ、滅多刺しにされたよ」
「側からみれば口論の末の揉み合いってところですか。娘さんはさぞ、お二人を見て恐怖したでしょうね」
「そしたら、どうだ。まさかその私の命を奪ったモノも一緒にやってきた。これは運命なんじゃないか?」
「あぁ、だからですか。親父狩り対策にしてはやけに物騒だなぁと思ったんですよ」
彌お出まし、ちょっとばかし物騒な刃渡り数センチの包丁を内に秘めたる鈍色に輝く鋒は、過剰防衛必死な無抵抗の人間の胸を捉えていた。
敗北者の前回の反省を活かした脳内再生の最中、オレは悟られまいと一瞥を拝借。
ゆっくりと閉ざしていく扉を。
重い身を苦労様々で引き摺って躙り寄ってき、やがてはヒートアップ、終いには駆け出した。
眼前に迫り来る刃に自分の瞳が映り込む。
泥濘に嵌ったが如く生気が微塵も感じられない、ドブのような真っ黒な瞳。
「ハァ」
静かに一歩を後ずさり、
ダンッ。という音とともに扉は閉ざされた。
現世に通ずる、唯一の道が。
振るったナイフと時同じくして、俺の身体は幽霊に触れるさながらにすり抜けてゆく。
男は別の扉に激しく打ち付けられ、悶絶した。
いや、正しくは憐れな犯罪者と呼ぶべきだろうか。
「だから言ったでしょう……」
もう中身まで出てしまいそうなため息を零しながら振り返れば、膝から崩れ落ちたまま小さな呻き声を上げて、打ち拉がれていた。
苦渋を味わう真っ只中にこんなことするなんてとても心苦しいなんて気持ちどこにも無いのだけれど、胸から心臓、心に至る深淵に手を入れ、手繰り寄せるように切符を取り出した。
まだ、新品。今、開封。
それでも、もう二度と戻ることの出来ない片道切符に穴を開けて、ピーピー喚く被害者面をさっさと巣にお返しした。
ご開帳の懐中時計を片手に、
「0番線は特急地獄行きです。次は、何処にも止まりません。――間も無くの発車です。お近くのドアからご乗車下さい」
「…………待っ」
「電車、発車致しまーす。ホームドアから離れてお待ちください」
この行為に自分なりの敬意を払って、そそくさと現場を退散。
とき。
窓の先に映り込む、他愛もない日常映像。
こっの長ったらしい一生の駄作の走馬灯を、最後まで見届けた者は果たしているのだろうか。
無情に過ぎゆく時間に、ただ只管に自堕落に流されていく。レールから外れた自分は、懐の懐中時計を弄って、閉ざした蓋を開く。
それはグルグルと針が目が回るくらいに回転し、今にも弾け飛びそうなほどに。
お前も老いることを知らないな、ホント。
――あの人は成仏したのだろうか。
まるで面白みのない、変化のない光景ばかりを眺めていると、気が滅入ってしまいそうだ。
頻りに睡魔が襲ってしまうほど…にぃ…。
カチ、カチ、カチと蛍光灯が点滅する。
最近は居間の電気の調子が特に悪く、食卓を囲むときなんかは家族の顔がよく暗闇に呑まれていた。
だから、ひとりで学校帰りに買いに行った。
道草も食わずに正しい道を最短で進んで。
けれど、照明の箱を小脇に抱えた頃には既に日が暮れていて、闇夜が静かに漂い始めていた。
一応、家族から連絡がないか確認しようとしたが、不幸は連鎖するのか、携帯を家に忘れてしまっていた。
けどまぁ、母も父も妹も今日は遅く帰ると聞いていたから、それほど息を切らすこともなく淡々と足を運んでいた。
真っ白に吐く息で赤く腫れ上がる指先を温めて、入り組んだ迷路からうちの団地の影が見えてきた。
足元の駐車場、ちょうど、それを見上げるくらいの距離だった。
