太古の森
あの二人組の魔法使いももう去っており、私たちは賑やかな街を出てデーラを迎えに行きました。デーラは建物の日陰で昼寝をしているようでしたが、テネリの足音で目を覚ますと嬉しそうに尻尾を振りました。テネリもデーラを撫でながら優しく言います。
「デーラ、いい子にしてたか?いいかい、今から太古の森に行くんだ。僕とレイラが乗るからね」
デーラはまるで言葉がわかるかのように頷き、私の方を見ました。そして早く背中に乗るようにと屈んだのです。
「デーラも君を歓迎しているよ。さ、早く乗って」
「あ。でも、私、竜に乗るのは初めてで。ちょっと怖いというか」
私が怖気図いていると、デーラが呆れたように目を回し、尻尾で私の体を掴むとひょいと背中に乗せてしまいました。テネリも背中に乗って来て、私の後ろに回りました。
「さあレイラ、どこでもいいからデーラのうろこに捕まって。しっかり捕まらないと、落ちちゃうからね」
デーラが羽ばたいたのは私がうろこを掴む前でした。体がぐんと引っ張られたかと思うと、内臓が全て下に引っ張られる気がしました。テネリが後ろで支えてくれていなかったら、私はきっと地面に叩きつけられていたでしょう。そして今度は体がふっと浮いたかと思うと、私達は空にいたのです。デーラはその美しく赤い翼をゆったりとはためかせながら飛んでいました。雲海の国で見ていた空とはまるで違う景色です。
「凄い。凄いわ」
私はその美しい空を眺めながら振り返ってテネリにいました。テネリは先程の地図とにらめっこをしていました。そして方角がどちらなのか考え、
「こっちだ」
と指さしました。そしてデーラが向きを変えた途端、私達は凍り付いたのです。はるか向こうの雲海が、赤黒く染まり始めていたのです。テネリの呼吸が乱れるのがわかりました。彼はあの雲から逃れてきたのです。なのに再びそこに向かっているのです。私も怖くてたまりませんでした。
「テネリ、太古の森はあの雲の手前よね?」
私がそう尋ねると、テネリは震えながら頷きました。けれどその後にこう続けたのです。
「間に合えばね」
私は自分の手が震えているのに気がつきました。デーラのうろこもまともに掴むことができません。遠くの血の雲はまだほんの少ししかその姿を現してはいませんでしたが、私の目には、血が流れるように広がってくるように見えたのです。
「急ごう」
テネリはそう言うと、懐から笛を出して鳴らしました。すると、あたりの雲がいっせいに私たちの方へ向かってゆったりと流れてきました。雲はまるで生きているかのように形を変え、あっという間にデーラの翼を包み込みました。今やデーラの翼は赤ではなく雲の白銀に変わり、片方が丘一つ分あるのではないかと思うくらい大きくなっていました。デーラは一度大きく吠えると翼をはためかせました。力強く風を押し込むその翼で、先程の何倍も速く進むのです。あたりの景色は飛ぶように変わっていきました。いえ、私たちは実際に飛んでいるのですから、これは例えにはなりませんね。
デーラの翼の雲がふっと消えたのは、デーラが地面に降りた時でした。既に日は傾いていましたが、私達はあっという間に太古の森に到着することができたのです。太古の森はとても大きな木ばかりが生えていました。緑も緑、深い緑の葉が太陽の光をしっかりと遮っていました。そのかわりに木漏れ日がとてもはっきりして見えるのです。畏敬と威厳に満ち溢れた空気はとても静かで、今私たちが立っている場所と太古の森の空気とを区切る見えない壁があるようでした。その空気の中を軽やかに飛んで行く赤い鳥もきっと只者ではありません。案の定、空気を割くような鳴き声を上げると、炎を纏ってその姿を消しました。
「ここが、太古の森だよ」
テネリが懐の地図と照らし合わせて言いました。私達はお互いに顔を見合わせて頷きあうと、その暗く輝く森の中へ足を踏み入れたのです。その瞬間に私は驚きました。外から見た時はあんなに重苦しく思えた空気だったのに、いざその内側で息をしてみると体が浮くように軽く感じたのです。それどころか、すがすがしい気分にさえなりました。呼吸の一つ一つがみずみずしく、息を吸うごとに五感が研ぎ澄まされていきます。踏みしめる大地に芽吹く草木も凛としていて、どれも美しく、自ら淡い光を放っていました。私達はその美しさに魅せられながらも必死で古の木を探すのでした。古の木は、きっとこれらの壮大な木よりもさらに壮大なはずです。きっとこれらの美しい花よりもさらに美しいはずです。そして、どの命よりも長く生きているはずです。倒木を跨ぎ、小川を飛び越え、岩をのぼり、草をよけ、私達は進みました。
