岐天駅
人はいつだって選択する。
遅刻通学の岐路や、大慌ての通勤時の改札列とか? 疲れ果てての帰り道だったり……。
だが、何気なく進んだ先。
其処は本当に望んだ道だったのだろうか。
皆が皆、此処での最後の歩みに後悔する。
それは誰であったとしても、どんな理由であろうとも、決して納得など出来はしない。
とは言え、今の話をまだ知らぬ者が内に。
あぁ、見慣れぬ場所でいつまでも呑気に眠りこけている、この呆れた人のように――。
「起きてください。起きてくださーい」
現代にも一定数、生息する日本人。か、我に返って考えれば外国系は見たことないな。
と、横道に逸れる前に中肉中背の中年男性が、椅子に凭れ掛かって夢路を辿っていた。
ここ最近で最もつまらん現実に引き返し、
さぞ草臥れたご様子で中小企業の重苦しい残業から解放されて、おまけにコクリと不安定に小首を傾げる上に、角ばった地味な眼鏡が今にもズレ落ちそうで、足が地に着かない。
勿論、文字通りの意味で。
ほんの一時の幸せを噛み締めるような寝顔で、苦しげにぶつぶつと何かを呟いている。
「るっさいよ。ってる。わかぁってるよ……ったく、ぁぁんでぇ、おれぇがぁぁ」
「そろそろ、起きてくれません?」
日干しした毛布で包み込んだ呼び掛けに応える訳もなく、ただ時間だけが過ぎていく。
「ハァ。起きてください!」
嘆息交えの丹田に力を込める怒号を飛ばして漸く俺の想いがお目覚めの兆しを露わに。
但し、他人様の親切を平気で不機嫌に受け取り、右目を眇めるファンサービス追加で。
「……?」
「随分と深い眠りでしたね」
微睡んだ眼を泳がせ、「あれ、此処は?」窓枠からギリ見える看板をしっかり捉えた。
「……」
「岐天? 知らない駅だな」
「えぇ」
「きみも、感じかな?」
「何方でも、貴方とさして変わりませんよ」
「へぇ、残業帰りかい? 若いのに頼もしいね」
「大凡、囚われてる事は間違いないんですが」
「はは、だね」
紳士は全開となった扉をチラリと一瞥するが、未だに閉まる気配がない様に安堵した。
「終点だったのか? もしかして、君が?」
「何度もね」
「わ、わざわざありがとうね」
「お気になさらず」
毎度お馴染みの一連の光景に乾いた瞳に休憩を挟みつつ重い腰を上げ、徐に立ち上がる。
「おぉっ、とっと」
ふらふらと安酒抜けねぇ振る舞いでも慎重に前へ前へと前進し、不安ながらに続いた。
「すみませーん! あれぇ? おかしいな」
一両、二両と閑散とした車内を跨いでく。
「いやーははは、乗り過ごしちゃったなぁ」
恒例行事、第二段階。怪しい雲行き直後。常に災いを齎した口を縫い、面倒な切り返しもせず、「そうですか」と冷たい返球を放る。
車内に谺する些細な雑音を間に受ける無駄に近しいお隣の草食動物さんは酷く怯えた様子で耳を立て、しつこく振り返ってばっか。
先程までの薄ら笑いを貼り付けていた平和ボケの面構えは顔面蒼白へと変色していく。
運転席の扉に手を掛けんとした瞬間――俺は咄嗟に声を大にして、静寂を切り裂いた。
「まだっ……辞めておいた方が宜しいかと」
「えぇ? そう、なの? まぁ、そっかぁ、そうだよね。いずれ出てきてくれる、はず」
そして、電車の外へと再び、目を向ける。
淡々と……けれど、何かを気取ったように、不規則でいて散漫とした足並みで進みゆく。
もうわかっているのに知りたくない。否、疎かにするのは全てに於いて、か。
こんな小さな注意書きも見えないなんて。
今、この瞬間に赤裸々に馳せる心情を吐露し、待ち侘びた夢の乗車口からの脱却を前にして、あと一歩の所で踏み止まってしまう。
