四行:斉天雲
玄奘は伊吾の城門をくぐり、城内に入った。
城内は平穏で、玄奘は門兵に止められることもなかった。しかし町の一角の広場には黒い服に身を包んだ遊牧民風の一団がいて、異様な雰囲気をあたりに漂わせていた。
また、王宮の前を通りかかると、中から胡人が何人か出てくるところに出くわした。白っぽいこぎれいな衣装に身を包み、明らかに衆人と異なる気品を備えていた。
しかし玄奘は黒と白の一団のいずれにもかかわりあうことはなく、城内の寺に立ち寄って寄宿を乞うことにした。
その寺の名は唐名で永楽寺といった。数日間、玄奘は旅の疲れをいやすとともに寺の僧侶たちと問答や講釈をしあったが、やがて彼らは玄奘がすぐれた僧であることを悟り、手厚く歓待してくれるようになった。
寺の僧たちとの歓談の合間に、玄奘は牛頭羅刹や蛾のような妖魔について尋ねてみたが、誰も見たことも聞いたこともないという話だった。
「この国は、北方の広大な草原地帯を二分する勢力である東突厥と結んでいて、その庇護を受けています。東突厥の国王は頡利可汗というお方で、国の力を伸ばされ、西方の覇者、西突厥と勢力を拮抗させています。玄奘殿が市内で見かけられたという黒衣の一団は駐留している東突厥の兵士です。
この国のような小国は、常に周囲の大国に版図を狙われる運命にありますので、いたしかたない選択です。」
永楽寺の住職が玄奘に説明した。
「私は長安に来られた天竺僧の鉢剌婆羚邏蜜多羅殿に、可汗浮図を経て西突厥へ入る道を教えていただきましたが、その道は今安全でしょうか?」
「玄奘殿ですからお教えしますが、今、東突厥は西突厥と国境付近でしばしば争いを起こしております。可汗浮図は西突厥の東の端、国境に位置する町ですので、お一人で行かれるのは危険でしょう。…どうしても行かれるのであれば、そちらの方へ行く隊商について行くに越したことはありません。知り合いの胡人の商人を紹介いたしましょう。」
「感謝します。よろしくお願いします。」一礼する玄奘。
その時、寺の小僧がやってきて、住職に来客が来たことを伝えた。
「どちらの客人か?」
問い返す住職に答える小僧。
「高昌国王の使いだと。…分かった、お通ししろ。」
玄奘は会釈をしてその場を辞そうとしたが、それより前に白衣を着た胡人が数人、どかどかと住職の前に姿を現した。
先頭の胡人は玄奘の方をしばらく見つめたが、すぐに住職に向かって言った。
「住職殿、こちらの沙門が唐から来られた有徳の僧、玄奘殿か?…それなら話が早い。玄奘殿、高昌国王が是非貴殿を招待したいと申されておる。伊吾国王の許可は得ている。我々が同行するゆえ、高昌国へお越しいただきたい。」
この申し出を聞いて、玄奘は当惑して住職と顔を見合わせた。
ここ、伊吾の国は、天山山脈の東端にあり、可汗浮図は山脈の北麓、高昌国は南麓にある。可汗浮図は大国西突厥の都市なので、そちらへ行けば比較的行程は安全である。
高昌国自体は西突厥と結んでいるのでその国内は安全だが、そちらへ行けば山脈越えは困難となるので、あまり治安のよくない山脈南側を通って北天竺まで行かなくてはならないはめになる。
もちろん玉龍に乗れば山脈はひとっ飛びだが、馬と荷物を積めないという難点があった。
「申し出は有り難いが、少々困りました。」玄奘は住職にそっと耳打ちした。
「申し訳ない、玄奘殿。…実は先日王宮へ招かれた際に国王に玄奘殿のことをお話ししてしもうた。それを聞いた高昌国の使者が、高昌国王へ連絡されたに違いない。…しかし国王じきじきの招待となると、伊吾国王の許可も得ているとのことですから、断れば東西突厥をも巻き込んだ大もめ事に発展しかねません。」
観念して招待を受けると返答する玄奘。高昌国の使者は喜んで、一週間後に出発すると言い残して寺を後にした。
数日後、玄奘は伊吾国王に招かれ、王宮で拝謁した。ところがその場へ東突厥の軍隊長、賀魯が突然ずかずかと乱入してきた。
「国王殿、噂によると唐の高名な僧が西突厥の属国の高昌国へ招かれるそうだが本当か?」
「い、いかにも、賀魯殿。」隊長の剣幕にたじたじの国王。一国の王といえども、東突厥に対しての立場は弱い。
