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マルクル夫人のドレスは誰もが目を奪われるような混じり気のない鮮烈な赤のドレスだった。
光沢のある生地がシャンデリアから降り注ぐ光に照らされて、まるで夫人自身が光を放っているようだ。
遠目からでも十分に目を引く圧倒的な存在感にもう少しすれば私はあの人と相対するのかとまた1人、勝手に緊張を高める。
油断するとこの緊張から心臓だけでなく何もかもが口からあふれ出てしまいそうで固く口を閉じた。
ぐるぐると巡る不安のようなものが脳内だけでなく、心の内までも支配し始めてまんじりとして夫人を見ていた。
夫妻が中央まで来ると拍手が止んだので、私も拍手していた手を止める。
そこでようやくマルクル夫妻の後ろにフィリップ様がいることに気付いた。完全に見落としてたわ。
でもレオナルド様の姿が見えないあたり、今日は欠席なのかな。
公爵が代表して口を開き今日ここに集まった人たちに向けて挨拶を始めたところで、隣にいた先輩が私の目の高さに何かを差し出してきた。
「新しいの、貰ってくれたんですね」
「いるだろ」
私が拍手している間に先輩は両方ともの空のグラスを、新しいただのジュースが入ったものに取り換えてくれていたらしい。
爽やかかつ甘やかな香りを漂わせるそれを、自分でも気づかぬうちにからからに乾いていた喉を潤すために口に含む。
甘さと酸味のある液体を舌で味わいながら夫妻の話を聞くと言うよりも、その姿を目に映していた。
見ていて思ったことなのだが今、私の横にいる先輩はどうやら夫人に似ているようだ。あの涼やかな目元とか特にそっくり。
穏やかに笑っている姿が印象に残る公爵は、あまり先輩と似ているようには見えなかった。
この印象に当てはめてみると夫妻の後ろに立っているフィリップ様は、もろに公爵の方に似ているようだ。
いよいよ乾杯となり夫妻の持っているグラスが甲高い音を鳴らした後で、そこかしこから近くの者とグラスをぶつける音が響く。
私も隣にいた先輩と新しくなったグラスを軽くぶつけあった。
先輩も私と同じジュースが入ったものを持っているのだけど、なんだか似合わないなぁ。
私はまたジュースを一口、飲んでから先輩に声を掛けた。
「ところで私はいつ頃、お伺いにいけばいいんでしょうか?」
「待ってればいい。勝手に来る」
「え?そうなんですか?」
誕生日を迎えて祝われるべき立場の人間が待ってれば来るってどういうことなの?私が首を傾げると先輩が軽く説明してくれた。
「母がじっと待ってられない性分の人でな。自ら招待した客の一人一人に挨拶して回るのが恒例なんだ」
「へー、何だか素敵ですね」
てっきり自分で行かないといけないと思ってたから、主役が動くっていうのは格好いいと思う。
それはそれとして、緊張するのには変わらないけど。
私は私の誕生パーティーなんかをこんな風に開いたことがないので、こういうことに本当に詳しくない。
私の誕生日なんて大量のプレゼントとか手紙が贈られてきて終了、みたいな感じだ。
学園に入ってからは学業を優先するという理由で、とんと関わることもしなかったし。
夫人の自ら挨拶して回るというやり方が、主流なのか珍しいものなのかもあまり判断がつかなかったが純粋に好感を覚えた。
そういえば先輩はこうやって盛大に祝われたりしたことはあるのだろうか。
そうでなくとも学園で生徒会長として前に立つ姿とかを思い出すに、先輩は父である公爵から挨拶の仕方とか処世術とかを学んだのかもしれない。
私だったら、そういうことは母親に習ったりしたのかな…。
「そうだ先輩。私が変なこと言わないように気を付けてくださいね」
「それは自分で気を付けてくれ」
まぁ、はい。そうします。
私は夫妻が移動した先で誰かと談笑に花を咲かせている様子を手持無沙汰に見やる。