三度の間で徐に息を呑む。
まさかの傍に佇む、俺の鼓膜に響く程に。
武者震いか、将又身震いなのか。後者を尻目に新たな扉として立ち尽くしてしまった。
畑に入ればカカシとなり、ダルマさんが転んだ選手権があれば優勝間違い無しの逸材。
絶え間なく滴り落ちる雫を除けば、だが。
「降りないので?」
「……」
きっとまだ、俺の言葉すら届いていない。
「でしたら元の席へ戻られたらどうです?」
「……」
無情な言葉を躊躇いなく背に突き立てた。
「戻られたら如何です。もう一度、夢の続きを見るといい。さぞ眠り心地が良いでしょう」
虚無。
最後のひと押しの苦労の末、踏み出した。
通ってくださいと言わんばかりに上方修正を遺憾なく発揮し、挙動不審に辺りを見回す。
「なっ、何だ。此処はぁ?」
ついつい俺も好奇心に駆り立てられてしまい、決して車内から一歩も出ないように最大限の注意を払いつつ、そっと顔を覗かせた。
「あぁー。今日はは曇ってるんだ」
ふと静止画顔負けの上客に目を向ければ、正に暗雲立ち込める光景に唖然としていた。
「……」
いつもながらに駅のホーム全体が鈍色の雲に包み込まれており、列車の先頭と後尾の姿だけがどうにも見えず、ずーっと横目に映ったまんまのあの人は完全に言葉を失っていた。
「御帰宅はお気に召しませんか」
「君は……降りないのかい?」
冷静になれば変な姿勢を維持する俺を魔の出口を挟んで不思議そうに見つめて声に出す。
とても落ち着いた抑揚で。
「降りません。いえ……降りられませんよ」
「そ、それはどう意味かな?」
「此処はまだ終点じゃないんです。いや――」
無意識のうちに下顎にそっと手を当てて、意味もなく真左の遥か遠くを呆然と眺めた。
「捉え方によっては始点かも知れませんね」
「き、君は一体、何が言いたいんだ?」
怪訝な形相で白眼視を向ける様に、緩慢に手を下ろすとともにそーっとそっぽを向く。
「此処で降りる者に告げる事はありません。どうか、夜道にはくれぐれもお気をつけて」
再三、静寂。
チラッと今現在のご様子を観察。
じわっと干からびそうなほどに額に汗を滲ませ、スローモーションに息を呑んでいた。
一呼吸終えると――立ち止まった歩みを再び進めてゆく。心底嫌がっていた車内へと。
だが突然、腰を抜かして地に尻餅を付く。
「あ、あっ……‼︎」
妹と見た、某キャラみたいだ。
どうやらキ、これ以上は一旦よしておいて、足から目を離せずにいるようで「足がっ‼︎」何と驚き、年下の前で情けなく狼狽える始末。
「当然でしょう」
まぁ、急に膝から下が綺麗さっぱり消えているのだから流石に無理もないかもしれない。
「ぇ?」
「だって貴方、もう死んでますから」
「……は?」
五度、いや幾度となく訪れただろう時間。
そして、泳がすように視線を移し変えた。
「き、きみはあるじゃないか!」
「へぇ……」
そう見えてるのか。
「ふ、ふざけるてるのか! 君はっ‼︎」
耳を劈く砲煙弾雨の反響に頭もやられる。
「そんなに僕と話がしたいのなら中でしましょう。椅子に座って、落ち着いた状態でね」
「あぁ、ああ! そうさせてもらおうか!」
厄介クレーマーの文句は指先にまで滾り、使い物にならない脳みその不始末を、当てつけ紛いでなんだかんだと文句を付けつつも、結局、我々は原点回帰を果たしてしまった。
暴力行為一歩手前の手腕を小さく震わせ、凝視をし、腹痛か己が懐に片手を忍ばせた。
痛いのは嫌なので流麗に顔を仰け反り、苛立てぬように事の概要を殊更、手短に説く。
「此処は善悪が均衡した者のみが乗る場所。岐天です」
「岐天? 起点じゃない。のか?」
