表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

大人のシャボン玉

作者: N(えぬ)

 雑居ビルの少し奥まったところにある扉の上に「BAR VENT」と浮き出した文字で看板が掛かっている。

 少し重い扉を引いて中に入る。

「いらっしゃいませ」

 この店、何年も何度も通っているが、店に入ったときのマスターのあいさつは、決して「いらっしゃい」と短くはならない。誰にであっても、「いらっしゃいませ」と「マセ」が付く。顔なじみになったら少し砕けて「マセ」無しでもいいのではと思うけれど、必ず付けるのがマスターの流儀なのだろう。「そういうところが、いつまでも水くさい感じがする」と嫌っている人もいるようだ。


 片瀬はその点、何も問題は感じない、むしろそれでけっこうだと思っていた。「変に距離を詰められるよりずっといい」。そんな風に思っていた。

 カウンターのいつもの席に腰を下ろすと、「マスターおまかせ」のウイスキーがロックで出てくる。

「ん。これは初めての香りだね。いい香りだ」

「そうでしょう。甘すぎない爽やかな。香りだけじゃ無い、飲み口もいいでしょう?ことしのそれのブレンドは傑作だと思います」

「うん。すごくいいね、気に入ったよ。しばらくこれを続けてもらおうかな」

「承知しました」

 マスターは薄く微笑んで会釈した。


 片瀬は2杯目のロックを飲んでいた。

「こういう感動も、ストレス解消だね。ぼくには特にそう感じる。なにで、どうやって作り出したのか、まるで見当も付かない。それなのに、こんなにグラスの中の香りを深く吸い込みたい。これを作り出した、どこかの誰かに感謝しないとイケない」

「ストレス解消ですか。まあ、お酒で解消というのは定番ですね……そうだ、ストレス解消と言えばおもしろいものを手に入れたんですよ。どうです、やってみますか?」

 マスターは振り返って棚から何か取ると、なにかの液体の入った、ちょうど手に乗るくらいのプラスチック容器と小さい輪のようなものが先に付いたストローを片瀬に見せた。容器にはこう書いてある。

「大人のシャボン玉?

なんなのです、これ?」

 片瀬はマスターの顔を見た。

「シャボン玉って、ストローに、ただ息を吹き込むだけでシャボンの玉がたくさん出たり、大きいのが作れたり、いろいろ遊べて子どもは大好きでしょ?それの「大人向け」ってことです」

「たしかに、こういう容器に入ったシャボン玉飛ばすヤツ?は見たことあるけど、大人用ってのがおもしろいね。なんか派手なヤツが出来るとかかな?」

 片瀬は、自分の手には受け取らずマスターが差しだした手の上のそれを見ていった。

「どうです、いまなら時間もあるのでやってみますか」

 マスターに誘われるまま、片瀬は店の裏口から外に出た。そこは、いろいろものが置いてある狭い路地で、ほかの店もこの路地側に裏口が通じているのだろう。薄暗い街灯が一個だけ灯っていて、路地の先は表通りだ。そこには人の往来が見えた。


 マスターは「大人のシャボン玉」と黄色地にピンクの文字のプラスチック容器の口をひねって開け、それとストローを片瀬にくれた。

「輪っかが付いたほうが先で、そこを容器の中の液体に浸けて吹いて見てください」

「ああ、うん。それは、むかしやった覚えがあるのと同じだね。なつかしいなぁ」

 片瀬はそう言いながら、ストローに口を付けて軽くフゥッと吹き出した。直径2センチくらいのいくつものシャボン玉が立て続けにストローの先から飛び出し流れてゆく。そして急に風に乗って空高く舞い上がっていった。

「ははぁ。なんか懐かしいな。ほんとこんなことするの何年ぶりだろう。ちょっと吹き方が強かったかな。……ああ……でも」

「でも?どうです?」

 マスターは片瀬の顔を見て含むように笑った。

「なんだこの感じ……変な気分だよ。すごく気持ちが楽になるっていうか、なんともいえない」

 片瀬はそう言うと、またストローの先に液体を付けて、今度はゆっくり慎重に吹いてみた。今度はゆるゆると大きなシャボン玉が出来てゆく。彼はそのシャボン玉が壊れないように、慎重に息を吹き込む。そしてもうこれ以上大きくならないと踏ん切りを付けて、ヒョイとストローの先を振る。すると、ブルンと揺れてバレーボールほどもあるシャボン玉がストローの先を発射され、ゆっくりと彼らの前を漂い始めた。そして、片瀬は、ストローを持った右手を胸に当て、目を見開いてシャボン玉の行方を目で追い、そしてマスターの顔を見た。

「なんていい気分だ。フゥッと吹いていると、なにか自分の体の中のイヤなものが外に出て行く、そんな感じがする」

「そうでしょう?それが、「大人のシャボン玉」ってことなんですよ。吹くと自分の腹に溜まったストレスが玉に入って行くんです。そうして膨らんだシャボン玉は、こうして風に乗って、どこへともなく消えていく」

「そう、そんないいものがあるとは、驚いた……、とにかくこれはいいね。やみつきになりそうだ」

「でも、あんまりやっちゃいけません。これをやりすぎると、ボーッとしたままになって、人間としてダメになってしまうんです」

「そうなの?人間、少しは常に軽いストレスで緊張していないとイケないってことなのかな?」

「そうなんでしょうかねえ……」

 片瀬とマスターは、ゆっくりゆっくり空に昇っていく、さっきの大きなシャボン玉を見あげていた。

 片瀬は小さくなっていくシャボン玉を見上げながら、

「ところであれは、割れると、中に吹き込んだストレスって、どうなるんだい?」

「いあ、それはわたしも知りません」

 片瀬とマスターは晴れやかな顔で笑っていた。



「所長。東京上空の大気に未知の物質が含まれている件ですが……また検出されました」

「ううん。この物質は一体どこから来たのか、どこから発生しているのか……引き続き、調査を続けてくれ」

「はい、わかりました」

「地球に何か悪い影響が無ければいいのだがナァ」

 科学者は首をかしげて報告書に目を落とした。



タイトル「大人のシャボン玉」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