十一行:高昌国
日が暮れる前に土龍車のハッチが開いたので、玄奘は外から中を覗き込んだ。
「おちついたのか?」
「わ、私をこれからどうするの?」
嫦娥がおずおずと口を開いた。
「玉龍から聞いたと思うが、我々はお前たちを追ってきたわけではない。西にある天竺へ行く旅をしているだけだ。ただ、お前たちの仲間が妖魔を操って邪魔をするようなら、それを排除するだけだ。
もともとつかまえる気も、命を取る気もない。…少なくとも妖魔を破壊すれば、あとは自由にしてよいのだ。お前もどこかへ行ってもいいぞ。」
嫦娥は玄奘をきっとにらみつけた。
「私にどこへ行くあてがあると思うの?…私はこの野蛮な惑星の上で、親とも仲間ともはぐれて、誰に頼ることもできずに、月蟾蜍の力だけで何とか生きていただけなのに。…月蟾蜍も壊れてしまって、もう生きていくすべがないのよ!」
「…それは悪かった。…攻撃されたので、やむなく破壊したのだ。…どうする、玉龍?」
「どうすると言われても、この世界に若い女性をひとり残してどうなるかは、あなたの方がよくご存じでしょう、玄奘?」
「東突厥の傭兵になっている斛瑟羅にあずけにいくか?…遠回りになるが。」
「私の親父の仲間だったやつらなんて、ならず者ばっかりよ!それこそ何をされるか分からないわ!…それより、あんたの行く旅の途中で親父に会えるかもしれない。…ねえ、あんたといっしょに連れていってよ。」
「何を言うんだ、私は取経のための旅をしているのだ!女連れでなんて行けるか!」
「でも玉龍に聞いたわ。…あんたの宗教の僧侶は女を抱けないんでしょ。それなら私がいても気にすることないし、私自身も安心だわ。」
「…弱ったな。」
「しかし、玄奘、いずれにしてもしばらくは連れていくしかないでしょう。悪い子じゃなさそうですよ。」
夜明け頃に玄奘は歩いて、納縛波城に近づいた。玄奘の傍らには白い布で全身をくるみ、目だけを出した嫦娥が付き従っていた。
納縛波城の城兵が玄奘に気づき、しばらくすると城門が開いて城兵十数人と王の康艶典が出てきた。
「こ、これは玄奘殿。…あ、あの龍は?」
「蒲昌海の水妖を倒したので、天に帰しました。」
「玄奘殿はあのような化け物、いや、龍を操られるのか?」
「あの龍は天界の使いです。仏門で功徳を積めば力を借りることができるのです。」
「お、おみそれした。玄奘殿、この国に滞在して教えを広められてもかまわんぞ。」
「いえ、せっかくのお言葉ですが、私は取経の旅の途中です。私の願がかなえばいずれこの国にも益が及ぶことでしょう。…先日お願いしたように、高昌国までの道案内を乞えないでしょうか。」
「そ、そうか。」内心では玄奘の力をおそれていた康艶典はほっと胸をなで下ろした。
「わかった、すぐに支度を整えるので沙門はお休み下され。ところで水妖を倒したという証はお持ちか?…いや、疑うわけではないが、漁師たちを安心させるために必要なのだ。」
「北に少し行ったところに水妖の残骸が転がっています。送っていただく途中で確認できるでしょう。」
「分かり申した。…ところで傍らの者は誰か?この間はいなかったと思うが。」
「この者は龍に従って参ってきた天界の小姓です。龍との連絡のため、とりあえず手許に残しました。」
康艶典は、嫦娥の赤い目に気づいて息を飲んだ。そして何も詮索せずに城門へ戻っていった。
王宮の小室に通された玄奘と嫦娥はとりあえず腰をおろしてくつろいだ。
「何とかうまくいったね、玄奘。」
「ああ、だが人前では顔も声も出すなよ。僧侶が女連れとあっては外聞が悪い。」
「よほど素行の悪い坊主が多いんだね、あんたの国には。」
