DAYS4 -AnotherSide1- 『開始』
『DAYS4 -4-』にて
薬品庫に一人残ったゼロの身に起こった出来事
【ゼロ視点】
首筋に、じわりとした痛みの感覚が残っている。 その痛みに私は愛おしさすら感じたが、もうその傷すら残っていない。
私はフタミさんとヨミちゃんがドアを閉じたのを確認して、所長の足を貫いた刃を元のサイズへと戻した。
「行かせないよぉ!!」
その途端、所長はポケットから何らかのスイッチを取り出し、躊躇わずに押し込んだ。どうやら、知能は残っている。けれど、その身体はもう、殆どがノッカーのソレだった。
五十年という月日は長い。その時間をノッカーとして過ごしてきたのなら、知能は残っていたとしても、理性は……。
「所長、お話が出来ますか?」
私のその言葉に大げさに首を傾げる所長のおどけ方は、いつだか見たことのあるような動きで、少しだけ悲しかった。
「アァ……ウァ……あー、持っていかれちゃったかぁ」
その言葉の正確さと、冷たさに、私はぞっとした。この男は、たった今まで演技をしていたのだ。
「面倒な事しないで欲しいなぁ……。 耐性ちゃんさ……、今良いところなの、分かるよねぇ?」
赤い目をしたまま、所長はそのノッカーと見紛う赤い手でさっき私が刺し貫いたはずの傷を撫でながら、呟く。
「実験も、そろそろ終わりなんだからさぁ。無粋な事はやめて欲しいんだよなぁ。どーせ七十六番は助からないん、だってあの子耐性ないしね」
この男は、私達の目的を知っている。ずっと見ていたのだ、そして、操作していたのだ。
「でも四十三番に使われるのは困るんだよなぁ……。そうだ、無駄に耐性上げられたら、邪魔くさいし喰えないもんなあ」
所長は私のことを見ずに天井を見ながら言葉を続ける。言葉こそまともに発声していたが、まるで独り言のようにブツブツと話が続いていく。
「でもまぁ、君とアイツは別、だから此処まで引き伸ばしてきたんだから。アレ? そうだっけ……? そうだよな?」
アイツ、というのはフタミさんの事だろう。時々、不安定になる口調に、恐怖を覚えるが、所長は私が眠りに付く前のような飄々とした口調で話し続ける。
「手紙は……、嘘、だったと?」
私がそう言うと、所長は何やら考えこんで、急に思い出したように笑い出した。
「あははは! あったね! 確かに書いた気がする! でもぜーーんぶ嘘だ。バカだった頃の僕が書いたんだよ。バカだった僕が、バカだった、バカ、バカじゃない!!」
叫びながら頭をかきむしる所長に思わずたじろいでしまう。五十年の月日は、この人を狂人へと変えてしまったのだ。
「そうだ、そうなると、あああああああ!!! 面倒なのが残っているんだ。一番、一番、一番がまだ残ってるじゃないか。これじゃ、また終わらない、終わらない、終わらない!!」
そう言いながら、苛立ちを私にぶつけるかのように殴りかかってくる所長を躱そうとする。だが、余りの速さに、私の腕は安々と掴まれてしまう。
「なーーあ、たいせーちゃんさあ。一番の事、殺してくれよ……。死にたくないなら、殺してくれよ……」
それは、余りにもシンプルで、陳腐で、本気の脅しだった。私の腕に、異常な力が入っているのが分かる。ピキッと骨にヒビが入ったであろう不快な音が響くが、その痛みはフタミさんが使ってくれた薬液によって感じなかった。
――なら私にだって、無理くらい出来る。
私は左手で短刀を握り、私の腕を掴んでいる所長の指を私の腕ごと落とすような勢いで振り落とす。ザクリと自分の腕に短刀が刺さる感触と共に、所長の指が数本落ちるのが見える。その痛みすら、もはや感じないのか、それともどうだっていいのか、所長は声すらあげなかった。
だが、私の行動に少し驚いた瞬間に私は所長の手を振りほどき、距離を取る。 ドアとの距離は、近い。
「心が、死んじゃったんですね……所長……」
所長の顔を真っ直ぐに見て言い放つと、所長の顔は見る見るうちに怒りに染まっていく。
「僕はさ、死ぬわけには行かないんだよなあ……。世界の命運? がさ、かかってる? んだよ」
