二行:韓志和
玉龍と呼ばれた巨大な龍にくわれた玄奘は、その顎の中でしばらくもがくと、空洞となっている龍の頭の中に滑り込んだ。
そこには座席があつらえてあり、玄奘はそこに腰かけると錫杖を傍らに立てかけて、座席に付属している桿を握った。
すると、どこからか不思議な響きの声が聞こえてきた。
「後続可能距離四十里。着陸地点の指示を。」
「玉門関の方へ…北西へ進んでくれ。」答える玄奘。
玄奘は雲中を進む玉龍頭部の窓に当たる水滴を眺めながら、玉龍の主である韓志和という謎の男に最初にあった時のことを思い出した。
それは玄奘が成都から渡り歩いて少林寺へ到達してからしばらくたった頃だった。少林寺のはずれにある古い房に倭人が居宿していることを他の僧から聞いて、興味を覚えて訪ねたのだった。日々、経文の研究にあけくれていたが、部分訳しかない経文ではどうしようもないということを自覚し始めていた時期であった。
その房の中は細かい木切れや金属片などが無造作に散らばっていた。そのまん中で粗末な机に向かって何やら手を動かしている貧相な中年男がその倭人だった。
玄奘も倭という島国が東海にあることは知っていた。隋の時代から皇帝のもとへ貢ぎ物を献上するとともに留学生を派遣していることも知っていた。しかしこの男は、とても留学生のようには見えなかった。
するとその男、韓志和はふいに片手を開いて玄奘の方へ差し出した。その掌の上には木でできた雲雀が立っていた。
「おお、これは何と精巧な彫り物か…。」
玄奘が感嘆しようとしたその時、木彫りの鳥は突然羽ばたいて宙に舞った。
驚愕して思わず後ずさる玄奘。しかし木製の雲雀は間もなく床に落ちた。
「ちゃんとした動力があればもっと飛べるんだが、ここにある材料じゃあこれが精一杯だ。」
唖然としている玄奘にほほえみながら韓志和が口を開いた。
「あなたは彫り物に命を与えることができるのか?何と奇矯な!」
「妖術の類いを使っているわけじゃないよ、若いお坊さん。この世のあらゆる理が理解できれば、あんたにだって作れるものさ。」
韓志和は足が悪く、一日のほとんどをこの房内でひとりですごしているとのことだった。韓志和の技に心を奪われた玄奘はその日から志和と懇意になり、経文の勉強の合間にしばしば通ってはいろいろなことを語り合った。
韓志和は実際には倭よりもっと遠いところにある、名も知られぬ国からやってきたこと、その国では自然の力を使っていろいろな動く物を作る技術があることも聞いた。
「そのような国は聞いたことがない。はるか東海の向こうにあるのでしょうか?そんな遠くからどうやって唐まで参られたのか?」
ある日、玄奘は尋ねた。
「作り物の巨大な生き物の中に乗ってきたのだ。」
「巨大な生き物とは?」
「お前さんらのいう『龍』ってやつに似ているかな。」
「龍に乗る?仙人みたいな話で、志和殿の技を見た後でなければとても信じられなかったでしょう。…その龍に乗っていずれはお国へ帰られるのか?」
「そうしたいのはやまやまだが、それもできなくなった。」
韓志和はため息をついた。
「…お前さんには本当のことを話そうか。実はわしは逃亡した罪人を追って仲間とともにこの国へやってきた。ところがあと少しというところでやつらの反撃を食らい、仲間は死亡、わしも足をやられ、わしらが乗ってきた龍も遠い旅をすることができない程に傷ついたのだ。」
「その罪人はどこへ?」
「この国より西の方にあるどこかの国へ落ち延びたようだが、詳しくは分からん。」
「その罪人も龍のような作り物の生き物を操るのか?」
「ああ、本来は乗り物だが、見た目は強力の妖魔だ。軍隊の前にたてれば歩兵など簡単に蹴散らすだろう。」
玄奘は唐の西方、西域で突厥という騎馬民族の国が勢力を伸ばしているのを聞き及んでいた。いずれは唐とも交戦するかも知れない。そのような国に巨大な作り物の妖魔が加担したら…。
