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DAYS5 -4- 『狂うな、抗え』

 部屋に入った後で、イスルギを振るい、ノッカーの返り血を、振るい落とした。

 部屋の床に血飛沫が飛んだのを見て、廊下でやっておくべきだったかと少し後悔したが、思えばもう二度と来ないはずの部屋だ。気にする必要は無いだろう。

 

 俺は振るう事以外に慣れていないイスルギを、丁寧に腰に括り付けた鞘に収める。そして、数日ぶりに戻ってきた自分の部屋を見渡した。


 ゴミ箱の中からはみ出ている、ビリビリに破かれたマニュアルがもう既に懐かしい。ベッドの上には、破かれたベッドシーツが置かれたままだ。


 俺は冷蔵庫を開けて、最初にこの部屋で目覚めた時に飲みかけだった容器入りの水を一気に飲み干した。相当喉が乾いていたのか、音を立てて飲みきった後に"五十年"という時間が頭をよぎったが、気にするのはやめた。

「まぁ、残ってるってんならいいだろ……」

 知っている限りでは、長期保存出来たとしても十年から十五年がいいところだろうが、この施設についてはもう色んな意味で信用していない。飲めるならば飲めるという事にしてしまえと思った。

 

 もしかしたら冷蔵庫が知らぬ間に動いて、水だけが何かしらの手段で新品と入れ替わっているなんて事だって、無いとは言い切れない。食料は流石に入っていないあたり、この施設の意地悪さを感じた。


 水だけでも人間は生きていられるだろうが、もし想像通りに水が補充されたとしても、どれだけ生きていられるのかという話だ。そもそも、部屋毎の水場が機能しているならば水の心配は元々無いのだが。

「まぁ……、冷えてる方が良いしな」

 自分の行動を肯定するかのように呟き、机の上のアタッシュケースに目をやる。 近付いて持ち上げてみても、特に何か変わっている様子は無い。

 中を開いても、俺が取り出した三種類の注射器がハマっていた窪みしか見当たらなかった。


「……壊すか」

 呟いてアタッシュケースを持つ手に力を入れた時に、三原色の注射器の説明が手書きで書かれていた、簡素なマニュアルがはらりと落ちた。

 俺は一旦アタッシュケースを机の上に置き、そのマニュアルを拾い上げる。


 焦ったような筆跡、残る血の跡。そして『アタリかハズレかは、キミ次第だ』という、まるで俺を励ますかのような言葉に、違和感を覚える。

 この武器を置いたのが、所長であるならば、こんな善意にも思えるような言葉を残しておくだろうか。


 もしかすると、まだ狂い切る前に、理性と衝動の葛藤の合間に、書かれた物なのかもしれない。俺は、彼の事を覚えていない。ただ、いつか所長が俺の傍で囁いた言葉からも、ゼロ達の反応からも、俺が彼の血族なのは間違い無いのだろう。

 おそらくこの件の真相を知っているゼロ達は、触れづらい話題だと思ったのか、明確に話してくれなかったが、逆にそれが決定打のような物だった。だがいずれ、聞かなければいけない話だ。

 

「まぁ、あんまり仲は良くなかったんだろうな……」

 一人呟いて、その紙を手に取る。俺がもし所長の子供で、これを書いた時の彼に理性があったっていうなら、もう少し具体的な励ましの言葉くらいあっても良いはずだ。どういう想いで書いたかは分からなかったが、俺の心の中では複雑な想いが蠢いていた。


 とにかく、俺についての固有武器がまだあるのであれば、このアタッシュケースを持ち帰るのが無難だろうと想い、蓋を閉めようとしたところで、せっかくなら使い終わった注射器を収めてしまおうと、俺はポケットから空になった注射器を取り出す。

 

「とりあえずは、アタリだったよ」

 俺は誰に言うともなく呟いて、何度も生命を救ってくれた三原色の注射器を、一つずつ元の場所に戻していく。

そして、三本目の注射器が型にハマったところで、カチャっという施錠音が聞こえた。


「重さ、か……」


――そりゃ、今じゃなきゃ気付かないわけだ。


 ハメ込んだ注射器の面が外れ、その奥にもう一面分の空間があるように見える。これは全ての注射器を使い切った上で、その空を元の場所に嵌め直さなければ開かないという仕組みだろう。

 

 つまり、この三原色の注射器の力を全て身に宿した俺という存在を想定した何かが、この先にあるのだ。


 三原色の空の注射器を嵌め込んだ面を外すと、その奥の面は一見外から見ても気付け無い程に狭く上部に嵌められていた注射器を一面に置いたならば、丁度等間隔に置かれているかのような間隔で、二本の注射器が隠されていた。


 白い薬液が入った注射器と、黒い薬液が入った注射器。両方の注射器に、メモリは存在していない。という事は、両方共一回で使い切るタイプらしい。

 

 そして、その横に小さい紙が、一枚。最初のマニュアルよりは汚れていなかったが、その代わりに筆跡が震えているのが分かる。内容もかなり長く、しっかりとしているように見えた。おそらくはこちらを先に書いたのだろう。だからこそ三原色のマニュアルは雑だったのだと思った。