ああやって夫婦が並んだ姿っていうものを、私は自分の両親で見たことがないな。もしかしたら私が幼い頃に見たのかもしれないが、それを覚えていないのでは意味がない。
小さい頃の記憶なんてものは、大抵があやふやなものだと言われてしまえばそうかもしれないけどさ。
母の姿は覚えている。絵にも残っているし私の曖昧な記憶の中でも、お日様の下が似合う綺麗な人だったことをよく覚えていた。
マルクル夫人とは、ある意味で正反対のような人だ。
何でだろうか。正反対なのに久しぶりに母のことを思い出す。いつの間にかマルクル夫妻から目を逸らすように視線が下がってしまっていた。
そんな私の視界に誰かの靴の先が映ってから、直ぐにマルクル先輩の顔が見えたので目を瞬いた。
「大丈夫か」
「あ、れ?先輩、何してるんですか」
少し遅れて先輩が私の前に膝まづいていることが分かって慌てた。
私を見上げている先輩を立たせようとする前に、先輩は言葉を続ける。
「俺には、遠慮はしないんだろう?」
いきなり何を言ってるんですか、とは何故か言葉を紡げなかった。
別に遠慮とか、そんなことをしていたつもりは何もない。ただ先輩があまりに真っ直ぐに見て来るので一瞬、言葉に詰まってしまっただけだ。
ただでさえ、さっきから私のパートナーになってしまったという苦労を掛けてしまっている。
ここに辿り着くまでも私に馴れ馴れしく近寄ろうとした人たちなんかを、うまくあしらってくれていたのは主に先輩だった。
既にこれでもかってくらいお世話になっているのに、これ以上言うことなんてないはずだ。
「…何にも、なんにもないですよ。私は大丈夫ですから、だから先輩も早く立ってください」
「お前のその言葉は、あまり信用できるものじゃないな」
「何でですか…」
先輩が私の言い分を聞いてくれないんですけど。
先輩から目を逸らすことも許されない気がして、私は思わず言わないでいた後悔が零れてしまった。
「やっぱり、今日のこと断ればよかったですかね…」
「何故だ?」
「だって今まさに先輩に迷惑かけちゃってるじゃないですか」
そうだった。今日は朝からダメダメだったじゃないか。
グレタにも何度も心配されて、迎えに来てくれた先輩にも直ぐに私が緊張をしていることを見抜かれた。
今日だけで何度“大丈夫”という言葉をかけてもらっただろうか。
そのたびに私は大丈夫だと返していたけれど、今にして思えばあれは自分自身に言い聞かせていただけなのかもしれない。
先輩のせいで言うつもりのなかったことを言ってしまったことにも、後悔した。
「って、今更こんなこと言われても困っちゃいますよね。ごめ「お前は」
先輩が私の言葉を遮って立ち上がる様子を自然と目で追う。そのまま少し上を向く形で先輩のことを見れば、その表情がどこか柔らかいものに変わっていることに気付いた。
「お前は、いらんことを考える奴だな」
「…」
今日の先輩とっても失礼じゃない?
まさかそんなことを言われるとは思ってなかった私は言葉を失くす。先輩はそんな私のことなど構うことなく言葉を続けた。
「そもそも俺に迷惑をかけたところが、何処にあった」
「そ、れは…ここに来るまでの間とか…」
「なら俺も迷惑をかけたことになるな」
それは違うと思うんですけど…。だって先輩と話がしたくて来てる人もいるのだろうし、そこに乱入するようなことをしているのは私の方だ。
むしろイレギュラーな私の方は仕方ない部分もあると思うのだが、先輩は私と同じだと言う。
「でも先輩は、私のこと誰かに頼まれてるんですよね?」
「あぁ」
「それだって先輩に無駄な労力を使わせてると思うんですけど」
「それこそマルティネス侯爵の一人娘を母の我が儘に付き合わせているこっちとしては、頼まれて当然だ」
当然なんですか?それって。
そもそも付き合わせているって先輩は言いましたけど、私が夫人からの誘いを受けてこうなってるんですから先輩は関係なくないですか?あれ、私が間違ってる?
