DAYS3 -8- 『白いな、世界が』
『弟くん』と呼ばれたその殺意の塊の化け物は、四肢のどの部分でも人を殺せるだろうと思った。
そして、リュックからこちらへ飛び出してきた時の速度は、目で追えない程で、明らかに今まで出会って来たこの施設のあらゆる存在に比べて異質な存在だった。
困惑の目で『弟くん』を見つめる俺と、ゼロの視線に、ムクは苛々した声で吐き捨てた。
「思い出したか? 所長のお気に入りの"耐性ちゃん"。アタシらは精神進化の特殊例として、そして弟くんは『制御出来る成れの果て』として、このクソ施設で飼われてた、実験動物だった。知らなかったなんて言わないよな?」
「成れの果ても、元は人間ですから、食事を必要とします。ですが、もうゴウ兄さんは人間の食事は受け付けないんです」
シズリが悲しそうに目を伏せる。ゴウと呼ばれたそのノッカーは、ムクに制止されて立ち止まってから、一歩も歩を進めていない。
だが、その風体からは、吐き気を催す程の殺意が未だに吹き出しているかのようだった。
人間の食事を受け付けないが、食事は必要で、彼女はさっきノッカーを狩ると言った。
「だったら、捕らえて食わせてるのか、ノッカーを……」
「あぁ、アンちゃんは話が早くて良いな。そういうわけで、黙っててもアタシらの言う成れの果て、まぁアンタらの言うノッカーがポンポン出てくる今の状況を壊されちゃたまらないんだよな。殺した傍から捨てられるのにも、頭来てたんだ」
ムクはククッと笑ってから、改めてノコギリを構え直す。
そしてゼロの手を見ながら、ムクは意外な事を口走った。
「管理者権限、持ってんだろ? でもそれは、アタシ達もだ」
「そして、今使っている私達の部屋は、お姉様の望むべき場所でもあります」
シズリが振り返って指差した部屋は、まさに地図にチェックが入っていた部屋に他ならない。
「でもまぁ、アンタに比べてアタシ達の方が権限が弱いんだろうね。医療フロアには私達は入れない。図書館が開かないのも、不愉快だった。でもそれ以外は、全部アタシ達の掌の上、子供のパズルを解くようなモンだったよ。でもまぁ使う機会なんて滅多に無かったけどね? こちとら墓場漁りの趣味は無いし」
ゼロの手がいつのまにか握り拳になり、怒りを堪えているのが分かる。
この双子、いや、三つ子達はこの施設の人間達を救えるかもしれない権限を持ちながら、それを隠し続けていたというのか。
「アタシ達はさ、今まで人間は殺さないで来たんだ。バレると後々面倒だしな。けど、アンタが部屋から出てきたのが分かった時に、覚悟を決めたよ。その両手、邪魔だな」
「すみません、だから出来れば、その両手、もしくは指だけでもいいですので……」
冷静に言う分、シズリの発言の方が狂気じみている気すらした。
こいつらは、ゼロのその手を、切り落とそうとしている。
そして、先にゼロに対して目的の行動を開始したのも、シズリからだった。
シズリが手に持った機械をゼロに投げつけようと振りかぶる。
それを見た瞬間に、俺の左手ポケットの内側に、新しい注射針の穴が開いた。
――あぁ、人間に使ってる場合じゃないのに。
体中を同時に巡る薬液が、合わさりあう。力の赤はこれで残り一回、感覚の青はこれで残り二回。それでも、ゼロを今ここで失うわけにはいかない。
「悪いが、俺達にも目的はあるんだ」
ゼロに投げつけられた機械を叩き落とす。その機械に触れた瞬間、強い電気が走るのが分かったが、痛みは全く感じなかった。さっき力の赤を使った時にはナムの蹴りで痛みがあったはず。
透き通った頭は、その答えをすぐに導く。
あの時との違いは、薬液の同時使用だ。
つまり、同時使用によって、何らかのブーストが効いているのかもしれない。
思い出してみると、使用後の反動すらナムの部屋で薬液の同時使用をした後では全く無かった事に気付く。
残りの懸念は、連続使用だったが、それを考えるよりも先に、目の前に赤い爪が迫っているのが分かった。
その数瞬前に「やめろ!」と叫ぶ声が聞こえたのも、聞こえていた。
飛びかかってくるゴウの爪を、俺は身体を横にして躱しながら、その爪に目掛けて横から拳を打ち込む。黙っているなら、良かったのにと思いながら、それでも人間よりかは、気が楽な自分がいた。たとえそれが、彼女達の大事な家族だったとしても。
けれど、それが彼女達には許される行為ではないのは、ゴウを殴った瞬間に俺の首を狙って弧を描いた刃の気配で理解した。
「ゴウ君を、殴ったな!!」
その声は、激昂しているムクの物。そして、今避けた刃はムクが俺に向けて放ったノコギリでの斬撃。
――なのに、シズリは、何故こんなにも静かにしている?