「創設者の匙加減でしょう」
「それで、どうすれば正しく降りられる」
渋々両の掌を差し伸べ、天に差す。
「此方に在りますは、天秤に乗った善と悪。右には悪を。例えて言うなら窃盗に暴力と痴漢、殺人を。対極である左には善が。些細なゴミ拾いや、身を挺して誰かを護ったり、命を賭してまで赤の他人を助けるなんかですね」
「私は一度たりとも刑務所に入ってない!」
「一目瞭然。ですから純粋な頃から良い行いを積まずに平坦な道のりを突き進んでおいでで」
「……」
「そして、本来であればこれは、どちらかに傾き、代表的な道が開かれる。けど稀に平衡に、つまり横並びになることがあるんです」
まるで子どもに勉学を教えている気分だ。
「簡単に言うと、最終審判の試験みたいなものだと思ってください」
「試験?」
「えぇ、貴方の明日が掛かった重要な試験」
「どうすれば出られる!」
「そう早まらずとも道は閉ざされませんよ。この電車の前後の運転席に立ち入れば、――一応は出られると言えるでしょう」
「前と後ろ? では、出口は二つ?」
「一つは過去、もう一つは未来へ行けます」
「過去と未来?」
「えぇ自らの行いを顧みる過去か、全てを忘れ去り未来へ行くか。全ては貴方次第です」
「随分と博識じゃないか」
「何せ、瞼の裏側に焼き付いていますから」
「……?」
まだ理解が追いつかないのか、疑いの念を抱くのを除いて先のデジャヴを禁じ得ない。
「君はここの運転手かい?」
「いいえ、違います」
俺は食い気味にそう云った。
そしてそしてまるで一流探偵のように口元に手を当てて俯き、足組で思考を巡らせた。
「……」
狐疑逡巡。
と、言ったところだろうか。
長考。
未だ尚、結果を出さずに逡巡とする様に、暇過ぎる傍観者は退屈を貪り尽くしていた。
だが、人前で気持ちの悪い眼差しがチマチマと注がれ始め、慎ましさを覚えるようになっていく。終いには足を丁寧に折り畳み、仰々しく哀れみを乞う、上目遣いを向ける。
「最近は近代化が進んでいるんですよね」
「それはどういう意味だい?」
先程とは打って変わって、朗らかに満面の笑みにと、振り切っての丁寧口調の尋問に。
「あまり深く悩まずに。国語の小テスト程度だと思えば、気が楽でしょう?」
「はは。テストの点が悪くても心は沈むよ」
社交辞令を他所に、懐から形見を取り出す。いつ何時に於いてもこれを見ていると、茫漠とした夢のように不思議な感覚に陥ってしまう。まぁ、それが楽しくて仕方ないのだが。
此処では特に。
「良い時計だね」
「え?」
「かなりの古そうに見えるけど、新品みたいに綺麗だ。ちゃんと、手入れしているんだね」
「別にそんなことしてませんよ。でも……そうですね。とても、とても大切なものです」
そう云い、胸元にグッと押し当てていた。
「私にも君くらいの娘がいてね」
「はぁ……」
唐突な過去語りに僅かに眉根を寄った。が続けて減らず口は留まる所を知らずにいて、
「昔はよく私に何処までも付いてくる甘えん坊だったんだ。帰ってくるなり、抱っこを要求してきてね、『大きくなったらパパと結婚するんだ』なんてことをよく言っていたよ」
「慕われていたんですね」
「あぁ、懐かしいな。あの頃は妻も私に尽くしてくれたんだ。どれだけ帰りが遅くなっても、玄関でずっと待っていた。なのに――なのに、なんで私より先に行ってしまうんだ」
猿芝居で見ざる、聞かざる、喋らざるの三銃士をうち、一つの銃口を持ち合わせぬ二階級特進兵に脱帽した。上官はそれを惰性で両の眼を空気に吹かして見下ろし、手を拱く。
明確な侮蔑を含んで。