所長のコロコロと変わる声色に、もはや彼が人間では無いという実感が強まっていく。そうなってしまった理由を、せめて私だけでも知りたいと思ったが、聞き出せる自信は無かった。
「世界は、もう終わっているんじゃ、無いですか?」
所長との距離も離れ、躱す事もできそうな距離、そして一撃程度なら耐えられる力がある、ならば戦闘の気配が消えた今なら、会話によって情報が聞き出せるかと思った。
「君たちの世界は終わるよ、もうすぐ。でも僕のはまだ終わってない、終わらせちゃいけないんだ。もう一回、人生をくれよ。そのために、死んでほしいんだ。キミの耐性と、僕の遺伝子を持ったアイツがいたら、僕はもうちょっと頑張れる。実験、付き合ってくれるよな?」
所長が言っている事の理解は出来なかった。だが少なくとも何か良くない計画が動き始めているという事だけは分かる。それと同時に、おそらく私とフタミさんについていつか必ず殺すであろうという事も、分かる。
私の耐性、そしてフタミさんの遺伝子、その二つを彼が求めているならば、今の状態は非常にまずい。もし私が彼に食い殺されてしまったならば、その時点で彼には進化耐性が付き、異常な進化を遂げても自己崩壊しない可能性がある。
彼のあの優しさは、あの正義感は、もう何処かへ行ってしまった。ここにいるのは、自分を実験対象にして、生き続け、考え続け、狂ってしまった成れの果てだ。
ノッカーは、余程の場合食事を必要としない。必要とするのは、今以上にその力を増す時だけだ。もし、もしも強いノッカーを作ろうとしたなら、より強いノッカーを食わせたらいい。
ゴウくんを見て、私は確信した。あの子がシズリさんやムクさんの言葉を聞く程の知能を維持出来ていたのは、本来は必要の無いはずの食事を彼女達によって与えられていたからだ。
そして、今、所長の言った事で、この施設のノッカーが人を襲う理由が理解出来た。きっとそれは、全部彼が食べる為なのだ。
「狂わない為の耐性は、キミからもらうし。老いない為の遺伝子は、アイツからもらうし。強くなる為の力は、ヤツラからもらう。全部準備は出来てる。大丈夫、大丈夫なんだ。僕らは、もう少しで進化を制御出来るようになる」
――――もう、狂っているのに。
人間の進化を止めるという当初の目的すら、彼の中にはもう残っていなかった。まるで誰かに操られているかのように、その思考がちぐはぐになっている。ノッカーになってしまった人間のいくらかはその力への陶酔感を感じ、しばしば高揚するのが見て取れたが、今の所長はその典型どころか、見たことも無い程に自分に陶酔しているように見える。
「もう、駄目なんですね……」
壊れかけの理性で、何十年も過ごしていたのだろう。だからこそ、あの頃彼が持っていた希望も、夢も、全ては、その壊れた欲望に塗りつぶされてしまったのかもしれない。
所長は、おそらく自分自身を強制的にノッカーにさせ、ゴウくんの実験で得た特殊例についての手術を受けている。そして五十年の間、大気に交じっている進化遺伝子が消えるのを待っていた。そして、消えなかったとしても人間としての寿命を終える事が無いように、より強いノッカーが出来上がるのを待っていたのだ。
ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて、この施設のあらゆる機器を使いながら、この実験が始まるのを待っていたのだ。
「一番がさぁ、武器をばら撒くからさ、面倒な事になっちゃったんだよ。だけど途中からそれも面白いかなって思ってね。だって、放っておけば充分強いノッカーになじゃないか。楽しみ、楽しみだよ。ほら、きっと今七十三番が暴れてる。アイツを食えば、またきっと良い刺激をくれるはずだよ」
――――固有武器すら、彼の差金では無かったというのか。
悲しみを越えて、憎しみが、体中を走り回る。きっと、私の短刀だけが、彼の最後の良心だったのだろう。ナムさんがもう死んだつもりで語っている事も、というよりも彼は、まさか見えているのだろうか?
