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亡くなったのがいつなのかは聞かない方がいいだろう。
感情の伴わない形だけの笑みを浮かべるソフィーに、私は彼女の存在を遠くにあるように感じていた。
今この対角上の距離感よりも遠く、私の言葉など何も届かないのではないかと思うほどの遠くに彼女が孤独でいるようで。
それでいて彼女の笑みがそれ以上、他人が踏み込んでくることを拒否しているように思えて私は戸惑ってしまう。
「もっと早くに専門的な治療を行えていれば、とお医者様に言われました。何もかも遅かったんです。きっと罰が当たったんですね。自分のことしか考えない振舞いをした私に」
彼女はこのまま自分のことを罰し続けて、これからを生きるのだろうか。
それは、あまりにも辛く悲しい生き方だ。
自分を許さず、亡くなった母や誰かに謝り続けて何もかもから距離を取って…そんな風に自分を救わない生き方をするつもりなのだと私には思えた。
それはダメだ。それは違う!
私は父との約束を忘れて彼女に近づいていた。
「ソフィー様」
「あ、れ?ダメですよラファエラ様。私とは離れてなくちゃ」
「私は」
グレタの静止の声も聞こえていた。
約束の内容を把握しているらしいソフィーにも自ら距離を取られる前に、彼女の膝に手を置いた。
膝を突き合わせられるくらいに近い距離まで近づいてから私の身の上話をゆっくりと語り始める。
「私は幼い頃に、母を亡くしました。母と遊んでもらった記憶も薄く、碌に何も覚えていません」
私の身の上話をソフィーはただ黙って聞いていた。
別にこれは私も同じ境遇にあるだとか、そういうことを彼女に伝えたいわけではない。
「古株のメイドからある日、母が常日頃から私に言い聞かせていた言葉があると教えられました。私は覚えていませんでしたが『何にも囚われず自由に生きてほしい』と生前、何度も口にしていたそうです」
何にも囚われず、そのために私がしていることは勉強だった。
それが正解なのかどうかは分からない。ただ出来ないことをなるべく減らしていけば自由に生きることが出来るのではないかと自分で考えてのことだ。
少なくとも不自由はしないはず。だから私は手っ取り早く、勉強を頑張ることにしている。
いくら頑張ろうとも上には上がいることは理解しているし、それは仕方ないことだと思う。
でも私は一番のためでなく自分のために、そして母のために勉強を怠ることは出来ないのだ。
「私自身、この言葉を忘れたことはありません。そのための努力も出来るだけ怠らないようにしているつもりです。ソフィー様。貴方にお母様の忘れられぬ言葉はありますか?」
これは一種の賭けに近い。
ソフィーは今も深く母を愛していて、その母もソフィーを同様に愛してくれているのなら彼女に何か残した言葉もしくは常日頃、言い聞かせていた言葉があるはずだ。
それが彼女を傷つけるものであるはずがないと信じて。
彼女を救うのは私ではなく今はもう亡き母の言葉だ。
「私の、母は…お母さんは、いつも私のことを自慢の娘だって言ってくれました」
「はい」
「私のことを女手一つでここまで育ててくれて、私がこれからお母さんに恩返しをするはずだったんです」
ソフィーが思い出を吐き出すたびに、形だけの笑みが段々と崩れていく。
「私のせいなのに。お母さんに私がしたことの全てを話しました。怒られるんじゃないかって、嫌われるんじゃって怖かった。いつも人には優しくありなさいと言われていたのに、私は約束を破りましたから」
「はい」
「でもお母さんは私のことを叱りませんでした。それどころか私に『頑張ったね。ありがとう』って…そう、言ったんです」
「はい」
「私、お母さんにお礼を言われるようなこと何も出来てないのに。こんなことなら、もっと傍にいればよかった。もっと話をしたかった。もっと一緒に…」