 

『赤、青、緑が身体に定着したキミに渡す。

 黒は、それらの力をより一層高めて、成れの果てになる為の薬。

 僕はそれによって、この施設で理性を失くした仲間達を殺しながら生き延びる事が出来たが、もうそれも限界だ。

 くれぐれもエボル現象が起きていない人間には使用してはいけない。

 赤青緑で耐性を付けたキミだけがそれによる理性の崩壊を制御出来る可能性がある。

 だが、その理性の制御にも限度があるということが、僕自身の身体で分かった。

 生命の緑と同じく、殆ど実験が出来ていない薬液だ。

 もしかすると、使った瞬間に理性が崩壊することがあるかもしれないことも、覚えておいて欲しい。

 

 白は、理性の制御の限界が来た時の為の薬。

 これを使えば、エボル現象が起きた人間の遺伝子を全て元通りに出来る。

 つまり簡単に言えば、キミが我を失う前の自殺用の薬だ。

 理論上は、緑の薬液の再生能力すらも、無効化出来るはず。

 逆に言えば、もうキミも僕も、この薬液以外では、死ねない。

 僕はいつもこの白をポケットに入れて過ごしている。

 キミも出来るなら、そうして欲しい。

 それでも出来るならば、黒も白も使わない事を願って』


 人間味が垣間見える文章。

 きっとこの頃はまだ、狂っていなかったのだ。


『実験は、失敗だ。

 君達に成れの果てとの戦闘を余儀なくさせてしまう事が心苦しい。

 だが、キミがこの手紙を読んでいるという事は、きっともう少しでキミには出口が待っている。

 どうか、生きて欲しい。

 僕達を許してくれとは言わない。

 こんな、研究者達の我儘に付き合ってもらった結果が、これだ。

 僕はもう少しだけ、キミ達が眠ってからこの施設で急激に始まってしまったエボル現象について調べて、限界が来たら白の薬液で自分を失う前に死ぬつもりだ。

 発作が続いている、意識が途切れる日も少なくはない。

 きっともう僕の理性はもう長く保たないだろう。

 僕は、キミ達を殺すような、化物にはなりたくない。

 だからキミにもこれだけは言っておく』


 父らしい言葉と言えば、良いのだろうか。

 だが、その文章の最後を締めくくる言葉は、余りにも重たく俺の心にのしかかった。


『狂うな、抗え。

 狂うならば……』

 

 狂うならば、死ねという事だろう。その文章に、狂気に溢れていた所長を思い出す。化物になってしまった、彼の歪んだ笑みを思い出す。文章ですら死ねと書けなかった彼の恐怖が、彼自身死ぬ事が出来なかったのであろう事を物語っていた。


「そりゃ、書けないくらいだもんな。狂う前には、死ねなかったか」


 後少し、後少し、後少しだけ。ゲームにすがりつく子供のように、命を引き伸ばした結果、彼はきっと、狂ったのだろう。そうして限界に辿り着いてしまった時に、覚悟が足りなかったのだ。

 

 俺は、黒い薬液が入った注射器を左ポケットに入れて、白い薬液が入った注射器を右ポケットに入れた。

 

 白は、俺が持っていちゃいけない。


――持つべきは、俺じゃない。

 

 きっと所長は、だから失敗した。一人だったから、失敗したのだ。もし、それに付き添い、覚悟を、正しき死を与えてくれる人がいたならば、そう考えると少しだけ不憫に思えた。

 

 本当に所長が俺の父かどうかは分からないが、親子揃って同じ轍を踏むワケにはいかない。黒を使う時は、俺が決めていいだろう。だが、白を使う時を決めるのは、俺ではないはずだ。


「狂うな……か」


『狂う』という言葉を考える。だが、俺もまた、もう既に狂っているのかもしれないという事実が、自分の心音を加速させた。

 所長が俺に残したであろう文章の"もう死ねない"という言葉を聞いた時に、自分の口角が一瞬上がった事をふと思い出して、自分自身に嫌悪感を抱いた。


 もし、俺がもう狂い始めているとしたら。


 心音が加速する。

 胸を、叩く、叩く。

 

 ヨミが俺に向けたあの視線は、狂気への恐怖の視線だと感じた。異常なまでに卓越した戦闘行動に見えたはずだ。おそらくノッカーに成りかけた彼女ならば、その感覚も理解出来たのだろう。彼女が俺に見せた顔は、笑顔とは程遠い物だった。


 それを思い出した瞬間に、不意に目眩が走る。


 それは、恐怖からだろうか、不安からだろうか。


 それとも、狂気から、だろうか。 


 大丈夫、俺は死なない、死なない、死なない。


 俺はもう、何も失わないのだ。


――何を?


 何をって、あの子だよ。

 

――あの子って?


 ほら、さっきまで一緒にいた。不意に、頭の中が混濁していく。口の中が急激に乾いていく。

 

 俺は、誰だ。

 いや、誰かは、分からない。

 分からなくて、良い。


 俺は何故に、此処にいて。

 どうして、此処にいて。

 誰かを、何故か、守って。

 何のために?