「日出る国で生まれた火の子が、人々が虐げられるなんてふざけてる」
「ごもっとも」
真面目の織り交ぜに無駄な共感を生むも、
「子供の頃なんてどうでもいいこと考える暇も無く、夢とか追いかけて、ロマンなんかを追い求めてたのに、今や、こんなことなら鼻からって考えてしまうこともあるんだけどね」
「えぇ」
「でも、妻と娘が支えてくれていたから……今の僕があるんだ」
「美談ですね」
「そうでもないさ」
「ですね」
「......」
雑にお茶を濁して退散を匂わせる。
「じゃあ、お先」
「もう、行くのかい?」
「えぇ、長くなりそうなので」
「色々と……ありがとう」
「いいえ、当然のことです」
「また、何処かで」
「存外、直ぐに会えますよ」
不自然な火種を残し、その場を後にした。
寝。
今頃、あの人は誓って結果の変わらぬ選択の熟慮に入り浸っているのだろうか。同様に限界の異なる頭を使って瞼の裏と睨めっこ。
どう見繕おうが、今回の立役者のご登場。
とても落ち着いているけれど、何処か不安を漏らすような一歩一歩を踏みしめていく音。
それは案の定、傍らでピタリと止む。
「き、君が何故、此処に⁉︎」
騒々しく喚き散らかす姿がありありと目に浮かびつつもこれ以上、車内で五月蝿くされても困るので重く閉ざした門を嫌々、開く。
「そんなに驚かなくとも。まるで幽霊でも見たみたいに」
大袈裟に眼を目一杯見開いて、茫然自失。
「ところで……こちらは未来行きですが?」
「い、いや違うんだ! 駅員に会いに」
「彼にお会いになりたいんですか? それなら、どれだけ探しても無駄だと思いますよ」
「ぇ」
「だって、私が車掌ですから」
「さっきと言ってることが違うぞ‼︎」惨めに年下に感情を振り撒くマイナスの印象を相殺する記憶力を駆使し、俺に尖った指を差した。
「先も言ったように目的地まで貴方を運ぶ事は私にはできません。ですが、お客様にとっての正しい道を開き、導くことはできます」
「……」
「家族が亡くなられたのも嘘ですよね?」
「……」
「私は一流探偵でもないので、仕草や言動からしか貴方を判別することが出来ませんが、最愛とまで宣っておきながら、やけに思い悩むなとは思ったんです。だって家族が死んだんなら、こっちには来ないでしょう普通……」
我を忘れて、舌剣なる言葉を突き立てた。
「き、君は一体、何がしたいんだ! 私を弄んで何の意味がある⁉︎」
「そんなに怖がらなくても……まるでお化けを目にしたみたいに」
悟った頬が恐怖で素直に引き攣って、モンスターの常套手段な見え見えの狂気に走る。
「どうして教えてくれなかった!」
「試験官に淡い期待を抱かないでください」
「な、なら。だったら、邪な考えを持って逆の道に行ったらどうなる⁉︎」
「望み通りのENDを。それも選択ですから」
「何故、私がこんな目に」
「お互い、生まれてくる時代を間違えたんでしょう。で、災難続きでご臨終って訳です。どうです――自身の現状、理解頂けました?」
「ふっ、ふざけるな!」
「大変、大真面目」
「こんな馬鹿げた問題ごときで私の運命を、勝手に決められてたまるか!」
「善行。あるいは悪行を積んで来なかった己を呪ってください」
「私は、私はこれから先、どうなる!」
「それは貴方が一番良く分かってるでしょう?」
理不尽を憎もうが、恐れを含もうが、怒りを孕もうが、必ず。必ず、結果は変わらない。
「切符を拝見します」
グッと奥歯を噛みしめ、無情に進みゆく時の流れを味合わなければならないのだから。
「私は報われるべきだ! 全てをやり直す資格がある筈だ! きっと必ずそうなんだ!」
