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まずマルクル先輩は、いまだ床と仲良くしているソフィーに手を差し伸べた。


「怪我は?」

「あ、あの大丈夫です!それよりも服が!」


彼女が気にする通り先輩の服は腰辺りから赤いジュースに塗れ悲惨な状態だ。

これはもう着れないだろうな。

随分と申し訳なさそうなソフィーのことは先輩に任せることにして私は割れたグラスを早々になんとかしてしまおう。

近くにいたスタッフを呼びつけて割れたグラスの片づけを頼むと熟練のスタッフは動揺を見せることなく「畏まりました。お手を触れずにお待ちください」と一言あってから素早く去っていった。

グラスはこれで大丈夫だろう。


「お願いします!服を洗わせてください!」

「これくらい大丈夫だ。気にしなくていい」

「でも…」


必死にお願いをするソフィーをやんわり断ろうとしているマルクル先輩だが「でも」「だって」と言い縋る彼女はどう頑張っても先輩の言葉に折れそうにない。

ここで押し問答を続けていてもより注目を集めるだけだろう。

少し考えて、私たちの使っていた控室を思い出すとマルクル先輩の裾を小さく引いた。

なんとか屈んでもらって耳元に小さくささやきかける。


「一度出た方がいいです。私たちが使っていた控室へ」


先輩はうんともすんとも言わなかったがもう一度ソフィーの手を取ると「ここではなんだから、少し出ようか」と私の咄嗟の提案に乗ってくれた。

ソフィーは手を引かれるままにマルクル先輩に着いていく。去り際に私と目が合ったような気がしたのは気のせいだろうか。

先輩が行こうとしていた方向にごった返している生徒たちは自然と道を空け先輩とソフィーが出ていくのを見守る形になる。

途中で先輩は立ち止まると人込みの中に声をかけ、今度は止まることなく離れていった。

一方私はざわざわと騒がしい生徒たちが間違えてグラスに近寄らないよう気を張っていた。


「はいはーい。みんな散った散ったー歓迎会もあと少しだよー。最後まで楽しもうねー」


人込みの中からリュドミラ先輩を連れたアンドリ先輩が現れて声を張り上げる。

しっしっと虫でも振り払うかのような動作に集まってきていた野次馬も三々五々に散っていく。

その散っていく生徒たちを避けて掃除道具を持ってきたスタッフの姿に私はホッと息をついた。


「大丈夫ー?何もない」

「大丈夫です。先輩の陰になっていたので何ともありません」

「それはよかったわぁ」


被害はすべて先輩が被ってくれたので幸い私自身は何ともなかったのだが、さて先輩は会場から出て行ってしまったし私はこの後どうしようかな。


「後のことはクラウスに頼まれたし気になるなら行ってもいーよ」

「どこに行ったか分かっているのでしょう?」


悩んでいたのは確かだし二人にも勧められたので私も控室に行ってみようか。

少し悩んで結局、先輩たちの言葉に甘えることにした。

私も二人に後をお願いして開けてもらった扉から廊下に出ると、開けてくれたスタッフが「控室までご案内しましょうか」と申し出てくれたが丁重に断った。

私も道は覚えているし問題ないだろう。

記憶の通りに道を曲がり少し行くと見覚えのある扉の前に着く。

たぶんここにいるだろう。握った拳でノックをしようとして寸でのところで動きを止めた。


――何話してるんだろう…。


気になる。

さっきのマルクル先輩はソフィーに強く出れず押され気味のように見えた。

今もその調子ならもしかして面白い先輩が見れるのでは?

ふつふつと湧き上がる好奇心を抑えられない。その欲望のままに扉に静かに耳を押し当てた。

聞こえるかな、これ?


「――…に、ごめんなさい」


おお!聞こえた!

若干聞きづらいがソフィーの謝罪が聞こえた。


「――――」

「今のわたしじゃお金をかえすことも」

「――」

「せめて何か償いをさせていただけませんか」


ソフィーの方が扉に近い位置にいるのか彼女の声は聞こえるがマルクル先輩の声は全く聞こえない。

何か喋っているのは分かるのだけど不明瞭で聞き取れない感じだ。

もどかしい。もう少し扉の方に寄って来てほしい。


「―――」

「そうだ!わたしお料理が得意なんです!ぜひごちそうさせてください!」


へー料理が得意なのか。

家庭的な可愛い奥さん、なんて世の男性諸君の憧れでは?


「お願いです!どうか…」

「…――」


お、どうなったんだ?気になるなぁ。


「レディ?」

「あ」


つい夢中になっているうちに背後に迫っていたスタッフの姿に気づかなかった!

手にはどうやらマルクル先輩が頼んだらしい着替えのようなものを持っている。

私は澄ました顔で扉から離れると、姿勢を改め渾身の淑女スマイルを形作った。


「まぁありがとうございます。こちらは私から渡しておきますわ。どうぞ仕事にお戻りになって」

「あ、でも」

「お気になさらず。よければ私たちの借りている会場に人が足りないようだったから手伝いに行ってはもらえないかしら?」

「えっと、はい。かしこまりました」


流石のスタッフもこのスマイルの前には風の前の塵に同じ。

最終的に笑顔の圧で押し切ることに成功した私は、去っていくスタッフの背中が完全に見えなくなるまで笑顔で見送った。ふぅーなんとか致命傷で済んだようだ。

今更ながらに私は何をしていたんだ、と若干の自己嫌悪に陥る。やっぱり悪いことはしちゃいけないね。すぐに罰が当たったよ。

今度こそは好奇心を押し殺して大人しくノックをすれば中からマルクル先輩の声が聞こえて扉を開けた。


「服をお持ちしました」

「あぁ、わざわざ悪いな」

「いえお気になさらず」


私の勝手な贖罪ですから。ほんと、お気になさらず。

そんなこと知る由もない先輩は服を受け取ると「スタッフはどうした?」と聞いてきた。

おや?もしや私だけでは役不足でしたか?


