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目が覚めて起き上がると、寝起きのせいか少し気だるく感じる体に両手をうんと上げて伸びをする。
昨日は大変だった。
父に怒られることなんて滅多にないどころか、これが初めてかもしれない。
静かに懇々と説教されるのは、なかなかに堪えるものがあった。
今後、二度とないことを願うばかりだがそれは私の行動次第か。
まぁなんとか夕食が始まるころには機嫌を取り戻してくれたので、良かったとしよう。
その父だが、昨夜のうちにはもう屋敷を発ってしまっていた。
夜もだいぶ更けて来たというのに、戻らなければならないというので見送りに出れば「また手紙を送るよ」と言って私の頭を一つ撫でてから行ってしまった。
久しぶりに学生服に袖を通して、カーテンを開けば朝日が目に突き刺さって目を細めた。
咄嗟に手を翳して光を遮れば、まだ少し傷跡が残る手に気付いてもう少しの間はグローブを嵌めて生活することになりそうだと悟る。
さて今日は、学園に復帰できる日だ。
少しばかり長い休みを頂いていたが、もうサマーホリデーまではこんなに休むこともないだろう。
ドレッサーの前に座って髪に櫛を通していれば、やがてグレタがやって来ていつも通りの朝を迎える。
久しぶりにハーフアップにされた髪型は今日は編み込みまで入っていて少し手が込んでいた。
バレッタではなくリボンを結んでもらえば朝の準備は万端だ。
朝食を頂いて、早めに屋敷を出れば学園へと向かう。
久しぶりの学園になんだかんだ懐かしさを感じている私がいる。
朝のまだ誰もいない教室なんて見慣れているはずなのに、どこか違う気がするのは気のせいだろうか。
散歩に行く必要もなくなった今、自分の席でゆっくりと読書に勤しむことも出来るのだが図書室で借りてきた本は休んでいる間に既に読み終えてしまっていた。
真っ直ぐ自分の席に向かって鞄を机に置く。
席に座ればすることもなくて教室の中を見回していた。散歩に出てもいいのだけれど今日は猫へのお土産もまだ持ってきていないし、学園で見て回れるところは全て見て回ってしまったしなぁ。
まだ残っているソフィーの席は何の変化もなく、他の席と何も変わらない。
もう彼女が転校してしまったということは全学年、知っていることだろう。その理由は明かされていないだろうけれど。
周りの友人たちがそれを知ってどんな反応をしたのかを想像してみて、いい想像が浮かばないことに一人苦笑いを浮かべた。
やっぱどこかに行ってこようかな、と暇を持て余しているうちに同じクラスの子が登校してきて私に気付いた。
「マルティネス様!もうお怪我はよろしいのですか?」
私が散歩するようになってから挨拶を交わすようになった子だ。
小走りに駆け寄って来て私の心配をしてくれる。こんなところにも続いている繋がりがあったとは。
なんだかソフィーのことを思い出して笑みを浮かべた。
その笑みのまま「問題ありません」と礼を述べて彼女と暫く話をする。
その彼女とも「また今度」と別れを告げて暫くすれば一人、また一人とやって来て私にそれぞれ声をかけてくる。
そこそこ派手に落ちていったので、授業中とはいえ目撃者も多く心配している人も多いそうだ。
その一つ一つに「大丈夫ですわ」と答えていけば、友人たちもやって来て私の周りはさらに騒がしくなった。
「頂いたお手紙で無事なことは知っておりましたが、やはり心配で…」
「ありがとうございます。皆さんもお手紙やお見舞いの品を送ってくださいまして、本当に励まされましたわ」
彼女たちも変わらないなぁ。
勘ぐってしまうことも多いけれど、心配してくれたのは本当のことだと思う。
今日くらい素直に彼女たちの言葉を受け取っておこうかな。
そうして私の容態で朝の話題が持ち切りになっていると、朝のチャイムが鳴ってもうすぐ教師が来ることを皆に知らせた。
自分の席に戻っていく彼女たちに小さく手を振って見送る。
久しぶりとはいえそこまでの期間、休んでいたわけでもないのに懐かしさを感じるやり取りだ。
ただ一つ。ソフィーのことだけがごっそりなくなってしまったようで安堵の中に一抹の寂しさのようなものを感じていた。
