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まさかここを訪ねてくるとは思いもしなかった。
というか、来るにしても早すぎない?
父のいる本邸から馬をかなり飛ばして来たとしてもここまでは5日以上かかる行程のはずなのだが、一体どんな魔法を使ったら一日足らずで来れるというのか…。
そもそも緊急で連絡を送ったとは聞いていたが、そこまで早く届くものだとは思ってもいなかった。
もしかして父に届くまでに1時間もかかっていないのではないだろうか。
いちおう今回のような緊急時にのみ使われる、特殊な連絡方法がある。
普段の手紙のやり取りではマルティネス家雇いの配達人を使っているのだが、この方法では動物…魔物を使う。
配達専門の魔物使いに金を払い、魔法を使える動物たちにスピード重視の配達をしてもらうのだ。
ただ運ぶのは動物であり何よりスピード重視のため最悪の場合、配達物の破損もしくは遺失がある可能性があるので本当に緊急で用件を伝えたい時くらいにしか使わない。
ちなみに手紙の場合はしっかり届いたことを確認できるまで、魔物使いが責任をもって何度も動物たちを飛ばしてくれるのでいずれは配達できるようになっている。
一度や二度、失敗したとしてもはるかに動物たちが配達する方が早いのは明白だ。
これが物となっていくると、魔物使いによって取り扱いがあったりなかったりするのだがこれは割愛。
それを使って手紙を届けたのだろうことは分かっていたのだが、今までなんだかんだと頼ることもなかったのでそこまで早く届くものだとは知らなかった。
おそらくグレタも正しく把握していなかっただろう。
とにかく、グレタにいつもの準備を急いでもらうようにお願いする。
「畏まりました」と声がして直ぐにグレタの気配が遠ざかっていくのを感じながら、私も急いでクローゼットから学生服ではなく簡単に着られるワンピースを取り出した。
服はグレタか、屋敷のメイドたちの誰かが着替えさせてくれたらしくネグリジェを着ている。
いつもより雑に脱いでさっさとワンピースを着ようと思い手に取ったところで、手に切り傷を見つけた。
そういえば怪我があるとは聞いていたが、どこを怪我しているかまでは聞いていなかった。
昨日は痛みもなく部屋が薄暗かったこともあり全く気づけなかったが、カーテン越しでも十分に明るい部屋で自分の両手を眺めた。
利き手ではない方に多く傷跡が付いている…。
何でだろうと考えてそういえばあの時、地面なのかを確認するために自分の下を手で触っていたのを思い出した。
あー…そっか。あそこってガラスの上だったのか…。
どうやらガラスの上で倒れて気を失ってしまったらしいことに思い至って、思わず頭に手をやったが何ともなさそうでほっとした。
意識がなくなってしまい動くことが出来なかったので、これ以上に傷がつくこともなかったのかな?
そこまで思考を進めているうちに少しの肌寒さを覚えて、私は着替えの途中でありそして脱いだままだったことを思い出した。
何故、私は下着姿でこんなことを考えているのか…。
素早くワンピースを着て、クローゼットからストールも取り出しておく。
グレタが戻ってきたらオペラ・グローブも用意してもらうように頼んでおこう。
流石にこの傷跡を晒したままにしておくのは少し躊躇われる。
着替え終え、ドレッサーの前に座って櫛で髪を梳いているとグレタの「失礼いたします」の声が聞こえて私の返事を聞く前に扉が開いた。
「旦那様には今暫くお待ちいただいておりますが、どうやら限界が近いそうなので少し準備を早めさせていただきます」
「あ、うん」
グレタはカートを押しながら部屋に入って来て、その後を二人のメイドが続く。
そのうちの一人にオペラ・グローブの準備を頼むと「直ぐにご用意いたします」と言って、来て早々ではあったが部屋を出ていって準備しに行ってくれた。
先に自分で顔を洗いタオルで水を拭き取ればグレタはそのタオルを受け取った後、私の手を取り傷口の一つ一つにお医者様から頂いただろう薬を丁寧に塗っていく。
それと同時進行でもう一人のメイドが私の肌のケアと軽い化粧を施していった。
