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作者: 鍋島五尺

とある時代、ユーラシアの東。人里離れた山の中に大きな竹林があった。その竹林は、昼でも陽の光がほどんど届かないので薄暗く、それでいて果てしなく広がっているようであった。



 その竹林に、一匹の大きな虎が住んでいた。虎は一匹でいるのが好きだった。他の虎の竹林に入ろうとする影があると、それを鋭く睨んで威嚇し、一歩たりとも侵入を許さなかった。


「お前らのように間の抜けた連中と俺は関わりたくない。」


虎は他の虎達によくこう言った。そしていつもこのように続けるのだ。


「お前らはいつかニンゲンに槍で突かれて死ぬだろう。そうして奴らの住処に毛皮が飾られるのだ。もしくは餌に釣られて檻に閉じ込められるだろう。そうして街に引き摺り出され、見せ物にされるのだ。俺はそんなことになるのは御免だ。」



 ある夜、虎は狩りに出掛けた。虎は狩りを他のどの虎よりも得意としていた。いつものように竹林の中を何里か歩き、外れの木陰で鹿の群れが休んでいるのを見つけた。虎は岩陰からジッと狙いを定めて飛びかかり、尖った牙で一番大きな鹿を捉えた。その鹿はしばらくジタバタと暴れたが、幾許かするとひきつけを起こしたように痙攣し、すぐにおとなしくなった。野良犬たちがそれを羨ましそうに遠くから眺めていたが、虎は気に留めることもなくそのまま鹿の首を咥えて自分の住処へ運んで行った。

 虎の住処は竹林のちょうど真ん中にある洞穴だった。虎はここが気に入っていた。強い風が吹くといつも竹の葉が擦れて、ザーザーと雨のような音を立てた。風が中に入ってくることはなく、その音だけが巣穴の中に響いた。虎はこの巣穴でじっとその音に耳を傾けているのが好きだった。

 虎は獲物を巣穴に入れた後、洞穴の一番奥のところにドスッと座り込み毛繕いを始めた。これは虎の日課であった。ボサボサになった毛を一箇所ずつ丁寧に舐めつけながら獲物を眺め、疾風のように駆ける自分の姿を想って惚れ惚れとする。そうして体の全ての毛を繕い終えると、ゆっくりと獲物を食べ始めるのであった。



 鹿の頭と首を食べ終えると、虎は満足して残りを藪の中に隠し、また巣穴の奥に戻って眠りについた。月の光がかすかに差し込み、風がビュービューと音を立てる。虎はその美しさを感じながら、なんとも心地の良いことだと思った。

 何刻か経った頃、虎は腹にある不快感で目を覚ました。ひどく吐き気がする。苦しい。虎はうろうろと巣穴の中を歩き回り、それから外に出て咳をするように腹の中のものを吐いた。鹿の血で赤く濁り、肉片が溶けてぐちゃぐちゃになっていた。虎はその中に黄色味掛かったものがあるのを見つけた。それは虎の毛であった。しかし、虎はそれが自分の毛であることがわからなかったので、ひどく怯えた。

「こんなことは生まれてこの方初めてだ。」

虎は恐ろしかった。自分はもしかすると、このまま死んでしまうのではないかと不安に思った。訳もわからずそのことが寂しく思われ、虎は震えながら寝床に戻って丸くなった。



 虎がまた目を覚ますと、もう既に日が高く昇っていた。虎は自分がまだ死んでいないことに安心し、ほっと胸を撫で下ろした。

 そうすると、遠くから甲高い鳴き声が聞こえた。虎は未だ少し怯えていたので、これを聞いてとても驚いた。


「誰だ、俺の竹林に入ってきている奴は。」


 虎はなんだか腹が立ち、その正体を見ようと今しがた声のした方へ歩いて行った。

 林の南側、竹の隙間から空の雲が見えるほど外れた辺りに、その声の主はいた。それは、茶虎模様の猫であった。虎は猫を見たことがなかったのでそれをとても小さな虎だと思い、母親の乳を共に飲んでいた兄弟を思い出した。