「フタミさん足元!」
叫びながらゼロは腰の短刀を引き抜き、俺に迫っているムクに突進するようにその刃を重ねた。
地面を見ると、弛んだロープのような物が、俺の足元の周りに落ちている事に気付く。
その形状は、感覚の青で目を凝らしてやっと気付く程の薄さ。
おそらく、ゼロはシズリが俺の足元に何かを投げたのを見ていたのだろう。
地面に落ちされた音すら気付かない程の質量のそのロープは、俺がそれに気付いて飛び上がった瞬間に、俺が立っていた空間を一瞬で締め上げた。
そして、地面に着地するや否や、飛んでくるのは、赤い化け物。
「キリが無いじゃないか! どうすりゃ良い!」
ゴウの腕を掴んで投げ飛ばしながら、ゼロの方を見ると、あちらもどうやらあまり余裕は無いようで、ムクと金属音を交わしあっている。
「ゴウ兄さん! 止まって! 止まってってば!」
ゼロにかかりっきりのムクの代わりに、シズリがノッカーに叫ぶ。
だが、ノッカーは全くその言葉を聞き入れず、俺に対して全身のバネと爪、牙を使い殺意をぶつけてくる。
「こんな事今まで無かったのに! どうして!」
シズリは叫ぶが、その声はホールにただ虚しく響くだけだった。状況的に考えれば、おそらく今まではゴウという名のノッカーは制御が効いていたのだろう。
「黙らせてくれたら、それが一番良いんだけど、なっ!」
さっきは危うくシズリの罠にかかりかけたが、研ぎ澄まされた感覚と反射神経と力を手にしている今、単純に殺意のみでこちらへ向かってくるゴウをいなすことは造作もなかった。
俺はひたすらに攻撃を続けるゴウの腹部に一発膝蹴りを入れて、その後思い切り靴の裏で消し飛ばす。
「やめろ!!」
ゼロと刃を交わしながら叫ぶムクの声は、この世の物とは思えない絶叫だった。
シズリは、ひたすら困惑して、もう戦意を失っているように見える。
荒っぽいやり方だろうと思い、少し自分に嫌気が差したが、俺は倒れたままのゴウの背中に片足を乗せ、力を込める。
――まさか、ノッカーを人質にするなんてな。
「弟を踏み潰されたくないなら、戦闘をやめてくれ。俺も踏み潰したくない、頼む……」
すると、一瞬、ホールに静寂が訪れる。ムクはゼロへの攻撃をやめ、それを受け続けていたゼロもムクから距離を取る。シズリは、変わらず困惑した様子だった。
「こいつの事、止められるんだろ? 止められるなら、止めて欲しい。そして、俺らの事は止めないで欲しい。それだけの話なんだ、俺らを通してくれさえすれば、もうこれ以上関わり合いにはならないし、弟くんの事だって知らなかった事にするさ」
俺がそう言うと、ムクは今までの激情を収め、もう一度自分の弟に向かって語りかけた。
「なあ、ゴウ君。ゴウ君ってば! ストップ! ストップだよ! リュックから出したのは悪かったけど、人間は襲わない。それはずっと前から約束してたじゃない!」
少しだけ、泣き声にも近いような声で、ムクは俺の足元で手足をバタつかせ続けるゴウに語り続ける。
「だって、最初はちゃんと言う事効いてたじゃないか! なのに何で……」
そう呟くと、ムクはハッとした顔でこちらを睨む。
「なぁアンちゃん……。さっき私達に見せたあの注射器、どうした?」
「あぁ、打ったよ」
俺は薬液の量が減っている赤と青の薬液が入った注射器を左ポケットから出して見せる。
そして彼女が何か言おうとする前に、先回りして彼女が想像したであろう俺の行動を否定した。
「でも、自分にだ。だから今俺は、弟くんを足蹴に出来ている。申し訳ないとは思うけれど、俺も死ぬわけにはいかないし、ゼロの両手を斬り落とされるわけにもいかない」
そう告げると、シズリはハッとした表情をして「だからだ……」と呟いた。 その声を聞いて、ムクも何かに気付く。そして、ムクはブツブツと俺に分からない単語を一人で呟いた後に、さっきまで叫んでいた事と全く別の事を叫んだ。
「ゴウ君!! そいつを、殺せ!!」