つい昨日の出来事だ。
ソフィーと話をして、あるお願いをした。彼女からの手紙はまだ来ていない。
昨日の今日で、そんなに早く来るはずもないとは分かっているのだが浮足立つこの気持ちはきっと彼女から手紙が送られてくるまで変わらないのだろう。
今日一日はこれまでが嘘かのように、とても平和な一日だった。
本当は今までの方がおかしかったのだと再認識できるほどに。
友人たちは相も変わらず噂話と恋の話に夢中な様子だ。そんな彼女たちの中からソフィーのことは完全に忘れ去られているようで話題にすら上がらなかった。
それはそれでよかったのだと思う。
昼になれば長い間、借りたままにしていた本を返すついでに新しい本を一冊借りていこうと図書室に向かった。
変わらずカウンターに座っていたメルメは、珍しいことに入って来た私に気付いて自ら声をかけてくれた。
「あの、マルティネス様。怪我をされたとお聞きしまして…その、もう大丈夫なのですか?」
「ご心配してくださりありがとうございます。この通り、何も問題ありませんわ」
どうやら心配してくれていたらしいメルメの様子に私は嬉しさを覚えた。
いつもは本を読むのに集中しているメルメは誰が入って来ても気にしないというのに。
それが今日はどうしたことか、真っ先に気付いて声までかけてくれるとは。
こんなこと言ったら怒られるだろうから口には出さないけれど、怪我してみるものだなぁと思ってしまったのは秘密だ。
まぁこれも自分が無事だからこそ言えることであって本来なら遠慮願いたい。
昼を半分過ぎるまでメルメと話をしてから、また彼女のおすすめの本を借りて図書室を後にした。
午後からの授業はあっという間に過ぎていき、気づけばもう放課後だ。
今日、授業があった教科の担当教師たちからは有難いことにまた私がいない間にやった範囲のことを教えてもらえたので復習に大いに役立てさせてもらおう。
友人たちとの挨拶もそこそこに生徒会室に向かうために階段を上る。
扉の前に立ち少しの緊張を誤魔化すように、息を吸い込んで扉をノックしてから直ぐに扉を開けた。
開けた先には上半身裸の男。
といっても、ドレスシャツを羽織って今まさにボタンを閉めようとしている所だったらしい。
「あら、更衣室がおありなのにこんなとこで着替えるような殿方がいらっしゃるなどとは夢にも思わず…」
「前にもあったな、こんなやり取り。いいから扉を閉めろ」
私の咄嗟の嫌味にもマルクル先輩は気にすることはなく先に着替えを終える。
確かに前にもあったなぁ。私は言われた通り中に入って扉を閉めた。
「気を付けて下さいね。ないとは思いますけど、万が一イリーナが目撃しようものならリュドミラ先輩が怒りますよ」
「…そうだな。気を付ける」
流石の先輩もリュドミラ先輩の怒りを買うのは嫌らしい。
私は持っていた鞄を机に置いて先輩に向き直った。
いろいろと言いたいこと聞きたいこともあるのだが、改めてとなると聞きづらいものがある。
マルクル先輩のことを睨むでもなく見ていれば、先輩の視線の先が少し下にあることに気付いた。
「怪我は?」
「…ぁ。あぁ、怪我ですか。大したことないですよ。まだ跡が少しある程度で、なんなら見ますか?」
「嫌じゃないのか?」
手に嵌めていたグローブを外しながら先輩の疑問に答える。
「嫌、というか…他の方の目に触れると反応があって面倒なので隠してるだけです。別に私は構いやしませんよ」
「ほら」と先輩が見れるように怪我が多かった掌を向ける。
傷自体はもう治っているのだが、まだ少しだけ残る傷跡は見る人が見れば反応がうるさいから隠しているだけだ。
「どうです?全然、大丈夫でしょう?」
手を少し横に避けて先輩を見れば何も変わらない表情が掌をじっと眺めていた。
「…そうだな」
「でしょう」
またグローブを付けなおして、そのまま先輩と話を続けた。
「マルクル先輩。私が落ちた後、直ぐに飛び降りてきてくれたでしょう。ありがとうございます」
「気づいてたのか」
「勿論ですよ。でも危ないので、もうしないでくださいね」
「善処はしよう」
そういう返事をする人は大抵、言うこと聞かないって知ってました?
