DAYS6 -6- 『ん、百点満点です』
時刻は十二時時、朝か夜かは分からない、はずだった。
けれど、ポーンという時計の音は、今まで忘れていた癖に耳馴染みがある。
記憶が正しければ鐘が鳴っている今は、正午だ。
そして、少し前に話した面々が集まってくる。
お互いに他愛無いような話をしたり、静かに佇んでいたり、目を瞑っていた俺もイスルギの鞘を手に取り、腰に差すと、立ち上がって皆の所に歩みよる。
決戦が、待っている。
だが、俺はその前にポーン、ポーンと鳴り響くこの鐘の音に、一抹の不安を覚えた。昼時、つまりは食事時。
皆、今日が決戦の日だという事ですっかり忘れているかもしれないが、俺が目覚めた日がコンテナ部屋の入れ替えから丁度二日後くらいだったと考えると、この居住フロアにいるのは、味方だけではない。
「なぁ、コンテナ部屋にノッカーと食料が出てくるのって、日付的にそろそろじゃなかったか?」
俺が近くにいたナナミに声をかけると、一同に緊張が走った事に気付く。
「あー……そうだ……」
ナナミは溜息混じりに呟き、西廊下の方を見てから少し胸を撫で下ろしていた。
本来ならば、コンテナ部屋のノッカーはコンテナ部屋から出てくることは無かったはず。けれど、この施設のルールが壊れてしまった今だと、もしかすると面倒な事になるかもしれない。ただのノッカーが出てくるという保障ももはやないのだ。
「準備運動、しときますか……?」
ナナミが皆をグルリと見る。確かに、後ろに不安を持ったまま前に進むのは精神的にも厳しい。だが、ここで疲労を集めるわけにもいかないのは事実。
「一応、見てこよう。ただ、肉体的に消費が激しい人間組は待機、それでいいか?」
俺の提案に全員が頷く。
ただ、待機を命じられたと理解したヨミとゼロは少しだけ心配そうな目をしてた。
俺やヒナ、シズリやナナミといった大々的な人体改造やノッカー化している組は簡単な事では消耗もせず、多少のダメージなら心配も無い。
だったら、ゼロとヨミを抜かした四人のうちの誰かで確認、もしくは殲滅するのがベターだ。
「かといって、何があるとも分からないからこっちに残しとく人も必要ッスよね」
ヒナがそう言うと、シズリもそれに頷き、一歩後ろに下がった。
「じゃあ、俺とナナミが見てくるってことで」
ヒナはゼロの傍にいたいからだろうが、シズリは万が一ダメージを負った時の戦力低下が少し怖い。今のシズリは今までの彼女と違い前衛で動けるが、肉体的な耐久力はそう高く無いように思える。
ならば耐久力のある前衛の俺が前に出て、前衛後衛の両方が出来る上に、ある程度の負傷でも戦闘力の低下が無いであろうナナミが後ろから援護。
そのツーマンセルが対少数戦では適している。
「またデートですねー!」
俺がそんな事を考えているのを知ってか知らずか、ナナミが腕を組んでくる。それをあしらうのも面倒だったので、俺は腕を組まれたままもう一方の手で後ろ手にホールに残る四人に手を振った。
「万が一ってこともあるから、いつでも出られる準備だけはしておいてくれ。俺達が走って戻ってきたら、それが合図だ」
本当は、確認せずに行くという考えも頭をよぎった。
だが、コンテナ部屋には大量のノッカーの死体が捨てられているはず。
捨て場所の管轄がもし違うとするなら、あそこには所長コピー、つまりある程度の知能を持ったノッカーが溢れているということになる。
医療フロアにその状態のノッカーが溢れていることは、もうほぼ確実だろう。
だからこそ、ノックすら必要無くなり、ドアを開ける知能を持ったノッカーに背後から押し寄せられるわけには、行かない。
難しい顔をしていたのだろうか、ナナミが俺の腕にギュッと身体を押し付けてくる。
多少柔らかな感触が腕に当たってドキリとするが、あえて無視をした。
なんだか、もう既に正体を完全に知ってしまったナナミに女性を感じるのは、負けた気がする。
後ろからヤケに嫉妬めいた視線を感じたが、それも含めてナナミは楽しんでいるようだった。
コンテナ部屋まで行く道中も腕は組んだまま、ナナミは上機嫌だった。
「最初もこんなんだったよな」
そんなナナミに、思い出したようにほんの少し前のはずの出会いの話を持ち出す。
