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今日は朝早くからマルクル夫人の誕生パーティーのためにせっせと準備をしております。
朝起きてから今日は一層、綺麗になりますようにといつもより気合を入れたメイドたちに甲斐甲斐しくお世話をされていた。
今回マルクル夫人の誕生パーティーの会場となる別荘までは、この屋敷からだと割と遠い場所にある。
そのため別荘に辿り着くまでの時間が、学園で開くパーティー会場へ行くまでの倍ほどかかるのだ。
ただ始まりの時間自体も学園の時と違い夜遅くになるので、迎えが来るのが極端に早いということもなく十分に準備が出来るだけの時間的余裕があった。
まぁ屋敷に帰ってこられるのは、日付を超えたあたりになりそうなんだけどね。
グレタの望みとしてはなるべく日付を超える前に帰ってきてほしい、と言われたのだが正直それは難しい。
なので日を跨いでも必ず朝までには屋敷に戻ってくるようにと約束をすることになった。そんな約束までされなくとも、普通に戻るつもりなんだけどなぁ…。
もしこの約束を破ろうものなら、グレタに説教に加えて父からのお叱りを受けること間違いなしと言う訳だ。
そうだ。今日は朝も昼もまともに食べられないし、夜も食べられないことを考えると今の内からグレタに消化のいいものを用意しておいてくれるように頼んでおこう。
流石に空腹のままでは、床についてもうまく眠れなさそうだしね。
さて今回はパープルを基調に、それよりも明るめの同系色の花が縫い付けられたドレスを用意している。
私は今回が誕生パーティーの初参加となるため、マルクル夫人がどんな色のドレスを着てくるのか見当がつかなかった。
マルクル先輩に聞いたり周りから有益な話を聞けないかと探ってはいたのだが、それでも判明にまでは至らない。
せめて主役との色被りだけは避けたい!それだけを考えて、この色を選んだ。
おそらくは大丈夫なはず…実は朝から不安と緊張しきりの私のことをグレタは何度も心配してくれていた。
私もこうなりたくて、なっているわけじゃないんです。でも私というやつが、そういうやつだから仕方ないのさ。
今は入浴を済ませ全身のマッサージに肌のケアまで受けて、ドレスを着る手前の段階といったところ。
入浴後にマッサージまで受けて血行が良くなっているはずなのに、手先が妙に冷えていることを自覚していた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫よ」
もう何度目かも分からないグレタの言葉にオウム返しで返事をする。
大体こういう時って大丈夫じゃないって自分でも分かっているのだが、他に言葉を考えられるほどの余裕は今の私にはない。
「ねぇグレタ…今からでも一緒に参加しない?」
「それは、難しいかと…」
だよねぇ…。
もっと早くから頼んでいればついて来てくれただろうか、と考えたがそれは無理そうかな。
グレタが傍にいてくれたら、少しくらいこの緊張も緩和されると思うのだけど。でもそれだと頼りっぱなしになってしまいそうだ。
あー、私1人なんだし頑張らないといけないのに。とりあえず前世由来の緊張の取り方でも試してみる?
何だっけ…掌に人を書いて3回、飲み込む?