「貴方は資格取得の試験に堕ちました。残念ながらこれが現実です、受け止めてください」
意味もなく、閉ざした道へと振り返った。
「恨むなら……前の車掌を恨んでください」
颯と思わず零した過去にピタッと動きを。
「前の?」
止めた。
きっと、彼との今際の際の静寂を迎え、この場で誰もが一度は想像するであろう天啓。
鈍間でいても一切の揺らぎなく、踵を返すとともに禽獣たる眼差しだけを俺に向けた。
「君が死ねば、次の車掌は誰になる?」
こっちは、悠長に天を仰がせてもらった。
残り少ない海馬を切り刻でくるズキズキとした鋭い痛みが前頭部を絶え間なく襲った。
「それだけは……『やめておけ』」
彌お出ましの親父狩りを恐れての護身用にしてはちょっとばかし物騒な刃渡り数センチのナイフを内に秘めたる鈍色に輝く鋒は過剰防衛必死な無抵抗の人間の胸を捉えていた。
脳内再生の中、悟られまいと一瞥を拝借。
ゆっくりと閉ざしていく門を。
重い身を苦労様々で引き摺って躙り寄ってき、やがてはヒートアップし、駆け出した。
眼前に迫り来る刃に自分の瞳が映り込む。
まるで泥濘に嵌ったかのように生気が微塵も感じられない、ドブのような真っ黒な瞳。
そして、「ハァ」静かに一歩を後ずさり、
ダンッ。と云う音とともに扉は閉ざされた。
現世に通ずる、唯一の道が。
振るったナイフと時同じくして、俺の身体は幽霊に触れるさながらにすり抜けてゆく。
男は扉に激しく打ち付けられ、悶絶した。
いや、正しくは犯罪者と呼ぶべきだろうか。
「だから言ったでしょう……」
もう中身まで出てしまいそうなため息を零しながら振り返れば、膝から崩れ落ちたまま小さな呻き声を上げて、打ち拉がれていた。
敗北を味わう真っ只中にこんなことするなんてとても心苦しくは無いのだけれど、胸から心臓、心に至る深淵に手を入れ、手繰り寄せるように切符を取り出した。
まだ新品。
それでも、もう二度と戻ることの出来ない片道切符に穴を開けて、ピーピー喚く被害者面を巣にさっさとお返しした。
「ご乗車ありがとうございます。到着までの間、自由にお寛ぎを。次の駅は、地獄。地獄です。お忘れ物の無いよう、こ注意ください」
自分なりの敬意を払って、そそくさと現場退散。
時。
窓の先に映り込む、他愛もない日常映像。
こっの長ったらしい駄作の走馬灯を最後まで見届けた者は、果たしているのだろうか。
無情に過ぎゆく時間に、ただ只管に自堕落に流されていく。レールから外れた自分は、懐の懐中時計を弄って、閉ざした蓋を開く。
それは、グルグルと針が目にも止まらぬ速さで回転し、今にも弾け飛びそうであった。
お前も老いることを知らないな、ホント。
――あの人は成仏したのだろうか。
まるで面白みのない不変なき光景を延々と眺めていると、気が滅入ってしまいそうだ。
頻りに睡魔が襲ってしまうほど…にぃ…。
カチ、カチ、カチと蛍光灯が点滅する。
最近は電気の調子が特に悪く、薄暗い食卓を囲む家族の顔がよく暗闇に呑まれていた。
だから、買いに行った。
学校帰りにただ独り、行ったんだ。
道草も食わずに正しい道を最短で進んで。
けれど、照明の箱を小脇に抱えた頃には既に日が暮れていて、闇夜が静かに漂っていた。
不幸は連鎖するのか、携帯を忘れて……。
親も、妹も、今日は早く帰るとの事だったので、俺もいつになく慌てて帰路を辿った。
ようやっと息を切らして我が家に着いて、玄関前へと淡々と足を運んでいく。
ドアノブに手を掛ける瞬間。
不気味な静寂が充満し、噎せ返らせた。息を呑めば、半開きになった扉に目がいった。
隙間からは何も聞こえない。