「志和殿、拙僧は今仏教の経文を学んでおりますが、もともと仏陀のお生まれになった天竺から一部が伝わってきたもので、学べば学ぶほど腑に落ちない点が次々と出てきます。唐での学問の壁を乗り越えるためにはどうしても天竺へ行かなくてはならないと考え始めていたところなのです。志和殿の龍に乗せてもらって一足飛びに天竺へ行けばすべてが解決できるのではと愚考しましたが…。」
「まず、龍は今深く傷ついており人を遠くへ運ぶことはできないのだ。普段は高空、雲よりも山々よりも遥かに高いところで休んでいて氣を貯えておる。氣が満ちれば地上へ降りて人を乗せることもできるが、進めるのはせいぜい四、五十里で、再び人をおろして天へ戻らなければならない。馬でいかれる方が早いだろう。
それに、龍の存在に気づかれれば、疑いなくやつらがあらわれて龍を討ち倒そうとするだろう。…だが、地上を進んでも遭遇する危険性は少なくない、か。…龍を操って相手と渡り合える技量と体力と度量があれば、あるいは…。」
韓志和は玄奘をじっと見つめた。
「玄奘殿、あなたがこの国きっての英才であり、また体術にも長けていることを聞き及んでいる。そなたならもしかして龍を操れるかもしれん。…もし本当に西方行きを決意されるのならしばし待たれよ。龍を操る術を与えよう。」
「志和殿、感謝します。…私は一度長安に上って西域の事情を調べて参ります。」
韓志和はうなずいた。「準備ができたら再びここへ参られよ。」
長安に上った玄奘は天竺僧の鉢剌婆羚邏蜜多羅と出会い、最新の仏典についての話を聞くとともに西域の情報を教えてもらった。西域では東突厥と西突厥という二国が勢力を伸ばしつつあり、特に最近異形の将軍が傘下に加わって伊吾国や高昌国などの周辺の小国を脅かしていることも知った。
十分な情報を得ると玄奘はいったん少林寺へ戻ってきて韓志和の房を尋ねて西域の情報を伝えた。
「鉢剌婆羚邏蜜多羅殿の言う異形の将軍とやらが志和殿の国の罪人なのでしょうか?」
「その可能性が高そうだな。」
そう言うと韓志和は玄奘にひとさおの錫杖と面を差し出した。
「玄奘殿、これをお渡ししよう。…この面は氣瓣と申し、鼻と口をおおえば呼吸を助けてくれる。そしてこの杖を天にかざして龍を呼べば、ただちに龍が天降って参る。ただし龍の氣が満ちている時しか呼べないから、せいぜい十日に一回程度になる。
また、玄奘殿にも氣が満ちていなければその声は龍には届かない。
…恐怖にかられて助けを求めても龍は現れぬから、そのお覚悟だけはしておかれよ。」
玄奘はうなずいた。
★玉龍全身像
東洋風の龍で長い身体に四本の脚があり、長い尾の左右に棍棒状構造が付いている。
「龍が現れたなら顎を開くから、その中に飛び込みなされ。さすれば短い距離なれど、空を飛んで移動することができよう。その際には氣瓣をつけられることを忘れずに。」
「龍の口の中に?食われろとおっしゃるのか?」
「作り物の龍だから食われることはない。…だが恐怖で躊躇すれば、その歯で噛み砕かれるおそれはある。」
「分かりました。志和殿を信じましょう。」
「だがやつらが、あの逃げ出した罪人どもが現れれば、作り物の妖魔が追ってくるかもしれん。その時は迎え撃つ意志があるか?」
玄奘はうなずいた。「殺生はできませんが、作り物の妖魔を二度と動けなくすることができるなら。」
それを聞いて韓志和もうなずいた。
「その場合は三体のしもべを呼び操られよ。妖魔と対等に渡り合えよう。」
「三体のしもべとは?」
「敵が水中にいれば水妖の『沙河王』を。空か地上にいれば『斉天猴』を、地中に潜れば『土龍怪』を呼ばれよ。詳しくは玄奘殿を乗せる龍、『玉龍』が教えてくれよう。」
錫杖を受け取った玄奘は再び長安に戻り、そして泰州までやってきた。今までは人間の妨害しかなかった。これから妖魔がはたして本当にあらわれるのか、また、まだ見ぬしもべたちで対抗できるのか、玄奘にも分からなかった。
旅はまだ始まったばかりである。