まぁ先輩なら大丈夫と信じてこれ以上は言わないでおく。
忘れないうちに、気になっていたことも聞いてしまおう。
「そういえば、先輩。あの時、誰かが魔法で私の落下の勢いを止めてくれたっぽいんですけど…先輩、私のこと助けてくれたりしましたか?」
「…いや、俺ではないな」
違うのか。あの時いた教師にも聞いてみたが違うと言っていたし、はてさて誰が助けてくれたことやら。
さて、あとは…。もう一つ私は先輩に言うべきか、言わざるべきか迷っていることがある。
座るのも忘れて物思いに耽る私を不審に思ったのかマルクル先輩が声をかけた。
「どうした?」
「あのー、ですね。そのー…ソフィー様にお会いしまして…」
迷った結果、マルクル先輩には教えておこうと思って話してみたが特に何の反応も見られない。
ソフィーと会って話した事の顛末なんて先輩に話したところで、どうなるわけでもないことは分かっているのだが。
なんとなく、飛び降りて来てくれるほどには心配してくれた先輩には話しておこうと思ったのだ。
先輩の無表情から若干の圧を感じるのは、おそらく気のせいではない。
「それでですね、なんと仲良くなったんです!今度、手紙を送ってくださるんですよ!」
マルクル先輩からは、やはり何の反応もなかった。
私の言葉を否定もしないが肯定も出来ないから、黙っているのだと思う。
先輩からしてみれば私の行動は無茶をしているように映るのだろうか。
あの日、父からの説教の最中にソフィーと何を話したのかを洗いざらい話した。
一通り聞いてから父からやんわりとではあるが賛同できないという言葉を貰ったが、私はその言葉を笑って跳ねのけた。
そうなることも分かっていたのだろう父はそれ以上、何か言ってくることはなかったが今の先輩の心情はそれに似たものだと思う。
ただそれを口に出さないだけで。そういうとこ、変に優しい人だなぁ。
「大丈夫ですよ。案外、いい子なんですから。…きっと、もっと仲良くなります」
先輩がどう思っているかは分からないけれど、私のこれは予感じゃなくて確信だ。
「本当に大丈夫ですよ。前にも言っただしょう?私、大丈夫じゃないときは遠慮なく頼りますって」
「…言ったな」
「でしょう?だから、私のこと信じてください」
先輩は小さく息を吐いてから目を閉じた。
「俺に、とやかく言う権利はないだろう。お前の好きにしたらいい」
「そうですね。そうします」
さて先輩からのお許しも出たことだし、これで気兼ねなくソフィーの手紙を待てるというもの。
機嫌のいい私と違って、先輩は良くも悪くもなさそうだ。
本当に私の怪我なんて大したことないのだし、そこまでソフィーを目の敵にすることもないのに。
本当にいい子なんですよ?