 

 頭の中で、言葉が繋がらない。

 

「感覚の、青」


 そうだ、感覚の青を走らせたら、分かる。

 分かる、分かる、分かった。

 

 足音が、聞こえる。


 そうだ、外だ、外のノッカーを、殺すんだ。


 俺は守る為に、殺していい。

 そうやって、誰かを殺した。


 誰かを、守ろうとして、何か、殺したんだ。

 

――誰を?


 両手に力が込められていく、目の前にあったアタッシュケースが、音を立て壊れ、破片が手に突き刺さるが、痛みを感じて手を見たと同時に、その傷は消え、刺さっていた破片が床へと落ちる。


 急な意識の混濁に、ついていけない。俺は、今一体何を考えていた? 何を、思い出していた?


コン、コン。


 精神の泥の中で溺れかけていた俺の意識を、部屋に鳴り響いたノックの音が呼び起こした。

 

「ッッ!!!」


――ノックだ、殺せ。


 ノックの時には、何体から何体のノッカーが、現れる。

 それを、処理する。


 大丈夫。俺は死なないし、この刀を使えば、それだけで倒せる。

 俺は腰にぶら下がっている鞘から、刀を引き抜く。

 それは、青い刀だ、綺麗な青い刀。

 刀身には、緑色の線が入っている。


 俺はそれを右手に持ち替え、左手でドアノブを握り、開きざまにノッカーを斬り殺そうと構える。


 その瞬間、聞き慣れた声が俺の耳に届いた。


「おにーさん? 大丈夫ですかー……?」

 

 強い心音、一瞬が永遠にも思える程の、恐怖。


 カラン、と右手からイスルギが溢れる。 頬に涙が伝うのが分かった。 俺は、イスルギという刀を、ナムという女性から受け継いだのだ。そして、このドアの外にいる、ヨミという少女の事を、守ると、誓ったのだ。

 

――それなのに今、俺は何をしようとしていた?


 俺は、もう完全に狂いはじめている。完全な自覚が、自分自身の心を砕こうとしているかのように思えた。

「そ、りゃ……、殺せって、言うよな」

 ナムも、こんな気持ちだったのだろうか。そう思うと、胸が酷く痛んだ。


 俺は、深呼吸してからドアを開け、ポカンとした顔で立っていたヨミの顔を見る。

その瞬間に、膝から崩れ落ちた。そして思わず、そのまま彼女を思い切り抱きしめる。

「悪い、少しだけ、良いか……」

 最初は驚いたヨミも、何か状況を察したのか、少しの間黙って俺の頭を撫でてくれた。情けない、情けないと思いながら、涙が止まる事は無かった。


「もう、さっきまでは怖かった癖に。急にこんなのはギャップが過ぎますよ!」

 俺の思いもよらぬ行動に面を食らったのか、彼女が俺に向けていた恐怖のような感情はいつの間にか消えていたようだった。ヨミは小さく笑いながら、俺の頭をポンと叩いて、俺の身体を押し出す。

「ほら! 何があったかは後で聞きますから、とりあえずは行きましょ! 私だってここからは戦線復帰なんですから!」

 拳銃が収まったホルダーを見せて、ヨミは笑う。

 

――俺の狂気を止めるのは、きっとこの声なのだ。


 ナムの気持ちが、少しだけ分かった気がした。俺達は、もしかすると何処かで似ていたのかもしれない。


 さっきまでは、緑色だと捉えていた翠色の線が、煌めいた気がした。


 走り出そうとするヨミを呼び止めて、白い注射器の入った薬液を渡す。

「なぁ、その前にこれ、ヨミが持っててくれないか。俺がもし、おかしくなった時があったなら、こいつを俺に打って欲しい」

 振り向いてその注射器を見たヨミは、俺の顔とその注射器を交互に見てから、真剣な顔をして頷く。きっと、その意味は分かっていたのだろう。

「……分かりました。女の子のお腹に顔を埋めて泣いちゃうだなんて大ペケ、相当ですからね! 内緒にしといてあげますけど! おにーさんがおかしくなっちゃったら、使ってあげます。あ、でもまたさっきみたいな事したらすぐ使いますからね!」

 そのヨミの顔は、少しだけ赤くなっていた。あえて茶化してくれたようだが、照れが勝ったのだろう。思い出すと、俺も照れが勝ちそうになり、顔を背けた。

 それでも、そんな彼女の健気さが俺の心を、やはりまた狂気から遠ざけてくれるような気がした。


 俺は白の注射器をヨミへ、黒の注射器をポケットへと入れる。


 そして、向き合うべき新たな敵を、必死で頭の奥へと押し込んだ。


 ヨミの武器と俺の武器、二つを手に入れ、俺達は皆が持ち堪えているホールへと走る。

 片方は正しく武器だ。だがもう片方が正しいかどうかは、未だ分からなかった。だが少なくとも、俺だけが戦うべき敵、俺だけが向き合うべき狂気という敵の存在こそが、一番の強敵になるのだろうという気配を感じていた。

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