忘れたい夜
「……ドロテアさんの顔色がいつもと違う」
「確かに。どうやら、よほどアーシャと二人でのんびり風呂に浸かったのが良かったらしい」
エルマさんのお店で待っていたキーラとゲルダさんが、まじまじとドロテアさんを見つめ、ぽつりぽつりとつぶやくようにいった。
対するドロテアさんは、くす、と笑い返して、髪をかき上げながら。
「そうですか、女ぶりが上がってしまったかも知れませんね?」
と、余裕の表情である。
……お、おっかしいなぁ、にこやかなはずなのに、お風呂上りなのに、なんだか背筋が寒いぞ?
「それにしても、ゲルダもキーラもずるいですね。
アーシャがあんなにマッサージが上手だなんて、知りませんでした」
「やはり知ってしまったか……私達だけの秘密にしておきたかったのだが」
「いずれはこの日が来る、とは思ってたけど……アーシャのことだから……」
ため息つきながら、ゲルダさんとキーラがこっちをじぃ、と見てくる。
まって、私単にマッサージしただけ、何も悪いことしてないあるよ?
「はいはい、辛気臭い顔してないで注文しておくれ、席にそんな余裕もないんだ、飲み食いしないなら叩き出すよ?」
何だか不思議な緊張感が漂い出したところに、エルマさんが笑いながら助け舟を出してくれた。
さすが接客業、空気読んでくれるぅ! 正直、かなり助かった。
「そうそう、ほら、飲み物とか頼みましょう?
あ、私、白ワインで!」
ここぞとばかりに私は勢いよく言い、一応三人もそれに乗ってくれた。
「じゃあ……私も、白ワインを……」
「ふむ。では私もそうしようかな」
「ふふ、最初の一杯は合わせましょうか」
ちょっと考えたキーラが注文すると、まずは、という感じでゲルダさんもドロテアさんも続いた。
こっちの世界だと、最初がとりあえずビール、という習慣はない。
なんせ、キンキンに冷えたビールっていうものがそもそもないしね。
ちなみに、ビール自体はある。
タイプとしてはエールビールと呼ばれるもの。
前の世界で上面発酵と呼ばれた、比較的高い温度で行われ酵母が上に浮いてくるタイプの発酵によって作られるものだ。
個性が強く出て、香りも強め。割とフルーティな感じかな。
ファンタジー小説好きとしては、よく出てきてたので一度は飲んでみたいと憧れたものだし、日本のお店で見つけた時にはちょっと感動した。
いや、今や私がファンタジー世界の住人なんだけどさ。
そして、下面発酵と呼ばれる、低温で発酵させ酵母が下に降りていくやり方で作られたものが日本でよく飲まれていたものだ。
味付けとかによって、ラガーとかピルスナーとか呼ばれるものになるんだけど……この辺りのバリエーションは切りがないから、割愛。
それに、そもそも10度以下とかの低温を維持しながら発酵させないといけないから、こっちの世界では作れないんだよね、まだ。
なので、この世界には上面発酵のものしかない。
この国は比較的南方にあるので、防腐用に少し強めにホップを効かせ、アルコール度数も少し強めのものがほとんどだ。
前の世界では、インディア・ペール・エールと呼ばれたものが近いんじゃないかな。
略してIPA。これはこれで好きなんだけど……今日は気分的に白ワインなのだ。
などと前の世界のビールに思いを馳せているうちに、白ワインとおつまみが運ばれてきた。
「ささ、じゃあ早速いただきましょう?」
と、皆の前に小皿を配ったりしながら。
そんな私を、ゲルダさんとキーラが何か言いたげに見ていた、けれど。
「まあ、いいか。今は誤魔化されておこう」
「アーシャだから……言い出したらきりがないし……」
……なんだろう、呆れられてるというか、なんかそんな空気を感じるなぁ。
いや、私も誤魔化しきれてないのはわかってるんだけどさ……。
「ふふ、まあまあ、こういうアーシャだから、でしょ?」
……ドロテアさんの言葉に三人で顔を見合わせて、うんうんと頷くのはこう、……うん、ちょっと、プレッシャーです。
ともあれ、今日も一日お疲れ様でした、と乾杯して白ワインに口をつけていたところだった。
「ああ、やっぱり来てたんだね。いやぁ良かった良かった」
