古の木
テネリはようやく木の下までやってくると、四方八方に広がる根を指しました。
「古の木の根は世界に広がる。海を越え、山を越え、すべてを包み込んでいるんだ」
テネリの言う通り、木の根は太古の森の影の向こうまで広がっていました。きっと、私達が歩いてきた全ての道の下にも伸びていたのでしょう。
「よく来たね。かわいい子ども達」
優しい木漏れ日のようなその声は、枝から葉、幹から根へと波紋が広がるようにこだましました。なんと、古の木が、私達に話しかけているのです。その声色にうっとりすると同時に、その言葉で我に返った私たちはすぐに古の木に竜の争いの止め方を尋ねました。けれども古の木は愛しそうに笑い、陽だまりを受け止める緑の葉を揺さぶるのでした。顔こそありませんでしたが、私の心にはどうしてか、不思議な優しい笑顔が見えていたのです。古の木はゆったりとした声で話始めました。
「笛を持つ子、お前がテネリだね。そしてその守り竜、デーラ」
名前を呼ばれたテネリとデーラは途端に跪いて、頭を下げました。古の木は満足そうな声で続けます。
「黒いローブの子、お前がレイラだね。髪も瞳も、ここでは隠さなくていいのだよ」
気がつくと私は、テネリやデーラと同じように跪いて頭を下げました。目の前に立つ、永遠と勘違いしてしまう程の長い年月を生きた命に、敬意を払いたかったのです。ローブを纏っていることすら無礼に思えて、私は急いで脱ぎました。今まで隠していた髪が再びはらりと肩に垂れました。久方ぶりに光を受けた私の髪は、金色と深い緑色に輝いていました。
「雲海の国の子、ライドの娘。デズローズの子孫」
続けてそう呼ばれたので、急にどきりとしました。デズローズはもちろん、自分の国の名前も、父の名すらも、まるで罪名のごとく聞こえるのです。あの時計台の街で私に杖を向けた魔法使いの声が、脳裏によみがえります。そんな私の心を読み取ったのでしょうか。古の木が静かに言いました。
「自分で自分に鎖をかけているようだね。愛しい子。私は君を戒めるために呼んだのではないんだよ。ただ、君を呼んだのだ」
私はその言葉の意味をすぐには理解できませんでした。けれど確かに、私は見えない鎖に絡まれています。私は、竜の争いを企てた張本人であるデズローズの子孫です。それ故に天空へと追放された雲海の国の民です。そして、その国の王であるライドの娘なのです。どう抗っても変わらない事実です。その歴史が重くて太い鎖となって、私にまとわりついてきます。ああ、デズローズなんていなければよかったのに。そんな人の犯した罪なんて、現世にまで伝えてこなければよかったのに。全て無かったことにしてしまえばよかったのに。消してしまえばよかったのに。そう考えていると、再び古の木が言いました。
「歴史を消してはいけないよ。歴史に囚われてはいけないけれど、だからといって消してもいけない。どんなに悲しい過去でも、辛くても、忘れてしまいたいことでも、決して歴史を偽ってはいけないよ。忘れたいことは、思い出そうとしなくてもいい。だけど、無かったことにするのは良くない。自分の生きた時代ではなくても、学んで、考えなければいけないんだ。自分を含め、過去の人々がどんな過ちをしてきたのか、どんな成功を収めてきたのかを知った上で、今の自分が、これからどうするのかを考えるんだ」
歴史を消してはいけない。偽ってはいけない。かといって歴史に囚われてもいけない。デズローズという存在を消してはいけない。デズローズが犯した過ちを無かったことにしてもいけない。私は雲海の国の民で、その国王の娘だという事実を偽ってもいけない。その事実に囚われてもいけない。けれどそう思うと、より一層、鎖が体に食いこむ気がしました。けれどその消し去りたい過去は、事実なのです。過去を悔やんでも変える事はできません。私たちが今すべきことは、未来を変える事なのです。私は顔を上げて古の木に尋ねました。
「どうか私たちに、クライアのいる場所を教えてください。呪われた血の雨を、竜の戦いを、止めたいのです」
沈黙はありませんでした。古の木は、ただ一言
「それはできない」
と言っただけでした。すかさずテネリが食い下がりました。
「どうしてですか。このままではあなたも呪われた血の雨に打たれてしまうのですよ」
古の木は、悲し気に枝葉を揺らしました。
「教えてあげよう。雲海の国ができた後に、何があったのか」
その言葉と共に、私達の体は勝手に滑り出しました。そして、それに気がつくや否や、古の木の中に、まるで水に小石が落ちるように取り込まれたのです。
目を開けると、そこにはガラスのように透き通った水の世界が広がっていました。けれど、陽だまりのように温かでした。どこからか古の木の声が聞こえます。