「お嬢様?何をしていらっしゃるのですか?」
「気にしないで。大丈夫だから…」
「お嬢様?」
グレタにしてみれば、唐突に謎の儀式をやり始めた私のことをグレタがかなり心配したらしく準備を中断させてしまった。
これはちょっと反省する。ごめんね。
「ご無理なさらないで下さい」
「心配させちゃったわね」
一度、休憩を挟んでから準備を再開させようということになった。
グレタが薄着の状態にある私の肩にブランケットを掛けドレッサーの前にある椅子に座らせてくれる。
ドレスを着る手伝いのために部屋いたメイドたちも一旦、部屋を出てグレタは「お茶を淹れて参ります」と言って去っていった。
ダメだなぁ。私1人になった部屋で思わずため息を溢し、辛気臭そうな表情の自分を鏡越しに見つめる。
しっかりしろ、自分。こんな表情は夫人以前に先輩に対しても失礼だ。
鏡の中の自分を睨みつけるようにして見ていれば、ノックがあってグレタが戻ってきたことが分かった。
「お嬢様。お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
入って来たグレタからお茶を受け取る。
カップの中身はいつもよく飲むストレートティーではなく、ミルクが入ったミルクティーとなっていた。
それだけでも私のことを考えてくれていることが窺えて、嬉しくなる。
有難く口をつけてみると、柔らかい甘さが口いっぱいに広がってほっと息をついた。
「蜂蜜を入れてくれたのね」
「はい。お気に召しませんでしたか?」
「そんなことないわ。ありがとう」
あぁ、グレタの優しさが身に染みる。
ゆっくりと飲み進めている間だけは、暫し全てのことを忘れて落ち着くことが出来た。
綺麗に飲み干してからグレタにカップを返す。
「よし。ここからは休憩なしで大丈夫。後もう少し、お願いね」
「畏まりました」
グレタがカップを片付けに出て行って戻ってくるころにはメイドたちも戻って来て、そこからは本当に休憩なしで準備を進めた。
といっても、特に急ぐことはせず比較的にゆっくりと準備を進めていく。
ドレスを着終えると、化粧と髪のセットまでも続けてやることになった。
髪は結い上げるのではなく緩めに巻いてからルーズサイドテールにして、化粧はグレタにお任せすれば完璧に仕上げてくれた。
さて、あとはアクセサリーはどれをつけていこうか…。
私が数あるジュエリーボックスを全て開けてどれにしようか頭を悩ませていると、グレタがある1つを手で指し示した。
「こちらは如何でしょうか?」
「オニキスのネックレス?少し目立ちすぎない?」
「小振りなものですし、そう派手なものでもありませんから問題ないと思われます」
「そう?ならこれにしようかしら」
オニキスはあまりつける機会がないから、たまにはいいかもしれない。
グレタのお薦めの他も合わせて選んで、身に着けるまでしたところで全ての準備が完了した。
程よい時間に終わったので、後は迎えが来るまで大人しく座って待つことにする。流石にうろうろと動き回るわけにもいかないからね。
グレタが新しくお茶を淹れて持ってきてくれたのだが、私は飲むよりも冷えた指先を温めるために持っているだけだった。
やがて傍に待機してくれていたグレタが一度、部屋を出て行き暫くしてから戻ってくる。
「お嬢様。迎えが参りました」
「分かったわ」
もう、すっかり冷めてしまっているカップを置いてからグレタの手を取り立ち上がった。
玄関まで歩いていくと、そこで待つマルクル先輩の姿が目に入る。
結局のところ父へ送った手紙の返信がいまだなく、また父が屋敷にやって来るようなこともなかったので当初の予定通りマルクル先輩のお世話になることになったのだ。
私が送った手紙は届いているとは思うのだが、果たしてどうなっているのやら…。
もしかしたら忙しくて手紙を見れていないのか、実は来ようとして周りから必死に止められたのか。はたまた問題ないと判断されたのか、それは分からない。
何にせよ今回もブラックのタキシードに身を包むマルクル先輩にエスコートされることになった。
同じ色であっても前に着ていたものとは、また違うものなのは明らかだ。
髪も手を加えられており、半分だけ後ろに撫でつけるようにされていたので先輩の顔が良く見えた。