私は言いたかったことも全て言えたので席に座ろうかと椅子を引いたところで、先輩から雑に呼びかけられ何かを投げて寄越された。
「うわあ!なんですか!」
弓なりとはいえ、そこそこの大きさのものが来たことに驚きながらも何とか受け取る。
先輩に文句を垂れつつも投げられたものが何か確認をすれば、見覚えのある紙袋が私の手の中にあった。
これって…。
「復帰祝いだ。受け取っておけ」
「祝いって…先輩、これあのお店の」
そうだ、マルクル先輩と夫人の誕生日の贈り物を選びにいったあの店の紙袋。
わざわざ買ってきた?そんな、まさか。
「見てもいいんですか?」
「やったものをお前が見ないでどうする」
いや、それはそうなんですけど。
僅かに高鳴る鼓動を自覚しながら紙袋から小さな箱を取り出す。
おそるおそる開けてみれば、中にはくすんだ青紫の宝石が二つ見えて私は目を瞬かせた。
「アイオライトの、イヤリング…」
あの時、見ていたものが私の手の中にあった。
そう言えば先輩、お店から出てくるの何故か遅かったな。もしかしてあの時には、もう買ってたとか?
真実がどうかは分からないが、聞くのも野暮というもの。
そっと手に取ってせっかくだから光に透かして見てみたいと思い一つ取り出して顔の前に掲げてみる。
光が差し込む方には窓を背にしてマルクル先輩が椅子に座っていて、宝石越しに見た先輩の目がこの宝石と同じ色をしていたものだから驚いた。
――だから、かな。
気になったのは…。
自覚した途端、猛烈に恥ずかしさがこみ上げてきた。
急激に熱くなる顔を先輩に見られたくなくて顔を伏せてしまう。
あれ?どうしよう?お礼を言おうと思ってたのに、変なことに気付いてしまったせいで言いづらくなってしまった!
「マルティネス?」
ほら!先輩も怪しんでるし!なんとか、なんとかお礼だけでも言わないと!
「あ、あの!あっありがとう、ございます」
「あぁ…」
「嬉しいです。…とっても」
顔を上げられないままだったので先輩が今、どんな表情をしているか分からない。
ただ少し声に戸惑いが混じっていたように聞こえたので、非常に申し訳ないとは思う。
でも今はダメだ。もう少しすれば、顔の赤みもマシになるはず。
すーはー大きく深呼吸をしてから顔を上げてもう一度、ちゃんとお礼を言おうと思ったところでノックがあって私の心臓が大きく跳ねた。
マルクル先輩が返事するよりも先に手に持ったままだったイヤリングを紙袋に勢いよく戻す。
その勢いのまま扉まで逃げるように向かって自分で開けば外にいた驚き顔の役員たちと目が合った。
「あれ?どうかし「皆、遅かったね!さぁ早く入って今日も頑張ろう!」
「いやなんか顔あ「大丈夫です!アンドリ先輩!元気です!私とても元気ですから!」
皆の背後に回ってその背を押して中に入れる。
その背に隠れたまま「少し教室に忘れ物をしたので行ってきます!」とだけ言って扉を閉めた。
廊下に出た私の手にはイヤリングが入った紙袋があるだけ。
まだ生徒会室の扉前ではあるが深く息を吐いて、思わず座り込みそうになる体に叱咤し階段の踊り場に場所を変えた。
出てきてしまったものは仕方がない。
せめてこの顔の赤みが引くまでは、と決めて窓ガラスの反射越しでも分かる赤い顔に意味もなく頬を擦った。
――そうだ。
ふと思い至って、紙袋に雑に突っ込んでしまったイヤリングを取り出す。
傷ついている様子のないアイオライトのイヤリングにほっとしてから手探りで耳につけてみた。
窓ガラスに僅かに映る片耳だけイヤリングをつけた自分の姿に自然と口角が上がる。
こんな表情、誰にも見せられないなぁ…。
自分でも若干、気持ち悪いくらいに笑ってしまっているのは自覚しているのだが、どうにも上がってしまう口角を抑えられそうにない。
暫くの間、そうして自分の顔の横で揺れるアイオライトを一人で楽しんでいた。