けれど太古の森は広く、そう簡単に古の木は見つかりませんでした。太古の森にいる時間が長くなるにつれ、私の心の中に赤い不安が広がるのでした。この美しい緑が、ふとした瞬間から赤く染まりだしたらどうしよう。ふと足元に赤い雨粒が落ちてきたらどうしよう。段々と次の一歩を踏みしめるのが怖くなっていきました。先を行くテネリとデーラに追いつくので精一杯でした。自分の足が震えているせいで、まっすぐ進めないのです。
「レイラ、大丈夫?」
足を止めてテネリが尋ねてきました。私は大丈夫だと答えるつもりでしたが、出てきたのは声ではなく涙でした。怖くて、怖くて怖くてたまらないのです。一歩進むごとに時間が過ぎていくのが怖いのです。一度脈打つごとに、赤い雲は広がっていきます。そのさきの木漏れ日も、今にふっと消えて、かわりに赤い雨が落ちてくるのではないかと思うと、息を吸うのも怖いのです。
「どうしたの?どこか痛いの?」
半分ほど超えかけていた岩を戻って、テネリが駈け寄ってきました。私は何とかこれ以上涙を流さないように堪えながら、テネリに聞きました。
「赤い雲は?あとどのくらいでこっちまでくるの?」
そんなのここにはこないよ、そう言ってほしかったのです。嘘でもいいから、大丈夫だと言ってほしかったのです。次の一歩を踏み出すためなら、騙されてもよかった。とにかくこの不安から逃げ出したくてたまりませんでした。けれどもテネリは、私の目をしっかりと見てはっきりと言いました。彼は私に、決して偽物の勇気を与えようとはしませんでした。
「レイラ。君がここで怖気づいてはいけないよ。その不安が君の目に本当に映る前に、僕らで何とかしなければいけないんだ」
わかっていても勇気はそう簡単に湧いてくれません。目をぎゅっとつむって、もう一度開けたら何もかもが全て、無事に終わっていてほしいのです。心の奥底から次の一歩を拒む私を見て、テネリがそっと背中に手を添えてくれました。
「レイラ、君は一人じゃない。だから進もう」
テネリは前を向きながらはっきりと言いました。
「私もテネリみたいに強くなりたい」
この台詞に勇気が出る魔力が宿っていると願いながら口に出して一歩を踏み出すと、テネリも私と一緒に歩きながら言いました。
「レイラも強いよ」
私は思わず首を振っていました。だって、私は単に、もう進むしかないと諦めているのに、テネリは何一つだって、諦めていないのです。自分の住んでいた村を失っても、自分の親友と愛しい母親を失っても、その悲しみに屈しはしないのです。自分の大切な父親が生きているかどうか不安で仕方がなくても、テネリは前に進むのです。私はまだ何も失っていません。家だって、家族だって、大切なものだって、何一つまだ失っていないのです。だからでしょうか、初めて何かを失うかもしれないことが、とても怖いのです。ああ、争いさえなければ。そんな言葉が何度も頭をよぎります。あの美しい白いお城が、雲海の国が、赤い血で染まるなんて嫌です。私はテネリの手を強く握りしめました。
「強さってさ」
テネリは一度私の手を離すと、軽やかに岩を超え、再び私に手を差し伸べながら言いました。
「いろいろあると思うんだ、僕」
コケに足を取られそうになりながら、私も岩を登ります。
「例えば相手が百発殴ってくるとするでしょ」
私を不安から救い上げようとしてくれているのか、単に話したいから話しているだけなのか、わかりませんでした。ただ、テネリの声はとても穏やかで、この美しくて静かな世界に優しく広がりました。
「それを全部避けて戦う人って、強いと思う」
岩を超えたデーラは、背の高い草を踏みしめながら進んでいきます。そしてテネリと私もその後を歩くのです。
「でもさ、百発全部くらっても倒れずに戦う人も、強いと思うんだ」
デーラが足を止めました。
「だって、百発全部避けた人は、一発で倒れてしまうかもしれないだろう。強さは一つじゃないんだ」
途端に草むらは開け、何もない場所に出ました。私達は開けた場所のその中心を静かに見つめました。そこには、息を飲むほど大きな木が一本、佇んでいたのです。黒い幹にはコケが生え、蔓が絡まっていました。何百年、何千年も前からずっとここにいるのでしょう。空気のように景色に溶け込み、けれどその溢れる生命力が、するどい叫び声のように、空気をつんざくのです。
「これが、古の木・・・?」
私は思わず駆け寄りながらテネリにそう尋ねました。テネリもその木の美しさに心奪われながら、足元も見ずに歩み寄ってきました。
「きっと、そうだ」




