一行:西海龍王
「私は俗名を陳緯といい、仁寿二年に洛州陳留に生を受けました。」
沙門玄奘は問われるままに自分の経歴を語った。
「兄の素は既に出家して長捷と名乗っておりましたが、早くから私の資質を見込んでくれ、洛陽浄土寺に私を連れ帰って経を教えてくれました。そこで私は、真諦法師が天竺から伝えられた摂大乗論を学びました。しかし真諦法師が訳された経文も大部分が散逸しており、その尊い教えも釈然としない点が多々ありました。
隋が滅ぶにあたって世が乱れたため、長安の僧のほとんどが蜀の成都に逃れていると聞き及び、兄とともに移りました。武徳五年に私は成都で具足戒を受けましたが、摂大乗論やその他の仏典を学べば学ぶほど疑問点が増え、やがて単身で荊州、相州を尋ね歩き、洛陽の少林寺にしばらく落ち着きました。
少林寺には浄土寺にいた頃からしばしば訪れ、体術を習っておりましたが、ここでその修行を再開するとともに菩提流支三蔵法師の訳経を改めて学びました。そのうち、天竺には唯識論という思想に基づく仏教体系が存在しますが、そのほとんどがこの国に伝えられてないことに気づきました。
長安に戻って私は天竺へ取経の旅に出ることを思いつき、その準備を進めていたところ、昨年になって新たに中天竺から沙門が新しい仏典を持って来朝し、勝光寺に滞在していることを知りました。その沙門の名は鉢剌婆羚邏蜜多羅殿といい、仏典は十七地論と申します。すぐに勝光寺に赴いて十七地論について沙門に教えを請いましたが、この仏典も実は膨大な体系をもつ論書の序文に過ぎないことを悟りました。そこで沙門に天竺や途中の旅程の事情を教わり、取経の旅に出る決意を固めました。
あいにく朝廷に提出した天竺行の請願、玉門関を通過するための過所の申請はことごとく却下されましたが、都の飢饉のため秦州に逃れる法師の共をして、ここ晒経寺へご厄介になることとなりました。」
「いやいや、玄奘殿、摂大乗論や阿毘曇論の講経は見事というほかなく、我々一同おおいに感歎いたしましたが、それでもまだ学ぶ必要があるとは仏の教えの奥深さ、愚僧の思い及ぶところではございません。」
晒経寺の僧、道宣が一礼して言った。しかしすぐに顔をあげた。
「しかし、玄奘殿。玄奘殿が天竺へ赴かれようとしていることは既にこの地方の驃騎将軍府に気づかれておるようです。…特に果毅都尉の孟毅将軍は性が蛮勇で、玄奘殿を生死を問わず制止してくる可能性があります。」
「ご心配には及びません、道宣殿。私には仏の御加護があります。」
いかにも自信ありげに話す玄奘を見て道宣はいぶかしんだが、すぐに合掌して玄奘を拝した。
その時にわかに堂の外がさわがしくなった。まもなくひとりの小僧が堂の戸をあわただしく開けて中に駆け込んできた。
「何だ、騒々しい!」一喝する道宣。しかし小僧は一礼をする間もあらばこそ、あわてて口を開いた。
「も、孟毅将軍の兵がまっすぐこの寺を目指してやって参りました!」
驚いて立ち上がる道宣。「げ、玄奘殿。すぐに馬を引かせます。…裏門から早くお逃げなされ!」
玄奘もうなずいて立ち上がった。
「道宣殿、お世話になりました。兵士が来たら、玄奘は早々に追い払った、玉門関へ向けて逃げ去ったとご口上下さい。」
「しかし行き先を告げては玄奘殿のお身が…。」
「言わずともどうせ待ち構えておりましょう。西域への唯一の道ですから。…しかし私は大丈夫、ご心配召されるな。」
そう言うと玄奘は見たことのない金属製のマスクを口に付けた。目を見張る道宣。
「玄奘殿、その奇妙な面は?」
シューという空気の漏れる音と共に玄奘の声が奇妙に響いた。
「これは倭國の細工師、韓志和殿にいただいた氣瓣と申すもの。呼吸を助け、激しい運動をしても空気の薄い高山にいても息苦しくならないという武具です。」
寺男が裏門に玄奘の荷物を乗せた馬を引いてくると、玄奘はすぐにまたがり一礼して駆け去って行った。
秦州の城門を出る玄奘。乾燥した下草がまばらに生える荒地に馬を進めていると、やがて玉門関の方向にニ、三十人の人影が待ち構えているのに気づいた。
いずれも棒やさすまたで武装した兵士で、その中にただひとり、絢爛な鎧に身を包んだ大男が馬上で巨大な青龍刀をかまえていた。
ゆっくりと馬を進める玄奘。まもなく兵士たちが玄奘の馬の周りを遠巻きに包囲し始めたので、玄奘は馬をおりると携えてきた錫杖を大地に突き刺した。
そのまま馬上の荷を背負う玄奘。そこへ周りを取り囲む兵士の間から馬に乗った孟毅将軍が現れて玄奘に向かって怒鳴った。