先に薬を塗り終えたらしいグレタが丁寧に自分の手を洗ってから、髪に香油を塗ってから緩く一つにまとめてくれたので肩にかけておく。
そのうちに頼んだオペラ・グローブを持ってきてくれたメイドに礼を述べて、彼女も加わればあっという間に準備が完了してしまった。
ここまでで、15分ほどだろうか。
何とか人前に出られるようにはなったので仕上げにグローブに手を通し、ストールを羽織ればドレッサーの前から立ち上がった。
さて久しぶりの父の顔を見に行こうと部屋を出ようとしたところで、また部屋の扉がノックされ動きを止める。
朝から息つく暇もない様子に、今度はなんだと言いたい気持ちを抑えて穏やかに返事を返した。
「はい」
「ラフィ。大丈夫かい?」
「お父様!?」
とうとう我慢の限界を超えたのか。
部屋まで訪ねて来たらしい父の声に慌てて扉へ駆け寄り自分から開いた。
開けた先には厳格そうな顔の壮年男性が立っていて、その後ろには少し疲れたような表情を見せるメイドたちと父の侍従が控えていた。
皆の頑張りがあったおかげで私は着替えから何から済ませることが出来たらしいことは直ぐに察することが出来た。
みんな、ありがとう。それとお父様、淑女の準備はどんな時でも最低30分は待ってくださいませ。
「元気そうで良かった」
「お父様。わざわざ来てくださりありがとうございます。とても、嬉しいですわ」
私の様子に薄く笑みを浮かべる父に私も自然と笑みを浮かべた。
彼はセオドア・マルティネス。マルティネス侯爵家の現主人にして、私のお父様だ。
「ですが、大丈夫なのですか?今もお忙しいのでしょう?」
普段から忙しくしている父が大した怪我もしていない私のもとを訪れていて大丈夫なのか。
首を傾げる私に、父は私の頭を優しく撫でて殊更優しい声色で「問題ないよ」と言った。
「愛娘が怪我をしたと聞いて駆けつけられないような私ではない。ラフィが気にすることはないよ」
お父様…。後ろで侍従の方が無言で首を振っているのは気のせいですか?
「今日はラフィは学園へ行くのかい?」
「いえ。お嬢様は本日、大事を取りましてお休みをいただいております」
私の代わりにグレタがそう答えると父は「それは良かった」と声のトーンを少し明るくした。
「ラフィも5日間ほど休みを取りなさい」
「え、それは何故でしょう?」
学園に行けないほどの怪我を負っている訳でもないので意味もなく休むのもどうかと思い、父に問えば少し楽しげな感情を目に乗せて薄く笑みを浮かべる。
「私も5日ほど休みをとる。その間、ここで過ごすからお父さんに付き合ってくれないかい」
それは、思ってもみない提案だった。
それが嫌ということはなく、だからこそ悩んでしまうのだが結局父からのお願いに勝てず承諾してしまった。
「はい、是非ご一緒いたしますわ!」
そこで私の後ろに控えていたグレタが「それでは、お二人で朝食などは如何でしょう?」と提案してくれる。
「そうだな。急だが頼めるか?」
「畏まりました。直ぐにご用意いたします」
グレタの指示に従って先に下がっていくメイドたちの後に続いて、グレタが「ご案内いたします」と私たちをダイニングまで引き連れていく。
父の隣に並びながらやはり怪我の具合を気にしていたようなので、今朝グレタが薬を塗っている最中に聞いたことを父に話しておいた。
おそらくは手紙にも似たようなことが書かれていたと思うが、どうしても直接話を聞きたかったのだろう。
ダイニングに行くまでの間、そんなことを話していれば直ぐに着いてしまった。
席に着くと、特に待たせることなく二人分の食事が運ばれてくる。
我が屋敷のメイドたちは非常に優秀だなぁ。
食事中にもぽつりぽつりと会話を弾ませながら久しぶりに父との食事を楽しむ。
あまり自ら喋ることのない寡黙な父も今日に限っては何だか少し饒舌なように思えた。
ゆっくりとした食事を終えると食後の紅茶はリビングに移動してからにしよう、ということになったので移動することに。
ソファに向かい合って座り、グレタが用意してくれたお茶をいただく。
一口含んだところで落ち着いた声色の父からあることを聞かれた。
「それで、詳しく何があったのか教えてくれるかい?」