「なんで、暴れてるって、分かるんですか……?」
恐る恐る聞くと、所長は機嫌良さそうにこちらに下卑た笑みを見せて、その右目を手で開いて見せた。
「ぜーんぶ、見えてるんだよ。部屋の覗き穴の事、覚えてない?」
聞くだけ、野暮だった。管理者権限さえ持っているこの人が、この程度の人体改造を、していないわけがない。つまりはずっと、ずっと、ずっと、狂った彼に見張られながら被験者達は、この人の手の平の上で生きていたのだ。
「あ、アイツの右腕、使えそうに無くなってる。七十三番もやるもんだ! けれどまぁ……、僕は脳味噌さえ食えれば、それで。ちなみに、キミとアイツの武器を置いたのは僕だよ、アイツにはあの薬液である程度進化に慣れてもらわなきゃいけなかったし、キミにも簡単に死んでもらっちゃ困るしね」
思った通りに、私の武器は彼が置いた物だった、だけれどそれが良心だったかは、たった今分からなくなった。フタミさんの物については、最早手遅れかもしれない。
所長はまるでスポーツ観戦でもしているかのように、楽しそうに笑っていた。
私の中を、怒りが巡っていく。彼はもう、人ではない。
「所長、今まで、ありがとうございました」
私は、決別の意味も込めて所長に頭を下げる。最後に、この人がいつから狂っていたのか、私に対する態度の何処までが彼の本当の気持ちだったのかを、少しだけ知りたかった。けれど、それはもう無理なのだろう。だから、もう、良いのだ。
――ただ、生きるだけでは、答えは出ない。
「私、邪魔をしますね」
そう言うと、私は短刀を手に、地を駆ける。彼は、私を侮っている。さっき私に指を斬り落とされたのがその証拠だ。
そして、今の私は、後数撃であれば、耐えられる。だから、まずは彼の目を潰せば良い。
「バカだなぁ君も、僕が僕を殺せるような物、置くわけないのに」
嘘だ、嘘だ。この短刀を置いた時の貴方は、きっと本物だった。あの言葉は、きっと本物だったのだ。それを、彼に、彼自身に否定なんか、させてたまるものか。
「貴方にはもう、何も聞いていません!」
私は短刀の柄のスイッチを押し込み、所長の心臓部へと狙いを定めながら、距離を詰める。刃先が音も立てずに伸びるが、その刃は所長の左手で受け止められた。
その力を感じた瞬間、刃を離される前に私はもう一度短刀のスイッチを押し、自分自身が引き寄せられていく力を感じながら、所長に向かって跳躍する。
そして、着地と同時に全体重を込めて、所長の左手の指を切り落とす。
「無駄なんだよ……。こんなの、そこらへんの餌を食えばすぐに」
「戻るでしょうね」
――でも、その瞳にハメこまれた機械は、直せない。
私は、右手に持った短刀を逆手に持ち替え、思い切り所長の右目に突き刺した。 肉を貫く感触では無くパキッという何かが壊れる音。その音を確認すると同時に、私は短刀のボタンを押し、勢い良く伸びる刃の反動によって所長との距離を取る。
「私に出来るのは、邪魔だけです。それでも、意味はありますよね?」
右目を覆った所長の掌に指が無い事など、些細な事だ。私が狙っていたのはそんな事ではなく『見られている』という完全なる不利からの脱却だ。
所長もそれに気付いたようで、怒りが漏れ出しているかのような唸り声を上げる。彼は指の無い拳で壁を叩きつけると、部屋中が大きく地鳴りのように揺れた。
「ああ、見えないけど、見えないけど……。もう実験も終わりだしね。良いよ、許してあげるよ」
そう言いながら、所長は一歩ずつこちらに迫ってくる。私の後ろには、ドア。後ろ手にドアノブを回し一歩下がりながらドアを蹴り開ける。
「いいね! 追いかけっこでも良い。外で、どいつに食われても良い。そいつを、僕が食えれば、キミについてはお終いだ」