「お前が国禁を犯して国外へ出ようという法師玄奘か?都よりお前を捕まえろという命が下った。…命が惜しければおとなしく投降しろ!」
しかし玄奘は地面に突き刺した錫杖を抜くと、馬を放してそのまままっすぐ歩き始めた。もちろん投降するそぶりはみじんもない。
かっとなって青龍刀を持ち上げ前方へ振りおろす孟毅将軍。その合図で兵士たちがいっせいに玄奘に襲いかかった。
ほくそ笑む孟毅将軍。ところがその顔にまもなく驚嘆の表情が現れた。
玄奘は棒やさすまたで襲いかかる兵士の攻撃を錫杖で軽くかわしながら、すかさず錫杖の先や拳、肘で一撃をくらわし、兵士たちを次々と昏倒させていった。あっという間に十人あまりが地面に横たわっていた。
「…あれが噂に聞く少林寺の体術か。…みごとな杖術と拳術だ。一撃で急所を打ち、殺すことなく動きを封じている。」
しかし孟毅将軍の感歎も、さらに十人近い兵士が倒されるに及ぶと激しい怒りに変わっていった。
「雑兵は退けい!」孟毅将軍は前方の兵士を押し倒すのも構わず馬を玄奘の前に進めると青龍刀を振りかぶった。
「こいつで錫杖ごとたたき切ってやる。…いくら体を鍛えても刀を受けることはできまい。生かして連行せよという命だが、旅先で頓死することはままあること。」
ぎらりと光る青龍刀の刃を見て、玄奘はさすがに観念した。
「さすがに孟毅将軍を押し退けることは至難か。…しかたがない、奥の手を使うか。」
玄奘は錫杖を天に向かって差し上げた。そのとたん、上部の側面から細長い錫片が左右に開き、三つ又状になった。
「西海龍王、玉龍!」
玄奘が天に向かって叫ぶと、電光が錫杖から垂直に走った。まばゆい光にあっけにとられる孟毅将軍たち。
さらに空に黒雲が渦巻きはじめると、兵士たちの顔に畏怖の表情が表れた。
「おのれ、奇矯な術を!」怒鳴る孟毅将軍。
ところがまもなく兵士たちの口から恐怖の叫び声が発せられた。つられて見上げる孟毅将軍の顔も青ざめた。
天上に広がる黒雲の直中から巨大な龍が姿を現していた。
龍はそのまま地上めがけて急降下すると、顎を大きく開いて玄奘めがけて突進してきた。
あわててちりじりに逃げ出す孟毅将軍とその配下たち。しかし玄奘は仁王立ちしたままで、その後方から龍の巨大な顎が近づいて玄奘をパクっとひと飲みした。
「玄奘を食らった…。」
そのまま龍は孟毅将軍たちを残し、再び天上に登っていった。
★玉龍
<註>
・仁寿二年:西暦六〇二年。
・洛州陳留:今の河南省偃師県。嵩山少林寺の近く。
・真諦:西インドのウッジャイニー出身の学僧で本名はパラマールタ。梁の武帝に招かれて西暦五四六年に南中国に来て、摂大乗論、摂大乗論釈、中辺分別論、大乗起信論など六十四部二百七十八巻を翻訳。これにより大乗仏教と小乗仏教を分ける考えが中国に伝わる。
・武徳五年:西暦六二二年。
・荊州:今の湖北省江陵県。
・相州:今の河南省彰徳府。
・少林寺:今の河南省登封県少室山北麓にある寺で、北魏の孝文帝が西暦四九六年にインド僧仏陀禅師のために創建。六世紀の初め頃にインド僧達磨大師(ボーディダルマ、九年間座禅した伝説でダルマのモデルとなる)が体術(少林拳)を伝える。玄奘はインドからの帰還後、太宗皇帝に少林寺で訳経したいと申し出たが却下されている。
・菩提流支三蔵法師:北インド出身の僧で、本名はボーディルチ。西暦五〇八年に洛陽に来て北魏の武帝に歓迎され、少林寺で三十部余りの教典を訳出。
・唯識論:全ては空である(色即是空)が、意識だけは実在するという理論。
・秦州:現在の甘粛省天水県。当時の国境である玉門関の近く。
・晒経寺:秦州の寺。「西遊記」では河州衛・福原寺と記されている。
・驃騎将軍府:唐では当初、府兵制(農民を徴兵し、首都や辺境の防衛に当たらせる制度)を敷き、府兵を指揮する軍府として儀同府、驃騎将軍府、鷹揚府などを置いた(果毅都尉はその軍府の次官)。貞観十年(西暦六三六年)からは折衝府と呼ばれるようになったが、玄宗皇帝の開元時代(七一三~七四一年)から府兵制は急速に崩壊し(代わりに金で雇う募兵制が発達し)、七四九年に廃止され、辺境防衛のためには節度使という制度が新たに設けられた。
・過所:関所を通過する許可証。
・韓志和:唐代の珍聞奇聞をまとめた杜陽雑編(蘇鶚撰、乾符三年(八七六年)成立)に所収されている逸話に出てくる倭人で、木や黄金や玉璧で生きているように動く鳥、クモ、蝶などを作ったという。
(参考文献)
玄奘(著)、桑山正進(訳)、西域記ー玄奘三蔵の旅、小学館地球人ライブラリー
慧立/彦そう(著)、長澤和俊(訳)、玄奘三蔵ー西域・インド紀行、講談社学術文庫