「クライアは、デズローズの一味を雲海の国に閉じ込めた。しかし、その後に、捕まってしまったのだよ」
「一体誰に?」
驚いて私とテネリが同時に尋ねると、目の前の水はいつの間にか流れる風の様になり、いくつもの風景を私たちに見せてくれたのです。一頭の大きくて美しい竜が地上に舞い降りました。クライアです。若々しい命の湧き水のように潤いを讃えた、小さな芽を見守っています。きっと、あれが古の木の始まりでしょう。私がそれを見ていると、どこからか騒がしい声が聞こえてきました。クライアの背後から、大勢の魔法使いたちがやって来ました。私は彼らを見てぎょっとしました。デズモンド家に伝わる紋章を胸につけています。
「でもどうして。デズローズの手下は、雲海の国に閉じ込められたはずではなかったの?」
古の木が答えました。
「デズローズを手伝いはしなかったものの、秘かに指示していた者がいたのだよ。彼らは傍から見れば他の魔法使いと何ら変わりなかった。当時の世界は酷く絶望に満ちていた。病、裏切り、殺し。デズローズはそんな世界に希望を見いだせず、無理やり、全てに、そう、この世そのものに終止符をつけようとしていたのだ」
薄暗い煙の中で、痩せたのっぽの男が呆然と立っていました。あの男がデズローズなのでしょうか。あんなにやつれて、覇気のない彼が、そして、あんなに、絶望と悲しみに打ちひしがれた瞳をした彼が、私達の祖先だというのでしょうか。
「デズローズの秘かな崇拝者たちは、舞い降りたクライアを捉え、その燃える両の瞳を奪い、西のはずれの洞穴に閉じ込めてしまったのだ」
クライアが苦しみで身もだえする姿に、テネリは思わず目を背けていました。
「しかしクライアは最後の力を振り絞り、彼らの魔力を奪った。力を失った最後の崇拝者たちはなりを潜めていたが、長い年月を経てその一族は再び魔力を得た。そうして竜達を惑わし、争わせたのだ」
古の木の話声がしなくなると、私はすかさず尋ねました。
「クライアは?生きているのですよね?」
気がつくと私たちは再び古の木の外に出ていました。私はぞっとしました。明かりが嫌に暗いのです。恐る恐る空を見上げると、灰色の雲が広がっていました。体が一気に震え、呼吸が乱れていきます。古の木は静かに答えました。
「ああ、生きているとも。けれども、彼はもう何も見ることができない。それに、閉じ込められてからもう何千年も飲まず食わずだ。力もない。今はもう、横たわる岩のようになっている」
暗くて冷たい洞穴の中で、浅い息をしながら力なく一人ぼっちで横たわる白い竜の姿を考えました。なんという残酷なことをしたのでしょう。
突然、天空から竜の鳴き声が聞こえてきました。それはまるで叫び声のようでした。そしてじわりじわりと、その灰色の雲が血の赤に染まっていくのです。私はもう死んでしまうと思いましたが、隣にいるテネリは微動だにせず古の木を見つめていました。辺りにぽつりぽつりと、呪われた血の雨が降り始めました。鳥たちが一斉に飛び立ち、獣も悲鳴を上げる暇もなく古の森から逃げ出しました。足のない植物はその雨に打たれて枯れていき、はげた地面に血の雨がねっとりとしみ込んでいきます。
いよいよ古の木にも呪われた血の雨が当たり始めました。古の木は大丈夫、きっと他の木にはない力で自分を守るはずだ。そう願いたかったのですが、やはり心のどこかでわかっていた通り、古の木も呪われた血の雨に打たれた部分から簡単に枯れ始めていきました。私達はどうすればいいのかわからなくなって古の木に駈け寄りましたが、血の雨粒が一粒、私の腕に当たった瞬間、刺すような痛みと焼けるような熱さにその場に崩れ落ちてしまいました。それでも痛みを追い出すように叫びたいのを必死にこらえて顔を上げました。古の木は、もう半分以上が枯れていました。こんなにあっという間に尊い命が奪われるのが悔しくて仕方がありません。すると突然、地面が膨れ上がったかと思うと地下に眠っていた古の木の根の一部が地上に飛び出しました。そして私たちの体に触れたと思うと、私の視界から地上の世界が崩れていったのです。目を開けると私は青色の光輝く水の中にいました。その鮮やかな青はサファイアを思わせます。見渡す限り果てしなく同じ青で、どちらが上なのか下なのかもわかりません。ただ流されていることだけは分かりました。きっと古の木の根を流れているのです。流れを体で感じながらその先を見ると、テネリとデーラがいました。どこからか古の木の声が聞こえてきました。
「愛しい子たち、さあ、いきなさい」
その声が消えると同時に、私は甘い匂いを嗅ぎました。ふわりとした柔らかい何かが頬を撫でます。ふと耳に、古の木の声がこだましました。
燃ゆる眼は善と悪
されど彼らは共にあり
終わりを告げる その時に
再び彼らは共にあり