言い返されるたびに、何が何だか分からなくなってくる。
「えっと、それに、私はこういうこと初めてで何やらかすか分かりませんし」
「で、何かやらかしたのか?」
「それは、あれです。まだ、だと思いますけど…これから何かするかもですよ?」
「先のことなんて、考えてもどうせ分からんだろうに」
それは、そうなんですけど!私が言うことが無くなって口を噤むと、先輩が小首を傾げた。
「他は。何かあるか?」
なんだ、この先輩!なんか腹立つぞ!
私が今まで心配してたことのことごとくを否定しやがる。所詮、私が考えてることなんてこんなもんですよ!
自分から“ない”と言うのはとんでもなく癪だったので、変わらず黙りこくっていれば先輩が続けて口を開いた。
「ないんだな」
「…」
ないですけど、何か!
先輩を思い切り睨みつければ、なんでだか先輩が勝ち誇ったような表情をしているように見えて来るから不思議だ。実際の表情はあまり変わってないはずなのにね。
「一つ、お前が初めてでないことがある」
「…何ですか、それは」
先輩が何を言い出すかなんて私に予想出来る訳もないので早々に聞いてみれば、先輩は何でもないようにこう答えた。
「俺のパートナーをするのは2度目だろう」
それは、詭弁と言うやつでは?
そう思いはしたものの、先輩だったらそれすらも否定するのだろうと思えて私はもう何も言う気にもなれなかった。
でも、そっか。そうだったな。
初めて先輩のパートナーを務めたあの時はちょっとハプニングがあったけど、あれは自分でも冷静に対処出来てたと思う。
でもって今はまたその先輩が隣にいてくれるわけだし、ね。
もしかしたらちょっといろいろと考えすぎてたのかも、なんて思えてくるくらいには先輩の言葉に余裕を貰った。
でも、それを素直に言ってしまうのはなんだか気恥ずかしいから…。
「今は先輩に慰められて上げましょう。だから今度こそ大丈夫ですよ」
本当にもう大丈夫だから、それが伝わるように勝気に笑って先輩のことを見上げれば先輩もほんの少しだけ笑みを浮かべていた。
さっきはなんだか違うことにまで考えが及んでたみたいで、もしあのままだったら私はそれこそ何か失敗してしまっていたかもしれない。
今にして思えばそんな余計なことを考えられるほどの余裕が、今日の私にあるのかって話だ。
私はそこまで器用じゃないんだから、自分にやれることをやるだけで精いっぱい。それなのに、あれこれと気にしまくって自分を根腐れさせているようでは世話ない。
だったら私は私にやれることを見つめ直していた方が有益だ。
それに先輩のことは先輩自身がどうにかするだろうし、先輩のことで私の手に負えるような事は最初から限られてる。
先輩はまたすぐに無表情に戻ってしまって今は何を考えてるのかが分かり辛い。
そんな相変わらずな先輩に頼もしさを感じてしまうのだから、やっぱり先輩ってすごいなぁ…なんて思ってしまったり。
「クラウス、待たせてしまったかしら?」
そこで先輩の後ろから落ち着いた女性の声が聞こえて、ドキッと心臓が跳ねた。
先輩が私の前から退くように振り返ったので、後ろにいた人物が誰なのかが見えて来る。
「いえ。問題なく、彼女も楽しんでもらっていましたから」
ついに!ついに、この時が来てしまった!
もう数歩先に立っているマルクル夫妻とフィリップ様の姿に、忘れていた緊張がぶり返して心臓がどくどくと大きく鳴りだす。
でも、もう嫌な想像までしたりしない。それに悲観的になることもない。
自然と微笑んだ私はマルクル先輩の隣に堂々と立った。それだけで心強く思えてしまうのだから私って案外、単純な人間だったんだな。