その叫びがホールに響いた瞬間、足元にいたゴウが物凄い力で立ち上がり俺の足を浮かす。
そしてバランスを崩した俺の腹部に、ゴウは思い切り頭突きをすると同時に、俺の首筋に爪を突き刺そうとする。
速さが、さっきまでの比では無い。感覚の青を以ってして感知出来たその攻撃に対して、力の赤を以ってしても躱せない事を、俺は悟ってしまう。
だが、そのゴウの爪はガギン! という音と共に止められた。
またもや俺は、自らの命を、自由自在に伸びるゼロの短刀に救われる。
これで俺は何度女の子に命を救われたのだと考える暇も無く、次の攻撃に備え、大きく後ろに跳躍し、ゴウから距離を取った。
――こいつは、守っていたのか。
つまり、ゴウと呼ばれるこの四足歩行のノッカーは、ムクの言うことをあえて聞いていなかったのだ。最初にあいつがシズリのリュックから飛びだした時に、ムクの言う事を聞いたのは、俺とゼロに一切驚異を感じなかったから。
だが、あのシズリとムクの目的を知り、それに対抗するために力と感覚を身に着けた俺を驚異と感じ、戦闘行動に出たのだ。止まれという言葉を、あえて無視しながら、それでも人間を殺すなという約束を守ったからこそ、俺を殺すだけの力は出さずに、足蹴にされていたとしても簡単な抵抗にとどめていた。
――あのノッカーは、ゴウは、自分の家族と、約束を守っていたのだ。
その約束が解かれ、ゴウはムクの叫び声を聞いた瞬間から、家族を守る為に、人を殺す事を許された。
――甘く見られたもんじゃないか
目の前で家族愛のような物を見せられたとしても、殺されるわけには、いかない。
「なぁ、ゼロ」
短刀を元の長さに戻し、ゴウの動きを伺っているゼロに声をかける。
「今の俺に、緑を足したらどうなるか、あのデバイスで分かるか?」
俺はゼロよりも前に立ち、ゴウやムク達がいつ動いても彼女より先に俺を狙ってくれるように身構えた。
数秒後、ゼロから答えが返ってくる。
「ごめんなさい、フタミさん……」
そのごめんなさいという謝罪は、どうなるかわからなかったという意味なのだろうか。それとも、今から俺の身に起こることを見越しての謝罪なのだろうか。
「いいよ。さっき俺を助けてくれたから、そのお礼だ」
少し上から目線だったかもしれないが、きっと今から起こることについては、これくらい言っておかないと、彼女が釣り合わせてくれないだろうと思った。
さっきのゴウの一撃をゼロがその短刀で防いでくれなければ、俺はきっと首を跳ね飛ばされていただろう。
――けれど、その一撃を防いでくれたお陰で俺はまだ、戦える。
ゴウが地を蹴る音が聞こえる。俺の腹部を狙った避けようの無い一撃が迫ってくるのが分かる。
その一撃を食らう寸前に、俺は左ポケットに分けて入れておいた、一本の注射器を自分の身体に打ち込んだ。
――拾われたなら、使うべき生命だ。
この緑の薬液を、俺の中に巡っている赤と青の薬液に混ぜ合わせたならば、その色は、きっと、黒い。
不思議な感覚が身体を巡る。
力が、感覚が、生命が、躍動していく。
細胞が滾っていき、感覚が鋭くなっていき、そうして、物凄いスピードで壊れては治っていくような、奇妙な感覚。
俺の腹部を、ゴウの爪が突き刺す。
痛みは、感じない。
何度も何度も、ゴウは俺の腹部に爪を突き刺す。
痛み、は感じない。けれど、紛れも無い死を感じた。
だが、俺の身体はその死を否定する。
俺の身体に巡った三原色の薬液が、全力で死を否定していく。
「白いな、世界が」
視界がチカチカと、白く輝く。
それは、命が失われていく寸前に見る、走馬灯の光ではない。
まるで、力の赤を使った時に染まった赤い目のように。
まるで、感覚の青を使った時に青く澄み渡る感覚に全てを塞ぎたくなった時のように。
そうして、きっと生命の緑を単体で使っても見えなかったような世界が今見えているのだろう。
これはきっと、身体の中で混ざりあった三原色の薬液が見せた、白い幻なのだ。