いつもなら母さんと彼奴の取るに足らない口喧嘩や、父さんの笑い声がしいてる筈なのに。
わかっている。だからこそ、知ろうとしない。
そんな思考を読んでいるのか、そう望まぬ形で玄関口から真っ赤な鮮血が眼下に伝う。
まるで悪夢を見ているような気分だ。
これが偶然、覚めぬ夢だと信じ、小刻みに手を震わせて鼓動が早鐘を鳴らしながらも、必ず地獄が待つ、扉の先を開いてしまった。
「はい」
自らをも欺く善良な一市民を演じる、ずっとテレビ越しでしか目にしたことが無い男。
内心、遺体であって安心した自分もいた。
能無し保身お決まりの祖国への郷愁を口実に何のしがらみもなく日の目を拝んでいた。
正直、理不尽を感じたのはこれが初めてだ。
政府が黙認し続けるものの世論からは見えない足枷として非難轟々の嵐が巻き起こり、どうしてか記者に追われる俺は、全てを費やして得た自宅訪問は年の瀬よりも早かった。
それは何度も何度も何度も、幾度となく目に焼き付けた憎き野郎の面がようやっと……俺の瞳に映り込む、平和ボケした両の眼に。
配達員を装う俺の姿に、一瞬の強張りを見せる最中、ナイフを土手っ腹に突き立てた。
徐に天を仰ぐ。
曇天。
まるで己の心情を表すかのように、空はこんな時だけ鈍色の暗雲が覆い尽くしていた。
眩く目に悪い、皮膚に残る液体に染め上げたナイフを片手に、ふらふらと進んでいく。
特に当てもなく、帰る場所がある訳でもない。ただ只管に、途方もなく彷徨うように。
だが、人には平等に、不平等に罰が下る。
視界の端にチラつくエレベーターを横切り、階段を蹌踉けるよう軽快に降っていく。
先にはゴミ袋を両手に抱えた一人の女性。
足先から前髪までをゆっくりと目を泳がせ、お互いの視線がぶつかり合い、間が生じる。
「あ……」
刹那。
聞いた通りに不思議と時が止まったかのような瞬間が過ぎ去り、また動き出していく。
そして、パンパンに詰められた余計な物を背負い込み、女性は一心不乱に駆け出した。
その必死な後ろ姿にどうしてか微笑んだ。
「は、はは」
それはきっと、ずっと止まっていた時間が突然、動き出したからに他ならないだろう。
いきなり部屋中に響き渡るインターホン。
落ち着いた足取りで玄関前に進んで、何気なく扉を開けば、白髪混じりの老婆がいた。
まるであの小説に出てきそうな姿で――。
ドンッ、と衝撃が丹田を突き抜けていき、徐に異物感が絶えず訴える腹に目を向ける。
生温かいじわっと粘つくものが純白シャツをある種の心が裂け、染みが広がっていく。
奇想の体現はそのまま覆い被さるように、俺を背から床に倒れ込み、打ち付けた一帯は呼吸の必要性を感じさせる衝撃が走った。
朧げな意識が続く中、ふと扉の先へと仰ぐ。
其処には燦々たる太陽光が降り注ぎ、天には雲一つない澄み切った青空が広がっていた。
「返してッ!」
耄碌して戯言をほざく糞親の頭上へと、今正に振り上げんとしていた拳をそっと下ろす。
視界の端から徐々に暗闇が広がっていく。
耳障りな音だけがいつまでも鼓膜に響き、痛みも感覚も光さえも、もう何も見えない。
斯くも呆気なく、人生に終わりを告げて次に目を覚ましたのは、見知らぬ駅のホーム。
喜怒哀楽の情を持たない物が右往左往する駅構内はただ一人を除き、他は誰もいない。
そう歳の変わらぬ凛とした丸眼鏡の好青年が扉前の壁に凭れ、こちらを凝視していた。
変な趣味か、職に手を付けるには早過ぎる車掌の制服を着飾り、首にぶら下げる真新しい懐中時計に、ほんの一瞬、目を奪われた。
「綺麗な時計ですね」
「あぁ、そうなんだ。とても大切な物だよ」
