十八行:應龍睚眦
日が沈み、西突厥軍は鉄門の手前で野営を築いた。金剛将軍を倒してから、西突厥の兵士たちが鉄門を開こうと何度も試みたが、どういうわけか鉄門はびくとも動かなかった。そこでしばらく様子を見ることにしたのである。
黄袍と白骸は玄奘の命乞いのおかげで即座に首をはねられずにすみ、手枷・足枷をつけられた状態でひとつの衙張の中に押し込められていた。西突厥軍は兵士の休息をとるために駐留していたが、その間に黄袍と白骸の足の傷は癒えていった。
一方、嫦娥はずっと考え込んでいた。玄奘は心配そうに嫦娥の様子をうかがっていたが、変に口出しをしてもどうにもならないと思い、そっとしておいた。
そして十日近くたった日の夜のことだった。嫦娥は別の衙張で翠蘭とともに横になっていた。翠蘭はあどけない寝顔で寝入っていたが、嫦娥は横たわったまま目を開いていた。いろいろな思いが脳裏を駆け抜け、どうしても寝つかれなかった。
嫦娥はついに起き上がると、そっと衙張を抜け出た。野営地の周辺にはいくつかかがり火がたかれ、兵士が周囲を見張っていた。
しかし嫦娥の周囲はちょうどいくつかの衙張の影となっており、たとえ兵士が嫦娥の方を向いたとしても気づかれる心配はなかった。
忍び足で進む嫦娥。行く先は黄袍と白骸が閉じ込められている衙張である。
嫦娥はこの惑星へ不時着して以来、ひとりで生きてきた。もちろん黄袍や白骸には一度たりとも会いたいという気はおきなかったが、頼れる相手も、話し相手すらいない生活はどうしようもなく心細いものだった。
今は、かたぶつの玄奘と傍若無人の翠蘭という仲間ができた。嫦娥は彼らにいつも口では文句を言っていたが、いつでも手で触れることができる距離に気のおけない仲間がいることは、嫦娥の心に常に暖かい何かをもたらしていた。
ところが平安を手に入れた今になって、突然嫦娥の父親と会えるかもしれないという状況になった。
嫦娥の父親は嫦娥にとっていつも優しい親というわけではなかった。むしろ始終大声でがなりたて、幼い頃の嫦娥はいつもおびえていた。しかしそれでも父親は嫦娥を守ってくれる存在であった。
「玄奘は親父をつかまえようとしているわけではない。」嫦娥は考えた。
「でもふたりが出会えば、絶対に闘いになる。…それだけはさけなくちゃ。」
黄袍と白骸が入れられている衙張の前には見張りの兵士がひとり立っていた。嫦娥は後ろからそっと近づくと、腕輪の中の電極を露出させ、見張りの体に押し当てた。
電流が見張りの体を貫き、兵士はけいれんしながらその場に倒れた。その体をそっと衙張の影へ引き入れる嫦娥。
そして嫦娥はその衙張の入り口から中へ忍び込んでいった。
玄奘はぐっすりと寝入っていたが、突然顔をぴしゃぴしゃと叩かれて目をさました。
周囲はまだ暗かったが、天蓋を通してかすかにもれるかがり火の灯りのおかげで、小さな影が傍らにしゃがんでいるのに気づいた。
「公主殿ですか?…まだ暗いじゃないですか。小用なら嫦娥に連れていってもらいなさい。」
「起きろ、玄奘殿。その嫦娥がおらんのじゃ。」
翠蘭の言葉を聞いて玄奘はがばと起き上がった。あわてて錫杖を手にして外へ出る玄奘。
まず嫦娥と翠蘭の衙張の中をのぞいたが、確かに誰もいなかった。
急いで黄袍と白骸が入れられている衙張まで走る玄奘と翠蘭。しかしそこには兵士がひとり昏倒しているだけで、黄袍と白骸の姿も消えていた。
あわてて衙張から飛び出、そのまま野営地の外へ出ようとする玄奘と翠蘭。見張りの兵士に制止させられるが、捕虜がいないことを告げると大騒ぎとなった。
夜明けが近く、東の空は白んでいた。その薄明かりの中で、玄奘は鉄門へ続く山道の方へ走った。
その頃、嫦娥は黄袍、白骸とともに鉄門の前に立っていた。
黄袍と白骸は、足枷は嫦娥にはずしてもらっていたものの、いまだに手枷をつけたままだった。