「あ、ぁ」
爆発だとか轟くだとかそういった感じではなく、近くの人が振り返るくらいの割と小さな音だった。
「っ」
人の形を保てなくなってぐちゃぐちゃな体の至る所から水たまりみたいに赤黒い血が広がっていく。
「っぁぁ」
連なる団地の我が家の番までもう目と鼻の先で、ポッケから鍵を弄っていたら外に設けられた階段。
「ァァッ」
そこからでないと――きっと無理だったと思う。
「ハァ、ハァッ……」
辛うじてわかる。
落ちてきたのは、妹だった。
「ハァッ……!!」
そして、その場にいた。
「嘘だ」
俺はいたんだ、ずっとそばに。
着信履歴には一件、伝言が残されていた。
ただ一言、
「たすけて」
と。
どうやら、学校の連中にイジメられていたらしい。
妹は真面目すぎる性格で、なんでもひとりでやりきって、そんなこともずっと隠し通してきていた。
いや、違うな。
別に、知ろうともしなかった。
「っ、ふー」
俺は、アイツを見殺しにした。
両親も、学校も、生徒も、みんな。
あれからも、妹の死はただの事故の扱いだった。
まったく関係ないが、警察は落下して即死だったと云い、内心、遺体であって安心した自分もいた。
でも今思えば、まだ息があったのかもしれない。だって、目が合ったんだから。絶対に。
あの目が訴えているのが、もしも、復讐だとか、だったら、兄貴はどうすべき、だったのだろうか。
自らをも欺く善良な一市民を演じる、ずっと画面越しでしか目にしたことが無い男。
いや、一度だけ、会った。
コイツは、確か。
「電車、そろそろか……」
駅前のホーム、久々で改札を間違え、向かい側。そろそろ動かなきゃならないってのに両の手でスマホを雑に持ったまま、項垂れるので精一杯だった。
行こう。
どうせ、今更何をしたって変わらないのだから。
ホームを出て改札口に戻ろうとしていたら、偶然にも人助けを必要としたお婆さんを見かけ、手を差し伸べていた。ほんと、偶然。偶然のことだった。
腰を下ろさなければ、手を差し伸べなければ、立ち止まらなければ、出会うこともなかっただろう。
あの男を見つけた。
「ほんとうにありがとうね」
「……次の、次の電車はいつ、出ますか」
「次かい? 次は確か、えー何行きだったかしら。でも、あと少しで行っちゃうわ、乗るんなら早く」
俺はいつになく息を切らしていた。近くの店で、新品の包丁を片手に、改札を乗り越えて駅員に追われながら血眼にやって奴を探し、そして見つけた。
電車の扉は開かれ、周りも乗る寸前。
取り巻きもいたが、お互いに興味も無かったので気付かれることもなく、雑踏に紛れ背後まで忍んで閉まる直前にどこまでもしずかに刃を突き立てた。
電車内に移った取り巻きに乗じて、オレも無様ったらしく倒れていく奴を尻目に大きく踏み込んだ。
そう、耳障りな音だけがいつまでも鼓膜に響き、次の瞬間には、見知らぬ電車の中に独り、だった。
喜怒哀楽の情を持たない物が右往左往する駅構内はただ一人を除き、他は誰もいない。
そう歳の変わらぬ凛とした丸眼鏡の好青年が扉前の壁に凭れ、こちらを不思議そうに見守っていた。
変な趣味か、職に手を付けるには早過ぎる車掌の制服を着飾り、首にぶら下げる真新しい懐中時計にほんの一瞬、目を奪われた。
「綺麗な時計ですね」
「あぁ、そうなんだ。とても大切な物だよ」
そう言い、時計を胸に力強く押し当てる。
「誰ですか? ……というか、此処は?」
彼は針を覗き見る。
驚くほど似合わぬその様に玩具のペンダントを掛ける子供の姿が、頻りに頭に浮かぶ。