「まだお兄さんがひよっこだった頃ですよねぇ。なんだかんだ、よくもまあ生き抜けたもんです。ここ数日の激戦なんて、この三年じゃ一回も無かったんですから、ある意味最終局面だってのは決められてたんでしょーねぇ」
俺が目覚めて、ゼロが目覚めて、やっとこの実験は最終局面を迎えたのだろう。
所長は俺とゼロの二人を喰らい、取り込む。
そして、これまで戦い抜いた人間達をノッカーに作り変え、制御できるなら制御し、出来ないのなら取り込んで自分の力へと昇華させる。
その先に何を望んでいるのかは、分かりたくもない。
だが、記憶を失う前の俺の未来には、こんな絶望では無かった。
各々が力を保持しつつ、新しい人間として与えられた物を享受していけたら良い、そんな想いが先走っていた。
だが、そもそもそんな考えこそが、間違っていたのだ。
人間は人間のまま、その心で、進化していくべきだったのだと、今なら思う。
「さー、お兄さん! その角曲がれば~、私達の思い出の場所~」
歌うように、ナナミが俺よりも先に曲がり角に飛び出る。
時間は、一二時から五分程進んだだろうか。
昔であれば、そろそろ食事の時間だ。
俺もナナミに遅れて角を曲がった瞬間に見えたのは、溢れんばかりの、成れの果て。
「そして私の~……」
ナナミの左手が、白い風を纏う。
そして、鼻歌が止まった。
「宿敵達、かぁ……」
ナナミがその左手を思い切り前に下から上に振り上げようとする。
――彼女は、気付いていたのだ。
この居住フロアに残された癌について、覚えていたのだ。
きっと、俺が言い出さなければ彼女が言い出していたんだろう。
踏み出そうとする俺に、ナナミが怒りを含んだ声で叫ぶ。
「フタミ! 出るな!!」
その声色に、俺はナナミ以外の誰かを見た。
彼女が、初めて俺の事を名前で呼んでいた。
「分かるだろ? ここは、俺の番だよ」
彼女が、初めて自分の事を"俺"と言った。
その言葉に、彼女の、彼の、矜持が見えた。
ナナミの手は、もうその手が見えない程の白い冷気に包まれている。
そして、まずは俺の眼の前に、薄い氷の壁が一枚張られた。
廊下の向こうには、まだ動きは鈍いが、敵意を剥きだしにして今にも動き出そうとしているノッカーの群れ。
今ならまだこの氷壁を割り砕ける。
思い切り手を振りかぶり、氷壁を砕こうとすると、厚い壁がもう一枚向こう側に張られた。
あまりの厚さに、俺の打撃はいつかよりもずっと力を込めることが出来ているにも関わらず、ヒビを入れるだけで終わってしまう。
「あはは、懐かしいけど、今度は割っちゃダメですってば」
口調を元に戻した彼女がそう笑いながら、その左手を下から上へ振り上げると、コンテナ部屋の方向に、氷壁が現れる。
そして彼女はそれを左手で強く押し込むと、廊下側からコンテナ部屋の奥まで続く長さの厚い氷の筒が、一気に打ち込まれた。
「私だって、強くなってんです、よ!」
その衝撃で、何体かのノッカーが押しつぶされたのも、この目で見た。
もしかすると、十体以上だったかもしれない。
「もー、ちょっとだけ怒っちゃいましたよ。あんなかに突っ込んで何やるってんですか」
先程の男らしい口調を取り繕うように、氷壁の向こうでナナミが笑う。
「私とお兄さんで行くのを選んだのは、対少数の時に一番戦力の消費が少ないコンビだからでしょ? それともう一つ、このメンバーの中で、対多数に長く対応出来るのが、私だけだからです」
俺が考えていた事以上に、彼女は彼女の得意分野を考えた上で、おどけながら、ついてきてくれたのだ。
「納得は出来ないでしょうけどね。これが一番可能性があるんですよ。もし危ない事になっても、まだ私の身体がオペルームの改造に耐えられたら、復帰も出来ますしね」
だが、医療フロアの攻略を今日という日にしたのは理由があってのことではない。
全員で立ち向かえばこの数だって、そう思う俺の表情を見透かしたように、ナナミはクスっと笑う。
「これはきっと最終局面なんですよ。私達にとっても、所長にとっても。グダグダしてたら何やってくるかわかんないでしょ? 現にほら」
ナナミはコンテナ部屋にいるノッカーの方をチラリと見る。
「明らかに所長の手が入ったノッカー達です。面倒だけれど、今の私ならだいぶ長い時間何とか出来るはず」