と、明るい声で笑いながら、ノーラさんが入ってきた。
「あ、ノーラさん、こんばんは。珍しいですね、ここで会うなんて」
「うん、お城で印刷機の調整してきてね、その帰りなのさ」
と、私に背負った道具袋を示す。
なるほど、それでこっちに出て来てたんだ。
「そういえば、最近お城に頻繁に来ていますね」
「そうなんだよ~、まだ調整したいところ、改良したいところがたくさんあってね~」
思い出しながら言うドロテアさんに、ノーラさんが頷きつつ、私たちのいるテーブルに同席した。
このメンバーで飲むのって珍しい、というか初めてだな、そういえば。
ノーラさんが席についたところですぐにエルマさんが注文を取りに来る。
「おやノーラさん、いらっしゃい。何にします?」
「そうだねぇ……今日はグラッパからいこうかな」
初手から蒸留酒であるグラッパを注文するノーラさん。頷きながらエルマさんが伝票にメモをする。
飲食店用にこういう伝票も紙に印刷したもので刷られるようになってきつつあった。
エルマさんは注文を聞いただけで覚えられるくらいのスペシャリストだけど、それでも全部を覚えきれるわけでもないし、何より客自身が酔っぱらって覚えてないことは結構ある。
こうして伝票に書いておけば、お互い間違いはないってわけだ。
「いきなりいきますねぇ」
「いやぁ、あたしにはワインなんて水みたいなものだからねぇ」
エルマさんの呆れたような感嘆のような声に、ノーラさんは朗らかに返す。
さすがドワーフ、相当お酒には強いみたいだ。
と、そんなノーラさんを見て、ゲルダさんがきらりと目を輝かせた。
「ほう、ノーラさん、やはりいける口だな」
「そりゃもう。ゲルダさんだって、そいつは準備運動だろ?」
やめて。その、強敵と書いて『とも』と呼ぶ存在を前にした時みたいな感じの笑みやめて。
そんな私の内心を知ってか知らずか、くいっとゲルダさんはワインを飲みほしてしまい。
「エルマさん、私もグラッパを頼む」
「はいな、少々お待ちを~」
とん、とグラスを置きながらの注文に、エルマさんも笑顔で答える。
そして、私の横で、ことんと控えめな音がした。
ドロテアさんである。
「私は、ブランデーをもらえますか?」
「おおっと、いきますねぇ」
次々とくる追加注文に、エルマさんは上機嫌だ。
「……あれ、まって、ドロテアさんもいっちゃうの?」
「ええ、こんな機会は滅多にないですからね、少しだけ、羽目を外してしまいましょう」
にっこりと、それはもう良い笑顔でドロテアさんは言う。
ねえ、それ、ほんとに少し? 少しですむの?
そして、周囲が二杯目を注文していくのを見たキーラが自分のグラスに視線を落とし、周囲を見回し、またグラスに視線を落として。
覚悟を決めた表情でグラスを両手に持ったところで。
「ストップ! キーラだめ、あれは私たちの踏み込んじゃいけない領域だから!」
「で、でも私だけ、飲まないのも……」
「わ、私もほら、白ワイン、まだ飲み終わってないから!
普通の人間は普通の人間らしく飲もう!?」
まだ半分も飲んでいない自分のグラスをアピールしながら、私はキーラを引き留める。
だめだ、だめなんだ。あっちは、人間が行ったらいけない世界なんだ、きっと。
「そうだな、キーラはキーラらしくしている方がいい。
ここは、戦場だからな……」
「まってゲルダさん、なんでそんな物騒な物言いになるんですか!?」
まさか、もう酔っぱらってるんじゃないよね!? いや、ゲルダさんそんな弱くないよね!?
あれか、まさか本当に戦場的な高揚感に浸ってるとかなの!?
「でも、でも、私も、戦いたいっ」
「キーラ、キャラが違うから! もっと大人しいいつものキーラに戻って!?」
しまった、キーラはこれくらいでも割かし酔っちゃうんだよね!
酔ったテンションが変な方向に振れちゃったぞ!?
「いいねぇ、キーラもやるかい? あたしは歓迎だよ!」
「ふふ、本当に今日は、楽しい夜になりそうです」
「ノーラさんもドロテアさんも煽らないでぇぇぇ!?」
そして。
私の叫びも空しく、人外酒飲みバトルが始まってしまったのだった……。