「おい、お前はどこの虎だ。ここは俺の林だ。今すぐに出ていけ。」

 そう虎が言うと、猫はこう返した。

「僕は虎じゃない、猫だよ。そうケチケチしないで僕も仲間に入れてよ。」

「俺に仲間はいない。いいからさっさと出ていけ。」

 しかし、どんなに睨んでも猫がそこを動こうとしないので、虎は猫の首を噛んで持ち上げ、林の端まで運んで放り投げた。

「早くここから出ていけ。さもないと今日の晩飯にしてしまうぞ。」

 そう言って虎は踵を返し、巣穴の方へ歩き出した。何歩か進んだところで、猫が自分の後について来ようとしたのを虎は感じた。キッと振り返って睨むと、猫は何事もなかったかのように後ろ足をぺろぺろと舐めていた。再び巣穴に向かって歩き出すと、猫がまたついてきた。もう一度睨んで、また歩き出すとついてくる。何度かそれを続けたが、虎はもう面倒になってそれを気にかけないことにした。

 猫は虎の少し後ろにぴったり着いて行き、巣穴のそばに着くとまたぺろぺろと足を舐めた。虎はそのことに気がついていたが、もう何も言うまいと心に決めていた。



 虎は洞穴に座って少しした後、昨夜の事を思い出した。


「あの黄色いものは何だったのだろうか。未だによくわからない。あの鹿に良くないものがくっついていたのだろうか。それとも、俺は何かの病なのだろうか。」


そう考え出すと、虎はまた不安に駆られた。そうして虎はいてもたってもいられなくなり、猫に話しかけた。


「おい小さいの。そこに赤い泥のようなものが落ちているだろう。それは俺が昨日吐き出したものだが、その中に黄色い何かが混じっている。それが何かお前は知っているか。」


 すると、猫は前足を舐めながら、虎を小馬鹿にしたようにこう答えた。


「虎のおじさん。おじさんは僕がこうしているように、自分の毛を舐めることがあるだろう。そうするとその拍子に毛が抜けて、お腹に入ってしまうんだ。それが悪さをして、ひどくお腹がもわもわするのさ。こんなの、なんでもないことだよ。」


 虎はそれを聞くと、病ではないとわかって安心した。そして自分の毛の色を思い出し、そしてとても恥ずかしく思い、顔を手で隠した。猫はそれを見てけたけた笑い、ひとしきり笑い終えるとそこに丸くなって眠ってしまった。



 日が傾き始めた頃、虎は腹が空いたので、昨日の残りを食べようと藪から鹿を引っ張り出した。猫はその音を聞きつけ目を覚まし、虎がせっせと運ぶのを眺めていた。虎は猫が羨ましがっているのだと思い、自分の狩りの腕を誇らしく思った。

 鹿の残りを食べている途中、虎は何故か少し可哀想に思い、猫を呼びつけた。

「おい猫とやら。腹は減っているか。減っているなら肉を少し分けてやろう。」

 猫はその声を聞き、巣穴の入り口に急いで駆けてきた。虎は鹿の肉を小さく一口齧ってちぎり、猫の方へ投げてやった。猫は肉に飛びつくと、なうなうと鳴きながらなんともうまそうにそれを食べた。

 夜が過ぎ、空が白み出すと虎はいつものように寝床へ行き、丸くなって目を閉じた。小雨が降っているようで、ポタポタと雨粒の落ちる音がした。虎は猫のことを思い、どこかで雨宿りをしているのだろうかと巣穴の外へ様子を見に行った。辺りを見回すと、猫は大きな岩のそばで小さく縮こまってブルブル震えていた。


「ばか、そんなところじゃ風邪をひくぞ。」


そう言って虎は猫をまたむんずと咥え上げ、自分の巣穴に連れていった。虎が巣穴に他の誰かを入れるのは初めてのことだった。虎は不思議と猫のことが可哀想で仕方がなかった。

 猫ははじめ巣穴の端の方で小さくなっていたが、くちゅんと小さくくしゃみをすると、恐る恐る虎のそばに来て、くっついて眠った。虎は何故か、それをとても好ましく思った。虎はしばらく猫の寝顔を眺めていたが、猫が寝息を立て始めると安心して眠りについた。



 それからというもの、虎は猫と共に暮らした。

 何日かに一度、虎は狩りに出かけた。これまでよりも大きな獲物を狙い、それを狩っては巣穴に持って戻った。それを食べるときはいつも、虎は大きく一口齧ってちぎり猫に与えた。猫はいつもうまそうにそれを食べた。虎はその様を見ているのが好きだった。