長い時間何とかした後は、どうなるというのだろう。
生命の序列で、ナナミは自分が一番下だと語った。
俺はそれに何も口が出せずに、まんまと、この瞬間を迎えてしまった。
ナナミは、彼女自身の犠牲を、受け入れろと言っている。
「そもそも破られるまでは壁張っているだけでもいいですしねー」
そう言いながらナナミは笑っている。
彼女は『壁を張っているだけでもいい』という、だがそれはいつか破られてしまうのだ。そして、ノッカーなんぞを近寄らせない為のその壁を、彼女は俺の眼の前にも、張っている。
見過ごして、見逃して、諦めて、見捨てて、行けるものか。
――果ての黒が、破壊を望んだ。
赤も、青、緑も、全てを飲み込んだ。
俺を成れの果てにする力。
俺の眼の前に張られた氷壁に、腕を振りかぶる。
ナナミはそれを見て高をくくっているが、この一撃は、もう俺の力ではない。
――赤い力の、果ての一撃
俺がその理性をも飲み込むような力を右手に込めた瞬間から、俺の腕は赤く変型し、打ち砕く為に作られた器官へと変貌を遂げていた。
そして、俺は俺とナナミの間にずっと、ずっと、長い間張られたままの、壁を叩き壊す。
これは、単なる比喩でもあり、事実でもある。
バラバラと瓦解していく氷壁の向こうに、驚いた表情のナナミがいる。
そして、俺はそのナナミの手を引っ張り、眼の前に抱き寄せて、強く抱きしめた。
「カッコつけないでくださいよ、九条さん。そんで、悲しい事言うなよ、ナナミ」
現実は、理解している。
俺はこれから、ホールへ戻る。
けれど、彼女に生きる意思がないのだというのなら、犠牲になる気しかないというのなら、それを許すわけにはいかない。
ナナミは、無言で俺の胸をドンドンと叩いている。
だが、もう一度氷壁を張られては堪らないから、そのまま抱き寄せたまま、彼女の左手を掴んだ。そして、適当なドアの前に連れていき、俺の手の上から、そのドアノブを握らせる。
すると、ナナミは俺の言わんとすることに勘付いたようで、小さく声を出して笑いながら、そのドアノブを回して、ドアを開ける。
俺は「開けといてくれよ」と言うとナナミの手を離し、彼女の手によって現れたナナミの部屋の中に入り、適当に先端が尖っている物を見繕ってドアの前に差し込む。
ナナミの手を離しても開いたままのドアを見て、俺はナナミに向かった笑みを絞り出す。
「両手がなきゃ、開けられないだろ?」
つまりは、生きてほしいと、言いたかった。
けれど、それを決めるのはナナミ自身だ。
それでも、生きることを諦めることだけは、許したくなかったのだ。
ナナミは驚いたような顔をしたまま、それでも、今までで最高の笑顔で俺に笑いかけた。
それも、少しだけ困りながら、照れながら、初めて本当の意味で可愛いと思えた気がする。
「ん、百点満点です。えっと……、ありがと」
その言葉を聞いて、少しだけ安心した。
いつも、嘘っぽい女の子だった。
けれど、その言葉に、嘘は無いように思えた。
「どーせ、皆に説明を求められるでしょ。シーちゃんが加勢してくれるとは思いますが、説明する時間くらいは余裕で稼げます。だから、頼みますよ!」
ナナミは俺を背にして、今までの俺達のやり取りを傍聴していた約百体近くのノッカーに向き合う。
「助けは?」
求めてくるとは思わなかったけれど、ボソっと聞いてみた。
「いらなーい!! これ、十点マイナスね!」
そう言って、ナナミはあははっと笑った。
「じゃあ、走って! またね、フタミくん!」
その呼び名が、少しだけ嬉しかった。
今やっと、俺はナナミと本当の意味で分かり合えた気がした。
その言葉を合図に、俺は駆け出す。
『またね』であれば、良いのだ。
そんな言葉を忘れてしまった人から、消えていくのだと、誰かが言っていたから。
「頼むぞ! ナナミ!」
最後に俺が叫んだその言葉に返事は無かった。
届いていただろう、だから、もう俺達はそれだけで良いと思った。
そして、俺は一人で元来た道をホールまで走る。
ホールが見えると、一人で走ってきた俺を見て、数人が何かを察し、それ以外の数人がショックを受けた顔をしているのが見えた。
それでも、きっと分かってくれる。
ナナミは、俺達を守る為に、一歩前へと進んだのだから。