「お待たせしました」
「いや、問題ない」
私が傍まで行くとエスコートのため先輩から差し出された手に、躊躇うこともなく手を乗せる。
「…大丈夫か?」
あ。先輩に指先が冷えていることを気づかれてしまった。
先輩だって体温が高い訳でもないのに…いや、今はそれ以上に不自然に私の手が冷えてしまっているということか。
反射的に乗せた手を引っ込めようとしたのを、握られて引き留められたので早々に諦める。
「大丈夫ですよ」
代わりに微笑を浮かべて、そうとだけ返した。
正直に言ってしまえば大丈夫ではないのかもしれないが、それを言ってしまうという考えは私の中にはない。
そんな私を先輩はただ見ているだけだったので、私から話しを切り替えた。
「ほら。もう行かないと遅れちゃいますよ」
「…そうだな」
一先ず私の言葉に頷いてくれた先輩に安堵した。
化粧をしているのだから、たとえ顔色が悪くとも誤魔化せる。とりあえず表面だけでも取り繕えていれば、指先が冷えていようと関係ないはずだ。
先輩にエスコートされ、外で待機していた馬車に乗り込んだ。
前に迎えに来てくれた時に見た馬車よりも豪華な装飾がされていたことに、より緊張が増した気がする。
中もそれに見合うような上等な仕様となっており、長く乗っていても大丈夫なようにされているのは素直に有難い。
先輩が少し遅れて入ってくると扉は閉じられ、やがて馬車がゆっくりと動き出したのを感じる。
何度でも漏れ出そうになるため息を飲み込んで、窓から日が傾きかけている様子を眺めた。
別荘に着くころには、完全に日も落ち切っていることだろうな。
「今日のドレスもよく似合っている」
「……」
唐突な先輩の発言に思わず訝し気な視線を向けてしまった。
なんなんですか、いきなり…。もしかして私への話題振りとして、自分でそれを選んだんですか?
これが今日でなければ私もメイドたちの合作による麗しい私を自信満々に自慢しただろうが、今の私にはそれをするだけの元気がなかった。
「ありがとうございます。そんな先輩は、いつもと変わらずカッコいいですね」
「…嫌味か?」
「何でですか!私、今かなり素直に褒めたつもりですけど!」
勘繰りが過ぎるぞ!先輩が失礼なことを言うので、私はそっぽを向く。
確かに普段であれば先輩を褒めるような台詞を言う時は嫌味混じりであることを認めますけど、私だってたまには素直に褒めることもありますよ!
そっぽを向いたままちらりと先輩の様子を窺えば、先輩は足を組んで私の方を見ていた。
視線が合ってふいに私から目を逸らす。そうしてから直ぐに逸らしてしまったことを自己嫌悪してしまうのだ。
ああやって、たまに避けるようなことをしてしまうことが自分自身でも納得できていなかった。
これからお世話になるというのに、このままじゃダメだよね。先輩に顔を向けて、真っ直ぐに見据える。
「先輩」
「なんだ」
「今日はよろしくお願いしますね」
「あぁ」
先輩には、とにかくこれを言っておかねば。
返事は端的なものではあったが、それはいつものことなので気にすることではない。むしろ安定感を感じるまであるくらいだ。
不安と緊張とを忘れたくて先輩とぽつりぽつりと会話を続けた。
「そういえば本当にプレゼント用意してないですけど、いいんですかね?」
「問題ない。お前が参加するだけで母にとっては、プレゼントのようなものらしいからな」
それは、なんとまぁ…。
マルクル夫人からの私への期待値が高くなりすぎてないか?そんな面白い所なんて何もない、ただの小娘だと思うんですけど…。
聞いたことを後悔した。またもや漏れ出そうになるため息をなんとか飲み込む。
表情には浮かない心持ちであることが出てしまっているだろうが、どうか突っ込まないでください。
私はこれでもいっぱいいっぱいですから。
「私、これが終わったらリュドミラ先輩の避暑地に行くんだぁ…」
「知っているが?」
でしょうね。
馬車に乗っている時間は確かに長かったものの、特に会話に困ることもなく良い現実逃避の時間となった気がする。
ただそれで緊張が緩和されたということはなく、むしろ別荘に近づいているのが分かるにつれ胸に圧し掛かる重石は重量を増していくようだった。




