9話 魔王の妹
森は非常に魔力が濃い場所である。そういった場所には、野生の獣が魔力で強化された『魔獣』が自然に発生する。普通は冒険者達が定期的に掃除をするのだが、今回ばかりは話が違う。
「『模倣錬成・雷嵐惨禍』!」
ウェインの詠唱に合わせて雷が踊る。稲光が刃のように荒れ狂い、狼に似た魔獣の群れを蹴散らす。しかし魔獣の数は未だに多い。ウェインは更に魔素を収斂し、虚空に放つ。
「『真理錬成・魔針鴈』」
空中に多数の短刀が錬成され、それらが翻り魔獣たちの喉笛を引き裂く。踊るように舞った短刀が全ての魔獣を切り刻んだ。
「マエリベリーの予想通りだ。危険度が普段の比じゃない。フレア、怪我は無いか?」
「大丈夫です! ウェインさんは強いですね!」
「そりゃそうだ。幾ら凶暴になっているとはいえ、この辺りの魔獣はそもそもが弱いんだ。例外もない訳じゃないが……今は気にしなくていいだろ」
ウェインは辺りを見回し、安全を確認しながら森の奥へ進む。その後ろをフレアが雛鳥のようについて行く。
しばらく歩く。一向に魔獣が現れないことを訝しんだフレアが、か細い声で呟いた。その表情はとても不安げだった。
「急に魔獣が出てこなくなりましたね」
「あれだけ派手にやったんだ。多少は怖気づいてるんだろ。こっちの様子を監視している気配は幾らでもある。まぁ――」
ウェインは急に立ち止まり、虚空から剣を錬成して抜く。すると二人が立っている場所から少し離れた茂みが蠢く。
「そういうの、関係ない奴も居るみたいだけどな」
茂みからゆっくりと熊のような大型の魔獣が現れる。体色は黒く染まり、口元や爪には乾いた血がこびりついている。眼窩は深く落ち込んでおり、その奥にぎらつく虚ろな瞳からは確かな闘争の色が感じられる。
「この魔獣は……見たことがないです」
「表層にはよく出るタイプの魔獣だ。だが、放置されたせいで凶暴性が上がっているぞ。恐らく危険度は深層クラス。ここで仕留める。来るぞ、離れてろ」
ウェインの言葉通り魔熊が動く。人間の数倍にも達する重量に任せた突進攻撃。普通の人間はおろか、訓練を積んだ冒険者ですら轢き潰されてしまう攻撃だが、ウェインは魔素で強化した黒剣と、その肉体で真正面から突進を受け止める。
魔熊は少し怯んだようにも見えたが、次の瞬間ウェインに向けて爪を振り下ろす。一本一本が長剣のような長さのそれをウェインは軽々と弾き、返す刀でその爪を折る。だが、その爪は瞬時に生え変わり、元通りの長さに再生した。
「流石に爪じゃ致命傷になりえないな」
ウェインと魔熊はそのまま何合と打ち合う。最初はウェインの方が優勢であったが、動物特有の持久力によって徐々に押され始めた。ウェインが無理やり爪を弾いて距離を取った頃には、身体のあちこちに傷が残されていた。
「ウェインさん! 大丈夫ですか⁉」
「問題ない。この程度は怪我に入らないからな」
しかし――この魔熊、かなり頭がいい。ウェインがフレアを守りながら戦っていることを見抜き、ウェインよりフレアの方に向かう動きを多用するのだ。お陰でウェインは本来捌く必要のない攻撃まで受けないとならない。
再び魔熊が動く。横からの殴打、袈裟懸けに切り裂く爪撃。そして体重に任せたボディプレス。対するウェインは無理やり剣を両手に持ち、受け止めるしかなかった。剣士同士の戦いなら鍔迫り合いとも表現できる状態だが、彼我の体重差を考えるに、押しつぶされている最中と表現した方が正しいだろう。
「くそっ……こいつはマズい……このままじゃジリ貧だ」
何とか距離を取って錬成術の一撃で仕留めたいところだが、逃がしてくれる雰囲気ではない。何か打開策はないものかとウェインは思案する。すると――。
「『久遠の闇』っ‼」