そこで言葉を切って、それ以上は言えないと顔を伏せて小さく首を振る。
「聞かせて下さい」
「…」
「もう叶わないと分かっていることを口にするのが怖いことは分かります。でもそれを自分の中で、腐らせてしまうようなことはしないで。貴方のその思いは正しく、大切な人への気持ちそのものですから。どうか大事にしてほしいのです」
「わ、たし…は」
「はい。私が全部、聞きます。全部受け止めます」
ぐっと押し黙ってソフィーが伏せていた顔を上げる。私の視線に彼女の視線が交わった。
潤んだ瞳が日の光を受けてきらりと光り、彼女は私に訴えるように、縋るように声を張り上げた。
「お母さんと、もっといっしょに、生きたかったよぉぉ」
その言葉を皮切りに溢れ出た彼女の涙を、自分の手で優しく拭った。
わんわんと泣く彼女はつっかえながらも母との思い出を私に聞かせてくれた。
私はそれに時折、相槌を挟みながらずっと聞いている。
やっぱり今日、私は彼女と話すことが出来て良かった。こうやって彼女の思い出を聞ける日が来るだなんて想像もしていなかった。
ずっと母と一緒に暮らしてきたという彼女の思い出はどれも優しく暖かなものばかり。
一人で生きていこうとした彼女の傍には、やはり誰かいるべきだ。
彼女は必ず誰かの助けになれる力を持っている。そんな彼女が誰よりも救われていないなんてこと、あってはいけない。
彼女の母もそんなことは決して望んでいない。
「私がいけないことをしたらちゃんと叱ってくれたのに気づけなかった、ごめんなさい。ごめんね、お母さん」
「何も、貴方がお母様に謝るようなことは何もないです」
「でも私が悪いんです。他の誰も悪くないから、わたしが」
「ソフィー様のせいではないと、私は思います。どうか自分で自分を責めないで下さい。貴方のお母様もそれを望まれてはいないはずですから」
何度も何度も、ソフィーは自分を責めたのだろう。現に今もずっと責め続けている。
他の誰も責めないから、自分で自分を責めることでしか心の釣り合いが取れなかったのかもしれない。
彼女を責めるような人はまず、彼女に近寄らないから。今回は、それでよかった。
彼女はもっと自分を認めるべきだ。
やり方は少し間違っていたかもしれないが彼女は、誰も傷つけたりはしていないのだから。
責められる謂れは何もない。
「お母さん、おかあさん。最期に…私に言ってくれたことがあるんです」
「なんですか?」
「『誰よりも幸せになって』って、そう願ってくれました。おかあさん最期まで私のことを責めなかった」
「はい」
「ずっとずっとわたしの無事だけを喜んでくれてっ」
流れる涙は何処までも悲しくて苦しいもののはずなのに、私はその涙に僅かに安堵を覚える。
頬を鼻を目元を赤くさせ表情を歪ませて泣く今の表情は、最初に見た精彩を欠いた姿よりも断然いいと思えた。
よほどさっきまでより彼女が生きていると感じられた。
彼女のしたことなど結果的にとはいえ些細なこととして片付けてしまえるものだ。
それよりも事実、いじめられていた彼女の無事を喜ぶのは親として当たり前のことだろう。
「わたし、思い出すのが怖かったんです。思い出さないはずがないのに、思い出すたびに全部なくなってしまったんだって現実を突きつけられるようで」
もう話せない。触れられない。そのことがどれほど怖いことか。
父が母を亡くした時、誰からの言葉も拒絶し仕事に逃げ私からも逃げた。
まだ幼かった私にはそんな父の背中を見ていることしか出来なくて、こんな風に話を聞くことも向き合うことも出来なかった。
父の問題は周りの献身と時間が解決してくれたが、何もすることが出来なかったことだけが私の心残りだった。
私がいたから父はまた前を向けたのだ、と誰かが言ったけれど私は唯一の家族として父の傍にいただけだ。
母が亡くなって悲しくて寂しかったのは私も同じだったから。