その言葉を後ろに聞いて、私は医療フロアの廊下へ駆け出した。 我武者羅に走る私の後ろに嫌な気配がつきまとう。おそらくは、最初薬品庫の天井から現れた時のように、所長は通気ダクトの中を移動している。
その物音は静かで、こちらから攻撃する気はサラサラ無かったが、場所の特定は不可能だった。
時折、ダクトから飛び降りて来る所長の拳や蹴りを躱し、走り続ける。息を潜めて躱そうとしても、近付いて来るノッカーとの交戦により気付かれてしまう。これでは、私は枯れ木の森で狩られるのを待つウサギのようだ。
走り続けて、もうどれくらい経っただろうか。地図がなければこの医療フロアは同じような構造の連続で、逃げながらでは到底目的地に辿り着けるような気がしなかった。
「諦めたら?」
そんな笑い声が天井から聞こえ、ふと天井を見た時に、目の前のドアのプレートが目に入った。
「薬品庫……」
つまりは、これだけ走ったのにも関わらず、最初のマスに戻ったという事だ。もしかすると、意図的にこの場所に戻ってくるように走らされ続けていたのかもしれない。
「ククククッ」と笑う声に苛立ちを覚えながら、私はもう一度駆け出した。簡単に諦めるわけには、いかない。
それでも所長が間違いなく私の心を折りに来ているのが分かる。
――それでも、生きて戻るのだ。
生きて戻ると、約束したのだ。
走る、走る、走る。目の前の敵は、避け、天井からの襲撃を躱す。
目眩が襲う。
息が出来ない。
もう、迎撃するしか無いのかもしれない。もう一撃、もう一撃与える事こそが、私の使命なのかもしれない。
それが、私にとっての死で、所長にとってのかすり傷なのだとしても。きっと、それくらいなら今の私だって。広さは無いはずの医療フロアを走り続けさせられ、酸素ももう脳に届かなくなってきたのだろうか。そんな事を考え始めてしまっていた。
これで何度目の襲撃なのかも分からない、所長の攻撃をすんでのところで躱し、おそらくはもう何度も見たはずの、それでも見分けが付かない目の前のノッカーを避ける。
そして、次の所長の襲撃でその意味があるかどうかわからない刺し違えを決行しようと、短刀を手にとった瞬間、おあつらえ向きに目の前のダクトから所長が大きな音を立て、飛び降りて来た。
所長が地面に着地すると同時に、もう何度も聞いた地鳴りの音が響き渡る。だが、今私の後ろにはノッカーがいる。なら今はまだその時ではない。死ぬにしたって、せめて刺し違えるのは所長でなければいけない。
私はそう思いながら、息も絶え絶えで所長の横を通り過ぎようとした時、その少し先にある曲がり角から、いつか何度も聞いていたような声が聞こえた、気怠げな声が、愛おしい。私の視界の向こうの、赤い髪が揺れる。
「反撃、開始ッス」
――間に、合ったんだ。
飛び出して来る赤い髪の、大好きだったあの子と目が合った瞬間、視界が涙で滲みそうになるのを堪えた。
「死ななかっただけで喜ぶのは、もうお終いッスよ!」
その言葉は、誰の為に言ったのか。まさか私に、生すらも諦めかけていた私に言ったのかと考えた瞬間に、視界に青い刀が走る。だが、その刀は本来持つべき人の手には無かった。
――間に、合わなかった。
それでもまだ、涙は、流さない。私は所長の横をすり抜け、飛び出してきた二人の"人間"の横を通り、その後ろに付く。
すれ違いざまに二人に頷き、言葉も躱さず短刀をホルダーから引き抜いた。諦めかけた、私を許してほしい。でも、頑張った私を、少しだけ褒めてほしい。
もう、刺し違えるなんて事は、思わない、
大丈夫、彼と、彼女となら、きっと。
――反撃、開始だ。
狂ってしまった彼に言いたい事は、一杯ある。許せない事だって、一杯ある。だけれどそれはもう、意味の無い事だ。
だからまずは、これだけ無意味に踊らされて、走らされた分だけでも、この狂った化物に返してやらなきゃ、私は気が済まない。