突如聞こえてきた魔術の詠唱と共に、フレアが繰り出した謎の攻撃によって魔熊の巨大な体躯が宙を舞う。その身体のど真ん中に風穴を開けられた魔熊はそのまま絶命した。思わずウェインは口が開く。
「……フレアお前、戦えたのか」
「そうですよ。私だって戦えます。魔王の妹ですから」
「そ、そうは言ってもな……人は見かけによらないとは言うが……ここまで強いとは想像つかないぞ」
あの魔熊は深層クラスの化け物。初級冒険者はおろか、中級冒険者ですら歯が立たないかもしれない魔獣だ。それを短い詠唱句の魔術で一発。これが魔王の血筋のお陰だと言うのなら、あれだけ魔王軍が猛威を振るっている理由が分かる。
「それにしてもその魔術は誰に習ったんだ? 見たことも聞いたこともない魔術だが、セレファイスじゃ基本的な魔術なのか?」
「いえ。ええと、この魔術は王族にしか使えない魔術と聞きました。教えてくれたのは高名な魔術師の方でしたが、その人も使えないとおっしゃっていましたし」
ウェインはいつしか誰かが言っていた言葉を思い出す。魔王は生まれながらにして強大な魔力と特殊な魔術を扱う、と。その実態を目にしたことによる恐怖と高揚がウェインの身体を駆け回った。
「とんでもねぇな。限られた人間にしか使えない魔術。そりゃ魔王が強ぇ訳だ」
つくづくこのフレアという少女には驚かされる。もし成長して敵として存在していたのなら、魔王軍の二番手として君臨していたはず。そうなれば人間側に勝ち目などなかったかもしれない。
だが、あれだけフレアを危険に晒したくないと考えておいて、結局フレアに助けられる立場になったしまったことに、ウェインは恥じらいを覚えた。
「すまんな。俺が不甲斐ないばかりに、フレアに援護させて」
「大丈夫です! ウェインさんの力になれて、私も嬉しいですから!」
「ありがとな」
フレアの頭を撫で、歩みを再開する。既に森の表層の奥深く。深層はすぐそこだ。
***
深層は光が届かない常世の世界である。頼れるものは樹木に寄生するヒカリゴケなどの生体発光、自ら輝く希少鉱石の類、そして――。
「本当に暗いなここは。久しぶりに来たが、本当にこの世か不安になるな」
人間が使う文明の光である。ウェインは松明を灯しつつ深層を更に潜ってゆく。
「何でこんなに暗いんですか……まるで洞窟みたいですよ」
「原理はよく分からん。だがそんなことは関係がない。ここは危険だということが分かってればいいのさ」
ウェインがそう呟いた瞬間、闇を切り裂いて影が躍り出る。黒く光る甲殻に大きな鋏、そして尾に立派な針を携えた蠍のような魔獣だ。フレアは大きく肩を震わせ驚くが、ウェインは一瞥もくれずその魔獣を斬り捨てる。
「気が抜けないな。おまけにいつもより気性が荒い。普通はこんなに襲ってくることは無いんだが」
「えぇっ⁉ 襲われないんですか?」
「襲われない。深層は獲物が少ないからな。厳しい弱肉強食の世界だ。相手の力を見極めて、確実に仕留められる生物だけを迅速に仕留める。だから初心者が迷い込むと確実にお陀仏だ」
ただフレアを狙って襲ってきてるかもしれないけどな、と付け加えると、フレアは小動物のように震えだした。その様子が少し愛らしくも面白くて、からかいたくなるが止める。
「安心しろ。お前に怪我はさせねぇよ」
マエリベリーに怒られるからな、と付け加え、ウェインはフレアの頭に手を置いた。
間もなく最下層に着く。こうしてふざけていられるのも今のうちだ。
最下層に差し掛かった途端、今まで全くしなかった匂いが漂ってくる。血の匂いだ。ウェインは思わず鼻を覆う。本来深層に血の匂いは存在しない。そんなものを漂わせていてはここのヌシに気づかれてしまうからだ。
明らかな異常事態。ウェインの理性が全力で警鐘を鳴らしている。ここは危険だと。
「……フレア。俺から絶対に離れるな。死ぬぞ」