これはそんな私の後悔を繰り返さないためのもので、それがソフィーの力になれるものであればいいと信じての行動だった。
「ダメですよね。忘れるような事しちゃ。お母さんのこと覚えてるのはもう私一人なのに…。大事なこと忘れるとこだった」
最後の言葉だけは自分に向けて囁くような小さな音量で、ソフィーの腕につけられていた彼女の髪と同じ色の糸で縒られたブレスレットをするりと撫でた。
きっと彼女の思い出の品なのだろう。
長く目を閉じた彼女が次に目を開けたときには、もう涙が流れてくることはなかった。
「ありがとうございます。ラファエラ様」
「いえ、私は何もしておりません。貴方が救われたと感じたならば、それはソフィー様と貴方のお母様との思い出が素晴らしいものだったからに他なりません。どうか大切になさってください」
「はい!」
晴れやかに笑うソフィーに、やっと本来の彼女の表情を見れた気がした。
私もそんな彼女の表情にニコニコと笑顔を浮かべていれば後ろの方から「お嬢様」と少し咎めるようなグレタの声が聞こえた。
あ、と思ったが時すでに遅し。父との約束を破ってしまったことになるが後悔はしていない!
今から彼女と距離を取るのは寂しいので、言われてもこのままだ。
お叱りは後でしっかりと受けますとも。
「今日はお会いできて本当に良かったですわ」
「私もです。…もう、会うこともないでしょうから。ラファエラ様に最後にそう言っていただけて本当に嬉しいです」
そうか、彼女はもう学院に転校してしまっているのだからそうそう会うこともなくなってしまう。
それはとても惜しいことのように思えた。
このまま別れてしまってもいいのだろうか?答えは、否だ。
「最後に一つだけ私のお願いを聞いて下さいませんか?」
「はい、私に出来ることでしたら」
ソフィーは私のお願いにも快諾を示した。
彼女にとあるお願い事をしよう。私が彼女との繋がりを切らさないようにするためのお願いだ。
「また私にお手紙を送ってくださいませんか?」
「また、ですか?」
「はい。もう一度、今度こそ私からお返事を書きます。必ず。だからまた、私にお手紙を送ってくださいませ」
「…いいんですか?」
ソフィーは私の言葉に少しばかり目を見開いて何故か問い返してきた。
私からお願いしているのだから、彼女が受け入れてくれるのならば私は願ったり叶ったりだ。
私は彼女の瞳を見つめて頷く。
「はい、はい!必ず、必ず送ります!」
彼女はそう言って思わずとばかりに私の手を取った。
慌てて離れていきそうになる手を私からも握り返して、決して解けないようにと祈りを込める。
少し緊張していたのが馬鹿らしいくらい乗り気な返事に私は自然と笑みを浮かべた。
淑女ぶった表面だけの笑顔ではない、心からのものだった。
「はい、待っています」
嬉しさと期待とが胸に溢れかえってそれが表情にも自然と現れる。
そんな私と同じように笑った彼女の表情は今日見た中で一番の眩しい笑顔だった。
ソフィーを屋敷の門のところまで見送る。
彼女が乗って来た馬車が見えなくなるまで私はそこに立って見送っていた。
当初はどうなることかと思ったが終わってみれば、とてもいい結果に終わったことに私は上機嫌で屋敷へ戻る。
玄関の扉を開け中に入ったところで私はその身を固まらせることになった。
「ラフィ」
まだ名前を呼ばれただけで他に何か言われたわけでもないのに、父の呼び止める声に上機嫌だった気持ちが一気に急降下していって顔を青くさせる。
あぁ、なんか忘れようとしてた…。現実逃避かな?
「こっちへおいで」
「…はい」
何故かグレタも父の側にいるし…これは誰の助けも期待できそうにないな。
結局、その日は夜まで父からのお説教を受けグレタからもお小言を頂いた。
これに関しては約束を破った私が悪いので平謝りするばかりでございます。




