『統計』についての所感。
「統計とは残酷で酷く無情なものです。首長、議員、取締役、株主、コンビニの店員、隣人、偉人、男、女、子供、老人、廃人に至るまで、どのような存在でさえデータの前では等しく『1』となります。そこには当人の情などは関与しません。何を思ってその行動をとったのか、どのような思い入れ、熱意があったにせよ、全てデータ化され、表面上の形だけが残ります。人は亡くなれば後に残るのは『骨』だけです。『骨』はリン酸カルシウムが主成分です。『カルシウム』は金属ということは分かります。しかし『リン酸』とは何でしょうか。『リン』とは元素記号では"P"と表されるもので、周期表的には気体ですが、体感的には赤リンとか黄リンとかの固体として見かけることが多い気がします。では『リン酸』とは何なんでしょうか。"酸"が付いていることから酸素が連想され、酸素は燃えることから紙や木が連想されるので、有機物のように思えますね。しかし化学的には『リン酸』は無機物なのだそうです。不思議です。(これは言葉遊びの一種なので、読んでいる人は拙者が阿呆のように思われるのかもしれないが、承知の上で言っていることをご理解頂きたい。)何が言いたいのかというと、『リン酸カルシウム』とは『無機物』ということです。そういえば人というモノの後に残る骨も無機物でしたね。"無機物"、少し冷たい響きです。触れて冷たいと感じるものではありませんが、背筋が凍る感覚、朝の寝覚めの時の少し気だるげの血圧が下がった指先の感覚、血の気が引くというような感覚でしょうか。指先の触れているところ、目で見ているときの光が水晶体を通りその奥の網膜に当たっているところの感覚が冷たく感じる。からっ風が入り込んで体内の心から指先まで吹き込み、また指先から心に戻って網膜等から出て行っているようです。無機物に触れると、悪気がそこから入り込み、身体が蝕まれる、もしくは自分自身が悪気であり、その悪気が『無』に吸い取られているのかもしれません。悪気のある、人間という『有』から吸い取られて『無』になる。そして『無』はまた『有』から吸い取る。では吸い取られた『有』はどこに行くのでしょうか。自分から親へ、親からその親へ、またその親からその親へ、巡り巡っては一つに行きつくでしょう。それは原初の人類と言われるアダムとイブかもしれないし、バクテリアかもしれない、もしかしたら地球上の生物では無いかもしれません。考えても仕方のないことです。ではその『有』はどこまで行き着き、集まるのでしょうか。それは宇宙の果て、起源にまで遡るかもしれません。"宇宙"、何かとてつもなく大いなる存在のように感じます。その存在の前では、何を考え、何を為そうが雑魚にも及ばないことでしょう。頭の中が真っ白になり、夢の中にいるような、そわそわとした浮遊感に包まれます。真綿で首を絞められたような軽い息苦しささえ感じます。自分自身が肉眼で見えるかどうかの赤ダニよりちっぽけで、プランクトンよりは大きいようなサイズになった感覚。何かができそうな主体性を持ちながらも、実は何もできない客観性を持ち合わせた、いわゆるカオスのような混在した息苦しい感覚に陥るのです。ずっと想像していると、背筋がだんだんと凍り付き、正気を保つのが難しくなります。大いなる存在の前では、等しく無力で、ただそこにあるだけ、氷に全身を包まれて、身動きできず、皮膚という皮膚が凍気に修復不可能なまでに侵されているのに、まだ意識があるような、そんな絶望的な冷たさに触れたからでしょうか。もしかすると『データ』に自我があるのならば、そのようなモノなのかもしれません。『1』という数字の中には熱情、義、希望、幸せ、絶望などの様々なドラマがあったのでしょう。生きていた『データ』達はそのような思いを持ち、必死に生きようともがいていたのかもしれません。しかし、『データ』という『骨』に処理され、既に『無』になっているから、もう動くことができない、主体と客体が入り混じった混沌になって、やっと一つの『データ』として成り立っている。それが百、二百、三百、千、万、億、兆と数えきれない、無料対数まであるのではないかとさえ思える、正に"はいて捨てるほど"という言葉では足りないほどいるのです。その『データ』達を何百、何十万という膨大な単位で括って処理をする、真に無情でなければ不可能な悪魔の所業でしょう。もちろん『無』ではありますが、元々生きていたモノを戸惑うことなく処理して自分の生きる糧にしている現代の人々は、神の御業に挑戦しているようなことを平然とやってのけるので、私は恐怖すら感じながら、その恩智にあやかり、また生きる糧にするために勉学に励み、そわそわとした浮遊感に包まれながら日々を過ごしているのです。」