「詳しく、と申されましても…おそらくは魔法の暴走に巻き込まれたのでしょう。ということしか…」
「うん、手紙にもそう書かれていたよ。でも、それに至るまでに何があったのかは詳しく書かれていなかった。何があったんだい?」
「そうですね。ソフィー嬢が実は治癒の奇跡持ちであることが判明し、学院への転校が決まった際ご説明を行ったのですがひどく嫌がられまして…それが原因で魔法の暴走が起こってしまったというのが今回の経緯となりますね」
「それだけ?」
「えぇ。本当にそれだけしか私、知りませんの」
父の真剣な表情に私は微笑み返すだけで、お互い何も言わないまま暫く見つめ合う。
何があったかと聞かれれば私から答えられるのは本当にそれだけだ。
父が私とソフィーの関係で何かを把握していたとしても私からこれ以上、何か言うつもりはない。
ソフィーがどれだけ私のことを嫌っていようともあれはあくまでも事故であり、私の不注意と重なってしまった結果なのだから彼女を責めるようなことは誰もしてはいけないと私は思う。
こうして私も無事だったわけだしね。
彼女が今どうしているのかは分からないが、私の最後の記憶ではぐったりと動かないソフィーが脳内にこびりついている。
魔法の暴走はその本人をひどく疲弊させるものだ。
もう学院の方に保護されているだろうからこれ以上、魔法の暴走が起こることはないと考えているが…。
というわけで、私からは微笑み返すだけ。
そんな私の表情からこれ以上は何も聞けないと悟ると父はお茶を一口飲んで僅かに困ったような表情を見せた。
「君は年々、ベルに似ていくね」
「お母様に、ですか?」
ベルは私の母の愛称だ。正しくはベルナデットという。
たしかに私の容姿は母の生き写しのようだと、古株の執事にこっそりと教えてもらったことがある。
私が母の話を聞きたいとあまりにもせがんだので内緒で教えてくれたのだ。
母のことを知っている執事やメイドたち曰く、天真爛漫で自由奔放、純粋で頑固で強か。
人によって母の評価は様々だったが、みんなとてもよく母のことを好いてくれているのだけは伝わった。
父は多くを語らない人なので、あまり父から母の話を聞いたことはない。
これは父から話を聞けるチャンスなのでは?
「ちなみに、どこらへんがですか?」
興味津々に聞く私に、父は穏やかな表情で目を伏せた。
「そういうところが、かな」
どういうところ?
じっと父を見つめるが、父は涼しい顔をして私の視線を受け流していた。
これ以上はなにも教えてくれなさそうだ。
残念ではあるが、あまり記憶にない母に似ていると言われることは身近に母のことを感じられて少し嬉しい。
母との、ある古い記憶を思い出す。
『ラファエラ。私たちのもとに生まれてきてくれてありがとう。セオのことをお願いね』
あれはいつの記憶なのだろうか。
私自身もよく覚えていないのだが母にそう言われたことだけをよく覚えていた。
その前後の記憶が曖昧なので、誰かに聞こうにも聞けず幼い頃の記憶だし覚えていなくとも仕方ないかと諦めている。
「サマーホリデーには帰ってきてくるんだろう?」
「勿論です!」
サマーホリデーに入れば無論、本邸の方に帰るつもりだ。
ただ、後から入る予定によっては何日帰れることになるやら分からないが。
朝の時間を親子二人でゆっくりと過ごしていると、父の侍従が入って来て父に何やら耳打ちした。
それを聞いた父の機嫌が分かりやすく悪くなる。
それでも侍従は気丈な態度を崩さずじっと傍に控えていると、やがて父は諦めてまだお茶の入っているカップを机の上に置いた。
「少し出て来るよ。夜までには戻るから、ラフィはここでゆっくりとしているように」
「はい。お気をつけて、お父様」
どうやら今から外に出るらしい父を見送ろうかと思ったが、手で制されたので座ったままで見送る。
部屋を出て行く前にグレタに私のことを任せると言った父に、グレタが「承知いたしました」と言って綺麗な角度で頭を下げていたけれど私ってそこまで信用ないかなぁ?
とにかく今日一日は屋敷で大人しくしていなければ、グレタにうるさく言われそうだったので父が帰ってくるまで勉強でもしておこうかな。