「おい、嫦娥、いいかげんにこの手枷をはずせ!仲間だろうが!」黄袍が嫦娥に向かって吼えた。
「そうはいかないわよ。あんたたちが信用できないってことは、昔から知ってるんだから!…それよりこの巨大な門を早く開けなさい!」
「いばりやがって、この小娘が!おまえなんぞ、もうかしらの娘でも何でもない!」白骸が怒鳴った。
その言葉にきっとなって振り向く嫦娥。
「どういうこと、白骸?…親父はここにはいないってこと?」
口をすべらせた白骸は舌打ちをしたが、開き直って言い返した。
「ああ、そうだ。かしらはここにはいない。…どうなったかは知らんが、多分監察軍の攻撃で、不時着する前に消し飛んだだろう!」
「嫦娥、ここまで逃がしてもらえばもうお前には用はない!…睚眦!出てこい!かしらの娘をくれてやる!」
黄袍が叫んだとたん、巨大な鉄門が少しずつ手前に開き始めた。
言葉を失って見上げる嫦娥。その姿を巨大な影が覆う。
鉄門から現れたのは黒い巨大な龍だった。蛇身の玉龍とは異なり、巨大な蜥蜴のように四つ足で地面に踏ん張り、しかも背中からは翼が左右に伸びていた。
★應龍睚眦
應龍とは翼のある龍、睚眦とは殺人愛好者の意味がある。
「お、應龍、…が、睚眦…。」
嫦娥はその姿をおぼえていた。父親が「仕事」に出かける時にしばしば乗っていった殺戮兵器。
実際にどのような悪行をなしたのかまでは知らないが、その凶悪な姿を見上げただけで容易に想像ができた。
「お前が嫦娥か。」その巨大な龍は口から声を発した。
蛇に睨まれたカエルのように体がすくんで動けない嫦娥。この巨大な悪龍は、作りものとは思えない凶悪な精神を発していた。
「嫦娥!」
その時背後から玄奘が姿を現した。振り返る嫦娥。それが合図であるかのように、應龍睚眦と呼ばれた龍は巨大なあぎとを開いた。
「玉龍!」
錫杖を天に振りかざす玄奘。たちまち天に黒雲が渦巻くが、玉龍が姿を現す前に應龍睚眦の首が嫦娥に迫った。
「ギャハハハハ、噛み砕かれてしまえ!」
残虐に高笑いする黄袍と白骸。しかし二人は、嫦娥が應龍睚眦の口の中に飲み込まれるのと同時に、應龍睚眦の首の側面から突き出た角で突き飛ばされて宙に舞った。
雲の渦の中から姿を現す玉龍。玄奘は地上すれすれに舞い降りた玉龍の口の中に飛び込んだ。
「玉龍、現れたか!…積年の恨みをはらしてやる!」
「あれは應龍睚眦!」玉龍の声が響いた。
「あの黒い龍を知っているのか、玉龍?」
「私と同じく意思を持つ鋼鉄製の兵器です。彼らの首領が好んで使っていました。…監察軍にいた頃は何度か闘いましたが、いつも逃げられてしまいました。」
「嫦娥は、嫦娥は大丈夫か?…それとも食われたのか?」
「いえ、玄奘と同じように、頭の中にある操縦室に入れられただけです。我々は意思を持ち、自分で自由に動けるのですが、すべての力を引き出すには人が乗っていないといけないように作られているのです。」
「じゃあ嫦娥に操縦させるというのか?」
「いいえ、應龍睚眦はひねくれた意識体で、誰かに操られるのを好みません。ただの依代として、ほかの者よりも操りやすい嫦娥を利用するつもりでしょう。」
玉龍が想像したように、嫦娥は應龍睚眦の頭部の中で、飲み込まれた際の衝撃で気を失っていた。しかしその体は操縦席に固定されていた。
そして、應龍睚眦の制御回路が解除されていく…。
首を上げ、玉龍に向かって吼える應龍睚眦。玉龍は空中で体をくねらせて、その首を應龍睚眦に向けた。
後方から、葉護可汗が率いる西突厥軍が姿を現した。翠蘭も葉護可汗の後ろからついてきていた。しかし彼らは二匹の巨大な龍を見て、その場に凍りついた。
その時、玄奘ははっとした。
「あいつは、あいつは何をしようとしているんだ?」
應龍睚眦が突然逆立ちをするかのように体勢を変え始めていた。