そう言い、時計を胸に力強く押し当てる。
「誰ですか? ……というか、此処は?」
車掌は針を覗き見る。
驚くほど似合わぬその様に玩具のペンダントを掛ける子供の姿が、頻りに頭に浮かぶ。
「始まりであり、終わりの場所。岐天駅だ」
「始まり?」
「人によっては天にも地獄にも変わる場所。まぁ大抵の場合は、堕ちてばかりだけどね」
「はぁ……」
「詳しくは中で話そうか。時間は幾らでもあることだし」
「……」
不思議な人だな。
そんなこんなで列車へ踏み出すとともに運転席の道に第一歩の足を乗せる。
「おめでとう」
「は?」
「君は天国に行けるよ」
「天――国?」
「あぁ、君はこの試験に合格したんだ」
「試験。試験ってじゃ、じゃあ! 過去に戻れるって話は?」
「……」
悄然とした顔つきで、唐突に口を噤む。
「俺、言いましたよね。過去に戻れるのかって、で、それで、だから、俺っはっァ……」
「君の心情も汲まずに軽率な発言をしてしまったね、本当に申し訳ない」
怒りが脳に流れるより先、拳を握りしめる。
「どんな考えがあってか解らないけど、やめておけ。それだけは……」
気付けば、彼の眼前へと瞬く間に迫り、俺は振り上げた拳を顔面に振り下ろしていた。
車掌の上に跨り、鮮血に染まった武器を、骨が透けて見える頬に矢継ぎ早に振るう。
車掌は憐れむような目を向ける。
「すまない」
その一言が拳をより一層、強く漲らせた上に、懐中時計を俺の胸元に強く押し当てた。
「これは君にとって必要な物だ」
鈍器を振り翳すように渾身の分を振るう。
だが、最後の一振りを受け止めたのは床だった。
「は?」
ふと窓に目を向ければ其処にいたのは、車掌の制服を着せられていた俺だけ、だった。
彼は雲のように霧消していた。
地に臥した、懐中時計だけを残して……。
「……」
またか。
優しく中に目を開き、狭間の表舞台に逆戻り。
最近はよく、子守唄ならぬ子守映像に魅せられてしまってばかりで眠りこけてしまう。
懐中時計。
もう姿も、顔も、声も、色褪せた一枚絵のように鮮明には覚えていない。
にしても貴方が大事にしていたこれだけはいつまでも記憶の一頁に残り続けるだろう。
「暇だな」
眠気覚ましついでに内の捜索に当たった。
意味がないと百も承知で埃一つ浮かばぬ四隅まで目を通し、足取り軽く運ばせていく。
ん?
幸運にもその行いは吉と出た。
「落とし物か」
一枚の写真。
小学生くらいの少女と若々しい父母が仲睦まじく肩を並べ合っていた。
「……」
前言撤回。
狂気の沙汰をそっと元の場所に舞い戻し、浪漫の別忘れ物を掴み取り、定位置に着く。
そして、一本の筒を口に咥えた。
親指で小突くように爪弾く。
キンッと高らかに心地よい音色を奏でて流麗に歯車を回せば美しき灯火が周囲を照らす。
火を付ける寸前、視界の端に貼られた一枚のポスターがするりと眼下に舞い込んだ。
「あ? 禁煙?」
ふざけたポスターを掴み上げ、腹いせに先に燃やす。
だが、その瞬間。
天罰が降った。
頭に絶え間なく滴り落ちる大雨に――束の間の安息を燻らす紫煙は敢え無く鎮火した。
そして、
「何で電車にスプリンクラーが付いてんだ……?」
煙草とジッポは泡沫夢幻に霧散していく。
雲を掴むような感覚だけが手に残るばかりで、視界の端に映り込むふざけたポスターまでもが綺麗さっぱり、元通りとなっていた。
「はぁ……」
壁に張り付く正直な背を強引に剥がし、淡々と歩みを進めていく。
「お忘れ物にはくれぐれもご注意を~」
次なる乗客の元へと。
現在、自称大傑作のゾンビアタック〜鎖の続く先へ〜を掲載中ですので、宜しければご覧下さい。