「けしからん!唐の人間が我が国に無断でこの国を通過すること自体問題だが、高名な人物であればなおのこと、われらが大可汗に謁見すべきであろう。」
「隊長殿、申し訳ないが、私の目的地は高昌国よりも西方の天竺です。東突厥とは方向が反対です。けっして貴国をないがしろにしたわけではありません。」
見かねた玄奘が口をはさんだ。
賀魯は玄奘をじっと見つめた。「お前が玄奘という僧か。天竺へ行って何とする?」
「彼の国で真の仏法を学び、仏典を持ち帰ります。」
「唐の皇帝のためにか?聞くところによるとおぬしは過所を得られず、密出国したそうではないか?それも玉門関とかいう関所が襲われたすきに。」
その言葉を聞いて玄奘は眉をひそめた。「いえ、唐の民のためです。」しかし賀魯はさらに言葉を続けた。
「そんな国に戻らず、我が国へ参って仏の教えを説いたら良かろうに。」
「天竺へ行かねば真の仏法は説けません。」
「賀魯殿、我が国は高昌国とも友好を結んでおる。しかもその後ろには西突厥がある。どうか、我が国の立場を考えて、ここでもめごとを起こさないでくれまいか。」
懇願する国王を一瞥する賀魯。
「…まあ、よかろう。だが、玄奘とやら、道筋は必ずしも安寧ではないぞ。」
そう言い残して賀魯は退室していった。
さらに数日後、玄奘は高昌国の使者の一行とともにようやく伊吾国を後にした。だが、半日も進まないうちに、騎兵の待ち伏せに出くわした。黒衣に身を包む賀魯の軍隊で、使者の一行の三倍の人数がいた。
しかも彼らの背後に、一台の巨大な物体、鎧牛車があった。
鎧牛車は前面が半球状の透明な壁で覆われ、中に人間が腰かけているのが見えた。その左右に銀色の半環がせり出していた。
★鎧牛車
地上を歯車型車輪で走行する装甲車。武装は特にない。
賀魯は振り向いて鎧牛車に合図を送った。「斛瑟羅!」すると鎧牛車は突然変形を始め、直立して牛の化け物になった。
★鎧牛車変形
車体の後方から伸びている、車輪部の支柱が上方へ伸び、両脚となる。車体の側面に折り畳まれている両腕が展開し、収納されている眼がせり出す。
★牛頭羅刹
通常の歩行もできるが、足の歯車型車輪で前進することもできる。
「あ、あの、牛頭羅刹か?」息を飲む玄奘。高昌国の使者たちは叫び声をあげた。「ば、化け物だ!」
玄奘は使者たちと賀魯の隊との間に立ちふさがると、振り返って使者たちに叫んだ。
「やつらの狙いは私でしょう。あなたたちは私を残して、あいつらを避けて先に進んで下さい。」
「そ、それでは、玄奘殿が。」
「私は大丈夫。しばらくしたら後を追います。」
使者の長はなおも躊躇したが、さすがに牛頭羅刹の姿を見て恐れ、合図をすると駆け去っていった。その様子を見てほくそ笑む賀魯。
「玄奘殿、ご同行願おうか。」
しかし玄奘は錫杖を振り上げた。錫杖の先が三叉に分かれ、電光が宙に走る。
「玉龍、第一のしもべを!」
はるか上方の成層圏で待機している玉龍が玄奘の命に呼応した。「斉天雲射出。」
すると玉龍の胴体から前脚が付根ごと分離した。前脚は後方に伸び、爪の間から白い雲を噴射して高速飛行を始めた。
★斉天雲
玉龍の前脚部分が分離して変形する飛行メカ。二条の飛行機雲を空に描いて飛行。玉龍の胴体には人が通れる通路があり、尾まで続いている。操縦席(頭部)から移動して斉天雲に乗り込むことができる。
錫杖を振り上げた玄奘を怪訝な目で見つめる賀魯。しかし何も起こる様子がないので、その顔に再び笑みが戻った。
「恐怖で気がふれたか?」
「隊長、逃げていった高昌国のやつらはどうしましょう?」尋ねる部下。
「ほうっておけ。それより玄奘を捕まえろ。…丁重にな。」
その時、空を見上げていた玄奘の目に、二条の細長い白雲がうつった。その白雲は方向を変え、まっすぐに玄奘の方へ向かって来た。
玄奘の様子を見て首を上げる賀魯。ようやく賀魯も異変に気づいた。
「な、何だ、あれは?」
牛頭羅刹に乗っている、斛瑟羅と呼ばれた人物も上空を見上げた。とたんに牛頭羅刹は両腕を上げ、空へ向かって雄叫びを上げた。