その幻はすぐに消えて、腹部から流れる俺の血の色がまだ赤い事に、ホッとする。
そして、いい加減何度も俺の腹部を刺し続けている爪を、俺は自由に動く右手で掴み、砕いた。
「ここまでやったんだ。ここまでやらせたんだ。間違えたのは、どっちだったんだろうな」
その砕いた爪を握ったまま、ゴウの顔面を殴り飛ばす。
壁に叩きつけられたゴウを見て、シズリが小さい悲鳴をあげるのが聞こえた。俺はゴウと充分に距離を取れた事を確認するとゼロの方を振り返る。
すると、青い顔をした彼女と目が合った。その口は、一つの謝罪の言葉をゆっくりと、呟き続けていたが、笑いかけると、言うのをやめてくれた。
「大丈夫だよ。これが俺に与えられた武器なんだから。さっき、ゼロがあいつの爪を止めてくれた事と、同じ事だ」
そう言って、俺は壁際のゴウに向き直る。
俺はこれから、守る為に殺すのだ。
「なあ、ゴウくん。それが、男だよな」
立ち上がった彼に声をかけると、彼は叫び声を上げながらこちらに飛びかかってくる。
それは、今まで聞いてきたノッカー達の声とは明らかに違う、強い感情のような物が感じられる声だった。痛みで叫んだわけでは決して無い、威嚇でもない、ただ、何かを訴えかけるような、叫び。
その声に呼応するように、ムクが言葉に出来ないような叫び声を上げる。シズリに至っては、ゴウが俺の腹部を刺し続けていた頃から、何も見ようとはしていなかった。
彼の爪が、首元に迫る。
見えるし、避けられる。
当たったとしても、痛くは無い。
それに、死なない。
俺の腹部の傷はもう既に塞がっている。
そもそも、生命の緑が身体に循環した瞬間から、俺の臓物は何度も破壊されている。 厳密には傷がついてはいるのだろう。だがその爪が引き抜かれた瞬間に修復しているというだけの話だ。気持ちは良くなかったが、感覚として、理解は出来ていた。
だから、生命の緑が身体に巡るまでのあの最初の数撃以降、彼はただひたすら肉壁に穴を開けていただけだ。
おそらくは、その力の差を彼もきっと分かっている。
それでも、彼は彼女達を守ろうとして、向かってくる。
「あぁ、仲良くなれたら良かったのにな」
語りかける俺の声は、彼に届いているだろうか。
彼は叫びながら俺に爪を振るうが、もうその爪が俺に届く事はない。
「大丈夫だよ。彼女達を殺したりはしないから」
語りかける俺の声は、ちゃんと彼に届いているだろうか。
何度もそう思いながら、語りかける。
自分の目に、うっすらと涙が浮かぶのが分かる。
――彼もまた、諦めないのだ。きっと、最期まで。
「なぁ、無かった事には、出来ないのかなあ」
語りかける俺の声が、彼に届いたのだろうか。
叫びながら、爪を砕かれながら、それでも俺の身体に拳を撃つ彼の目に、涙を見た。
――だから、終わらせる事にした。
「あぁ、分かった。分かったよ」
心臓を止めるのに、充分な衝撃を、その胸に、撃ち込む。
二度も、三度も必要無い。
たとえ俺が、化け物のような力を手にしていたとしても、ノックはもう、必要良い。
「邪魔して、悪かったよ」
俺は自分の目尻に溜まった涙を拭って、倒れた彼の心音が止むのを聞いた。
「おやすみ」
そして、そっと彼が流した涙を服の袖で拭ってやった。
俺が殺した彼の姉は、自分の頬に流れる涙を拭わない。
ただ、止まない叫び声のような泣き声が、俺の耳にいつまでも届き続けていた。
その声が不意に止まり、ドタっと何かが倒れる音がする。
倒れる前に感覚の青が俺の耳に届けた音は、まるで、刃物が何かを切り裂くような音。
――ほら、やっぱり、俺が間違ってたんじゃないか。
カラン、とノコギリが床に落ちる音がする。
どれだけ涙が溢れても薄まらないくらいの大量の赤い血溜まりの中で、泣き顔のまま倒れている少女が、その身に纏っていた血まみれのオーバーオールを、自身の血で真っ赤に染め上げていた。