「お仕事に戻ってしまいましたわ。お呼びしましょうか?」

「頼めるか」


自業自得とはいえ追い返してしまったのは失敗だったな。

また廊下に逆戻りすると近くにスタッフがいないか適当に角を曲がった。

幸いなことに曲がった先で直ぐに新しいスタッフを見つけることが出来た。よかった、遠くに探しに行く羽目にならなくて。


「申し訳ありません。少し用事を頼んでもよろしくて?」

「お伺いいたします」


さっそくゲットできたスタッフをお供にまたもや廊下を逆戻り。行ったり来たりしている現状にこれが因果応報かとしみじみ痛感していた。

また扉をノックして部屋に入ると最初入った時と状況は何も変わっていないように見えた。


「お連れしました」

「ありがとう。それじゃ君はもう戻るといい」

「はい…ぜったい、絶対ですよ」

「分かった。約束しよう」


なんだ、何を約束したんだ。やっぱ気になる。

そんなことはおくびにも出さず私が連れてきたスタッフにソフィーのことを任せて彼女は部屋を出て行った。

その役目は私じゃダメだったのか?疑問に思っていると、今度は間違いなく去り際にソフィーに睨まれたのがわかって嫌な汗が背中を伝った。

なんだか知らぬ間に随分と恨みをかってしまっていたようで…。

完全に扉が閉じた音を聞いて一秒、二秒…。


「私、お邪魔でしたか?」


やっと何も気にせずに話すことが出来るようになった。

マルクル先輩を振り返ると目を覆い隠すように手を当ててとても大きなため息を一つ。


「タイミングが悪い…」

「やっぱお邪魔でしたか、すみません」

「そうじゃない」


先輩の否定はとても速かった。

手を下ろして私をひたと見据えると先輩は疲労の滲む声であることを私に聞いた。


「何か聞いたか?」

「聞いてません。なんにも」


本当に。先輩の声は聞いてませんとも。だから何にも聞こえてません。

決して事実を隠蔽しようとしているだとかそういうことではなくてですね。

誰に言い訳するでもなく心の中で捲し立てるが、外面は飄々とした態度で先輩の話をにこやかに否定した。


「…聞いたな?何を聞いた?」


あれ、もしかしてバレた?

バレたと思うと隠していることに罪悪感を覚える。

先輩相手にこれ以上、隠し通せるほどのポーカーフェイスも持ち合わせていないので醜態部分はざっくり省いて真実を告白することにした。


「先輩が何かお願いされてるのあたりは聞きましたけど…」

「あぁ。ならいい」


いいんだ。いいのか?

先輩としてはそこは問題ない範囲らしいのだが、なら逆に聞いてはいけない部分ってどこだったんだ?

気になったことはため込むよりも聞く性分。大体こういう時は答えは返ってこないけれど。


「ほかに何か話したんですか?」

「そうだな。お前に関係ある話だ」

「もしかして、教えてくれたり?」

「しない」


ケチだなぁ。私も正直に吐いたんだし先輩もノリで言ってくれたりしないかと思ったがあり得るわけがなかった。

まぁ関係ある話だと教えてくれる当たりに譲歩が見られる。


「なら何をお願いされていたのかは教えてくれるんですよね?」

「それはいい、がその前にだ」


先輩はそこで言葉を止めると燕尾服の汚れた部分をつまんで辟易としながら言った。


「先に着替えていいか」

「どうぞ」


私の了解を得たマルクル先輩は新しい着替えを手に控室の奥にあったらしい別室に消えていった。

少し長いこと引き止めすぎたかもしれない。

悪いことをしたと思いつつ控室の椅子に座り先輩が着替え終わるまで待つことに。

私一人の静かな空間で物思いに耽る。

何事もなく終わるかに思えた新入生歓迎会であったが残念なことに、一騒動起こってしまった。

原因と見られるのは今なにかと話題の彼女、ソフィーだ。あの時、後ろで実際何が起こっていたのか分からないので詳しいことはいえないが彼女の持っていたグラスが一因であることは間違いない。

でなければ、『償い』なんて言葉は出てこないはずだ。後日、彼女に事情を聴くことになるだろう。

それともう一つ。これは私が個人的に気にするべきことなのだが。

一度目は気のせいかと思ったが二度目は確実に彼女は私のことを睨んでいた。

人を睨む場合、たいてい敵意や疑いを持っているものだと思う。それを最初のうちから私に悪印象を持っていたソフィーに当てはめて考えてみると間違いなく私は嫌われているだろうことが感じ取れた。

そんな私が彼女の事情を聴くために関わろうとするのは、事態をこじらせてしまう可能性のほうが高い。

今回の件に関しては私はあえて動かない方が賢明だろう。

他のみんなに任せてしまうことになるが事情を話せば理解してくれるはずだ。

それにしても…嫌われている原因は何だろうか?

なんとなく心当たりはあるがそれと決定してしまうには、まだ認めがたいものがある。

一度、自分自身で調べてみよう。

新入生歓迎会が終わり暦も変わればいろんなものが変わっていくかに思われたが当分、私はソフィーのことで頭を悩ませることになりそうだった。

先輩の着替えはまだ終わらない。


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