「始まりであり、終わりの場所。岐天駅だ」
「始まり?」
「人によっては天にも地獄にも変わる場所。まぁ大抵の場合は、堕ちてばかりだけどね」
「はぁ……」
「詳しくは中で話そうか。座って、落ち着いてね。時間は幾らでもあることだし」
「……」
不思議な人だな。
そんなこんなで、彼は列車へ踏み出し、瞬く間に俺は運転席の道に第一歩の足を乗せていた。
「おめでとう」
「は?」
「君は天国に行けるよ」
「天――国?」
「あぁ、君はこの試験に合格したんだ」
「試験。試験ってじゃ、じゃあ! 過去に戻れるって話は?」
「……」
悄然とした顔つきで、唐突に口を噤む。
「俺、言いましたよね。過去に戻れるのかって、で、それで、だから、俺っはっァ……」
「君の心情も汲まずに軽率な発言をしてしまったね、本当に申し訳ない」
怒りが脳に流れるより先、拳を握りしめる。
「どんな考えがあってか解らないけど、やめておけ。それだけは……」
気付けば、彼の眼前へと瞬く間に迫り、俺は振り上げた拳を顔面に振り下ろしていた。
車掌の上に跨り、鮮血に染まった手を、何度も、何度も、骨が透けて見える頬に矢継ぎ早に振るう。
彼は憐れむような目を向けていた。
「すまない、本当にすまない」
その一言が拳をより一層、強く漲らせた上に、懐中時計を俺の胸元に強く押し当てた。
「これは君にとって必要な物だ」
鈍器を振り翳すように渾身の一打を振るう。
だが、最後の一振りを受け止めたのは床だった。
「は?」
ふと窓に目を向ければ其処にいたのは、車掌の制服を着せられていた俺だけ、だった。
彼は雲のように霧消していた。
地に臥した、懐中時計だけを残して……。
「……」
またか。
優しく中に目を開き、狭間の表舞台に逆戻り。
最近はよく、子守唄ならぬ子守映像に魅せられてしまってばかりで眠りこけてしまう。
懐中時計。
もう姿も、顔も、声も、色褪せた一枚絵のように鮮明には覚えていない。
でも、貴方が大事にしていたこれだけは、いつまでも記憶の一頁に残り続けるでしょうね。
「暇だな」
眠気覚ましついでに内の捜索に当たるとでもするか。
意味がないと百も承知で、埃一つ浮かばぬ四隅まで目を通し、足取り軽くスキップで運ばせていく。
ん?
幸運にも、その行いは吉と出た。
「落とし物か」
一枚の写真。
小学生くらいの少女と若々しい父母が仲睦まじく肩を並べ合っていた。
「……」
前言撤回。
狂気の沙汰をそっと元の場所に舞い戻し、浪漫の別なる忘れ物を掴み取り、定位置に着いて。
一本の筒を口に咥えた。
親指で小突くように爪弾く。
キンッと高らかに心地よい音色を奏でて、流麗に歯車を回せば美しき灯火が周囲を照らす。
火を付ける寸前、視界の端に貼られた一枚のポスターがするりと眼下に舞い込んだ。
「あ? 禁煙?」
ふざけたポスターを掴み上げ、腹いせに先に燻らせてやった。
だが、その瞬間。
下る、天罰。
頭に絶え間なく滴り落ちる大雨に――束の間の安息を燻らす紫煙は敢え無く鎮火した。
そして、
「何で電車にスプリンクラーが付いてんだ……?」
煙草とジッポは泡沫夢幻に霧散していく。
雲を掴むような感覚だけが手に残るばかりで、視界の端に映り込むふざけたポスターまでもが綺麗さっぱり、元通りとなっていた。
「はぁ……」
壁に張り付く正直な背を強引に剥がし、淡々と歩みを進めていく。
「お忘れ物にはくれぐれもご注意を~」
次なる乗客の元へと。