「わ、わかりました……」
フレアの身体を抱き寄せ、油断なく周りを警戒する。耳鳴りがするほどの静寂と感覚を失わせるほどの闇が空間を染め上げる。
――刹那、暗闇の中から暴力的な咆哮と、何か巨大でおぞましいものが大地を踏みしめ歩行する音が森の奥から鳴り響いた。
ウェインはフレアを小脇に抱え跳躍、声の方向から離れる。
「い、いまのは?」
「間違いない。『死導竜』が活動している。今は休眠期のはずだろっ⁉」
『死導竜』。その名を知る人間は意外にも多い。その理由はギルドに設置されている賞金首の掲示板だろう。その掲示板の最上部、『不可侵』と掲げられた領域に並ぶ数少ない文字列に、それは存在する。
ウェインの思考を裂くように、大地が揺れる。いつの間にか取り落していた松明によってその巨体が写し出された。闇の中でも淡く光る爪、森の闇より一段と濃い黒色の甲殻、胸に抱く水晶は主の偉大さを掻き立てる。『秘匿の森』深層随一の危険度を誇る魔獣、『死導竜』がウェインの目の前に降臨していた。
ウェインは死を覚悟した。鉱石を主食とするこいつの外殻は凄まじく硬い。更にその外殻は様々な魔術に耐性を持つ。故の『不可侵』。出会えば即、死が確定するバケモノだ。
「ち、一か八だ。フレア、俺に合わせて全力で魔術を詠唱してくれ!」
「分かりましたっ!」
魔術に頼るのは得策でない。だが、先程のフレアの魔術は明らかに既存の魔術のそれではない。それに賭けるしかないだろう。
ウェインもこの魔獣を殺すために記憶を手繰る。この魔獣を倒しうる一撃を。――理に生きれば、道は無い。
「――行くぞフレア!『真理錬成・夢幻を抱く屍の足音』‼」
「はい! 『二重冠を戴く愚者』!」
空間に光が奔り、収束して一本の槍を創り出す。白熱し輝くその得物は闇夜を裂く彗星のように飛翔し、死導竜を穿つ。
時を同じくしてフレアのてのひらから紅くドス黒い雷のような光線が放たれる。炎でも、雷でもない得体の知れない属性を持ったその光線は戦棍と同じように死導竜を穿った。
二つの攻撃をその身に受け、死導竜はよろめいた。身体の大部分が蒸発し、得体の知れない内臓や鉱石がばらばらと飛び出てくる。しかし次の瞬間爆音と共に大地が踏みしめられ、今まさに死にかけだった瞳に生気が宿る。これには流石のウェインも言葉を失った。たった今錬成した戦棍は正確に心臓を穿ったし、フレアの得体のしれない魔術も死導竜の肉体を削り取った。
しかし死導竜は倒れなかった。ウェインは今度こそ死を覚悟し、フレアを庇うように一歩前に出た。すると――。
何かの冗談のように死導竜の首が落ちた。
ウェインの数メートル前には死導竜が鎮座している。否、立ち尽くしているとも言えるか。死導竜の胴体だけが立っており、首から上の器官がごろりと地面に転がっている。瞳に生気は無く、竜の生命力を象徴する胸の水晶も既に輝きを失っている。死体をよく見ると体中の至る所に生傷があり、何かと戦っていたということが分かる。
ウェインは絶句した。まさか、先ほど匂った血の匂いは死導竜が誰かを捕食した証ではなく、死導竜が何者かに捕食されかけていた証拠だったのか。ウェインは死体に寄り、切り口を検分する。切断面は鏡のように滑らかで、刃の痕跡すらない。相当鋭利なもので切り裂かれたと推測される。
では一体誰が? 死導竜の外殻を切り裂ける生物など、この世に存在しないだろう。それこそ、人工的に創られでもしない限りは。
悪寒がする。一刻も早くここを離れなければ。そう感じ取ったウェインを畳みかけるように鋭く刺すような感覚が響く。何者かに見られている。否、何者かの標的になったと確信したウェインは傍らに居たフレアを右腕で突き飛ばした。
「う、ウェインさん? どうしたんで――」
その直後、ウェインの右腕が宙を舞った。