 このことを聞きつけた他の虎達は

「おい、あいつは虎のくせに猫なんかを飼っているそうだ」

と虎を馬鹿にして笑ったが、虎はそれを気にも留めなかった。他の虎達のことよりもずっと、猫のことをいつも考えていた。

 虎は猫のことをとても愛おしく思い、大事にした。毛繕いをするときは猫の背も一緒に舐めてやった。そうすると猫は嬉しそうにけたけた笑った。そして虎が毛玉を吐くときは、猫は一層面白そうにけたけたと笑うのであった。

 猫は時折小さな虫や鳥の羽を持って帰り、虎に渡してみせた。これは猫なりの恩返しであった。虎はいつもこれを喜んで受け取り、寝床に置いた。眠る時、虎は猫の安らかな寝顔と一緒によくこれを眺めた。



 ある満月の晩、虎が狩りから帰っても猫が巣穴から出てこないので不思議に思い、中を覗き込んだ。しかし、どこにも猫の姿は見つからなかった。ただ巣穴の中には、あの夜虎が吐いたようなものがいくつもあった。虎は猫のことが心配になり、巣穴の周りをうろうろと歩きながら猫の姿を探した。

 ふと近くの茂みで音が聞こえたので虎がそこを見ると、猫がげーげーと吐いているのを見つけた。虎はすぐさま駆けつけ、猫の背中をさすってやった。


「どうした、大丈夫か。気分が悪いのか。」


 猫は一言、「大丈夫だよ」と答えて、また茂みに何度も吐いた。虎は夜じゅう猫に付き添って、猫が吐くのを心配そうに見ていた。

 朝がもうすぐやってくるという頃、猫は吐けるものを全て吐いて、疲れ切った顔でぱたりと眠ってしまった。虎は猫を巣穴に連れ帰り、寝床に横たわらせた。そしてそのすぐ傍で、猫の具合を気にしながら眠った。

 虎は目が覚めるとすぐに様子が気になり、猫のいる方を見た。猫は虎が起きたのを感じて目を覚まし、虎はそれを見てホッとした。

 猫はいつもより少しぐったりしているように見えた。


「たくさん吐いたから疲れているのだろう、今日はよくお休み。」


と虎が言うと、猫は小さく頷いてまた眠りについた。虎は巣穴から離れず、ずっと猫の傍にいてやった。



 猫はそれから何を食べてもすぐに吐いてしまうので日に日に痩せていき、体はずっと細くなってしまった。初めて虎にあった日のような毛の艶もいつしかなくなっていた。虎が起きても眠っていることが多くなり、虎はいつも猫が生きているか心配で、猫の体を揺すったり背を舐めたりした。猫はそれで目覚めると、ゆっくりと立ち上がって小さな声でにゃーんと鳴き、そしてまた横になって眠った。

 新月の晩、ついに猫は目を覚まさなかった。虎は何度も何度も猫の体を揺すったが、猫はまったく動かなかった。虎は猫の背を何度も舐めたが、猫はぴくりとも動かなかった。

 虎はおいおい泣いた。大きな声で泣いた。遠く離れた人里にも聞こえるような大声で泣いた。とても悲しい声で泣いた。人々はそれを聞いて、虎の悲しみを知った。虎は何日も泣いた。猫の毛を舐めながら泣いた。猫が冷たく固くなっても、ずっとそれを続けて泣いた。

 細い月が幾分か太くなった頃、虎は泣くのをやめた。横たわる猫の亡骸を咥え、いつも使っていた寝床に運ぶと、前足で小さな穴を掘ってそこに猫を入れた。猫が持ってきた土産も一緒に穴に入れて、掘った砂をかけた。その横に小さく丸くなり、虎は眠った。

 虎はいつまでも猫の傍に居たかったので、目を覚ました後もそこを動かなかった。いつまでも、いつまでも虎は動かなかった。次の満月の晩、虎は飢えて死んだ。虎は今でも猫の傍に居るだろう。


優しさだとか、愛だとか、小恥ずかしいんだけれども大事なことだと思います。

皆一度はそれを求めて、失って捻くれて馬鹿にして、いつか手に入れて本当の意味を知る。

そういうものだと思います。

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