「邪推をする者が多いというだけだ。」
「それより土龍車は?」
「天にいる玉龍の体へ戻っていった。沙龍頭と共に。…天でしばらく休む必要があるからな。」
「それで地上を歩いて旅しているのか。…つきあわされる私もこれから大変だわ。」
慣れてくるとずけずけとものを言うようになった嫦娥に玄奘は閉口したが、賊の中で育った娘だから仕方がないと考え直した。纏足をしてろくに歩けないような娘でないだけましであった。
午後には、十名の兵士を案内役として玄奘と嫦娥は納縛波城を後にした。康艶典は玄奘をおそれて、さっさと厄介払いをしたいようだった。
一行は蒲昌海の西岸に沿って北上し、途中で月河伯の残骸に遭遇した。機械的な残骸にいぶかしむ兵士たち。
嫦娥は目をそらした。そして先を急ぐことになった。
蒲昌海を離れ、北の砂漠を進む玄奘たち。何日も野宿して進み、けっして楽な旅ではなかったが、ようやく高昌国の城壁をおがめるところまで近づいた。
玄奘たちが城門に近づくと、突然何人かが馬に乗って城門を飛び出してきた。そしてまっすぐに玄奘の方へ近づいてくる。
玄奘がよく見ると、それは牛頭羅刹の来襲のため離ればなれになった高昌国の使者の長だった。
「玄奘殿、よくご無事で。…もう戻られぬものとあきらめておりました。」感涙を流す使者の長。
「これは心配をおかけした。牛頭羅刹から逃れたものの、道に迷って蒲昌海へ行き、納縛波城の兵に送ってきてもらったのだ。」
「そうですか。国王には既にお伝えし、玄奘殿にお会いするのを心待ちにしております。こちらへどうぞ。…納縛波城の者にも礼を取らせようぞ。」
ぺこぺこする納縛波城の兵士。さすがに身なりの整った高昌国の使者たちと比較すると、納縛波城の兵士は野武士のようにしか見えなかった。
玄奘は礼を言って兵士たちと別れると、嫦娥とともに使者の長について王宮に入っていった。嫦娥のことは途中で雇った従者ということにして玄奘の居室に残し、玄奘はさっそくに高昌国王、麹文泰の前へ通された。
「おお、そなたが聡明さで唐でも名高い玄奘殿か。ご無事で何より。いや、会えてうれしいぞ!」
麹文泰はおおはしゃぎだった。国王の歓待は何日も続いた。
この初老の国王はもともと敬虔な仏教徒で、玄奘の仏教の話をとても喜んだ。しかし高昌国の仏教も唐とそれほど変わらず、「雑心」、「倶舎」、「毘婆沙」など唐でもおなじみの教典はそろっていたが、玄奘の求める「瑜伽論」は入っていなかった。玄奘はやはり天竺まで行かなくては真の仏教を学べないということを悟った。
ある日、麹文泰は玄奘にこのまま高昌国に腰を落ち着けてほしいと頼み始めた。この依頼は玄奘も予想していたものだった。およそ仏教を国教としている国であれば、優秀な僧侶を招きたいと考えるのは当然である。この地域はもともと人の移動が頻繁で、異教徒も多く、まともな僧侶は少なかった。
しかし玄奘はきっぱりと断った。自分は天竺で真の、そして最新の仏教を学ぶためだけにこの地を通りかかっただけであり、優れた仏典を持ち帰らない限り、この地に留まっても高昌国にとっても何の益もないことを諄々と諭し、たび重なる麹文泰の要求を退けた。
ついには諦める麹文泰であったが、玄奘の旅の手助けをするかわりにひとつだけ願いを聞いてほしいと、最後の要求をつきつけてきた。
「実は、私の末の娘…王女…を、玄奘殿の旅のお供にしてほしいのだ。」
「何をおっしゃられる、陛下!」玄奘はあわてて麹文泰の言葉を遮った。
「苦難の旅が続くでしょうし、まして私は仏門の身。女性など連れていけませぬ!」
「しかし玄奘殿は現に女性をひとり連れておいでではないか?」




